その二.アヴァンチュリエの女主人

 そんな奇怪な男にからかわれ続けて三十分。

 地下鉄を乗り継ぎ、たどり着いたのは銀座だった。

 時計台が見下ろす四丁目を通り抜け、柳の揺れる街路を歩く。並ぶ建物は古風なレンガ造りのものから、ほとんど硝子張りのビルディングなど多種多様だった。


「ここの店だ。白い髪の男を見たのは」

「……はい」

「うん……」


 心身共に疲れ切った吹雪とサチの前で、十真は仰々しい仕草で前方を示す。

 その店は地下へと伸びる細い石造りの階段を降った先に存在していた。小さな明かりに照らされたドアには、『Aventurier』と書かれた小さな看板がかかっている。

 店名を見つめ、サチが首をかしげた。


「あぶ……なんて書いてあるの?」

「アヴァンチュリエ。フランス語で冒険者の意味だな」

「ほえー……わたしは林檎と違ってフランス語全然わからないんだよね」

「十真さん、フランス語が読めるのですね」

「ん。ああ。私は首相の護衛で何度か海外に渡ったからな。簡単な日常会話程度でなら四つくらいの言語は話せるぞ」

「と、十真さん、海外に行ったことあるの!?」

「あの危険な海を越えて、ですか……?」


 さらりと十真が放った言葉に吹雪達は仰天する。

 外洋やその上空には極めて強力な化物が棲み着いており、護衛をつけても渡航が危うい。そのためこの国で外国に行った事のある人間は稀な存在だった。

 その事実を改めて思い起こしつつ、 吹雪は驚愕の目で十真を見る。


「……ちなみにそれは本当ですか?」

「いや、首相の護衛というところはさすがに嘘だ」

「なぁんだやっぱり嘘かぁ……え、そっち――?」

「さて、入ろうか」


 一拍遅れて驚くサチをさらりと流し、十真はドアを開けた。

 こじんまりとした店だった。

 コンクリート打ちっ放しの壁だが、暖色系のランプに照らされているためあまり寒々しい印象はない。店の奥には小さなピアノがあり、向かって左側には小さなバーカウンターと酒瓶を並べた棚があり、夜はどうやらそこで酒を提供するらしい。

 テーブル席には客の姿はなく、ホール内のどこにも店員の姿はない。


「誰もいませんね……」

「実はまだ開店前だったりするのかな」

「いや、ついさっき開店したはずだが――おーい、誰かいないのか?」


 十真が声をはりあげた。

 すると「ああ、待って待って!」と慌てた様子の女の声が返ってきた。バーカウンターの脇にある小さなドアから聞こえてくるようだ。


「何故皆出払ってしまっているんだ……いや、本当に待たせてしまってすまん!」


 慌ただしくドアが開き、中からすらりとした女性が現れた。

 栗色の長髪を銀の髪留めでまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だ。起伏の豊かな体を黒いブラウスと同じ色のパンツに包み、腰には深緑の前掛けを着けていた。

 特に目を引いたのは、その右手。

 何かひどい怪我をしたのか、指先から手首までびっしりと包帯に覆われている。

 女は左手で伝票を取り出し、黒装束の女は吹雪達を見回す。


「すぐに用意しよう。人数は三人で――」


 女の目が吹雪を映す。

 銀色の瞳がやや見開かれ、ふっくらとしたその唇がある一つの名前を呟いた。


「――雷光?」

「えっ……」


 吹雪の心臓がどくりと跳ね上がる。

 直後、黒装束の女はさっと包帯で覆われた右手で自分の口元を押えた。


「……ああ、すまない。人違いだ。知り合いに少し似ていたものでつい――」

「兄を――遠峰雷光をご存じなのですね?」


 鼓動を落ち着けつつ吹雪がたずねる。

 すると黒装束の女が口を隠したまま、ぎゅっと眉を寄せた。


「……兄だって?」

「はい。私は遠峰吹雪と申します。遠峰雷光の双子の妹です。あの、兄の居場所について何かご存じでは――?」

「……ああ、そうか。そういえば、そんな話をしていた気がする」

「え?」

「いや、なんでもない」


 黒装束の女は口元から手を下ろすと、軽く自分の額を打った。

 その後、黙って近くの席を示した。どうやらそこに座れと言うことらしい。

 席に着くと、十真が早速メニューを吟味し始めた。


「――前もそうだったが、やはりシークヮサージュースはないのか。よし、私はレモンスカッシュにしよう。吹雪もワン嬢ちゃんもそうするといい」

「――え、選ばせてよ! あと十真さん声落として空気読んで!」

「ど、どうぞお構いなく……」


 わちゃわちゃと騒ぐ十真とサチに苦笑しつつ、吹雪は黒装束の女の様子をうかがう。

 黒装束の女は足早に入り口に向かい、ドアにかかった看板をひっくり返した。ついでバーカウンターの後ろにまわると、グラスを三つ取り出す。


「私は飛石とびいしカノエという。雷光とはまぁ……友人かな」

「友人、ですか」

「ああ。彼は最近この店に来るようになったんだ。それなりに話すよ」


 銀の水差しからグラスに水を注ぎ、カノエはそれを盆に載せて三人の元に運んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る