その七.時久を見舞う吹雪
社員寮のとある一室の前で、吹雪はひたすら悩んでいた。
「……いや、迷惑ですよね」
呼び鈴のボタンへと伸ばし掛けた指先を揺らし、吹雪は眉を寄せる。
その手は最終的に握りしめられ、下ろされてしまう。
「でも……しかし……いや、やっぱりそっとしておいた方が……」
「――ええい!」
どこからか怒号が聞こえた気がした。
思わず動きを止めた吹雪の隣で、廊下側に面した窓がガシャンと開く。
そこからぎろりと時久が睨み付けてくる。二日ぶりに見るその顔は、たしかにやややつれているように見えた。
「貴様いつまでそこにいるつもりだ! 入りたいのか入りたくないのかはっきりしろ!」
「あ……じゃあ、開けて下さいますか?」
「ふん。よかろう」
時久は満足げに鼻を鳴らし、窓を閉めた。
間もなくガチャガチャと鍵のまわる音がして、吹雪の前でドアが開く。
隙間から時久の鋭い目が覗いた。
「……茶は出さんぞ」
「お構いなく――では、失礼致します」
開いたドアからおずおずと中に入り、吹雪は靴を脱ぐ。
部屋の間取り自体は吹雪の部屋とあまりかわらないようだ。ただ品物が少ない吹雪の部屋とは正反対に、時久の部屋にはモノが溢れている。
大量の本や、古い書類、軍刀やら銃やらがあちこちに転がっていた。
「座るならその辺に座れ。なんならそのへんの椅子を使ってもいい」
言いながら、時久は乱れた寝台のうえに寝転がった。
顔色は確かにあまり良くないが、声や振舞はしっかりしている。吹雪の前で気を張っているのかもしれないが、それでも思っていたよりはましな状態だ。
「……わりと元気そうですね」
「やっと持ち直したのだ。昨日は動くのもやっとだった。この分だと明日には恐らく出勤できるが――それより貴様、何しに来た。夜這いか?」
「アハハ。笑える冗談ですね」
吹雪は乾いた声で笑う。この有様だともうほとんど回復しているのかもしれない。
時久は仏頂面で頭の後ろで腕を組んだ。
「なら何だ。ついに俺を殺しに来たのか」
「私のことを何だと思っているんです? お見舞いに来たんですよ」
「見舞い? 貴様が?」
時久は目を見開き、素っ頓狂な声で繰り返した。
その唇がみるみるうちに吊り上がり、ついに彼は弾けたような声で笑い出した。
「くっ――ふはははは! 貴様が! 見舞いに来たというのか、俺を!」
「何がそんなに面白いんです……」
「極めて愉快だ、考えても見ろ! 初日に斬り合って以降さんざん俺に噛みついてきた貴様が、あの日斬りかかった俺を見舞いに来たんだぞ!」
笑いのツボがいまいちわからない。
あるいはもしかしたらまだ熱があるのかも知れない。
笑い転げる時久をよそに、吹雪は買い物袋を持ち上げる。
「それであの……台所をお借りしたいのですが、よろしいですか? 社員食堂はしまっていたので、簡単な物を」
「ほう、昨日ぶりにまともな物を食えるのか。良いぞ、好きにしろ」
「……ちなみに今まで何を召し上がっていたんです?」
「昨日は夕子が買ってきた。今日は夕子がいないので、適当なものを食った」
「ふむ。その適当なものの内約は?」
「塩と桃缶と焼酎」
「うわぁ……来て良かった」
心の底から呟きつつ、吹雪は台所に向かう。
背後からガシャガシャとガラクタをどける音がする。
どうやら時久も台所に来るようだ。
とりあえずまな板と包丁を用意し、早速材料を刻む。
時久はドアの辺りにもたれ、その手元を暇そうに見つめていた。
「……なんだ、手慣れているな。よく料理するのか」
「えぇ。うちは料理できるのが私しかいないので。親戚の方に色々教えてもらったんです」
「貴様、母親は?」
「いませんよ。物心ついた頃にどこかに行ったきり」
「ふん……そうか」
それ以上時久は何も言わず、台所を出た。
吹雪は手早く卵と葱の雑炊と、ほうれん草の簡単な煮付けを仕上げた。それらと梅干しとを盆に載せ、時久の元へと戻る。
吹雪が部屋に入ったとき、時久は寝台に腰掛けて新聞を読んでいた。
「どの新聞も猿面のことばかりだな……まったく、くだらん騒ぎだ」
「仕方がありませんよ。有名な怪盗なんですから」
寝台の前に置かれたちゃぶ台に料理を並べつつ、吹雪は肩をすくめる。
「ふん。見ろ、数日前から続いている連続殺人事件。新たな犠牲者が出たというのに、猿面のせいで片隅に追いやられている」
「……ああ、また犠牲者が出てしまったのですね」
「しかもまた女だ。これだけの事件が起きているというのに……まったく」
時久は不機嫌そうに新聞を畳み、部屋の隅に放り投げる。
そしてちゃぶ台の上に並ぶ置かれた雑炊と煮付けをしげしげと見つめた。
「ふむ……まるで買ってきた物のようだ」
「そうですか」
これは褒められているのだろうか。いまいちわからず、吹雪は反応に困った。
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