その六.林檎のため息
報告書は午前中にあっさりと終了し、午後の見回りも特になんの問題もなく終わった。
いつになく滞りなく課業を終え、吹雪は荷物をまとめた。
「お先上がります」
「あーいおつかれぇー」
ざらざらと結界の呪符を書き続けている夕子が顔を上げずに手を振ってきた。
戦闘班の仕事部屋から出る。事務班の者達が年末の決算でばたついているのをよそに階段を降り、吹雪は玄関ホールへと降りた。
扉の取っ手に手をかけた瞬間、背後で空気が揺れる気配がした。
はっと振り返ると、赤みを帯びた黒髪が眼に入る。
「ッ――び、びっくりしました」
『何、まるで幽霊でも見たような顔をして』
抑揚のない声が奇妙な残響をもって響いた。
階段の側――それまで誰もいなかったはずの空間に、林檎が腕を組んで立っている。
吹雪はまじまじと林檎を見つめ、あたりを見回した。
サチの姿はない。
彼女は今夜、十真と組んで見回りをすることになっているはずだ。
「いや、驚きますよ……なんの前触れもなく現われて――というか、単独でも行動できるのですね。てっきりワンコから離れることができないものだと」
『霊体の状態でならある程度自由がきくのよ』
林檎は緩く片手を挙げてみせた。確かにその体は半ば透き通っていて、背後の壁紙や階段などがうっすらと見えている。
吹雪は納得してうなずき――そしてやや、身構えた。
林檎とは先日和解した。
とはいえ吹雪一人で彼女と対面したのはこれがまだ二回目だ。
一体何の目的で、彼女は吹雪の前に姿を現したのか。
「あの……それで、私に何か御用が?」
『そんなに警戒しなくて良いわ。大した用事はない。……アナタ達には特に迷惑をかけたから、ちゃんと謝ろうと思っただけ。それだけよ』
「あぁ……そういうことですか。何事かと思いましたよ」
意外と律儀だ。
吹雪は安堵のため息を吐き、緊張を解いた。
「別に、もう謝罪などはいいですよ。あの時の一言で十分――あの、そういえば私が負わせた傷はもう治ったのですか?」
『えぇ。十全とまではいかないけど』
「そうですか……ワンコさんとはどうですか? あのあと、ちゃんとお話を?」
『たくさん話したわ。だからワタシ、ここにいるのよ』
林檎はうなずき、両手を軽く広げて見せた。
『暴れたりしなければ自由に行動して良いって。ワタシはサチの近くでなければ実体化できないけど、それでも霊体の状態であちこち動き回れるから」
言いながら林檎はくるりとその場で一回転する。
相変わらず林檎の顔は表情の変化に乏しく、一見すると。しかしそれでも、ごくわずかだが嬉しそうな色がそこに浮かんでいるのが吹雪の目には見て取れた。
この分ならば、林檎とサチはもう大丈夫だろう。
吹雪が安心の笑みを浮かべたところで、林檎はふとあたりを見回した。
『――そういえば童子、今日はいないのね』
「御堂さんですか? 今日は体調を崩しているそうなので」
『そう、またなの。あんな無茶な戦いばかりするものね』
淡々とした林檎の言葉。
しかしそこに確かな呆れが混じっているのを聞き取り、吹雪はおずおずとたずねる。
「あの……御堂さんって、よく体調を崩されるのですか?」
『よくって程じゃないわ。時々よ』
林檎は長い髪をいじくりながら、わずかに唇をへの字にした。
『アイツはね、確かに人の域を外れて頑丈よ。でも、それでも限度があるわ』
「……限度、ですか」
『普通の打撃なんかはさして影響はないでしょう。でも化物や式器による攻撃――霊傷は別よ。初めは平気でも、それでもdommageは積み重なる」
「どぅ、どぅまーじゅ?」
『……ダメージ』
「あ、なるほど」
吹雪は慌ててうなずき、そしてあの地下街での戦いを思い出す。
時久はほとんど無傷とはいえ大神に何度もかみつかれ、さらに林檎の爪の一撃を受けた。つまり霊傷をいくつも喰らっていたことになる。
『普通に戦えばいいのよ……でも、アイツは死にたがりだからどんどん突っ込むの』
「は……?」
ため息とともに放たれた信じられない一言に、吹雪は思わず間の抜けた声を出した。
今、この人狼の霊はなんといった?
「御堂さんが、死にたがり?」
『死にたがりというか、破れかぶれというか……ともかく、アイツは自分の体なんてどうだっていいのよ。昔、陸軍にいた頃になにかあったみたいだけど――』
林檎はそこで口をつぐんだ。。
わずかに顔を傾け、なにかに耳を澄ませるようなそぶりを見せる。
『……サチが呼んでる。あの変な仙人みたいな奴ともう見回りに行く時間みたい」
「あ……そうですか」
変な仙人みたいな奴。十真のことだろうか。言い得て妙だ。
『急がないと。あまり二人の距離が空きすぎるとお互い頭が痛くなってくるのよ』
「……大変な異能ですね」
『もう慣れたわ。ワタシ達は生まれた時からこうだから』
林檎は肩をすくめ、淡い笑みを浮かべた。
『それに悪いことばかりでもない。たいてい一心同体だから孤独感はないし、かといってお互いの心はわからないからそこまで窮屈感はないの』
「そうですか」
双子ではなく、ましてや多重人格でもない。自分の体内に全く別個の魂と、そして大神という無数の獣の化物が存在している。
今までこの異能に苦しんだ彼らは、これからはそれを肯定的に捉えていくのだろう。
そのことを林檎の言葉から感じ取り、吹雪はふっと微笑む。
『――そういえば気になったのだけれど』
「なんでしょう?』
『つまり今、体調の悪い童子は家に一人でいるのね』
「ええ、恐らくは……あの、それが何か?」
言葉の意味がわからず吹雪は混乱する。
林檎は『別に……』と肩をすくめ、くるりと一回転した。黒髪がひるがえった途端、その姿はすうっと周囲の風景に溶ける。
瞬く間に林檎は姿を消し、その場にはその別れ際の言葉が余韻とともに残された。
『――前々から、アイツに生活能力があるとはとても思えなくて』
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