その九.サチと林檎
地下街の一角に埋もれるようにしてその古本屋は存在していた。
迷いなくガラス戸を叩き割り、吹雪を担いだ時久が店内に侵入する。床に散らばった硝子片を無造作に払いのけ、彼は吹雪をそこに横たえた。
「……不法侵入ですよ」
「緊急事態だ。それに多少荒っぽくなることは依頼人も承知している」
「まったく」
陳列台にもたれかかり、吹雪は深々と呼吸する。
時久は割れたガラス戸に何枚かの札を貼り付けた後、吹雪の方に近づいた。腰のポーチから鉄製のボトルを取り出し、蓋をこじ開ける。
「飲め。少し楽になる」
無造作に突き出されたボトルを吹雪は震える手で受け取った。
口を付けると、甘い蜜の味とともに爽やかな香草の風味が口の中に広がった。
「……これは?」
「薬草の蜜漬けを水で割ったものだ。飲めば
「なるほど」
吹雪は小さくうなずき、少しずつ薬湯を飲む。その効果は抜群で、徐々にめまいは落ち着き、頭痛は溶けるように消えていった。
吹雪が薬湯を飲んでいる間中、時久は黙ってその様子を見守っていた。
「……皆さん、今回のことを最初から予測していたのですね」
「ああ」
「わかっていて私を?」
「殴りたいなら殴っても構わんぞ」
時久がじっと見つめてくる。威嚇するようなまなざしではなかった。その瞳は黙って、吹雪の反応をうかがっているようだった。
ふっと息を吐き、吹雪はボトルを時久に返す。
「……いいです。何か理由があるのでしょう?」
「ああ。――傷を見る。上着を少し裂くぞ、良いか?」
「構いません」
頭痛は落ち着いたが、まだ重い疲労感は抜けない。手足を動かすのも一苦労だった。
時久は吹雪の制服に手を掛ける。
「あらかじめ言っておくが俺は貴様の貧相な裸などには興味がない」
「前言撤回です。殴らせて下さい」
「時効だ。見るぞ」
布が破かれ、白い肌が外気にさらされた。傷口に痛みが走り、吹雪はわずかに眉を寄せる。
時久は表情も変えず、傷の具合を確認する。
「やはり傷自体は浅い。大神や犬神どもの傷は肉体に痛みを与えるものでなく、霊力を削り取るものだからな……腕に痺れなどはないか」
「特には。薬湯のおかげか、少し楽になってきました」
「そうか。とりあえず消毒と血止めをしておく」
「っつ……!」
時久は容赦なく消毒液を吹雪の傷口にぶっかけた。
びりびりとした痛みに吹雪は顔をしかめる。
「くっ……あれは、一体なんなのですか。犬神とは違うものなのですか?」
「似て非なるものだ」
吹雪の肩に包帯を巻きつつ、時久は答えた。
「犬槙は強力な犬神筋の家に生まれた。しかし、あいつは本来犬神使いが持つはずの素養を一切持たずに生まれた落ちこぼれだ」
「素養……犬神を宿し、操るための異能ですか」
「そうだ。あいつにはもっとややこしいモノが生まれつき憑いていたからな」
「それが大神ですか……何故あんなものが」
一瞬、時久の手が止まった。
地下街の入り口で別れた時のように不自然な沈黙が訪れる。しかし先ほどとは異なり、それは長続きしなかった。
「……犬槙の母親は妾でな。経歴ははっきりしていないが、どうやらフランスのロゼール県とかいう場所の出身らしい」
「ワンコさん、ハーフなんですね……でもそれとこの話になんの関係が?」
重々しく語る時久の言葉に、吹雪は片眉をあげた。
「ロゼール県……かつての名はジェヴォーダン地方。十八世紀、この場所に狼に似た怪物が出現し、多くの死者を出した」
「狼に似た怪物……?」
狼の影にも似た大神達――そして、林檎の肩口から伸びた獣の前足を思い出す。
顔色を変える吹雪に対し、時久はつたなく言葉を続けた。
「その正体はわからん……だが、『人狼だったのではないか』という説もあるらしい」
「……まさか、ワンコさんのお母様が人狼の末裔だったと?」
「恐らくは。この三百年の間にすっかり血は薄れていて変身能力は失っていただろうがな。しかし、異能は血によって大きく左右されるものだ」
「――つまりワンコちゃんは、犬神使いと人狼のハイブリッド」
軽い声とともに店の奥の扉が開いた。
思わず身構える吹雪を時久が手で制す。二つの影が店の奥から現れ、蛍光灯の明かりの範囲にまで近づいてきた。
高く結い上げた赤い髪の女性。そして白い歯が眩しい美男子。
吹雪は目を見開く。
「夕子さん! それに綾廣さんも!」
「やぁブキちゃん。無事で何よりだ」
綾廣が軽く手を挙げてみせる。
一方の夕子はポケットを探りつつ、どこか物憂げな様子で時久にたずねた。
「林檎、やっぱり出てきちゃったのかい?」
「この状態を見ればわかるだろう――おい夕子。こんなところで煙草を吸うな」
「ただの煙草じゃないよ。『かがりび』っていってね、魔避け煙草だ」
煙草を咥え、夕子はライターで火を点けた。
煙の香りもほとんど煙草と変わりない。ただその煙が広がった瞬間、わずかにその場の空気が軽くなったように吹雪は感じた。
夕子はその煙草をくゆらせながら、時久がガラス戸に貼り付けた呪符を確認した。
「煙に瘴気を少し緩和する効果があってね、化物が嫌がって近づかなくなる――まぁ、こんなもんだね。これで十分くらいは、この場は安全なはずだ」
「ちなみにその煙草――『かがりび』だっけ? 味はどうよ?」
「クソまずい。たいてい魔除け煙草ってまずいんだよ」
綾廣の問いかけに夕子は渋い表情で答え、ガラス戸を背にして立った。
時久が低い声でたずねる。
「それより支度は済んだのか」
「勿論。地上へと続く全ての出入り口を呪符で封じた。これで奴らはこの地下街から出られないよ――ブキちゃん、今回の件はほんとごめんね」
突然夕子が深々と頭を下げ、吹雪は慌てて首を振った。
「そんな、頭を下げないで下さい……!」
「いやほとんど騙したようなものだ……ほんと、申し訳ない」
「だがこうしなければ、林檎に感づかれただろう」
時久が重々しい口調で言った。
その言葉を肯定するように、綾廣が真剣な表情でうなずく。
「林檎は大神達の長だ。本来は肉体を持たない存在でね、普通は他の大神と同じようにワンコちゃんの霊力を借りることで実体化するんだよ」
「ですがさっきは、あきらかにワンコさんの意思とは無関係に実体化を」
「条件があるのさ」
綾廣は参ったと言わんばかりに頭をかき、肩をすくめた。
「どうやらワンコちゃんの血液を口にすれば、その霊力を借りずとも完全な実体化ができるらしい。それに今宵は満月……あいつらの力が一番強くなる日だ」
「林檎は貴様に強い殺意を抱いているようだったからな」
苦々しげな言葉に吹雪は時久へと視線を向ける。
時久は左目の傷痕を歪め、深々とため息をついた。
「林檎は犬槙を大事にしているようだが……化物としての
「そのせいで、ワンコは長い間閉じ込められて育ってね……」
夕子は煙草をくゆらせつつ、哀しげに薄紅色の瞳を伏せる。
一瞬、脳裏にサチの笑顔がよぎった。そしてとりつく島もない林檎に対し必死で訴えかけようとする彼女の姿も。
吹雪は知らず知らずのうちに、硬く拳を握りしめていた。
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