その十九.其れは天帝の使者
「おれは伯爵を出せと言ったんだ! 執事を出せとは言ってない!」
猿面が執事に短機関銃を向けてがなり立てる。
しかし銃口を前にしても執事は怯まなかった。それどころか穏やかに微笑みながら、猿面に向かって信じられない言葉を言った。
「貴方に質問があるのです。この問いに答えることができたならば、お館様にお取り次ぎいたしましょう」
「な、なにぃ……!?」
「なにをぬかしているんだ、あの執事……!」
穏やかな執事の言葉に時久が目を見開いた。
執事の発言で、その場が一気に静まりかえる。静寂の中で、六郎太が通信機でなにかせわしなくやり取りしている声がかすかに聞こえた。
「質問は簡単です――貴方はお館様に、なんの怨みがあってこのような蛮行を?」
「は――ははははは! お前がそれを知らないはずがないだろ!」
執事の問いかけに対し、猿面は狂ったように笑い出した。
その時、ギシリと何かが軋む音が頭上から聞こえた。固唾を飲んで執事と猿面の様子を見守っていた吹雪はその音に辺りを見回した。
特に異変は無い。
相変わらずの膠着状態の中、猿面の怒鳴り声が響き渡る。
「あいつが俺の人生を無茶苦茶にしたんだ! それだけじゃない! あいつは他の人間さえ破滅に追いやってる! 許すわけにはいかない! だからおれは――!」
「おぉお――!」
六郎太の咆哮が辺りを揺るがした。
その叫びに猿面がばっと振り返る。
一方の執事はやや表情を硬くし、何歩か下がった。
六郎太が必死の形相で両手を頭上に向けていた。
一体何をしているのか。吹雪が一瞬呆気にとられている間に、時久はその行動の意図を理解したようだった。
「きゃっ――御堂さん!?」
時久が吹雪の襟首を掴み、放り投げる。
さらに床に転がり呻く吹雪の上に覆い被さった。
猿面の怒号が聞こえた。
「てめぇ! 何を――!」
その声を掻き消し、轟音が館中に響き渡った。
床が振動し、爆発したように辺りに硝子片や金属片が飛び散る。
「畜生が……!」
耳元で時久が悪態をついた。
吹雪はどうにか首を動かし、時久の背中越しに猿面の様子をうかがった。
「あぐっ、うぅ……」
猿面は地面に倒れ、苦しげな呻き声を上げている。
その体の上に、あの巨大なシャンデリアが落ちていた。吹雪がきいた何かが軋むような音や、先ほどの轟音はあれが天井から落下してきた音だったようだ。
「賊が……手間を掛けさせやがって」
汗をダラダラと流しながら、六郎太が手を下ろす。その鼻からつっと血が落ちた。
時久が立ち上がり、射殺すような目で六郎太を睨む。
「貴様、俺達を巻き添えにするつもりだったな?」
「現時点で最善と思われる手段をとった」
「最善だと? 俺が防がなければ、小娘は死ぬところだった」
唸るような時久の言葉を聞き、吹雪ははっと時久の背中を見る。
コートの一部が破れていた。透けて見える肌には破片が付けたのであろう浅い傷がいくつも着いていた。病み上がりとは言え、相も変わらず頑丈なようだ。
だが時久でなければ無事では済まなかっただろう。
「俺は少し力むだけで大抵の攻撃は防げる。だが小娘はそうもいかんのだぞ」
「優秀なる紅梅社中の面々ならばあの程度、回避できるだろうと考えた。そして実際その通りの結果となった。何も問題なかろう?」
「……ふざけた事を。何もかもが気に喰わん。そもそもここまでやる必要があったのか?」
時久はわずかに歯を剥き出し、シャンデリアの下敷きとなった猿面を示した。
しかし六郎太は平然としていた。
「急所はそらした。お館様の命令だ。――それより小西さん、アンタ非番だったはずでしょう。なんのつもりです? 一歩間違えれば死ぬところだったんですよ」
「お屋敷の危機とあれば黙っているわけには参りますまい」
奥に引いていた小西が再び吹雪達の前に現れた。
猿面と警備隊の面々とを見回し、彼は渋面を作る六郎太に柔和な笑みを向ける。
「この老いぼれでも、時間稼ぎにはなったでしょう」
「――おお、猿面を捕まえることができたのか!」
六郎太から知らせを受けたのか、上の階から喜色満面の宗治が現れた。遅れて夕子、綾廣と、宗治の警備兵達がぞろぞろと現れた。
六郎太とほかの警備兵達がさっと姿勢を正す。
「なんとか制圧いたしました」
「上出来だ! 吹雪嬢と御堂殿も協力に感謝する! おかげで我らに徒なす稀代の怪盗を捕らえることができました!」
「いえ、私はそんな……」
吹雪はとっさに謙遜する。その横で、時久は不機嫌そうにそっぽを向いた。
階段から下りてきた慶次郎がしゃがみこみ、猿面の様子をうかがう。
「……正直拍子抜けだぜ。まさかこんなあっさりと捕まるなんてよ」
「ぶっちゃけここまで堂々と正面突破はかられるとは思ってなかったからねぇ。色々複雑に考えすぎていたのかもしれない」
綾廣の言葉に、夕子も頬を掻きながら「そうだねぇ」と賛同する。
「まぁ、アタシらの敵じゃないって事だね。鬼灯の瞳も無事だし」
「えぇ。この通り、しっかり私の手の中に」
宗治は鬼灯の瞳を胸ポケットから取り出し、掲げて見せた。赤い宝玉は明かりを照り返し、頭がくらくらするような煌めきを放つ。
途端、猿面が唸り声を上げた。
「香我美宗治! 貴様、よくも……!」
「どうやら相当怨まれているようだ。――どれ、覡警に引き渡す前に君の顔を見てみよう」
猿面の元に近づくと、宗治はその仮面を剥ぎ取った。
現れたのは青白い肌色をした、若い男の顔だった。歯を剥き出し、脂汗を滲ませて宗治を睨んでいる。凄まじい憎悪がその表情から表れていた。
六郎太がやや驚いたように目を見張る。
「
「おや、知り合いか?」
慶次郎の問いかけに、宗治は渋面を作ってうなずいた。
「……ええ、一時期私の警備隊にいた人間ですよ。ですが勤務態度が悪く解雇したのです。どうやら何か逆恨みしているようだが――」
「逆恨みなんかじゃねぇ! オレは絶対に貴様を――!」
直後、どこからか爆音が響く。
その場の空気が一気に張り詰めた。
夕子がトンファーを抜き放ち、周囲に目を配る。
「……今度はなんだい?」
「姐さん、忘れたかい? 今日この場に来るのは猿面だけじゃない」
綾廣が青ざめた表情でファイアフライを抜いた。
まさにその時、いくつもの発煙筒が館内に投げ込まれた。白煙が噴き上がり、崩れた正面玄関から黒装束に身を包んだ者達がなだれ込んでくる。
皆一様に仮面や面頬によって顔を隠し、ナイフや棍棒などで武装していた。
「猿面をよこせ!」
「こ、ことわる!」
うわずった声で叫びつつも綾廣が黒服の棍棒を防ぐ。
「無闇に撃つんじゃねぇ仲間に当たるぞ! ともかくシャンデリア周辺にくっつけ! 猿面に手ぇ出させんな!」
「お館様、お下がりください! 小西さんも!」
慶次郎と六郎太が怒鳴る。
混乱の中、吹雪はなんとか落ちたシャンデリアを背にして立った。
「小娘とて情けはかけん! 覚悟せよッ!」
「嫌です!」
斬りかかってきた黒服の攻撃を弾き、股間に強烈な蹴りを叩き込む。
くぐもった呻き声とともに黒服が地面に崩れ落ちた。しかし直後、その背後からまた別の黒服が棍棒を手に襲いかかってくる。
「キリがない……!」
「ともかくぶちのめせ! 全員覡警に引き渡してくれる!」
一気に二人ほど黒服を拭き飛ばしつつ時久が怒鳴った。
その時、吹雪は猿面の悲鳴を聞いた。
「ぎゃああ――!」
「ッ、猿面が!」
目が見えないながらも、吹雪は声の聞こえた方向に走る。
しかし反対方向から来た何者かにぶつかり、床に尻餅をついてしまった。
「うぐっ……!」
やがて、数秒ほどして閃光が消えた。
「おかしいぞ……統率が取れすぎている。まるで精鋭部隊だ。なんだ、あの集団は」
珍しく戸惑った様子の時久の言葉を聞きながら、吹雪は猿面の姿を探す。
崩れた壁の向こうに、黒服の連中が去って行く姿が見えた。その中に、何か大きな――それこそ、人間一人とほぼ同じくらいの大きさの包みを持っている連中がいる。
六郎太の怒鳴り声が響いた。
「奴らめ! 猿面を攫っていったぞ!」
「逃がしゃしないよ! 全員引っ捕らえて――!」
「その必要はありません」
勢い勇んで追いかけようとした夕子の動きを宗治が制した。
「な、何を言っているんだい! このままじゃ逃げられちまうよ!」
「貴方がたに今回依頼したのは鬼灯の瞳と私の命の護衛です。猿面の追跡と捕獲ではありません。――悔しいところですが、あとの事は覡警に任せましょう」
その時、サイレンの音が微かに聞こえた。見れば、屋敷の外に張っていたらしい覡警の自動車が遠ざかっていくところだった。
彼方へと消えていく赤い警報灯を見ながら、慶次郎が渋い顔をした。
「たしかに……だが、おれの手で引っ捕らえたかったな」
「あの大怪盗を捕らえられなかったのは残念です。ですが、これ以上は現場の体力が持たないでしょう……もう十分です。この通り、我々は無事なので――」
優雅な笑みを浮かべ、宗治が両手を広げた時だった。
『――万雷、至高天を
ざらついた声が詩のような言葉を紡ぐ。
それが何者のものか知る間もなく、辺りに天が落ちてきたかのような轟音が響き渡った。屋敷全体がわずかに揺れ、直後辺りの明かりが一斉に消える。
「ぐっ……なんだ! なにがおきた!」
闇の中で珍しく狼狽した宗治の声が響いた。
それに慌てた様子で綾廣が答える。
「ら、落雷したみたいだ……それで屋敷の電気が落ちた!」
「すぐに復旧するはずだ。くそ、何故こんな時に限って雷が――」
『――知らねェのか?』
ざらついた何者かの声が六郎太に答えた。
同時に宗治の呻き声。
「う、ぐ――!」
「お館様! どうされました!」
電気が復旧したのか、辺りが再び明るくなった。
青ざめた顔の六郎太、トンファーを構える夕子、がたがた震えながらファイアフライを握る綾廣、拳銃を握る慶次郎、床に座り込んだ宗治、鋭い双眸で一点を睨む時久――。
『庚申の夜は天罰に怯える夜なんだよ」
「――ッ!」
背後から響いた声に、吹雪ははっと振り返る。
正面階段の踊り場――それまで執事が立っていた場所に、『彼』はいた。
存外に小柄な乱入者だった。あちこちに装甲や銀色に光るボタンのついた黒いスーツを着て、その上からさらにたてがみのような飾りのついたマントをはおっている。
『そうしてこれは天罰』
機械によって歪められた声で、『彼』は愉快そうに続けた。
顔は――見えない。赤い隈取りのような模様が施された白いセラミックと、青黒い金属で作られた機械仕掛けの鉄仮面に覆われている。
その模様はまさしく――。
『正真正銘本物の――傍若無人な天罰だ』
「猿、面……?」
信じられない思いで吹雪はその名を呟く。
黄色い電光を放つ目元を吹雪に向け、猿の仮面を被った何者かは満足げにうなずいた。
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