その十六.涅槃寂静

『林檎を怒らせろ』


 夕子達が大神の様子をうかがっているとき、時久は吹雪に向かってそう言った。


『激怒させて冷静さを損なわせろと言うことでしょうか』


 吹雪が聞き返すと、時久はうなずいた。


『それもある。だが林檎は最近ずっと犬槙の中で燻っていたからな。今回のような行動に出たのはその鬱憤が爆発した事もあると思う』

『なるほど……狙いはそのストレスの発散ですか。しかし、そんなに簡単に怒ってくれるでしょうか』


 難しい顔で吹雪は顎に手を当てる。

 そんな吹雪に対し、時久はフンと小さく鼻を鳴らした。


『そこはお前に任せた。ともかく暴れさせるのだ。奴が冷静さをかなぐり捨て、本性をさらけ出した時こそが狙い目よ』


                   * * *


「――無茶を言ってくれる」


 吹雪は顔をしかめつつ、足下を狙ってきた林檎の鉤爪をかわす。

 先ほどの挑発で軽く揺らいだとはいえ、林檎は徐々に落ち着きを取り戻しつつある。状況がまだ自分に優位だと考えているのだろう。

 そしてもう一つ厄介な事は――。


「ッ――!」

「させない」


 まさに一歩踏み出そうとした吹雪めがけ、林檎が突進してくる。

 吹雪はその爪を弾き、後退した。


「オマエの加速には、呼吸が関わっているのでしょう?」

「……ああ、やはり気づいていましたか」

「何度か聞いていてわかったわ。加速だけじゃない、何か大がかりな技を仕掛ける瞬間におかしな呼吸をする。それが手品のタネね」


 どこか勝ち誇ったような林檎の言葉に、吹雪は小さく嘆息した。

 元が狼の化物なだけあって、五感が鋭い。先ほどから無間による加速を試みていたものの、加速の寸前に邪魔が入るためもしやとは思っていた。


「ブチのめすとはよく言ったものね。実際はあのおかしな技がなければワタシに追いつくのもやっとなくせに」


 吹雪は答えず、ざっと絶句兼若を振るった。

 ちらと後ろを見ると、時久がちょうど一頭の大神の首を薙ぎ払ったところだった。

 残り三匹。そろそろけりがつく。

 吹雪は箱乱れの刃を寝かせ、地面と水平――平正眼に構える。まっすぐに太刀を向けてくる吹雪に対し、林檎は嘲るように顎を上向けた。


「今度はどんな悪あがきを……ん?」

「――涅槃寂静」


 林檎が首をかしげた瞬間――吹雪は青い瞳を見開いた。

 瞬間、時が凍り付いた。

 音が一気に遠のき、世界から色が消えていく。

 白黒の景色の中、吹雪は地を蹴った。足下で地面が砕け散り、その体が一気に加速する。

 狙うのは、目の前で彫像の如く静止する林檎のみ。

 最初に思い出すのは、初めて絶句兼若を発動したときのこと。

 次に脳裏をよぎるのは、工場で双頭犬めがけて繰り出した【雨垂れ】。

 そして最後に――林檎の胸を貫いた時の感触。


 今ならできる。

 今なら、あの閃きを形にすることができる。


 犬の胴を貫いた時の感覚を反復し、吹雪は絶句兼若の切っ先に意識を集中する。

 絶句兼若の刀身が冷ややかな霊気を纏った。

 吹雪はまっすぐ林檎を睨んだまま、ほの白く輝くその刀身を引き寄せた。その構えは一瞬で二撃を叩き込む【雨垂れ】そのもの。

 吹雪はスッと短く息を吸う。

 世界に再び色と音が戻った。時が元の速度を取り戻す。


「――あ、」


 林檎の金の瞳が吹雪の姿を捉えた。

 直後、吹雪は撃った。


「――【雨垂れ・改】」


 それは、ほとんど爆発だった。

 林檎の胸が爆ぜ、その背中をわずかな血飛沫とともに赤い氷柱が突き破る。


「ア、あぁあ――!」


 体を貫く衝撃に耐えきれず、林檎の体が吹き飛んだ。

 ほとんど凍り付いた血液が煌めき、赤いみぞれの如く辺りに降り注ぐ。

 吹雪は肩で大きく息をしながら、太刀を引き寄せた。


「はぁっ、はっ……さすがに涅槃寂静と同時は辛いですね」

「く……! なんだ、なにを――!」

「絶句兼若の機能を活かせる形に、雨垂れを改良しました。刺突と同時に相手の体内に冷気を流し込み、より確実に化物の体内構造を破壊できるように」


 吹雪はまだ絶句兼若の機能を完全に生かし切れていない。日頃の戦いの中で、どう使えば有効的なのか常に研究している。

 そしてこの技は、その一つの到達点。

 こめかみを伝う汗を拭いつつ、吹雪は肩をすくめた。


「とはいえこの技はあまりにも物騒すぎますね……化物以外には使わないようにしましょう」

「ちがう……」


 林檎が地面に膝を突きながら、呻くように言う。

 すでに胸の傷口は赤い輝きを放ち、徐々に再生を始めている。

 だが、明らかにその回復は遅い。体内構造を破壊するだけでなく、冷気によって回復をある程度阻害されているようだ。


「あれは、何……? オマエの呼吸が止まって、それで、気づいたら目の前に……」

「あぁ、あれですか。あれは『涅槃寂静』といいます」

「ネハン、ジャクジョウ……?」

「具体的に言えば精神を研ぎ澄ませ、身体能力を大きく向上させる――火事場の馬鹿力というものがあるでしょう? あれを意図的に使う技、といえばよろしいでしょうか」


 人間は通常、無意識下で様々な制限を掛けている。

 涅槃寂静とは、その制限を一部外す奥義。部分的にしか活用されていない脳をさらに大きく活用し、肉体の強度を度外視した怪力を発揮する。


『人間の域を、一歩だけ踏み出す技だと思えば良い』


 ある雪の日、奥義を伝授した父はそう語った。


『我々にしか使えない――まさしく化生の剣よ』


 涅槃寂静は、人間のくびきを外れる剣。それは人外の始祖の血と、天外化生流という異形の剣を受け継いだ遠峰の家の者にしか使えないものだという。


「その技……無駄撃ちできないんでしょう?」


 顔を歪めつつ林檎が立ち上がる。

 そして血に濡れた指先を吹雪に向けた。


「自由自在に使えるなら……最初から使っているはずよ」

「さて……どうでしょうね」


 林檎の言うとおり、無駄撃ちはできない。まだこの奥義を伝授されて間もない吹雪は、この奥義の負荷に体が順応しきっていない。

 ましてや吹雪が涅槃寂静の状態を保てるのは、呼吸を止めている間だけ。


 せいぜいあと一回が限界か。

 この制限に気づかれてはならない。


 背筋に冷や汗をにじませつつ、吹雪は仮面のような笑みを顔に貼り付ける。

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