その七.ジェヴォーダンの末裔

 それからは特に襲撃もなく、吹雪達はあっさりと広場にたどり着いた。窮鼠達は獣の存在に怯えているのか、影も形もない。


「……この辺りでよろしいでしょうか」

「うん。そうだね。じゃ、窮鼠封じ使っちゃおう」


 サチがうなずき、肩に掛けた鞄から分厚い封筒を取り出した。

 封筒の中から出てきたのは白い札だった。赤や黒の墨で複雑な模様が描かれ、太い文字で『窮鼠修祓』というそのままな文言が記されている。


「あ……窮鼠封じってお札なんですね」

「そうだよー。これを――【発】」


 揃えた指先を唇に当て、サチが短く呟く。

 その瞬間、ゴッと音を立てて窮鼠封じの端に青白い火が点った。サチが手を離しても札は中に漂い、じりじりと燃えていく。

 同時にそこからもうもうとした白い煙が漂いだした。


「……煙たくなってきましたね」


 周囲に広がる煙に、吹雪はそっと口と鼻を手で覆う。


「この煙が窮鼠を殺すんだよ。あともう三枚くらい使って一時間待てば、この辺り一帯の窮鼠は多分いなくなるはずだよ」

「なんだか害虫駆除の道具を思い出しますね――ところでこれ、人体に影響などは」

「大丈夫! 人体にも環境にも優しいよ!」

「あ、そうなんですか……」

「とりあえずもう大丈夫そうね。――貴方達、戻って良いよ」


 サチが呼ぶと、座っていた四頭の獣達はそれぞれ一声吼えた。そして腰を上げ、サチのほうにむかって駆けていく。

 盛んに鳴き交わしつつ、最初の一頭がサチの背後に飛び込んだ。

 他の三頭もそれに続き――そして最後の一頭。


「つっ――!」


 最後の獣の跳躍がわずかにぶれ、前足の爪がサチの頬を掠めた。

 サチは顔をしかめ、頬の切り傷を押さえる。


「もぉ、柘榴ったら。……あう、少しざっくりいっちゃった」

「大丈夫ですか?」

「平気だよ。多分跡にはならないは……ず……」


 サチの言葉が途中で消える。サチは目を見開き、ゆっくりと頬から手を離した。

 血に濡れた掌を見つめる顔から、徐々に血の気が引いていく。


「ワンコさん、どうしました?」

「……妙に、大人しいとは思ってた」

「ワンコさん……?」


 ただならぬサチの様子に、吹雪は慎重に声を掛ける。

 サチはすぐには答えなかった。まるで怯えた子供のように背後を見て、薄く煙に包まれた広場を見回し――最後に、吹雪を見る。

 両手できつく首元を押さえ、サチはなんとか言葉をひねり出す。


「……て」

「え――?」


 青ざめた顔で、言葉を紡ごうとサチは唇をわななかせた。白い手がゆるりと動き、彼女の顎を――そして赤い血の滴る頬を撫でる。

 その場違いなほど艶めかしい手つきに吹雪は一瞬面食らった。

 直後、吹雪は反射的に絶句兼若の柄に手を掛けた。


「……ワンコさん」


 サチは両手で首を押さえたまま、必死で吹雪に何かを訴えようとしている。

 ならあの白い手はなんだ?


「後ろに――誰かいますね?」


 うっすら透き通った見えるその手は、サチの背後から伸びていた。

 よくみればもう一本の腕がサチの腰にまわされている。それは形こそ抱擁ではあったが、むしろ【呪縛】という言葉を連想させた。

 サチの背後にいる何者かがゆらりと動いた。

 赤みを帯びた黒髪がサチの肩に掛かる。


「……こんばんは。良い夜ね」


 澄んだ声が淡々と言った。

 薄く透き通った手がサチの顎を掴んだ。黒髪に半ばほど隠れた何者かの顔がサチの顔に近づき、赤い舌がサチの血を舐め取る。


「っ――!」


 その瞬間、吹雪は覚えのある気配を感じた。

 様々な場所で感じた烈しく燃え上がるような悪意。それが今、いっそう明確な形を持って吹雪に向けられている。


「……何者です?」


 背中に滲む冷や汗を感じつつ、低い声で吹雪はたずねた

 その問いかけに何者かはおもむろに顔を上げ、吹雪を見る。

 サチよりもやや背が高い。

 スレンダーな体を黒い上衣とショートパンツに包んでいる。

 腰まで届く黒髪に冷ややかな金の瞳。肌は息を呑むほど白く、作り物めいてさえ見えるほど整った顔には能面のように表情がない。


「ワタシは林檎。ジェヴォーダンの末裔」

「林檎……?」


 その名に覚えはあった。

 たしか時久がサチの前で口にし、サチの表情を曇らせた名前。

 そのサチは今、どうにか林檎に抗おうとしていた。


「なんの……っ、つもり……!」

「騙し討ちのような形になってしまってごめんなさい、サチ。でもアナタが悪いのよ」

「何を……!」

「アナタがワタシ達の言うことを聞かなかったから」


 林檎は申し訳なさそうに目を伏せた後、吹雪を見る。

 そのまなざしは無機質なものだったが、隠しきれない憎悪がにじみ出ていた。


「あの女と仲良くして……ワタシを閉じ込めたから」

「なっ――!」


 虚を突かれたようにサチが目を見開く。

 吹雪は絶句兼若の柄に手を掛けたまま、サチと林檎とを交互に見た。

『あの女』という言葉が自分を示すのは間違いない。だが――。


「……さて。私は貴方に憎まれるようなことをした覚えはないのですが」

「アナタは存在そのものがワタシ達には憎い」


 林檎は冷ややかに言って、サチをぎゅっと抱き締める。


「アナタからは狩人のにおいがする……獣が狩人を憎むように、ワタシもアナタを憎む」

「まぁ、代々鬼切りの血筋ですからねぇ。それも無理はない――それで貴方の目的は?」

「アナタを殺す」

「まぁ、物騒」


 予想通りの言葉に吹雪は唇だけで笑う。

 しかしサチにとってはまったく予想外のものだったのか、その顔が一気に青ざめた。


「や、やめてよ! そんなの絶対に許さない!」

「ワンコさん……」


 聞いたことのないサチの怒鳴り声に、吹雪は一瞬驚いた。

 林檎の腕を振り解こうとサチは必死でもがく。


「中に戻って! これはお願いじゃなくて命令よ!」

「可愛いサチ……そうしてまたワタシを閉じ込めようとするのね」


 サチの抵抗に林檎はわずかに目を伏せた。

 しかし次の瞬間、その金色の瞳は不穏な光を宿してサチを見る。


「でも、まさか制約を忘れたわけじゃないでしょう。――ワタシはアナタの血を口にした。だからこうして実体をもち、アナタの霊力と関係なく動いている」

「林檎……!」

「そして今宵は満月――今のワタシはしもべではなく、王なのよ」


 どこからか遠吠えが響き渡った。

 同時に広場の暗がりのあちこちから、獣の影が現れ出てきた。獣の影は低い唸り声を上げながら、ゆっくりと吹雪を中心に円を描くように動く。

 その姿に、サチは目を見開いたまま緩く首を振った。


「だめ……やめてよ、そんな……そんな事したら、わたし――!」

「悪いけれどもサチ。少しの間、眠っていて。指揮系統が乱れてしまう」


 抑揚のない言葉とともに、ほんの一瞬林檎の体がサチから離れた。しかし直後その首筋に手刀が叩き込まれ、サチは林檎の腕の中に崩れ落ちる。


「う、くっ――!」

「ワンコさん!」

「白い娘、オマエはワタシ達を犬だと言ったわね」


 思わず駆け寄ろうとした吹雪に背を向けて、昏倒したサチの体を地面に横たえる。

 周囲の唸り声がいっそう高くなった。

 吹雪は左右に素早く視線を動かし、包囲の切れ目を探る。

 脱出自体はどうにかできるだろう。

 だが――吹雪の眼は、最後に地面にぐったりと横たわるサチを見る。このまま彼女を残して逃げるわけには――。


「ワタシ達は大神オオカミ。西洋の悪魔、東洋の神」


 林檎がゆるりと振り返る。

 金の瞳を冷ややかに細め、林檎は抑揚のない声で言い放った。


「血とサガによって、オマエを殺す」


 かつんと林檎が靴の踵を鳴らす。

 直後、吹雪の全方位からオオカミが躍りかかってきた。


「雪一片、百鬼を殺す!」


 吹雪は即座に絶句兼若を起動。

 その切っ先が地面に触れた瞬間、吹雪の周囲に氷の壁が立ち上がる。何匹かのオオカミが弾き飛ばされ、残るオオカミがすんでの所で踏み止まった。


「せぇ――!」


 渾身の力で氷壁を薙ぎ払う。

 一気に壁が砕け散り、無数の氷塊がオオカミめがけて飛んだ。

 獣達が怯んだ。そのわずかな隙に吹雪は呼吸を整え、四肢に力を込めた。

 それは時久との最初の邂逅でも見せた――天外化生流の歩法【無間むげん】。呼吸によって身体を整え、一瞬で爆発的に加速する。


「ふっ――!」


 一歩目で構えを刃を水平に寝かせた平正眼の状態に整える。

 二歩目で完全にオオカミの包囲を抜けた。

 そして三歩目で林檎の眼前に。

 加速の勢いを十分に載せた九の太刀『雨垂れ』。

 絶句兼若が閃光と化し、林檎の胸部へと吸い込まれていく。


「――あぁ、これなら」


 どこか呆れたような言葉が聞こえた気がした。

 その意味を理解するよりも早く、吹雪の手に鈍い感触が伝わってくる。

 絶句兼若は確かに林檎の胸を貫いた。


「避けなくとも大丈夫」

「何――?」


 吹雪は目を見開く。

 その視線の先で、心臓を貫かれたまま林檎は目を細めた。


「『心臓を貫いたのに死んでない』……あるいは『私には破魔の力があったはずなのに』なんて考えている顔をしているわね」

「くっ……!」

「残念。ワタシは生きても死んでもいないものだから」


 絶句兼若に林檎の白い指先が伸びる。

 刀身を掴まれる前に吹雪はとっさに後退。血に濡れた絶句兼若を引き抜いた。

 体勢を整えるよりも早く林檎が距離を積めてくる。

 ミシッと音を立て、林檎の腕が赤黒く染まった。異様な形へと変貌しつつ迫り来る腕を見て、吹雪は反射的に絶句兼若で防御をはかる。

 まるで剣と剣がぶつかり合ったような硬質な音が響いた。


「ところで白い娘、オマエは狼と戦ったことはある?」

「……いいえ。私が生まれた時には、とうに日本の狼は絶滅しておりましたので」


 まるで天気の話をするような様子の林檎。

 一方の吹雪は唇を引き結び、硬い表情で林檎の腕を見る。

 林檎の右腕は赤黒い毛並みに覆われた獣の前足に変じていた。その鎌のように輝く鉤爪が絶句兼若と押し合い、火花を散らす。 

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