その二十一.同じ空を見上げる

「しっかし困ったなぁ……この時間帯だと居酒屋くらいしかやってないと思うよ」


 地上へと続く階段を上りながら、綾廣が手帳をぱらぱらとめくる。

 すると時久がにやっと笑った。


「なんだ、結局奢ってくれるのか」

「奢るわけないだろ! 子供組はともかく、成人組は自分で食った分ちゃんと支払えよ!」

「ちぇー、せっかくタダ酒飲めると思ったのに」


 子供っぽく唇を尖らせる夕子に、やれやれといった様子で綾廣が肩をすくめる。


「ダメな大人しかいないなここ……いいかい? ワンコちゃん、吹雪ちゃん。こんな人の金を当てにするような大人になっちゃいけないからね」

「まぁ……」

「あ、あはは……」


 吹雪とサチが苦笑する中、一行は入り口を封鎖する黄色いテープを超える。

 見上げれば瘴気の合間から、いくらか傾いた赤い月が見えた。

 高層ビルディングと街灯の並ぶ道路に出て、綾廣が大きく伸びをした。


「はぁっ、地上だ! この開放感!」

「……なんか、騒がしくないかい?」


 辺りを見回し、夕子が眉をひそめた。

 時刻はすでに深夜をだいぶ過ぎている。にも関わらず道路には大勢の人間が集い、空を見上げてなにやら騒ぎ立てていた。

 一体何を見ているのか。吹雪は上を見上げ、目を見開く。


「あれは――?」


 いくつかのビルディングの壁面に、大きな白い帆布のようなものが揺れていた。帆布の表面には黒い墨によって、数行の短い文章が殴り書きされている。


『庚申ノ夜 寝ズニ待テ』


香我美カガミ伯爵 鬼灯ホオズキノ瞳』


レハ天誅デアル』


『首ヲ洗イテ待テ』


 複数のビルディングに同じ帆布が張り出されているが、どれも内容は同じだ。


「庚申ノ夜って……冗談だろ。生で見たのは初めてだ」


 綾廣が呆然とした顔で呟く。

 帆布を見上げ、時久がどこか愉快そうに唇を吊り上げる。


「今年はもう出ないかと思ったぞ」

「てかちょっと待って、香我美伯爵とオレ普通に顔見知りなんだけど! えぇ、あの人の屋敷に盗みに入るわけ!?」

「落ち着きな、綾廣。そのへん多分警察がなんとかしてくれるだろうさ」

「あの帆布、全部一人で貼りだしたのかなぁ……すごいなぁ……」


 仲間達がわいわいと言い合うのを聞きつつ、吹雪はもう一度揺れる帆布を見上げた。


「……まさか、実際に目にすることになるなんて」


 庚申の夜、寝ずに待て。それはこの大日本帝国で、ある盗賊を示す言葉だった。

 猿の仮面で顔を隠し、庚申の夜に現れる――正体不明の大盗賊。

「怪盗猿面さるめん……一体、何者なんでしょうね」


                   * * *


 同時刻。

 吹雪達のいる場所からさほど遠くない所に、そのゲームセンターはあった。

『浅草電氣遊技場』という色あせた看板が掲げられている。

 内部には壊れかかったピンボールやら、ぎらぎらと輝く対戦格闘ゲームなどが雑然と並び、混沌とした様相を呈していた。

 その騒がしい点内に、和服にジャケットを引っかけた一人の若い男が飛び込んできた。


「おい! おい! 聞いたか! この近くに猿面の予告でたって!」


 若い男の言葉に、顔見知りと思わしき何人かが反応した。


「マジかよ! 今年はもう出ねぇんじゃねぇかって話だったじゃん!」

「こっからでも見えんのかな」


 若者達がぎゃあぎゃあとわめきながら外に出て行く。ゲームにのめりこんでいた者達は彼らの背中をぎろりと睨み、軽く舌打ちした。

 元の騒々しさを取り戻したゲームセンター内で、一人の男が唇を歪める。


「なァんだそれェ……」


 男は吐き捨てるように言って、ピンボール台を離れた。

 小柄な男だった。黒いダウンのコートに身を包み、深々とフードを被っている。

 男は店の片隅に向かうと、そこに置かれていた電話を取った。

 手早くダイヤルを回し、男は相手が出るのを待つ。あいにく相手は不在だったようで、男の耳に留守番電話サービスの声が流れ出した。


「オレだ。どうせお前の事だ、用件はもう知ッてンだろ。明日の夜、そッちに行くから」


 早口にまくし立て、男は受話器を叩き付けるようにして電話を切る。

 そうして振り返りもせずゲームセンターを出た。

 怪盗騒ぎで沸き立つ街中を、男は大股で歩いて行く。どうやらちょうど男の進行方向とは逆の方に予告が出たようで、男は多くの野次馬とすれ違った。

 そして、男は一人の青年と肩がぶつかった。


「ッ……ゴホッ、すまない……」

「おう! 悪ィな兄ちゃん!」


 しきりに咳き込む青年に軽く手を挙げつつ、男は振り返らずに歩く。

 青年は――涅霖哉と呼ばれるその青年は訝しげに目を細め、去って行く男の背中を見送った。

 その事に気づかず、男は通りの角を曲がる。

 そこで男はフードを剥ぎ取った。髪を掻き上げ、冬の空気を胸いっぱいに吸い込む。


「――ッはァ、さァてどうしたモンかねェ」


 男は唇を吊り上げ、赤い月を見上げる。


 冷たい夜風に揺れるその髪は、まるで雪のように白かった。

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