その十九.語り合う

『ぐ、う……おのれ……』


 獣の口から人間の言葉が漏れた。

 大きく損傷を負い、興奮状態から醒めたようだ。

 しかし、その闘志はまだ冷めていない。林檎は唸り声を上げ、立ち上がろうと前足に力を込める。すぐに呻き声とともに地面に崩れる。


『いやよ、負けたくない……サチにはワタシが……ワタシだけがいればいいの……!』

「……でもワンコさんは、それを望まなかったでしょう」


 その瞬間、立ち上がろうともがいていた林檎の前足が止まる。

 林檎は金の瞳を見開いたまま静止していた。

 凍り付く林檎に対し、吹雪は淡々と言葉を続ける。


「ワンコさんは、貴女だけしかいない世界を望まなかった――貴女以外もいる世界を望んだ」

『うるさいッ!』


 林檎の叫び声に反応し、周囲の塵がわずかに巻き上がった。

 それに目を細めつつ、時久が口を開く。


「わがままな奴め……昔とは違う。犬槙を自分に縛り付けるのはもうやめにしたらどうだ」

『Non! ワタシはサチを縛ってなんかいない!』

「縛っているようなものだ。貴様は犬槙を独占しようとしている。誰にも見られず、誰にも触れられないようにな――犬槙を屋敷に軟禁した奴らと変わらん」

『アイツらと……』


 林檎の金の瞳が極限まで見開かれた。

 絶句する彼女のそばに立ち、吹雪はその瞳をじっと見下ろす。


「貴女は今までずっとワンコさんの守護者だった。――だけどワンコさんに執着するあまり、今の貴女はワンコさんを見失っている」

『そんなことは……ッ』

「よく考えてみてください。ワンコさんが何を望んでいるか……そのために、貴女がどうするべきなのか。ワンコさんと、これからどんな関係になるべきか」


 林檎は何も言わない。

 ただぴんと立ったその耳から力が抜け、前足はぐったりと地面に横たわった。

 その様子を見て、吹雪はふっとため息をつく。


「……一応、大人しくはなりましたね」

「あぁ。正直ここまで心身共にぶちのめすつもりはなかったが……とりあえず今は犬槙を――」


 吹雪の言葉に、時久が何かを言いかけた。

 しかしその言葉が終わるよりも早く、小さな呻き声が二人の耳に届く。


「う……どうなったの……?」


 噴水の影からサチがふらつきながら現れた。顔色が悪いが、傷ついた様子はない。

 時久がわずかに口元を緩める。


「犬槙……意識を取り戻したのか」

「ワンコさん! 大丈夫ですか!」


 吹雪は表情をほころばせ、サチに駆け寄ろうとする。

 視界の端で何かが蠢いた。

 吹雪と――そしてサチも動きを止めた。

 噴水の中から黒い小さな群れがぞろぞろと這い出てくる。それらは紅いビーズのような瞳を光らせつつ、一点に集まっていった。


「ッ、窮鼠……!」

「ちっ、生き残っていたのか……!」


 時久が舌打ちし、鬼鉄を構える。

 牛ほどもある鼠のような姿を形作った窮鼠の集合体が立ち上がった。それは絶えず蠢きながらゆらゆらと揺れ――間近にいたサチの方を見る。

 まだ状況を掴み切れていない様子で、サチはぼうっと窮鼠の集合体を見上げた。


「ワンコさんッ!」


 吹雪が叫ぶ。しかし吹雪が動くよりも早く、ぶつりと奇妙な音が響いた。

 吹雪の横を何かがすり抜け、窮鼠の集合体にぶつかる。


 それは林檎――の首だった。


 集合体の頭にあたる部分を噛みちぎり、さらに牙を突き立てた。


「犬神の特性か……!」


 首だけで窮鼠を食い潰す林檎を見、時久がニィッと笑う。

 司令塔であった頭部を喰われたことで力を失ったのか。窮鼠の集合体は林檎に食い尽くされるよりも早く、片端から灰と化していった。


「あ……」


 幾分かまなざしがはっきりしたサチが口元を覆う。

 同時に窮鼠の集合体が消え、ジェヴォーダンの獣の首はごろりと転がった。


「林檎! 林檎! 大丈夫!?」


 サチが悲鳴を上げ、林檎の首のそばに駆け寄る。

 吹雪達も周囲に警戒をしつつ、林檎の首を膝に抱き上げるサチのそばに近づいた。


『平気よ……』


 ため息とともに、林檎の口から言葉が零れる。

 ぐったりと目を閉じていた林檎がまぶたを開けた。その金の瞳は先ほどよりもいくらか静かな輝きを宿し、サチを映している。


『サチ。ねぇ、一つだけ聞かせて』

「え……?」

『貴女は今、幸せ……?』


 その問いかけに、サチは虚を突かれたように目を見開いた。

 しかしすぐに深くうなずく。


「うん。わたし、毎日楽しいよ。林檎もいて、みんなもいて……だからわたし、今が一番幸せ」


 必死で訴えかけようとするように、サチはぎこちなくも一生懸命に言葉を紡ぐ。

 林檎はその様子を力なく見上げ、ぐったりと目を伏せた。


『そう……ごめんなさい、サチ』

「林檎……?」


 戸惑ったようにサチは首をかしげた。


『白い娘の言うとおり……ワタシはアナタを守ろうとしたのに、アナタの意思を無視していた。アナタを酷い目に合わせていたのは、ワタシだった』

「林檎……そんな、わたしは」

『ワタシにはアナタしかいないから』


 かすれた声で、林檎はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


『アナタのために、必死だった……アナタのためだったはずなのにわがままになってた……寂しくて……アナタを、白い娘に取られるんだって思い込んで……ごめんなさい』

「……わたしも、ごめん」


 消え入りそうな声でサチが言った。

 その言葉に吹雪が一瞬口を開きかけたが、時久が手で制した。

 そっとしておけ。口にこそ出していないが、彼の瞳はありありとそう言っていた。

 吹雪は唇を噛み、黙ってうつむく。

 その耳に、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐサチの声が届いた。


「あなたをずっと閉じ込めてた……最近、ちゃんとお話もできてなくて。わたしばかり、満たされて……本当にごめん」

「サチ……」


 林檎が目を開ける。

 金の瞳を覗き込み、サチはそっと林檎の毛並みを撫でた。


「閉じ込められるのが嫌いなのは、わたしもあなたも同じなのにね」


 その言葉に、林檎は疲れたように目を閉じる。

 サチもまた目を閉じ、林檎の額にコツリと自分の額を当てた。

 どれくらいそうしていたのか。やがて林檎は目を開け、吐息混じりの声で言った。


『……許すわ、サチ』

「わたしも。大好きよ、林檎」

『うん』


 林檎はうなずく代わりに、耳をぱたりと動かした。

 その輪郭が揺らぎ、徐々に曖昧になっていく。

 最後に林檎の瞳が吹雪と時久を映した。


「アナタ、達も。……悪かった」


 ぎこちない謝罪の言葉に、吹雪と時久は黙ってうなずく。

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