伍.鬼哭啾々大東京

その一.燻る

 なんの夢も見なかった。


 二十九日の午前。その日、吹雪は退院できることになっていた。

「お医者さん、びっくりしてたみたい。すごい回復力だって」

 サイドテーブルに置かれた見舞い品の袋を整理しながら、サチは感嘆の声を漏らす。

 その言葉に、ベッドの上で軽く柔軟体操を行っていた吹雪は苦笑した。

「えぇ……私も正直驚いています」

 吹雪が今いるのは、紅梅社中がよく世話になっているという病院だ。

 猿面との戦いの後、吹雪は一日のほとんどを眠って過ごした。時たま起きて食事などをとっていたようだが、その間の記憶はほとんど残っていない。

 ようやく意識が完全に覚醒したのは二十八日の夜のことだった。

「あれから皆散々探したけど……猿面、捕まらなかったって」

「そう、ですか」

 しょんぼりとうつむくサチの言葉に、吹雪はぎこちなく答えた。

 喜びとも怒りともつかない感情が胸に浮かび、消える。そんな曖昧な感情を抱えたまま、吹雪はサチの報告をやや上の空で聞く。

「うん。それと最初に出たっていう偽物の猿面をさらった人達も。乗り捨てた車は見つかったらしいけど、行方はわからないまんま」

「そうなんですね……」

「わけがわからないよね……猿面の偽物、いったい何だったんだろって」

『伯爵に恨みがあるものでしょう』

「林檎!」

 さらりと割り込んだ抑揚のない声にサチははっと振り返る。その影がぐらりと揺らぎ、彼女の背後から林檎が現れた。

 林檎は見舞い品の袋に顔を近づけると、すんすんとにおいを嗅いだ。

『果物のにおいがするわ』

「あっ、あるよ。食べたいの?」

『食べたい』

 林檎は何度もうなずいた。表情の少ない彼女にしては珍しく、若干その頬が上気している。どうやら相当果物が好きなようだ。

「じゃあいくつか切り分けるよ。ブキちゃんも食べるよね?」

「えぇ、いただきます」

 果物ナイフを手に取り、サチは紙袋の中からリンゴを一つ取り出した。

 赤くつやつやと光る自分と同じ名前の果実をまじまじと見つめ、林檎が喉を鳴らした。

『lapineにして』

「らぱ――あ、ウサギ? えぇー、あれ難しくて苦手なんだよね……」

『ウサギにして。リンゴもウサギも好きだから一石二鳥なの』

 よくわからない理屈で注文を付け、林檎は当然のような顔でベッドに座った。

 そして髪をいじりつつ『猿面のことだけど』と切り出す。

『本人も言ってたじゃない。これは天誅だって』

「うーん……でも、何かの逆恨みとかじゃないの? 誤解とか……」

『もう少し伯爵を疑ってみた方がいいと思うけれど。ニンゲンは良いものばかりじゃないってこと。アナタも知っているでしょう、サチ』

「それは……まぁ……」

 サチの顔に暗い影がよぎった。

 一瞬重くなった雰囲気を打開しようと吹雪は慌てて口を開く。

「でも何故、猿面になりすましたのでしょう?」

「わかんない……猿面に罪を着せようとしたとかかな」

 サチは難しい顔になり、紙皿の上に載せたリンゴに果物ナイフを入れた。

 一方、人狼の方の林檎もまた難しい顔で腕を組む。

『普通に考えたらそうよね。あの時まで猿面は死んだと言われていたんだもの。名前を勝手に使うのにはちょうどいいでしょう』

「ブキちゃんはどう思う?」

「私にも、ちょっと……」

 サチに意見を求められ、吹雪は言葉を濁す。

 どうにも考えがまとまらない。

 目覚めてから――猿面との戦いから、どうにも中途半端な気分が続いていた。それは恐らくただの疲労によるものではない。

 吹雪は混乱していた。今までに抱いたことのない感情の波と、ある一つの疑念に。

 天外化生流に似た技を使い、善哉清光を持っていたあの怪盗。

 猿面の正体は兄ではないか――? 

 しかし猿面が姿をくらました今、もはやそれを確認する術はない。

「……ブキちゃん、大丈夫?」

『やっぱりまだ具合が悪いんじゃないの?』

 サチと林檎が心配そうに見つめてくる。

 はっと我に返った吹雪は顔に笑みを貼り付け、首を振った。

「あっ、だ、大丈夫ですよ。ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてて――そういえば、社中の方は今どんな感じですか?」

「でもブキちゃん……」

 サチがなおも何か言いたげに吹雪の名を呼ぶ。

 しかし林檎の方はそれ以上追求しないことにしたのか、『皆てんてこ舞いよ』と答えた。

『もうじき落ち着くと思う。一応、依頼は達成してるから』

「まぁ、鬼灯の瞳は守られたからね――ほら、できたよ。ウサギリンゴ」

 サチは渋い顔でうなずき、最後のリンゴの形を整えた。

 切り分けられたリンゴを一つフォークに刺し、林檎はまじまじとその形を凝視する。

『……なにこれ』

「え、ウサギリンゴだよ。林檎がリクエストしたとおりにカットしたの」

『死にかけの蛾みたい。翅がぼろぼろの奴』

「ちょ、ちょっと林檎ったらひどい! そりゃ、形は少し不格好だけどちゃんとウサギなんだから! ねぇ、吹雪ちゃん! ウサギだよね!?」

「ま、まぁ……その……えーと、ワンコは頑張ったと思いますよ」

 吹雪もまたリンゴを一つとり、ぎこちない笑みでそれをじっと見つめる。

 たしかに形は少し――というか相当不格好だ。ウサギの耳と思わしき部分はほぼ全てギザギザで、ひどいものでは所々が切れかかっている。

 というか、林檎のせいで自分まで翅がぼろぼろの蛾に見えてきた。

「もー、二人ともひどいんだから! 夕子さんとかもっとすごいんだよ! だって果物の皮を剥いたら食べられる部分がほとんど残らないんだから!」

『ユウコの料理が無惨だって事は今はどうでも良いの。今はワタシがウサギを注文したのに、アナタが死にかけの蛾を提供したことが問題なの』

 ぷりぷりと怒るサチに対し、林檎は冷徹に首を振る。

「林檎は細かすぎ!」

「……夕子さん、料理苦手なんですね」

 夕子もとばっちりだ。こんなところで引き合いに出されるとは。ぼろぼろのリンゴをほおばりつつ、吹雪は今この場にいない彼女に思いをはせた。

 不意に、林檎がぴたりと動きを止めた。風もないのに、その髪がざわざわと揺れる。

 様相の変わった片割れに対し、サチは戸惑ったように声を掛けた。

「り、林檎? どうしたの?」

『……来る』

 短く一言だけ答え、林檎はふっと姿を消した。

 間髪入れずに病室の扉が勢いよく開く。

 現れたのはこの病院の院長である女性だ。

 相当忙しいのか髪は乱れ、ほのかな化粧でも隠しきれないほどのクマがその目には色濃く浮かんでいる。それでもその白衣には一点のシミも皺もなった。

 院長は血走った瞳をぎょろりと動かし、硬直した吹雪とサチとを見た。

「獣の気配がするわぁ……。アタシの神聖な病院に、まさか犬や猫の類を連れ込んじゃいないわよねぇ……?」

「連れ込んでないです! 犬も猫もいないです!」

 狼は直前までいたが。

 必死で首を振り否定するサチを見て、吹雪は喉元まででかかった言葉をなんとか呑み込んだ。

 すると院長はにやりと笑い、何度も深くうなずいた。

「なら良いのよ、ウフフ。それより遠峰さん、今から検診よぉ。異常なければお昼に退院だから……フフ……異常、ないといいわねぇ……」

「げ、元気いっぱいです」

 引きつった声で笑う院長に対し、吹雪はぐっと拳を握ってみせる。

 その側でサチが立ち上がった。

「っとと、わたしもそろそろ社中に戻らないと」

「年末調整のお手伝いでしたっけ?」

 荷物をまとめだすサチに吹雪はたずねる。元々サチは戦闘班ではあるが後方での仕事が多く、どちらかというと事務班の手伝いをすることが多いらしい。

「その他色々だよ。最近ちょっとバタバタしてたから長引いてるみたい」

「大変ですね……」

「今日中に全部完了するはずだから大丈夫。――さっきも言ったけど、明日から紅梅社中は一応は来年の四日までお休みだよ」

「一応?」

「化物に休みはないからねぇ」

 首をかしげた吹雪に答えたのは院長だった。

 驚いた吹雪が見ると、彼女は髪を掻き上げながらため息をついた。

「だから急な依頼も入ってくるかもしれないって事よぉ。もちろん、そこまで緊急じゃなければ年明けまで待ってもらうことになるだろうけど」

「な、なるほど……だから一応と」

「うん。当直の人もいるけど基本はお休み。ブキちゃんもゆっくり体を休めると良いよ」

 よいしょとサチが鞄を担ぐ。

 そこで吹雪はふと気になり、身支度を整える彼女に声を掛けた。

「あの、社中の方々は、どのような感じでしょうか?」

「ん? んーと、綾廣さんはわたしといっしょで年末調整のお手伝い。事務班の人と仲が良いからよく手伝ってるの。夕子さんはちょっとした依頼を片付けに行ってたかな。他の人達はそれぞれ依頼された区域内で最終巡回してるよ」

「……御堂さんは?」

 おずおずと吹雪はその名を口にする。

 どうにも自分がいない間の時久の様子が気になって仕方がなかった。知ったところでこの中途半端な感情が消えるはずもない。

「時久さんはもう昨日から休暇に入ったみたい」

「え、昨日から? 前もって有休を入れていたのでしょうか」

「えっとね、昨日一昨日って感じで依頼を連続解決したからお休みが前倒しになっちゃったの。社長さんがちゃんと体を休めろって怒って。いつものことなの」

「そうですか……」

 つまり、時久は猿面と遭遇したあの日からずっと化物と戦っていたのか。

 吹雪はやや呆れ、額を押さえる。

「体が頑丈だといっても無理がありますよ」

「まぁねぇ……でも、なんだかいつもみたいにがむしゃらな感じじゃなくて。ブキちゃんのためにって感じの事を社長さんに言ってた」

 そこで自分の名前が出てくるとはまったく思ってもみなかった。

 サチの言葉に、吹雪はわずかに目を見開いた。

「……私のため?」

「うん。多分筋肉が落ちた状態で戦う事になるだろうから、ややこしい依頼とかは自分が先に全部片付けるって言ってた」

 ――そうすれば吹雪が戻ってきた時に苦労をする事はないだろうと。

 苦言を呈した慶次郎に時久はそう反論したらしい。

 呆れ、驚き、嬉しさ、悔しさ――また、様々な感情が胸の内に咲き乱れる。

 視線の置き場に悩み、吹雪はじっと自分の手を見下ろした。

「御堂さんが……」

「――ンハッ!」

 突如響いた奇妙な声に吹雪とサチはびくっと身を震わせた。

 それまでずっと黙りこくっていた院長が目をこすり、ぱんぱんと手を打つ。

「ほら、そろそろ診察の時間よぉ」

「さては寝てたね、院長さん」

「寝てないわ……年末年始はクソ忙しいけどまだ屈するわけには……とりあえずワンちゃん、社中に行ったら旦那に二日の初詣は無理って言っといてちょうだい……」

 呆れ顔のサチに対し、院長は大きくあくびをしながら軽く手を振る。

 その言葉に吹雪はやや首をかしげた。

「旦那さん……?」

「アタシの夫はおたくの社長よぉ」

「え、あっ……武藤さんの奥様でしたか……」

 まさか慶次郎の妻だったとは。

 思わず姿勢を整える吹雪に、サチが言葉に悩みながらといった様子で声を掛けてきた。

「あのね、ブキちゃん……えと、なにか辛いことがあったら言ってね」

「え……?」

 思いがけないサチの求めに吹雪は戸惑う。

 サチはしきりに手を握り合わせながら、ぎこちなく言葉を続けた。

「なんだか最近悩んでるみたいだったから……大丈夫かなって」

「ああ、問題ありませんよ。ただ慣れない土地で年末を迎えることになり少し戸惑っているだけで……お気遣いありがとうございます」

「うん、本当になんでも言ってね。――そうだ、一緒にお買い物にいかない?」

「買い物、ですか?」

 吹雪が首をかしげると、サチは勢い込んでうなずいた。

「うん! ほら、もう明後日は大晦日でしょう? 色々入り用になると思うし、おせちも作らないといけないし……だから、ね? どうかな?」

「そうですね……」

 吹雪は少し悩んだ。

 一年が終わりつつあるという実感が湧かない。なによりこのような中途半端な状態で、自分が新年を迎えて良いのかという思いもある。

 しかし不安げなサチの様子を見て、吹雪は決断した。

「わかりました。一緒にいきましょう」

「ほんと!?」

「えぇ、最近ばたついていましたから。明日の朝からどうでしょう?」

「うん……! じゃあ明日の朝、行こうね! 買い物だけじゃなくていろんなとこ行こう!」

「はい。楽しみにしていますよ、ワンコ」

 笑顔の吹雪を何度も振り返りつつ、サチはぱたぱたと病室から出て行った。

 腕組みをした院長が首をかしげる。

「……大丈夫なの?」

「えぇ、もちろん。大丈夫ですよ」

 うなずきながら、吹雪はふと気になって自分の唇に触れた。

 ちゃんと笑みの形を作れている。

「……大丈夫。何も問題はありません。――さぁ、診察をお願いします」

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