その十六.掃除人
深夜、目覚めた。
「……あ」
呆けた声を上げ、吹雪はしばらくぼんやりと暗い天井を見上げた。なにか悪夢を見たわけでもない。ただ、ふと眠りから覚めてしまった。
吹雪はいったん目を閉じ、寝返りを打つ。
実家でも寮でも布団だったせいか、この寝台というものの寝心地はいまいち慣れない。
「また、雷が鳴っていますね……」
柔らかな布団の上で、吹雪はしばらく遠雷の音を聞いていた。
やがて深々とため息をつき、起き上がる。
どうにも眠気が湧かない。むしろ、雷鳴を聞いているうちにすっかり目が醒めてしまった。
「……少しだけ、あたりの様子をうかがってみましょうか」
夜の空気を吸えば、少しは気分が変わるかもしれない。
明日の夜に備えてよく休んでおけとは言われているが、眠れないものはどうしようもない。
それに周囲に何か異変がないか気になるところでもあった。
吹雪は寝台から下り、白い寝巻の上から紅梅社中の制服をはおる。
そして絶句兼若を取り、足音も無く寝室から出た。
欠けつつある月が空に輝いている。
ゲストハウスは本館のすぐ隣にあった。本館もゲストハウスも暗く、辺りは静けさに包まれている。高い塀に囲まれた庭園には、人影一つなかった。
いくつか庭園灯が点ってはいるが、その明かりは頼りないものだった。
月下の闇に紛れ、吹雪は静まりかえった庭の様子をうかがう。
「特に異常はありませんね」
もう鬼灯の瞳は移動した頃だろう。
移された鬼灯の瞳は宗治の警備隊が見張っているらしい。もしかしたら紅梅社中のうちの誰かもそこについているかもしれない。
そんなことを考えながら、吹雪はゲストハウスに戻ろうとした。
その時、視界の端に何かがちらついた。
「……ん?」
祭殿の一階――ちょうど聖堂の辺りに、明かりが灯っている。
こんな時間でもなにか祭礼を行っているのだろうか。吹雪はその様子に興味を引かれ、気配を潜めて祭殿へと近づく。
――永遠を……蛇の如く……永遠を
――我ら穢れなく……赦し……
――蛇の如く……分かたれた首を……
近づくにつれ、微かな声が聞こえてきた。
祈りの声のようだ。もう少し近づけばもっとはっきり聞こえるだろう。
明かりの灯った祭殿の窓に向け、吹雪はさらに近づこうとした。
「ぐっ――!」
まるで気配を感じなかった。
背後から伸びてきた腕が吹雪の喉にかかり、裸絞めを決める。
相手が後頭部を押すにつれてぎりぎりと器官が圧迫され、吹雪は苦しさに喘いだ。
「あっ……く……!」
まさか猿面か。
吹雪は歯を食いしばり、なんとか絶句兼若を抜こうとする。
その時、耳元で聞き覚えのある声が聞こえた。
「――最悪だ」
「え……?」
拘束が解かれた。
声の主は吹雪の手首を掴むと、強引にゲストハウスへと引き連れていく。相手は黒いコートを着て、頭からすっぽりとフードを被っていた。
だが、それでもわかる。
見覚えのある後ろ姿を、吹雪は信じられない思いで見つめていた。
玄関の影に立ち、相手はようやくコートのフードを外した。
濡れたような黒髪、シャープな目鼻立ち、切れ長の紅茶色の瞳。見間違えようもない。
「霖哉、さん……」
「よりによってここでおまえに会うなんて。なんでこんな場所にいる?」
「わ、私は仕事で……」
鋭い声音に萎縮しつつも吹雪が答えると、霖哉は暗い顔で深々とため息を吐いた。
「どこかの退治屋を雇ったと聞いたが……おまえのとこだったのか」
「ご、ごめんなさい」
「別に謝らなくていい。おれも悪かった。いきなり絞めたりして」
「いえ、私もこんな時に出歩いていたので仕方がないかと」
「いや……おれが完全に抜けてた。その髪の色を見れば一目瞭然だったのに」
髪をぐしゃぐしゃと掻き、霖哉は唇を噛む。
このままだとお互いどんどん落ち込んでいきそうだ。それを察した吹雪はどうにか空気を変えようと考え、ぎこちなく口を開いた。
「……ちょっと久しぶりですね。最近、全然会えなくて心配していました」
「心配? おれを?」
髪を掻く手がぴたりと止まった。
信じられない言葉を聞いたとばかりに目を見開く霖哉に、吹雪はやや戸惑いつつもうなずく。
「え、えぇ。なにかご病気なのかと、心配していました」
「おれは、そんな……心配されるような……」
霖哉は視線を逸らし、ぼそぼそとなにか呟いた。
しかし頭を振り、居たたまれなさそうな様子で吹雪を見る。
「ただその……悪かったよ。少し仕事が立て込んでて」
「仕事ですか。霖哉さんは、香我美伯爵のところで働いていらっしゃるのですか?」
以前会った時、霖哉は自身の仕事を『掃除』だと言っていた。
宗治の館で掃除をしているのだろうか。吹雪がたずねると、霖哉は困ったように眉を寄せた。
「働いているというか……働かざるをえないというか」
「え?」
「なんでもない。ともかくこのあたりは危ない、早く中に戻――」
突然、霖哉が口を噤んだ。
紅茶色の瞳が鋭くなり、その手が腰の部分に伸びる。
「霖哉さん……?」
霖哉の様子に吹雪は戸惑った。
しかし直後、首筋にちりりと電流に似た感覚が走る。
「嘘っ――化物!?」
見上げた空にひらりと影がよぎる。
それは――矢返は木の葉のように宙を舞い、まっすぐ二人めがけて滑空してきた。
「ちっ――!」
身をかわしたものの頬を切り裂かれ、霖哉が舌打ちする。
ひらひらと空を飛ぶ矢返。
それが自分を狙って飛んでくるのをしっかりと確認しつつ、吹雪は絶句兼若を抜き打った。
硬い感触とともに闇に火花が散り、矢返が地面に転がった。
生っ白いその腹を霖哉の直刀がざくりと貫く。
「ちっ――嫌な時に出てきやがる」
「何故こんなところに化物が……!」
「立地の問題なんだと。ここは細い霊脈が近いから、寄ってきやすいんだ。館は結界が強めだから入ってこないんだが、庭にはたまにこうして潜り込んでくる」
ぼこり、ぼこりと庭園の芝生が隆起した。
丸太用に太い腕を振るい、土塊の中から現れたのは牛頭と馬頭。寒空の下、熱気を放つそれらの巨体は薄く湯気をまとっていた。
「ちっ、庭を荒らしやがって。また庭師にどやされる」
ぼやく霖哉の側をすり抜け、吹雪は駆ける。
牛頭がすぐに反応し、その手に持っていた太い木の枝を振るう。
頭部を砕こうと迫る凶器。しかし吹雪は身を低くしてそれを難なくかわし、そのままの体勢で牛頭の右足から左脇腹へと刃を駆け上がらせた。
深々と腹部を切り裂かれた牛頭の体が崩れ落ちる。
直後地面に倒れたその体を踏み潰し、牛頭の背後から馬頭が突進してきた。
「っとと」
金切り声とともに両手を無茶苦茶に振るう馬頭に対し、吹雪はいったん距離を取る。
その時、吹雪の背後から銀の光が伸びた。
「これは――!」
それは闇にも眩く輝く鎖分銅だった。
分銅は馬頭の頭蓋を正確に撃ち抜き、化物の生命を一瞬のうちに奪い去った。
馬頭の胴体は大きく痙攣し、ゆっくりと後ろに倒れていく。
「おい、下がってろ」
けだるげな霖哉の声。
同時にジャラッ! と音を立てて、馬頭の頭蓋から鎖分銅が霖哉の手元に巻き戻る。
「これはおれの仕事だ」
「掃除ってそういう事ですか」
「……そうだ。伯爵の庭を荒らす奴を殺すのがおれの仕事。この場所は色々あるんでね」
再び異音とともに、地中から化物の姿が現れる。
さらに空中にも複数の影が舞う。矢返に混じって、貧相な翼竜に似た姿の化物の群れが集まってきているようだった。
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