その十七.豹変

 わずかに重心を動かすと、林檎がばっと身構えた。


「私はまだ何もしていませんが」

「……グ」

「私の力は通用しないと先ほど仰っていたではありませんか」

「ぐ、ウ、ゥ……!」


 獣じみた声で林檎が唸る。

 その様子を見て吹雪は確信した。

 恐らく、破魔の異能は完全に通用していないわけではない。


「死にはせんが、痛くないわけではない……大方そんなところだろう」


 時久の言葉に、吹雪はちらりと背後をうかがう。

 ちょうど最後の大神を倒したところだったようだ。喉を切り裂かれた獣は悔しげに呻き、ぐったりと時久の足下に倒れる。

 その消滅を見もせずに、鬼鉄を担いだ時久が吹雪の隣に立った。


「もうあまりでかい口を叩く事もできなさそうだな」

「……ちなみに御堂さん、怪我は」

「俺はそこまでやわではないわ」


 時久は鼻を鳴らし、じゃっと鬼鉄を軽く振るう。

 その動きにまた林檎が身を固くするのを見て、吹雪は口を開いた。


「何を怯えているのですか、林檎」

「怯え……ダト……」


 瞬間、林檎の瞳が極限まで見開かれる。

 空気が一気に重くなり、林檎の周囲の空間がにわかに暗くなっていった。


「ワタシが……怯エテイル……と……?」

「怯え以外のなんだというのですか。そんな風に身構えて」


 実際は吹雪林檎の変異に軽く怯えていた。

 こめかみに冷や汗が滲むのを感じつつ、しかし吹雪は微笑を崩さない。


「怯エ――Non!――そんなもの無――Peue――違う、そんなハッタリが――」


 林檎の言葉に奇妙な雑音が混ざりだした。いくつもの壊れたラジオが鳴り響いているかのように、その声に被さっていく。

 どこからともなく生ぬるい風が吹き、林檎の髪が波立った。

 影を増していく空間の中で、林檎の瞳だけが異様な光を放っている。


「貴女は死なないのでしょう? なら何をためらうことがあるのです?」


 こんな状態でも口からすらすらと挑発の言葉が出てくる。

 まるで兄が憑依したみたいだ。そう考えた瞬間怯えが消え、逆に嫌悪感が湧いてくる。

 しかし、吹雪は口を動かすことをやめない。


「さっきみたいに噛みついてくれば良いでしょう。狂った犬みたいに」

「Non――違う――よくもワタシを――Je ne vous permet pas!――オマエ――もういい――Je ne suis――もういい――pas prisonnier――もういい――ッ!」


 林檎の怒鳴り声は最後、禍々しい狼の咆哮に変異した。

 闇の向こうで金の瞳が激しく揺れた。

 直後その中から赤黒い毛並みに覆われた化物が現れる。


「これがジェヴォーダンの獣……」


 吹雪は強ばった表情で呟いた。

 異様な獣だった。筋肉質かつ大柄で、狼と言うよりも熊を連想させる堂々とした体格。背中には、一筋の黒い縞模様が刻まれている。

 苛立ったように揺れる尾は長く、ライオンのそれのように先端に房がついていた。

 そしてその獣の頭部は、狼に似ている。

 口内に納まりきらない長い牙を光らせ、林檎は――ジェヴォーダンの獣の末裔は吼えた。

 いくつもの獣の声が重なり合ったようなその声に、時久はニィッと笑う。


「カタストロフ……やっと本性を見せたな!」


 単純に『豹変』とも呼ばれるその現象は、高度な知性と能力を持った化物があらゆる力の制限を解き、本来の姿を見せることを指す。

 それは化物としての本能が剥き出しになった真の姿であり、その破壊力は激烈。

 だが同時にこれは、弱点をさらけ出した隙の多い形態でもある。

 林檎の体がわずかに沈み込んだ。


「っ――!」


 嫌な予感がした。

 吹雪がとっさに横に飛んだ直後、赤黒い影がその場を過ぎ去る。

 そして、吹雪の背後の壁が砕け散った。

 吹雪は後ろを振り返る。林檎の前足が、深々と地下街の壁面を抉っている。


「……壊してますが、大丈夫でしょうか」

「問題ない。どうせ近日改修予定だ」


 時久が素っ気なく答え、鬼鉄を構える。

 そのまなざしは鋭く林檎を捉えているが、口元はまるで戦いを楽しむかのように緩んでいた。


「それにできるなら派手に壊せとのお達しだ」

「保険金狙いでしょうか――では遠慮なく」


 吹雪は絶句兼若の柄に手をかけ、時久に続いて地を蹴った。

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