その四.鬼切りの重み
――お前には苦労を掛けたと思う。
重々しい口調で父が言った。
丸窓から庭を覗きつつ、茶虎の猫を撫でている。
その部屋の天井は高く、仄暗い。黒光りする木の床はしんしんと冷えていた。障子戸の向こうからは雪の降るかすかな音が聞こえてくる。
囲炉裏の炭を整えつつ、吹雪は首を振った。
「苦労なんて何も。私は父様のお役に立てれば良いのです」
父はしばらく沈黙した。
にゃあんと甘えた声で猫が鳴く。
――なにか望みはないか。
「望み、ですか?」
――日頃精進しているお前に何か褒美を与えたい。何を望む?
「……特にありませんね」
――……何も、望まないのか。
「えぇ。だって、父様の側にいられるだけで私は幸せですから。強いて言うならば父様の望みが吹雪の望みです」
父は何も言わない。しばらく部屋には雪の降る音と、囲炉裏の炭の弾ける音と、喉を鳴らす猫の声だけが響いていた。
やがて父は深くため息を吐いた。
――慶次郎の言ったとおり、私は本当に不器用だったようだ。
「父様?」
――お前には道が見えていない。お前はずっと私だけを見ていたのだな。
「……? どういうことでしょう?」
困惑する吹雪の問いかけに、父からの答えはなかった。
――すまなかった。
代わりに父が吹雪に与えたのは、雪の音にさえ掻き消されそうな謝罪の言葉だった。
* * *
翌朝、出勤して早々吹雪は衝撃的な言葉を聞いた。
「へ、お休み……?」
「ああ。トキの奴、体調を崩してな。昨日から休んでいるんだよ」
気の抜けた吹雪の声に、慶次郎は墨をすりながら渋い顔でうなずいた。
なにか調子が狂っている気がした。
昨日は霖哉と会えず、さらに父が謝る夢を見た。夢のせいで漠然とした不安感を抱えたまま吹雪は朝を迎え、もやもやしたまま出勤。
そうして告げられたのが、『時久が体調不良』という信じがたい言葉。
「……なにか、重大な病気に?」
「いんや、ただの風邪だよ。おおかた最近の疲労が一気に来たんだろうな」
「疲労、ですか……あの御堂さんが」
吹雪はますます驚く。
やはりいまいちぴんとこない。あの無茶苦茶な男に疲労という概念が存在していること自体、吹雪には驚愕の事実だった。
「――そういえば、ブキちゃんはここまで二週間近くあいつと組んでるな。あいつの戦い方、見ててどう思った?」
書斎机の向こうに座る慶次郎は墨をすり終え、筆を取った。
その前には真っ白な半紙。どうやら慶次郎は書画が趣味らしく、社長室に飾られているいくつかの掛け軸も彼の作品らしい。
「無茶苦茶です。命がいくつあっても足りませんよ。突っ込んでばかりで……」
「それだ」
「え?」
唐突に筆の穂先を向けられ、吹雪は思わずとんきょうな声を上げる。
慶次郎は筆をくるりと回すと、それを墨に浸した。
「あいつは昔からそうなんだよ。ともかく暴れる。異能も持ってねぇのに。だから生傷が絶えねぇし、そのダメージは蓄積していく」
「いや……待って下さい。異能を持っていないって……でもどう見てもアレは……」
「時久も言ってなかったか? 『異能なんか持っていない』って」
さらさらと半紙に筆の走る音が小さく響く。
慶次郎はなにかを書き上げると筆を置き、真剣な表情でそれを見下ろした。
「実際、おれらには異能にしか見えないがな。あいつみたいな存在にとってはアレが普通、当たり前のラインなんだよ」
「……あいつみたいな存在、とは?」
妙に引っかかる言い方だった。
片眉を上げる吹雪に対し、慶次郎はしばらく沈黙していた。やがて彼は半紙から文鎮をどけると、それを吹雪に向かって掲げる。
真っ白な半紙の上には、堂々とした筆致で『鬼』の一字が記されていた。
「……ブキちゃんは代々鬼切りの家だったな。ならば『鬼』とは何か、わかるか?」
「え、えぇ、それは勿論」
突然の問いかけに戸惑いつつ、吹雪はうなずく。
鬼。それは物心ついたときから、父に言い聞かされていたことだった。
「『鬼』とは、現在では化物の総称としても使われますが……本来はある特定の、桁外れに強力な化物の一種類を表す言葉です」
今では退治屋の別称としても使われる『鬼切り』。
しかしその言葉は本来、その『鬼』という化物を切る役職の事を示すものだった。
故に『鬼切り』という言葉には、特別な重みが存在している。
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