その二十四.庚申の夜の終わり
一歩踏み出す毎に、いままでの様々な出来事や想いが脳裏に蘇った。
この男を倒せば――全てが解決する。
――ふむ。しかし君自身はそれを望んでいるのか?
カノエの店での十真の問いに、今なら恐らく即答できるだろう。
望んでいるに決まっている。
この男を倒せば伯爵の手に鬼灯の瞳は戻り、そして帝都は怪盗の脅威から救われる。
そうして吹雪も家に帰れるのだ。望まないはずがない。
――そこで、だ。嬢ちゃん、うちで働かねぇか?
慶次郎のあの言葉は本当に嬉しい申し出だった。
紅梅社中がなかったら、自分は一体今頃どうなっていただろう?
――だからさ、なんか困ったことがあったらなんでも言いな。
夕子の声が脳裏に蘇る。
本当に本当に、紅梅社中には世話になったものだ。こんなに見知らぬ大都会に、確固たる自分の居場所があるというのは良いものだった。
この場所のおかげで自分は良い方向に変化ができたと思う。
――何かを知りたいとか、色々やってみたいって気持ちが抑えきれなかった。
退治屋を始めたばかりの時の綾廣も、こんな感覚を味わったのだろうか。
帝都に来て様々なことを知り、様々なことをやった。たくさんの化物を倒し、多くの仲間を作ることができた。恐ろしいこともあったが、嬉しいこともあった。
北陸に帰れば、父に良い思い出話ができそうだ。
――ブキちゃん、嬉しくないの?
サチは何故、あんな事を聞いたのだろう。
嬉しくないはずがない。父の期待に応えることができるのだ。
これ以上の喜びが、あってはならない。
――ふぅん……つまりおまえの意思じゃ、ないんだな。
霖哉の言葉も今なら反論できる。
八雲の意思は吹雪の意思だ。雪が雲から生み出されるようにそれは当たり前のことだ。
父の望みは吹雪の望み。そうでなければならない。
――自分の意思を押し潰すな、小娘。
記憶の彼方から、時久のまなざしがまっすぐに吹雪の胸を射貫いた。
「あ……」
呆けたような声が吹雪の口から漏れた。
その一呼吸で涅槃寂静から抜け、吹雪は一瞬だけ現世へと落ちる。どっと体に疲れがのし掛かり、感電によるダメージが戻ってくる。
「くっ――!」
もう一度。もう一度、涅槃寂静に戻らなければ。
猿面の顔が動いた。黄色い電光を放つその目が吹雪の姿を捉える。
その瞬間、吹雪は再び呼吸を止めた。
『「――涅槃寂静!」』
時間の歩みが再び遅くなる。
色彩のない絶対的な空間。太刀が最大の威力を発揮する間合いに踏入って、吹雪は停止している猿面めがけて峰打ちを仕掛けた。
しかしその峰が猿面に触れるよりも早く、吹雪の体内に再度電撃が走った。
「くぁ、アァ――!」
時が速度を取り戻した。
絶句兼若が手の中から零れ落ち、甲高い音を立てて地面に転がる。それにやや遅れて、吹雪はがっくりと地面に膝をついた。
『……極めて悔しいが、オレはてめェよりも涅槃寂静の持続時間が短い』
投擲を終えた姿勢のまま猿面が深々と息を吐いた。
ぐらりと吹雪の体が傾き、地面へと倒れ込んだ。その足下には、あの加圧式の銀ボタンの罠がいくつか散らばって落ちていた。
『しかし――発動速度に関してはてめェよりオレの方が早いンだな』
吹雪よりも速く涅槃寂静を発動。吹雪の間合いを把握し、彼女が踏むと思われるいくつかのポイントに銀ボタンの罠を猿面はばらまいた。
一か八かの賭けだった。
そして吹雪はばらまかれた銀ボタンのうちの一つを踏み――罠は作動した。
『運が良かッた……さすがにこれで終わッたよな?』
小太刀を構え、猿面はゆっくりと吹雪に近づく。
小さく痙攣を繰り返すその肩を軽く爪先で突く。一瞬の逡巡の後に猿面は身を屈めると吹雪の肩を掴み、仰向けに転がした。
月光の下に晒された顔は青ざめ、ぐったりと目を閉じている。完全に意識を失っているようだった。それを確認し、猿面はようやく小太刀を納めた。
『ったく……頑丈過ぎるにもほどがあンだろ。人間としてどうよ、それ』
深々とため息をつき、猿面は周囲を見回す。
すでに屋上までの道に仕掛けた罠は効力を無くしつつあるのか、徐々に辺りが騒がしくなりつつあった。扉の封鎖ももういくばくも保たないだろう。
『……くそッたれ。今回は時間切れだ。勝ちも負けもクソもねェ。畜生が、この落とし前はいずれキッチリ付けるからな』
どこか悔しげに悪態をつきつつ、猿面はスーツのポケットから鬼灯の瞳を取り出す。
月光にかざすと、それは冷ややかに赤く煌めいた。
『なんだァ……ただのガラス玉じャねェか。あの偽物野郎があそこまで必死になるくれェだから、もッとすげェものかと思ッてた』
ガリガリと頭を掻きながら、猿面は手の中で鬼灯の瞳を転がしてもてあそんだ。
そして身を屈め、意識を失った吹雪の手元にそれを置く。
『どのみちこいつァオレの獲物じゃねぇ――伯爵に返しとけよ』
マントとたてがみを風になびかせ、猿面は歩き出した。腰のホルダーから善哉清光を抜き払い、一っ飛びで鉄柵の上に立つ。
夜空を覆う結界のヴェールを見上げ、猿面は小太刀の柄を強く握りしめた。
『――万雷、至高天を灼け』
善哉清光は符号に応え、その鍔元から切っ先まで雷電に包み込む。
月を貫くように、猿面はその刃を天頂に向けた。
『――【
善哉清光が鋭く音を立てて振り下ろされた。
その瞬間、轟音とともに張れた夜空を稲妻が切り裂く。前触れもなく夜空に炸裂した雷は結界にぶち当たり、圧倒的な力を持ってそれを崩壊へと導いた。
音も無く、薄青いヴェールが端から崩れていく。
「う……」
建物全体を揺るがす雷電の衝撃に、吹雪は一瞬覚醒した。
ぼやけた視界に映るのは、鉄柵に立つ猿面の背中。白のたてがみ飾りが夜風になびき、黒いマントがひるがえる。
その背中に最後に顔を合わせたときのあの男の姿が重なった。
――白い髪に、黒い学生服。
「待っ……」
重い体に鞭を打ち、吹雪はなんとか体を起こそうとする。
せめて、と。男の背中に手を伸ばす。
「らい……こ――」
どれだけ小さな声で名を呼んでも、あの男はすぐに気づいた。振り返ってこちらを見るその青い瞳はいつも不遜で、刺々しかった。
猿面は振り返らなかった。
力尽きた吹雪の手が地面へと落ちる。
ほぼ同時に猿面は鉄柵を蹴り、その身を夜空に躍らせた。
* * *
静寂は長くは続かなかった。
ワイヤーと装置とで堅く閉ざされていた扉が吹き飛び、盛大な音ともに鉄柵にぶつかる。
「小娘!」
ただ一撃で封鎖を打ち破った時久が屋上に駆け込んだ。その背後からばらばらと六郎太の手勢が現れ、時久とともに周囲の様子を確認する。
時久の鈍色の瞳が意識を失った吹雪の姿を捉え、大きく見開かれた。
「小娘! おい!」
時久は吹雪へと駆け寄り、その体を揺すった。
「う……」
吹雪は眉を寄せ、小さく呻く。そのまぶたはぐったりと閉じられたまま。
だが息はある。生きている。やや安心した時久は吹雪の体をそっと動かし、呼吸をとりやすい姿勢をとらせた。
そして顔を上げ、鋭いまなざしで辺りを見回す。
警備隊は屋上に散開し、盛んに声を掛け合いながら猿面を探している。
しかし、その姿はもはやどこにもない。
「……一体、ここで何があった」
時久は低い声で呟き、吹雪を見下ろした。
雲間から覗く月光が倒れた少女と、赤い宝石とを静かに照らしていた。
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