その三.どうして、私は喜べないの?
「あ、ありがとうございます――あの、兄がどこに住んでいるかご存知ですか?」
「うーむ……雷光の住んでいる場所か」
カノエは盆を脇に挟み、唇に指を当てて考え込むそぶりをみせた。
やがて肩をすくめ、困ったように笑う。
「私には答えられないな。まだ知り合ったばかりでね」
「そうですか……」
吹雪は肩を落とし、グラスの冷たい水に口を付けた。よく考えてみれば、そもそも客の住所を把握している店のほうが稀だったかもしれない。
「兄はよくこちらに来るのですか?」
「毎日というわけではないがよく来るよ」
「なるほど……あの、もう一つお聞きしたいことが」
「ん?」
それまでよりもためらいがちな切り出し方に、カノエが首をかしげる。
吹雪は一瞬逡巡し、唇を何度か開いた。
「兄は、ここでどんな話を?」
「いろんな事を話すぞ。将来はビッグになりたいとか、そんな感じの事だな」
「……あの愚兄は、まだそんな漠然とした話を」
あの男は帝都に来てなおも妄言を吐き続けているのか。
脱力感に襲われ額をおさえる吹雪に、おずおずとサチがたずねた。
「ブキちゃん、お兄さんと仲悪いの?」
「……良くはないですね」
「そうなんだ……なんか、大変な感じなの?」
「大変といえば大変でしょうか。昔から喧嘩が絶えませんし」
「だがとっととその兄を捕まえて、故郷に連れ帰らなければならないのだろう?」
相変わらずメニューに悩んでいる様子の十真が口を挟んだ。
吹雪は額をおさえたままうなずいた。
「えぇ、父がそう仰られたので」
「ふむ。しかし君自身はそれを望んでいるのか?」
「え……?」
一瞬、呼吸が止まった。
吹雪が思わず十真を見ると、十真はメニューを指でたどりながら言葉を続ける。
「私は所詮外野に過ぎない。しかし、今までのやり取りでふと気になった――君は本当に兄を捕まえて故郷に帰ることを望んでいるのかと」
「それは……」
同じ事を確か霖哉にも聞かれた。
そしてその時と同じようにやはり答えは出なかった。
どうにか十真に対する返答を探し出そうとする吹雪の耳に、カノエの言葉が届いた。
「――雷光は今日はいないが、多分近いうちに必ずまた来るだろう」
はっと見上げると、どこか意味ありげなカノエの微笑があった。
銀の瞳を吹雪に向けたまま、彼女は左手の指先で盆をくるくると回した。
「彼は常連だからな。たまに覗きに来ればそのうち会えると思う。――なにか込み入った事情があるようだが、彼と向き合えば何か答えがでるかもしれないぞ」
「えぇ……」
吹雪はぎこちなくうなずいた。
探し求めていた兄の痕跡をようやく掴んだ。
なのに、なんの喜びも興奮も感じない。
代わりに吹雪の胸を満たしたのは奇妙な不安感だった。
それは恐らく、十真の問いかけ以前から身のうちに存在していたものだった。それが今、いっそうの存在感を盛って吹雪の胸にのし掛かってきた。
「ブキちゃん、嬉しくないの?」
サチがおずおずとたずねてくる。
我に返った吹雪は慌てて唇に笑みを浮かべ、緩く首を振った。
「いえ、嬉しいですよ。もう闇雲に探さなくても良いですし、兄に会える確実な根拠を見つけました。きっと年明けには捕まえることができるでしょう」
「でも、なんだか――」
「大丈夫。――さぁ、何か注文しましょうか。私も少しお腹が減ったので」
腑に落ちない様子のサチをよそに、吹雪はメニューを開いた。
「元気がないなら甘いものを食べると良い。デザートのメニューは――」
そこでカノエが回転させていた盆を止め、くるりと返した。すると、その上にはデザートを載せたメニューが出現する。
「そら、ここだ」
「ほう……これは面白い手品だな」
「え、すごい! なんにもなかったのに!」
カノエの手品に十真が感心し、サチはぱっと表情を明るくする。
その様子に微笑しつつ、吹雪は小さく呟いた。
「ここに来れば、きっと愚兄に会える……」
やはり喜びはなく、正体の見えない不安ばかりが強くなっていくように思えた。
* * *
カノエの店で軽い食事を摂った後、吹雪は十真達と分かれた。
向かう先は社員寮ではなく石炭袋――霖哉がいつもいる喫茶店。
どうしようもなく霖哉と話したかった。
霖哉ならば、この漠然とした不安の正体がわかるはずだ。吹雪を絞め上げているのが吹雪自身だと見透かした彼ならばきっと。
そんな思いに背中を押され、吹雪は足早に石炭袋へとむかった。
だがその日に限って、霖哉はいなかった。
「……珍しい事ですね。遅れるなんて」
紅茶を飲みつつ、吹雪は誰も居ない正面の席を見る。
いつもならば吹雪が入店した時には、すでに霖哉は奥のテーブル席に着いている。そうして吹雪に向かってけだるげに手を振ってくれるのだ。
もしかすると何か用事が入ってしまったのかも知れない。そう考え、吹雪は辛抱強く霖哉を待った。
しかしその後何度ティーカップを空にしても、彼は姿を見せなかった。
そうして不安を抱えたまま、吹雪は夜を迎えた。
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