その三.遠吠えに怯える
自動車の中で、時久と吹雪はかれこれ三十分近く沈黙を続けている。
運転する時久の隣で、吹雪はじっと車の外を見つめていた。
朱塗りの高層楼閣やコンクリート製のビルディングには煌々と明かりが灯り、夜を照らしている。その様は幻想的ではあったが、今の吹雪には見とれる余裕はない。
やがて耐えきれなくなった吹雪は口を開く。
「……あの、御堂さん。質問していいですか?」
「許す。なんだ」
時久の返答は短く、いつもどおり素っ気ない。
吹雪はちらっと彼の横顔をうかがった。いつもと同じように眉間に深く皺が寄っているが、何か深く考え込んでいるように見える。
「……あの鉄骨を飛ばしたのは、一体何なんですか?」
「……今は答えられん」
「ですが」
「俺としても答えたいところだ。だが――この話は少しややこしい。俺が勝手に話せば、ひどく傷つくかもしれん奴がいる」
「傷つく……?」
吹雪は困惑し、首をかしげた。
赤信号で自動車が止まった。時久はハンドルを指先で叩きつつ、難しい表情で口を開く。
「なんというか、アレだ、あの――『でりけえと』な問題なのだ」
「で、でり」
あまりにもぎこちない時久の発音に吹雪は思わず閉口する。
青信号。時久はそんな彼女をぎろりと睨んだ後で、アクセルを踏み込んだ。自動車が発進し、まだ車の通りがまばらな道路を走り出す。
「ひとまず帰ったら俺から社長に伝える。――後は、社長次第だ」
「そうですか……」
再び静寂が訪れた。
吹雪はちらりと時久をうかがう。両手の指を落ちつきなく絡ませ、何度か口を開く。
そうしてもじもじしているうちに、二度目の赤信号が来た。
吹雪は意を決して、言葉を発する。
「あの」
「なんだ」
短い時久の返答。
話しかけておいて言葉に悩み、吹雪は脳内の辞書を探る。しかし結局こんな時に使うようなうまい言い回しは思いつかず、諦めた。
そして仏頂面で待っている時久に対し、小さな声でその言葉を口にする。
「……助けてくれて、ありがとうございました」
「ふん……なんだ、寝ぼけたのか」
「いや寝ぼけてないです。私は一体どれだけ冷血な人間だと思われてるんですか」
ぶんぶんと吹雪は首を左右に振る。
そんな彼女に対し時久は鼻を鳴らし、にやりと不敵に笑った。
青信号になった。
* * *
――自分の首を絞めている。
またこの夢かと、うっすらと残る意識の中で吹雪は小さくため息を吐いた。
どこともしれない薄闇の中で、吹雪が吹雪の首を絞めている。
首を絞めている吹雪の表情はいつも見えない。このもう一人の自分が一体何者なのか、どうして首を絞めているのか理解できない。
わからないことだらけのこの夢を吹雪は頻繁に見る。
だからこの夢は息苦しいが、長続きしないことを理解していた。
そのため吹雪はそのまま夢に任せ――。
――天が砕け散ったのかと思うほどの轟音が轟いた。
「ううっ!?」
布団を蹴飛ばして起き上がり、側に置いていた絶句兼若を吹雪は引き寄せる。
しかしそこで吹雪は我に返った。
ゆるゆると辺りを見回すと、部屋には特に異常はない。畳んだ服や時計の様子も、寝る前に見たときと変わりなかった。
吹雪は絶句兼若を置き、窓の方へと向かった。
カーテンを開けた直後、夜空に光の亀裂が走った。数秒間を置いて雷鳴が轟く。
「雷……ですか」
吹雪はため息を吐き、また布団に戻る。
雷に興奮しているのか、どこかで犬が遠吠えしていた。
――貴様、最近獣の声を聞いたか。
つい数時間前に聞いた時久の言葉が脳裏に蘇った。そして犬の声をよく聞くと答えた時に、彼が浮べた深刻そうな表情も。
「犬なんて……どこにでもいるでしょう」
しかし思えば、最近特に犬の声を聞いているような気がする。廃デパートだけではない、霖哉と会った怪しげな繁華街や、喫茶店――。
そして犬の声を聞いているわりに、姿は――。
吹雪は目を見開いた。ちょうどその時稲光が走り、天井が白く照らし出される。
「いつも……同じ声。いや、それより――」
長く尾を引くような遠吠えが響く。
それまでは聞き流す事ができていたその声に、吹雪は急に強い不安を感じた。
「あれは本当に、犬……?」
哀しげに響くその声は、どこか不吉な響きがあるような気がした。
背中に震えが走り、吹雪はたまらず頭から布団を被る。
遠吠えは夜明けまで続いた。
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