その九.香我美伯爵邸にて
そして翌日――十二月二十四日。
時久は昨夜の言葉通りに全快し、吹雪とともにいつもの見回りへ――行くことはなかった。
「この屋敷が化物の巣か」
壮麗な門の前で、時久がうさんくさそうに辺りを見回す。
その邸宅は都心からやや外れた場所にあった。
高い塀の向こうに、古びた灰色の洋館の姿がうっすら見える。館の奥には丸い塔のような建物もあるようだが、それ以上中の様子ははっきりしない。
「違いますよ。依頼人のお屋敷でなんて事を言うんですか」
「ふん……」
声を潜めた吹雪の抗議に、時久は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
その様子にため息を吐きつつ、吹雪は辺りを見回した。
「……意外と静かですね。てっきり新聞記者とかが張り込んでるものかと」
「香我美伯爵の護衛かなんかが全部追っ払ったんだってさ。そりゃ屋敷の周りで怪盗がどうのって連日騒がれちゃたまんないだろうねぇ」
夕子がため息を吐く。
ここは香我美伯爵邸。つまり先日猿面が予告文を突きつけた相手であり、吹雪達の依頼人でもある人物の住まう場所だ。
吹雪、時久、綾廣、夕子――そして慶次郎は今、その館の門の前にいる。
「トキ。お前、絶対に中で変な事言うなよ」
慶次郎が落ちつきなく眼帯の位置を直している。改まった三つ揃えの背広姿だが、がっしりした体格のせいで窮屈そうに見えた。
「華族の屋敷は慣れねぇな――おい夕子、俺の格好これで大丈夫かな?」
「ネクタイの結び方がめちゃくちゃだよ。ほら、こうして……あれ、こうだったかな? 違ったっけ。ちょいとブキちゃん! 見ておくれよ」
「わ、私、洋装はちょっとよくわからないのですが……」
「よっしゃわかった。こうすりゃ全部解決だ」
慶次郎は大きくうなずくとネクタイを解き、ポケットに押し込んでしまった。
「ちょいとおやっさん。ヤケになるんじゃ――」
「いや、もうそれでいいと思うよ。おやっさんはどうやってもおっかないんだし。――さーて、それじゃもう準備は十分だね」
呆れる夕子をよそに、綾廣が塀のそばにある守衛所に向かう。
それからはさほど待つ必要はなかった。
すぐに館の門は開き、五人は敷地内へと招かれた。
歩きながら、吹雪は周囲の様子をうかがう。外からでははっきりわからなかったが、敷地は相当広い。館の他にもいくつかの建物が存在しているようだ。
「外の音、全然聞こえませんね」
「……あの塀のせいだろう」
吹雪の背後で時久が答える。いつにも増して不機嫌そうな声だった。
館の扉が開き、黒の背広に身を包んだ初老の執事が現れた。
「本日はようこそいらっしゃいました、一色様」
一礼する執事に対し、綾廣は優雅に軽く手を挙げた。
「やぁ小西さん。こないだの茶会ぶりだね。伯爵はいらっしゃるかな? 例の件で頼まれたとおり、紅梅社中の社長を連れてきた」
「お待ち申し上げておりました。どうぞこちらへ」
執事が扉を大きく開け、館の中へと促してくる。
慣れた様子の綾廣が先に玄関を抜け、次いで落ちつきなく襟元を直す慶次郎、居心地悪そうに辺りを見回す夕子が館に入る。
吹雪も彼らに続き、やや緊張しながら館の敷居を跨いだ。
「う……!」
きんと強い耳鳴りを感じた。
思わず耳を押える吹雪の隣を、きつく眉間に皺を寄せた時久が足早に通り過ぎる。
「どうかした? 吹雪ちゃん」
気遣わしげにたずねてくる綾廣に、吹雪は軽く首を振った。
「いえ、大丈夫です……ちょっと耳鳴りが」
「もしかして、明け方の雷で眠れなかった感じ? オレもなんかあの落雷の音が耳に染みついちゃってさぁ――」
「皆様、どうぞこちらでお待ち下さいませ。すぐに旦那様がいらっしゃいます」
綾廣がため息を吐いたその時、執事がホールの一角にある扉を開けた。
吹雪は耳を押えたまま、慶次郎達に続いて中に入る。
そして立ち尽くした。
「……え、と」
それは見たこともないほど豪勢な応接間だった。
壁を埋め尽くすほどの絵画、床に敷くことさえ恐れ多い芸術品のような絨毯。テーブルの上の硝子の器には、ほとんど見たことのない南国の果物が盛られている。
吹雪は視線をさまよわせ――自分と同じように立ち尽くしている夕子を見た。
夕子もまた吹雪を見ると、軽く視線で辺りを示した。
「……こういうとこ、入ったことあるかい?」
「ないです」
「だろうねぇ……どうしよう、これ踏んで良いのかね」
夕子はびくびくした様子で足下に敷かれた絨毯を見下ろす。
その隣を不機嫌そうな時久が通り抜け、臆する様子もなく席に着いた。
向かいの席では、慶次郎がメイド相手に「どうやって食うんだ?」と果物についてたずねている。
綾廣もまたくつろいだ様子で、メイドに紅茶を淹れてもらったりしていた。
「おや、これは素晴らしいダージリンだ。良い香りだね」
「ありがとうございます」
吹雪と夕子は顔を見合わせた後、そろそろと席に着く。するとそれを見計らったようにメイドが二人の元にまわり、洋菓子やら紅茶やらを用意した。
出された品はどれも一級品なのだろうが、緊張のせいかまるで味がわからない。
「……綾廣さん、全然緊張してませんね」
吹雪はちらっと綾廣の方をうかがう。
そーっと両手でティーカップを持ち上げながら、夕子はため息を吐いた。
「そりゃねぇ……綾廣、一応アレでも華族だから」
「え、そうなんですか」
「ああ、そうさ。一色伯爵家の三男坊だよ」
「は、伯爵家の三男……」
吹雪は目を見開き、メイドと談笑している綾廣の方をちらりとうかがう。
思い返してみれば、確かに彼の軟派な振舞の中にはどことなく気品がある。ティーカップを傾ける様子も様になっていた。
しかし、その話が本当だとすれば。
「そんな高貴な方が、何故退治屋なんて――」
吹雪の言葉が終わる前に、応接間の扉が開いた。
仄かな芳香が漂う。
「……待たせしてしまって申し訳ない」
艶のあるバリトンの声とともに現れたのは、長身の男だった。
髭は綺麗に剃り、癖の強い黒髪は髪油で撫でつけてあった。均整の取れた体を仕立ての良い背広に包み、首元にはひらひらしたネクタイを締めている。
どうやら高級なコロンを大量に使っているようだ。
その証拠に彼が応接間に入室した途端、あたりにより強い芳香が漂った。
「ようこそいらっしゃいました、紅梅社中の皆様。私は
「紅梅社中社長、武藤慶次郎。お逢いできて光栄だ、伯爵」
立ち上がった慶次郎が握手を求める。
宗治はその手をしっかりと握り返し、優雅に微笑んだ。
「こちらこそ。――やぁ綾廣君。今回のことは本当に感謝しているよ。以前の茶会の時に聞いた、君の会社の話をたまたま思い出してね」
「ご機嫌よう。なぁに大したことありませんよ」
着席したまま、綾廣が慣れた様子で肩をすくめる。
「いや、本当に助かる。我々も本当に困っている状態でね。――さぁ、さっそく本題に入りましょう。私から全てを話したい」
宗治はテーブルの最奥の席に座り、物憂げな様子で指を組んだ。
全員が姿勢を正し、吹雪も背筋を伸ばす。
「我が屋敷に、あの盗賊からの脅迫が届いたのは皆様すでにご存じでしょう」
「猿面ですな」
先ほどメイドに切ってもらった果物を口に運びつつ、慶次郎がうなずく。
宗治はその名を聞いた途端、深くため息を吐いた。
「えぇ……困ったものです。あの盗賊はそれ自体が厄介なだけでなく、その取り巻きもまた迷惑きわまりない」
「取り巻き――猿面の敵の事ですかな」
「その通り。猿面は信奉者も多いが、その分敵もまた多い存在です。そしてその過激さといったら――先月、化物退治に現れた奴の顛末はご存じでしょう?」
「ああ、あの襲撃事件」
宗治の問いかけに、慶次郎がやや眉をしかめてうなずいた。
吹雪は夕子にそっとたずねた。
「……襲撃事件とはなんです?」
「知らないかい? 先月のはじめ、街中に出た化物を猿面が退治しに現れたんだけどさ。その時に猿面が撃たれて、ビルから落下したんだよ」
「ああ……思い出しました。確か、それで『猿面は死んだ』という話が」
たしか、加賀の実家で皿洗いをしている時にラジオでそんなニュースを聞いた。
化物を退治し、ビルディングの間を跳ぶ猿面。それを何者かが狙撃し、傷を負ったと思われる猿面はそのまま地面に落ちた。
しかし落下地点には猿面の姿はなく、代わりにおびただしい量の血液が残っていたと。
「すでに猿面の敵から熱いメッセージが届いていましてね」
そばに控えていた執事からいくつかの封筒を受け取り、宗治はそれを慶次郎に渡す。
慶次郎はそれを開き、小さく鼻を鳴らした。
「『盗賊に死を』『貴殿の館を奴の血で染めましょう』『護衛の対価に我らに相応の報酬をいただきたい』――なるほど、こりゃ確かに熱い」
「私は猿面だけでなく、このような過激な者達にも当家の敷居を跨がせたくはない」
宗治はきっぱりとした口調で言い切ると、テーブルの面々を見回した。
「単刀直入に申し上げましょう。あなた方にこの屋敷と――当家の秘宝【鬼灯の瞳】を警護していただきたい」
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