その十三.時久、忠告する

「……この広場に、さっきはいたんだよね?」

「えぇ……」


 綾廣の問いにうなずきつつ、吹雪は辺りを見回した。

 そこは確かに吹雪がサチと一緒に入り、林檎に遭遇した広場だった。しかし今はしんと静まりかえり、人どころか獣の気配もない。

 地面に落ちていた窮鼠封じの札を拾い上げ、時久が眉を寄せる。


「場所を移したか……?」

「あるいは罠、とか」


 綾廣の言葉ににわかに緊張が走った。

 吹雪は絶句兼若の柄を指先で確認しつつ、押し殺した声でたずねる。


「……大神は残り何匹でしょう」

「林檎を除けばあと十匹のはず。あいつらは一度倒すとサチの体内に戻って眠るらしいから、さっきアタシらが退治した奴らは出てこない」

「十匹か……それでも小さな群れくらいはあるな」


 夕子の答えに、時久は眉を寄せた。

 四人は軽く広場を歩き回り、辺りの様子を探った。しかし辺りには大神の姿さえもなく、静寂の中に蛍光灯のブーンという駆動音だけが微かに響いている。

 吹雪はふと広場の奥を見た。向こう側にも通路が延びているようだが、ここからではその先がどうなっているかはわからない。


「あの通路の先は……?」

「途中で左右に分岐しているよ。左右それぞれに、ここよりもう少し大きな広場がある」


 綾廣がすらすらと答えた。

 どうやら、地下街の構図を完全に頭に入れているようだ。

 吹雪はそのよどみない返答に驚きつつも、もう一つ綾廣にたずねる。


「身を隠せそうなところは?」

「いくつか飲食店とかがあるけど今は全部閉じてる。地上に続く階段が四つほどあるけど、オレ達が入る直前に全て封鎖した」

「林檎がいるのは向こう側だろうな……左右どちらか」


 時久が顔をしかめ、まるで見えない通路の様子を探るように首を左右に動かす。

 そんな彼の様子を夕子がちらりとうかがう。


「どうする? 二手に分かれるかい?」

「そうしよう。俺と小娘、一色と夕子で分かれるぞ」

「大丈夫かな? 相手よりオレ達の方が数少ないのに分散しちゃって」


 綾廣が困ったように首をかしげ、こめかみをぽりぽりと掻いた。

 時久がニィッと笑う。


「なんだ怯えてるのか、坊ちゃん」

「い、いやビビッてないから! いいぜ上等だ! 姐さんの分までオレがやってやろーじゃんか! オレの活躍に腰抜かしても知らないからな!」

「こらこら、落ち着け。意気は認めるけど――分かれて大丈夫かね?」


 いきり立つ綾廣をおさえつつ、夕子が時久にたずねる。

 すると時久は顎に手を当て、全員の顔を見回した。夕子、綾廣――そして最後に吹雪の顔を見た後で、深くうなずく。


「この面子なら大丈夫だろう」


 その言葉に、何故だかざわりと胸の内が騒いだ。

 吹雪は静かに聞き返す。


「……問題ない、と?」

「うむ。全員玄人だ。頭数は少ないが質はある」

「……そうですか」


 時久の答えを聞き、吹雪は何度か小さくうなずいた。

 玄人――その言葉は恐らく夕子や綾廣、そして時久自身のことを言ったのだと思う。

 それでもほんの少しだけ、認められたような気がした。

 うっすらと興奮を感じつつも、吹雪は軽く咳き込む振りをして表情を隠す。

 一方綾廣ははっきりとその興奮を示した。


「オーケー、オーケー。そこまで評価してくれてるんだったらオレも本気出すぜ。オレの活躍に刮目するがいいさ!」

「最初から出しとけ」

「エネルギーが切れちゃうだろ! オレはお前と違って文化系なの!」


 淡々とした時久の文句に言い返しつつ、綾廣はぐりぐりと腕まくりをする。

 その様子にため息をつきつつ、夕子は右側を示した。


「それじゃアタシ達は右に行くよ。――右側の広場はさ、例の窮鼠が湧いたゴミ処理場に近いんだよ。ついでに窮鼠も処理してくる」

「よろしい。では俺と小娘は左に行く」

「あいよ。林檎がいなかったら、またこっちに戻るよ。――ブキちゃん、気をつけてね」

「はい、夕子さんも」


 吹雪は姿勢を正す。

 夕子はそんな彼女をじっと見つめ、わずかに頭を下げた。


「もしワンコと林檎がいたら、頼んだよ」

「……お任せを」


 吹雪は胸に手を当て、しっかりとうなずいた。

 夕子はふっと微笑むと、きびきびとした足取りで右の通路に向かう。

 綾廣も二本の指で軽く敬礼し、夕子の後に続いた。

 二人の後ろ姿を黙って見送り、時久は吹雪に視線を向けた。左側の通路を顎でしゃくる。


「……行くぞ」

「参りましょう」


 吹雪は硬い表情で答え、時久に続いて歩き出した。

 電灯が一部壊れているのか、辺りは暗い。非常灯の赤い明かりだけチカチカとまたたきながらついている。

 吹雪と時久はそれぞれ式器に手を掛けつつ、静かに歩みを進めた。

 いくらか歩いた時、どこからか獣の唸り声が響いた。


「ッ――!」


 吹雪は反射的に絶句兼若を引き抜きかけ、時久は吹雪を庇うように片手を広げる。

 静寂が辺りを包み込んだ。

 自分の心臓の音を耳元に聞きつつ、吹雪は押し殺した声でたずねる。


「……来ませんね」

「ああ……ただの脅かしだ。進むぞ」

「えぇ」


 二人は再びゆっくりと進み出した。

 辺りは相変わらず静まりかえり、二人の足音だけが響いている。左右の店舗はシャッターで閉じられ、物陰には獣の姿はない。

 しかし吹雪は静寂の中に嫌な気配を感じていた。


「小娘、少し落ち着け」

「御堂さん……」


 見上げると、時久は前を見据えたまま唇をわずかに吊り上げた。


「呼吸が速いぞ。貴様の流派は呼吸を重視していたものではなかったのか」

「わ、わかってます……!」


 吹雪はカッと顔を紅潮させると、呼吸を落ち着けようとした。

 そんな吹雪を、時久がちらりと見る。


「貴様、化物を仕留め損なったのはこれが初めてか?」

「……いえ、初めてではないです。ただ、慣れてはいませんね」

「だろうな。大方、今まではほとんど一撃で終わらせていたのだろう」

「何故、そう思ったのですか?」

「殺傷力の高い突き技を得意にしている時点でなんとなく予想していた。それに貴様の物騒な異能を持ってすれば、たいていの化物は始末できる」


 事も無げに時久は言う。


「貴様は失敗に慣れていない……そしてもう一つ。貴様は人を護りながらの戦いは不得手だ」

「……確かに」


 吹雪は一瞬だけ苦笑し、目を伏せた。

 父は吹雪などより遥かに強く、兄は吹雪の手を借りることを嫌った。時久の言うとおり、たしかに吹雪は誰かに注意しながら戦う事に慣れていない。

 だから――。


「林檎に剣が通じず、そして犬槙を救えなかった……その事に動揺しているだろう」


 吹雪は何も言えなかった。

 林檎に拘束されたサチの姿と大神の影が脳裏に焼き付いて離れない。そしてそれを思い出すたび、吹雪の胸の内がひどくざわつく。

 沈黙する吹雪を、時久はまたちらと一瞥した。


「一つ言っておくがな、小娘」

「……なんでしょう」

「まだ誰も死んでいないし、何も壊れていない……つまりまだ何も失われてはいないのだ。犬槙のことは少し貴様の力が足りず、遠ざかっただけだと考えろ」

「遠ざかっただけ……」


 確かに、サチは死んでいない。今は林檎の手中にあるだけで、その林檎もサチに対して危害を加えることはない。

 ぼうっと繰り返す吹雪に対し、時久は深くうなずいた。


「まだ貴様が必死で足掻けば取り戻せる。世の中には、これよりも遥かにどうしようもない物事が存在する。――どれだけの力を持っていても、どうしようもないことがな」

「御堂さん……?」


 吹雪は思わず時久を見上げる。傷痕が刻まれたその顔はいつも通り険しく、そこに特別な感情を見出すことができない。

 しかしその最後の言葉には、隠しきれない深い憂いが滲み出ていた。

 どれだけの力を持ってもどうしようもないこと――彼は、それを知っているのだろうか。

 しかしそれについて吹雪が言及するよりも早く、時久が辺りを見回す。


「……まるで何もいないようだ。何の音もせん」


 その言葉に吹雪は口を噤んだ。

 今はまだ、時久の過去について触れるべき時ではない。


「結界を破り、地上に逃げ出した……ということはないのですか?」

「それはないだろう。結界に異常があれば夕子がなにかしら知らせをよこすはずだ」

「ではこの先の広場で待ち伏せているのでしょうか」

「恐らく」


 時久の短い言葉に、吹雪は表情を引き締める。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る