その三.惑う吹雪、苛立つ時久、立ち去る霖哉

「え? ――いえ、その、まだ用事が済んでいないので、帰るわけには」

 その問いに吹雪は一瞬まごついたものの、すぐに暗い気持ちになった。

 そう、まだ帰るわけにはいかない。

 帝都にて兄と、己の剣を見出せ――父の言いつけを達成できていないのだ。どれだけ悩んでいたとしても、どうにか使命を果たさねばならない。

 吹雪はぎゅっと自分の肘を握りしめ、爪先に目を落とした。

「……正直、用事が済む目処も立ってませんが」

「その用事を済まさなけりゃ帰っちゃいけないのか? どんな事情があっても?」

「えぇ。まだ帰るわけにはいきません」

「そうか」

 やがて沈黙が訪れた。

 一体どうしたのだろう。吹雪は戸惑い、黙りこくっている霖哉の背中を見つめる。

「あの、霖哉さん……?」

「……おれはこれから忙しくなる。多分、しばらく顔を見せることはないと思う」

「え……」

 思いがけない言葉に吹雪は目を見開いた。

 霖哉は振り返らないまま、淡々とした口調で言葉を続けた。

「あまりふらふらするなよ。年末年始は人も多いから物騒だ。できるなら用事はとっとと終わらせて、早く故郷に帰れ。――それじゃ、な」

「あ、霖哉さん……!」

 思わず呼び止める吹雪の声も聞かず、霖哉は早足で歩き出した。

 伸ばしかけた手をゆっくりと下ろす。

「――戻ったのか、小娘」

「っ、御堂さん……」

 振り返ると、鬼鉄を肩に担いだ時久が立っていた。どうやら鍛錬の帰りだったようで黒いノースリーブ姿で、軽く汗を掻いている。

 時久は遠のいた霖哉の背中と吹雪とを見て、やや目を見張った。

「……よもやお前に男がいたとは」

「そういうのじゃありません。友人ですよ」

「ふん。まぁ良い……しかし顔色が悪いな」

「少し体が弱い方のようです。今日は特に具合が悪そうでしたが……」

 一体霖哉に何があったのだろう。吹雪はスカーフを抱え、霖哉の去った方向を見つめる。

 しかし時久は左目の傷痕を歪め、首を振った。

「違う。貴様だ」

「えっ? 私? 私はすこぶる快調ですよ。お医者様からもう問題ないと――」

 耳元で風が鳴った。

 直後、左の首筋にひやりとした感触が走る。吹雪は目を見開き、どうにか視線だけを動かしてその冷感の正体を見た。

「っ――!」

「……本当に快調か?」

 吹雪の首筋にぴたりと鬼鉄を添えたまま、時久はたずねた。

 なにも、見えなかった。

 背後から攻撃されたわけでもない。前触れはなかったとは言え、時久は正面から抜刀した。

 なのに――絶句兼若の柄に手を掛けることさえできなかった。

 吹雪は唇を噛み、時久をきつく睨んだ。

「……ずいぶん、悪趣味な真似をしますね」

「以前の貴様なら俺が四肢に力を込めた瞬間に動きを読んでいただろう」

「そんな事は……」

「まぁ動きを読まれたところで俺にはまったく無意味だがな」

 褒められたかと思ったらいつも通り尊大だった。

 思わず脱力し掛かった吹雪の首から鬼鉄を離し、時久はその刃を陽光にかざす。

「貴様自身が一番よくわかっているのではないか? 体ではなく、心の調子が悪いと」

「そんな。私は、なにも……」

 吹雪は答えに窮し、逃げるように視線を逸らした。

 鬼鉄の刃が眼に入る。黒い龍の胴体を思わせる刃紋がてらてらと輝き、背筋が振えた。

 思えば、刀に感情はない。

 まさしくただ人を斬り、鬼を斬るためにある――そこに、答えがあるのではないか。

 しかし吹雪が解答を見出すよりも早く、時久は鬼鉄を鞘に納めた。

「なにかのせいで気もそぞろで、精神の安定を失っている……俺にはそのように見えるが」

 鬼鉄を肩に担ぎ、時久は吹雪を見下ろした。

 まっすぐに見つめてくる鈍色の瞳から、吹雪はまた視線を逸らす。

「小娘、何を思い悩んでいる」

「……なにも、ありません」

「嘘を吐くな。俺は嘘を吐くのも吐かれるのも嫌いだ」

 傷痕を歪め、時久は吐き捨てるように言った。

 吹雪は首を振り、「だから」と苛立ちを露わに答えた。

「嘘など吐いていませんよ。たしかに気になっていることはありますが、もうそれは確認する手立てがありません。誰かに聞きようも――」

 そこで吹雪は口を噤んだ。

 誰かに聞く――その言葉で、先日十真やサチとともに出かけた時の記憶が蘇った。

 急に黙り込んだ吹雪に時久が面食らったように声を掛ける。

「どうした、小娘?」

「いえ……私は少し、出かけます」

「む、どこに――っ、おい! 小娘!」

 時久の言葉もほとんど耳に入らず、気づけば吹雪は駆け出していた。

 もはや答えを確認しようもない事だと思い込んでいた。しかし吹雪は今、全ての鍵となる人物が訪れるという場所を知っている。

 あの場所に行けば、もしかすると――。

「すみません!」

 通りがかった円タクを止め、吹雪は迷いなくその車内に乗り込んだ。

「どちらまで?」

 初老の運転手の声に吹雪は顔を上げた。

 緊張と不安に青い瞳をゆらしつつ、吹雪はその場所の名前を運転手に告げた。

「銀座まで――アヴァンチュリエというカフェまで、お願いします」

 自動車は進み出した。

 酔いなど感じる余裕もない。吹雪は今まで感じた事がないほどの不安に胸を押さえつつ、過ぎゆく車窓の風景を見つめていた。


「……息をするように嘘を吐く」

 時久は吹雪の去った方向をじっと睨み付けていた。

 やがて苛立たしげに深くため息を吐くと、男子寮の方向へと歩き出した。

「まぁ、奴がどうなろうと俺には関係ない」

 しかし、しばらくしてその歩みは止まる。

 時久は眉間の皺をより深くして、振り返った。その手は無意識のうちに持ち上げられ、顔の左半分に刻まれた傷痕に触れた。

「……関係は、ない」

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