その十一.猿面女性疑惑

 宗治と慶次郎はその後打ち合わせをするべく本館に戻った。どうやら帰りは相当遅くなるようで、吹雪達は先に会社に戻っていてくれとの事だった。

 そんな帰りの車中。静かに眼を閉じている時久の隣で、吹雪は茜色に染まる帝都の風景を見つめていた。


 脳裏をよぎるのは鬼灯の瞳と――母のこと。


 宗治が守って欲しいという秘宝は、偶然にも母と関わりのあるものだという。

 正直母の記憶はほとんどなく、いまいち感慨が薄い。あの晩秋の日に母と別れたきり、吹雪の心を占めていたのは父の事だった。

 こうして母の痕跡に触れたというのに、なおもそれは変わらない。

 しかしそれでもあの宝玉と母との関わりを知った途端、それが一層特別なものに感じられた。

 守らなければならない――吹雪は決意を固めつつ、口を開いた。


「明後日、ですね……猿面は現れるんでしょうか」

「出ると思うよ。今まで奴は予告通り必ず現れたからね。……こりゃ明日は伯爵邸に泊まりになるね。相手が相手だ」


 ハンドルを握る夕子がため息をつく。


「猿面、捕まえられるかな?」


 助手席で暇そうに木製のパズルをいじっていた綾廣がたずねる。


「正直、アタシは捕まえる事よりも盗ませない事に重点置いた方が良いと思う」

「そうだね……まぁ、あの猿面だからなぁ」


 綾廣がため息をつき、パズルをダッシュボードに置いた。


「そこまで得体の知れない存在でもなかろう」


 それまで黙り込んでいた時久が口を挟んだ。

 綾廣が首をひねり、不思議そうな眼で時久を見る。


「いや御堂、今回の相手はあの猿面だよ? 歴代の猿面は誰一人痕跡を掴ませていない。そんな雲みたいな相手に対してどうやって――」

「雲ではない。女だ」

「だからさ――ん? 今、なんて?」


 綾廣が首をかしげる。

 吹雪もまた引っかかりを覚え、窓から時久へと視線を移す。

 反応に時久は苛立ったように眉を寄せた。


「二度も言わせるな。あの猿の面を被った怪盗は得体の知れない化物などではない。しっかりとした肉体を持った女だ。だからなんら臆することは――」

「待て待て待て!」


 夕子がいきなりブレーキをかけ、自動車は路肩に急停止する。

 勢い余って吹雪は前につんのめり、座席の背に顔をぶつける。同時に胃からなにかがせり上がってくるのをかろうじて押さえ込んだ。


「う……くっ……」

「いきなり停まるな! 小娘が胃の中身をぶちまけたらどうする!」

「ぶちまけはしません……っう」

「ごめん! ごめんブキちゃん! ただこれだけちょっと聞きたい! 時久! アンタなんで猿面が女だって断言できんの!」


 吹雪に必死で謝りつつ夕子が運転席から身を乗り出してくる。

 時久はやや背後にのけぞりつつ答えた。


「いや……ちょっと、奴と話したことがあってな」

「はいダウト」

「一色貴様そんなに死にたいのか。良いぞ、介錯してやる」

「ちょっと……う……車内で鬼鉄抜かないでください……それで、一体御堂さんはどんな話を猿面と――くっ」

「小娘貴様とっとと吐いてこい」

「大丈夫、大丈夫です……それで御堂さん」


 申し訳なさそうに手を合わせてくる夕子に首を振り、吹雪は時久の言葉をうながす。

 時久は視線をやや泳がせ、がりがりと左目の傷痕を掻いた。


「いや……おれが陸軍にいた頃の話だがな」

「……もしかして、あれかい? 燐狐(リンコ)絡み?」

「燐狐……?」


 聞き覚えのある名前だ。たしか化物の名前だったように思う。しかしどんな化物だったかまでは吹雪の知識にはなかった。

 しかし吹雪がそれについて問う間もなく、時久が即答した。


「違う。その前だ。俺が上等兵になったすぐ後くらい――十八の時だったな」


 時久は吹雪に事件について聞く間も与えず語る。


「司令部近くに厄介な化物が出たというので俺の隊が出ることになった。その時に奴と会ったのよ。今でも忘れられんわ」

「俺がとどめを刺そうとしたところで、あいつは俺の目の前であの化物の首をとった」

「……根に持ってらっしゃいますね」

「当たり前だろう。俺の手柄を取ったのだぞ。俺は怒り狂って、手近にあった標識を引き抜いてあいつめがけて投げつけてやったのよ」

「標識って引っこ抜けるんですね」


 そんな大根のように引き抜いていいものなのだろうか。

 十分に凄まじいエピソードだがもはや吹雪には驚く気力もない。


「奴はそれをひょいとかわして、俺の方に跳んできた。そうして通り過ぎざまにはっきり言った。俺はそれをしっかり聞いたぞ」


 ――『悪いのう、坊主』


 猿面はたしかに、時久に向かってそういったのだという。


「機械かなにかで声を変えているようだったが俺は騙されんぞ。あれは間違いなく女の声だった。思い出しても腹が立つ」

「聞き間違いじゃ――やめてやめてやめて! 頭蓋骨割れるシャレになんない!」

「一色、貴様俺に背後を取られていることを忘れるなよ」


 座席越しに時久が綾廣の頭を掴み、ぎりぎりと締め上げる。

 綾廣が悲鳴を上げてもがくのをよそに夕子は唇に指を当てて考え込んだ。


「猿面が女ねぇ……本当だとしたら面白い話だけど」

「でも明後日現れる猿面が、その時と同じ猿面かどうかはわかりませんよね。猿面は代替わりしているという話ですし……」

「うぐぐ……それに、猿面は死んだって噂もあるし」


 解放され、頭をさすりながら綾廣が唸った。


「なんだって構わん。とっととあの盗人をのめして、あの嫌な館とは縁を切りたい」

「嫌な館って……香我美伯爵の館のことかい? ずいぶん言うねぇ」

「そういやお前、今日はずーっと不機嫌だったな。なんかあったわけ?」

「む……それは……」


 解せないと言った様子の綾廣と夕子に、時久は渋い顔になった。

 たしかに思い返せば、時久は今日はほとんど険悪な顔をしていた。言葉数もいつもよりも少なく、吹雪を煽るような言動もなかった。


「わからん。ただ……あの館の敷居を跨いだ瞬間から嫌な物を感じた」

「嫌な物……?」


 その言葉に、吹雪は館に入ったときに感じた耳鳴りを思い出した。

 何か関係があるのだろうか。

 時久もまた吹雪が何かを感じた事に気づいたのか。

 一瞬吹雪の方にちらと見た後で、時久は自動車の窓へと視線を移す。


「あの館はどうにも嫌だ、長居したくはない……極めつけはあの赤い石ころだ。あれは絶対に良くないものだぞ。鬼鉄に誓って言ってやる」


 鋭いまなざしで語る時久の肩越しに、夕闇に沈みつつある帝都の街並みが見えた。


 ビルディングの谷間に覗く落日はあの宝玉のように、赤い。

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