その十八.庚申の夜の始まり

 十二月二十六日――庚申。

 日没と同時に香我美邸は厳戒態勢に入った。メイドや執事などは全員館から退避。庭園には宗治の警備隊が巡回し、館内でも睨みをきかせている。

 本館一階の廊下。吹雪は籠手の紐を結び直し、軽く手を開いたり閉じたりした。


「鬼灯の瞳は、昨夜のうちにもう移動したんですよね」

「そのようだな。警護組ももう部屋に移動した」


 とん、とん、と鬼鉄の柄で自分の肩を軽く叩きながら、時久はうなずく。その眼光は得物の気配を探る猟犬のように鋭く窓の外を睨んでいた。


「御堂さんは移動場所、ご存じなんですか?」

「知らん。あの六郎太とか言う奴は知っているようだが」


 左目の傷跡を思い切り歪ませ、時久は廊下の奥を睨んだ。

 玄関ホールへと通じる扉は開け放たれ、そこで六郎太が部下達に指示を出していた。時折耳元につけた小さな機械を押さえ、何者かから指示を受けている。


「……俺達にもあの道具を支給するべきではないか」

「きっと高価なものなんですよ。それに私達の中に潜り込んでいる猿面を警戒してのことでしょうね……うまくいくんでしょうか」

「さてな。相手は何をしでかすかわからん。なんでも空を飛ぶ式器を持っているなどという話もあるからな」

「さ、猿のくせに飛行を」

「それはさておき」


 とん、と時久がまた自分の肩を軽く鬼鉄で叩いた。

 その視線が六郎太から吹雪へと移る。

 探るように鈍色の瞳を片方細め、時久は問うた。


「……貴様、人を斬れるか」


 時久の問いに、一瞬吹雪は口を閉ざす。

 猿面は正体不明だが、時久の話では人間である事には間違いないという。

 猿面を阻むと言うことは、それと刃を交えることでもある。

 ほんの少しの間違いでこちらが斬られるかもしれない。あるいは、向こうを斬り殺すことになるかもしれない。

 迷いながら、吹雪は口を開く。


「斬ることは出来ると思います……だけど、父から鬼切りは人を斬ってはならぬと」

「ほう……父が命じたからか」

「……えぇ、父の命は絶対です」


 きっとこの答えは違う。

 そうわかってはいても、吹雪はそれ以上の答えを出せなかった。

 許可さえ取ればいまだ帯刀が許されるこの国でも、人を斬ることは本来許されるべき事ではない。だがもし相手が武器を持っていて、攻撃してきた場合はどうすればいいのか。

 時久ならばその答えを出せるのではないか。


「……ふん。今はそれで良い」


 だが、吹雪の淡い期待をよそに時久は答えを与えてくれなかった。

 鬼鉄を担ぎ、時久は吹雪に背を向ける。


「お前は正面玄関にいろ。俺は向こうを見る。何が起きてもおかしくはない。用心しろ、小娘」

「はい……御堂さんもどうかお気を付けて」


 吹雪はやや後ろ髪を引かれる思いで、時久とは反対の方向に歩き出した。

 壮麗なシャンデリアが見下ろす正面玄関。二階へと続く階段から西館や東館に通じる廊下まで、ここでも宗治の手勢が見張っている。

 その様子を見て、吹雪はふと霖哉のことを思い出した。

 鎖分銅を自在に操り、恐るべき異能をその身に宿した霖哉。彼もまた、宗治にとっては強力な配下の一人のはずだ。


「霖哉さんもどこかに配備されているんでしょうか……」


 ポケットに入れていた懐中時計を見れば、もうじき十一時になるところだった。

 猿面は直に現れるだろう。

 吹雪は絶句兼若の革巻きの柄を指先でなぞりつつ、時計の針の動きを見ていた。

 カチリと長針が十二を指す。

 その瞬間――かすかに悲鳴のような音が聞こえた。


「……この音、は」


 直後、外から轟音が響いた。

 吹雪は窓に駆け寄り、様子を見る。そしてその光景に思わず絶句した。

 大型の自動車が一台門を破り、突っ込んでくるところだった。


「なんだ、何事だ!」


 鋭い声とともに六郎太が窓辺に駆け寄る。


「自動車が突っ込んでき――こっちに来ます!」


 轟音とともにライトが近づいてくるのを見て、吹雪は慌てて窓から距離をとる。

 直後そこにあった壁を吹き飛ばし、自動車が突っ込んできた。

 吹雪は絶句兼若に手をかけ、様子を見る。

 自動車の扉が開き、何者かがよろめきながら下りてきた。

 黒いマントですっぽりと身を覆い、顔には赤い面をした猿の仮面。


「さ、猿面……こんな、堂々と――!?」


 あまりにも堂々とした――堂々としすぎた登場に吹雪は絶句する。


「馬鹿なッ――」

「御堂さん!」


 反対側の廊下から駆け込んできた時久もまた、眼前の光景に驚愕していた。

 鈍色の瞳を見開き、彼は崩壊した壁と猿面とを見る。


「なんの小細工も成しに馬鹿正直に正面から現れただと……?」

「私達が色々警戒してるのを察して、あえて堂々と現れたのでは」

「それにしてもこんな馬鹿げたことが――!」


 時久はありえないとばかりに大きく首を振る。

 一方の六郎太は通信機らしきものを手に何か早口で話していた。


「お館様、猿面が正面玄関から突入――えぇ、これより迎撃に入ります」


 通信機をポケットに戻し、六郎太が直刀を抜く。


「伯爵はどこだ!」


 猿面ががなりたてた。若い男の声だった。

 その手には凶悪な見た目をした短機関銃が一丁。その銃口を向けられても、六郎太はたじろぐことはなかった。


「答えるわけがないだろう」

「ならば力尽くで引きずり出すまで!」


 猿面がわめき、片手を素早く動かした。

 短機関銃の引き金を引くのか。その場の全員が回避に移ろうと身構える。しかし辺りに響いたのは銃声ではなく、甲高い指笛の音だった。


「なに……?」


 やや拍子抜けした顔で時久は指笛を吹く猿面を見る。

 しかし、吹雪は血の気が引くのを感じた。


「……なんの手品かわからん。各自様子を――」

「いけませんッ!」


 訝しげな顔をしつつ直刀を構える六郎太のそばをすり抜け、吹雪が猿面に斬りかかる。

 猿面は軽やかにそれを避けた。その間も指笛の音は絶えない。


「何をしている! 迂闊に手を出すと何が起こるか――ッ!」

「全員であの音を止めてください! 早くッ!」

「何……?」

「あれは【呼子ヨブコ】です!」

「ッ! 特定の音で化物を呼び寄せる異能か……!」


 時久が唸り、吹雪に次いで斬りかかった。

 しかし猿面はその刃さえも軽く避け、後退しながら銃口を時久に向けた。

 吹雪はとっさに絶句兼若の切っ先を床に付けた。


「百鬼を殺す!」


 簡略化した符号。それでも絶句兼若は確かに作用した。

 床から氷壁が立ち上がり、時久と猿面との間を遮った。ばらまかれた弾丸を防ぎ、氷壁は瞬く間に砕け散る。その隙に時久はなんとか廊下の角に身を潜めた。


「猿面を止めろ!」


 切羽詰まった六郎太の命に従い、防弾盾を手にした警備隊が躍りかかった。

 しかし、遅かった。

 床に亀裂が走り、あっさりと突き破られた。大量の土塊を撒き散らし、艶やかな胴体をのたくらせながら、地中から巨大なムカデのバケモノが現れた。

 ムカデの胴が大きくしなる。


「ぐっ……!」

「うわぁ――!」


 たったそれだけで五、六人かの警備員が一息に弾き飛ばされた。残りの警備員はなんとか踏み止まり、ムカデの動向を

 猿面はその長い触覚を掴み、ムカデの頭部に飛び乗った。


「伯爵を出せ! さもなくば館ごと押し潰すぞ!」

「そうはさせん!」


 六郎太が叫び、猿面めがけ手をかざす。

 しかしそれより早く猿面が短く指笛を吹いた。同時に一匹の矢返が六郎太と猿面の間に割り込み、神通力の作用によって破裂する。


「なっ、あいつ、私の異能を見切って――!」

「なにをしても無駄だ! この猿面に小細工が通用すると思うなよ! さぁ、オレはどんどん化物を呼ぶぞ。さっさと伯爵と鬼灯の瞳を――!」

「おぉおおおお――!」


 突如ムカデの胴体がぐらりと傾き、猿面がバランスを崩した。

 ムカデの胴を横薙ぎに斬りつけた時久が後退。そして時久と代わって、絶句兼若を大上段に構えた吹雪が前に出る。

 ムカデの体が大きく前のめりに――吹雪めがけて倒れていく。

 一閃。ムカデの頭部は地面につく間もなく縦に両断され、再生の間もなく絶命する。


「呼んでも無駄です」


 吹雪は冷淡に目を細め、


「尽く斬る」


 時久は冷徹に鬼鉄の切っ先を猿面へと向けた。


「くッ――全員動くな!」


 なんとか着地した猿面は唸りつつ、短機関銃で周囲を牽制する。

 吹雪と時久はムカデの骸の陰に転がり込み、その弾幕をなんとか回避した。


「伯爵を出せ! オレはいくらでも化物を呼べるぞ! さぁ早く――!」


 このままでは近づけない。

 鳴らされる指笛の音を聞き、吹雪と時久は苦い顔をする。


「化物はともかくあのガラクタが邪魔だ」

「弾には限りがあります。装填の瞬間に距離を詰めれば――」

「――少々、よろしいでしょうか」


 柔らかな――しかし凜と張った老人の声が階段から響いた。


「なっ……!」

「小西さん……!」


 盾の後ろに下がった六郎太が驚愕の声を出す。


 先日吹雪達を出迎えた執事が、階段の上に立っていた。

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