その八.鬼切り、離脱する

「っく……」

「そう。なら、ワタシがオマエに狼の恐怖を教えてあげる――来い、同胞はらからども」

「ッ――!」


 背後に獣の呼気を感じた。

 吹雪は反射的に身をひるがえし、背後から飛びかかってきた大神をかわす。同時に悪あがきとばかりに、返す刀で林檎の首を狙った。


「ぇえいッ!」


 斬撃はわずかにそれた。

 林檎の右頬から耳までが切り裂かれ、その肌がぱっくりと割れる。

 まるでにんまりと笑ったかのように白い牙が覗いた。


「……諦めが悪い」


 いびつな笑みを浮かべ、林檎は目を細めた。


「ぐっ……!」


 肩口に一気に二頭の大神が食らいついてくる。

 吹雪は痛みに顔を歪めつつ、その鼻面を思い切り太刀の柄頭で叩いた。犬に似た悲鳴とともに、獣達の牙が離れる。

 直後、急激に体が重くなった。


「う、あ……?」


 視界がぐらりと揺れ、一瞬吐き気がこみ上げてくる。

 混乱しつつも吹雪は止まらない。崩れ落ちるように地面に膝をつきつつ、床に横たえた絶句兼若の刀身に片手を当てた。


「立ち上がれ――!」


 二重の氷壁が吹雪を囲うように立ち上がり、二、三匹の大神を吹き飛ばす。

 同じ手は二度も通用しないようだ。大多数の大神は後ろに大きく跳躍することで氷壁の出現をかわし、今はその切れ目を探っている。

 このままでは壁の脆い点を見つけだされてしまう。吹雪は立ち上がろうとした。

 途端、こめかみに鋭い痛みが走った。


「う、ぐ、ぅう――!」


 地面に置いた絶句兼若から青白い光が消える。

 獣の声が頭蓋骨にこだまするように感じられ、吹雪は頭を押える。

 がりがりと氷の壁を削る音が聞こえた。同時に、重いものがぶつかる鈍い音も。


「……このまま、じゃ」


 もう一つ氷壁を作れば、少し時間を持たせることができるはず。吹雪はなんとか絶句兼若を持ち上げ、氷の壁を作ろうとした。


「ぁああああ!」


 脳に焼けた火箸を叩きこまれたような痛みが走り、吹雪はうずくまった。

 興奮した大神の声が響いた。

 氷壁の一点に小さな穴が穿たれ、獣の鼻面がのぞく。


「だめ……」


 破られる。

 血の味が滲むほどに吹雪が唇を噛みしめた。


「――ぉおおおおおお!」


 獣の咆哮よりもなお大きく、力強い怒号。

 それが空気を震わせた直後、氷壁の向こう側で無数の影が吹き飛んだのが見えた。

 大神の悲鳴が無数に重なり合う。


「え……」

「えぇい! この!」


 大きな男の手が目の前の氷壁をたやすく壊した。

 薄暗く冷えた空間が崩れ、明かりとともに外の空気が差し込んでくる。

 そして――左目に傷のある男が、吹雪の前に立っていた。


「立てるか、小娘」

「御堂……さん」


 吹雪は差し出された手を呆然と見つめる。

 先ほど別れたときと同じように、時久は素っ気ない顔で言った。


「おい。聞こえているのか」

「何故、ここに……」

「追々話す。――それより、立てるのか」


 吹雪は時久の手を借り、なんとか立ち上がった。

 林檎の冷ややかな声が耳朶を打つ。


「……まさかアナタがここに現れるとは。童子ドウジ

「久々だな、人狼」


 不敵に唇を吊り上げ、時久が林檎を見る。

 林檎は腕を組み、吹雪とそれを支える時久とを見る。


「鬼と鬼切りが馴れ合うなんて変な風景ね。……それより、アナタは今日ここにいないはず。鬼は嘘を嫌うものだと思っていたけれど」

「別に嘘はついていない。黙っていただけだ」

「……そう。ワタシを炙り出すために」

「その通りだ。最近貴様は小娘の首を狙っているようだったからな。それを諦めてもらおうと思った次第だ」


 時久は飄々と肩をすくめた。

 林檎は口元をするりと撫でる。先ほど吹雪によって付けられた傷が溶けるように消え去った。


「ワタシがあっさり引くと思う?」

「まさか」

「わかっているじゃない。今宵は満月、我が同胞の気力も十分」


 林檎がゆるりと手を挙げた。

 それを合図に、唸り声をあげる大神達が時久と吹雪の周囲を囲う。


「どうする、童子。ここでそいつを置いていくのなら、アナタは見逃してあげても――」

「断る」

「そう。――ならばここが大江山。鬼も鬼切りも仲良く地獄に送ってあげる」


 林檎がくるりと掌を返す。それを合図に大神達が動き出した。

 時久は片手で鬼鉄を振りまわす。唸りを上げる野太刀を前に獣達は近づくこともできず、苛立った様子で時久と吹雪の周囲を徘徊した。


「……いったん引くぞ。動けるか、小娘」

「はい……くっ――」


 時久が動く。吹雪も一歩踏み出そうとした。

 瞬間、再びぐらりと視界が揺れた。平衡感覚が狂い、吹雪は再び倒れそうになる。

 崩れ落ちかけたその体が強い力で引き寄せられた。

 時久は右手で無造作に吹雪を担ぎ上げた。

 左手が鬼鉄を一瞬で鞘に納め、腰のポーチへと伸びる。


「ッ――! 左手を狙いなさい!」


 林檎が鋭く命じた。

 その命令に瞬時に従った三頭の大神が時久の左手に食らいついた。しかし直後骨の砕けるような嫌な音が響き、獣達は悲鳴とともに引き下がった。


「なんだこの程度で顎が砕けたのか! 甘いぞ犬ども!」


 哄笑とともに、時久は足下になにかを叩き付ける。

 それは紙の札だった。赤と青の幾何学的な模様とともに描かれた言葉は『閃』。

 時久が札を踏みつけた瞬間、あたりを強烈な光が包み込む。


「一時さらば!」

「くっ――!」


 林檎が顔を歪め、閃光から目を庇う。

 光はゆっくりと消えた。再び薄暗くなった広場には、吹雪達の姿はなかった。

 林檎は辺りを見回し、すんっと小さく鼻を鳴らす。


「隠形(おんぎょう)ね……まだ遠くまで行っていないはず。効力には時間制限があるはずよ」


 淡々とした声で林檎は呟く。

 そして、申し訳なさそうに鼻を鳴らす大神達に向かって手を払った。


「散開。しらみつぶしに徘徊し、隠れた鼠を脅かせ」


 縮こまっていた大神達が立ち上がった。

 高い咆哮が地下街に響き渡り、無数の獣の影が駆けていく。

 大神達がいなくなった後、林檎は足下にぐったりと横たわるサチを見下ろした。

 その側に膝をつき、林檎はそっとサチの額に触れる。


「アナタにはいろんな物がある――でもワタシにはアナタしかいない」

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