その九.吹雪、攫われる
銀座への道は遠く感じたのに、その帰り道はあっという間だった。
ぼんやりとしたまま吹雪は運賃を払い、円タクを降りた。
「……冷えます、ね」
ほうと白い息を吐いて、吹雪はゆっくりと歩き出した。
店にいる間に雨が降ったようで、路面はしっとりと濡れている。
社員寮までは少し距離がある。
早く布団に潜り込んで思考を放棄したいところだが、どうせ眠れないのはわかっていた。ならば少し歩いて、心を落ち着けた方が良い。
上着の衿をそっと立てながら、吹雪は夜空を見上げる。
常に瘴気で煙っているとは言え、帝都の夜は金沢よりもずっと明るい。高くそびえる摩天楼がまるで篝火のように闇を照らしている。
吹雪は、雷光を連れ戻すためにこの街に来た。
「……なのに何故、こんなに」
帝都を離れる事を思うと、奇妙な感覚に襲われる。
紅梅社中の面々との生活やとりとめのない会話がいちいち思い出され、まるで胸を引き絞られるような気がした。
こんな感情を知らない。
生まれ育った故郷を離れる時も、こんな感覚に陥ったことはなかった。
何故、こんなにも帝都が――。
「駄目、駄目……!」
頭を押さえ、吹雪は首を振る。またたく街灯にもたれかかり、呼吸を落ち着けようとした。
――余計な感情に囚われてはならない。雑念が刃を惑わせる。
明滅する電灯の光を見上げていると、父の静かな言葉が耳に蘇った。
そこで吹雪ははっと青い瞳を見開いた。
「……だから、雷光に負けた?」
そうだ、そうに違いない。
雷光を倒すことに迷いが生じた。その迷いが呼吸を乱し、太刀筋を鈍らせた。
ゆるゆると手を伸ばし、腰に帯びた絶句兼若の柄を握りしめる。幾重にも巻かれた革紐の感触を指先で確かめつつ、吹雪は目を閉じた。
もっと感情を鋭く、揺るぎなく――刃のように研ぎ澄まさなければならない。
『てめェはやりてェ事、ホントになんにもねェのか?』
「……愚問だわ」
やりたい事なんて最初から決まっている。
化物を斬れれば、それでいい。
「……帰りましょう。父様のところに」
石川に戻ろう。父に雷光の事を告げ、自分はこれからどうすればいいか聞けばいい。
吹雪は大きく一つ呼吸をすると目を開けた。
「……ん?」
何かがさっきと違う。
青い瞳を細め、吹雪は素早く周囲を確認する。
コンクリートの塀、濡れた路面、水たまりにまたたく電灯の光――見える景色に変わりはない。しかし漂う空気が奇妙に重く、ざらついたものに感じられた。
この道の先を曲がれば、社員寮はもうすぐだ。
しかし曲がり角に近い電灯は一つは壊れており、もう一つは明かりが弱い。
あの暗い角の向こうに何かが待ち受けている気がしてならない。
絶句兼若に手を掛けたまま、吹雪は歩き出した。
聞こえるのは遠くの喧噪と、明滅する電灯の音だけ。
そのかすかに聞こえる音の中に異常はないか探りつつ、吹雪は無音で進む。
曲がり角へとさしかかった。
途端、背後の電灯が派手な音を立てて割れた。
「ッ――!?」
吹雪は振り返り、籠手によって防御を測る。
風を切る音。飛来した太い鉄針が吹雪から大きく逸れて地面に突き刺さる。
安堵する間もなかった。
何者かが薄暗がりの向こうからぬらりと現れた
全身黒装束。顔の上半分は黒い金属の仮面に覆われ、下半分は白い包帯で隠されている。背丈は吹雪よりもやや高く、体格は華奢。
「何者です」
黒衣は答えず、どこか緩慢な所作で腰の後ろから刀を抜き払った。
ぞろりと現れ出でたその刃渡りはおよそ二尺(約六○センチ)。反射光を防ぐためか、刀身が黒く塗り潰されている。
「何のつもりですか」
吹雪がなおも問うと、黒衣は黙ってわずかに身を沈めた。
そして次の瞬間――黒衣の仮面が眼前にあった。
かろうじてその動きを見切り、吹雪はとっさに脇に体をずらす。その脇腹を掠め、それまで吹雪の胴があった場所を黒衣の拳が通過した。
拳をすり抜けた吹雪の前には黒衣の背中。
ひとまず黒衣を無力化しようと、吹雪は鞘のままの絶句兼若をそこに振り下ろす。
硬い感触が両手から肩までを震わせた。
「……ッ、刀……!」
目の前の光景に吹雪は絶句する。
ほんの一瞬のことだった。黒衣は背中に刀を回し、絶句兼若を受け止めていた。
黒衣が振り返りながら、刀を強く弾き上げる。
「つっ……!」
均衡を崩す吹雪の上体。そこめがけて黒衣は再び鉄拳を仕掛けてきた。
右の拳が鳩尾に吸い込まれる。
「っぐ、うぅ――!」
重い衝撃が臓腑を揺るがし、視界が真っ白になった。
手から力が抜け、絶句兼若が路面へと落ちる。そのまま崩れ落ちそうになる吹雪の体を黒衣は慌てた様子で抱き留めた。
しかし、その手を吹雪は掴む。
「な――ッ!」
初めて黒衣が声を発した。聞いた事がある声のような気がした。)
しかし吹雪は構わず体を返し、黒衣を背負う。
「し、い、あァアア――ッ!」
鳩尾の痛みを吐き出すように咆哮し、黒衣の体を路面に叩き付けた。
黒衣が咳き込むような苦悶の声を上げる。
吹雪はそのまま流れるような動きで黒衣の左腕を固め、身動きが取れないようにした。
「ハー……ッ、ハ、ハー……ッ」
その間、独特の深呼吸を崩さない。
天外化生流の呼吸によって動けるようにはなったが、まだ完全には回復していない。
それを気取られないよう、吹雪は意識して落ち着いた声を出した。
「さあ、答えてください。何の目的があって、私を――ッ!」
背後に気配を感じた。
しかしその正体を確認する間も――ましてや防戦する間も吹雪には与えられなかった。
たくましい腕に背後から羽交い締めにされる。
「ぐっ――!」
もがく間もなく、鼻と口に湿った布を当てられた。
嫌な臭いが鼻腔を突く。蛍光灯の光がくらりと揺れ、音と光りが急激に遠のく。
そうしてもう、何もわからなくなった。
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