その二.獣の声を聞いたか
その翌日の夜。どこかで遠吠えする犬の声を聞きながら、吹雪は息を整えた。
広々としたそのレンガ造りの建物は、食品会社の工場の一つだという。だが以前の台風で大きな打撃を受け、一時的に休止しているとのことだった。
そこに湧いた化物の駆除が今回の吹雪と時久の仕事だった。
「本当に化物が大量に発生しますね、帝都……少し侮っていました。人が多いところにはそれだけたくさん出るという話だけど……」
吹雪はぼやきつつも、周囲に油断なく視線を配る。
チカチカとまたたく電灯が辺りを照らしている。工場内には大きな機械類が残っているほか、改修に使うと思わしき資材が布に包まれた状態で放置されていた。
やかましい犬の声が間近で響いた。
はっと顔を上げる吹雪の視界に、高く飛び上がる獣の姿が映る。
大型犬ほどの大きさ。二つの頭部が牙を剥きだし、吹雪めがけて襲いかかった。
「ふっ――!」
抜刀。
解き放たれた刃は一気に空中へと駆け上がり、牙を剥き出す双頭の犬の胴を切断する。
真っ二つになった犬の体が左右に落ちた。
間髪入れず、巨大な機械の影から二頭の双頭犬が飛び出した。
空中へと振り上げた刃を引き戻し、吹雪はその切っ先を地面に突き立てる。
「雪一片、百鬼を殺す――ッ!」
絶句兼若の刀身が青く輝いた。
直後、吹雪の周囲に氷の壁が立ち上がった。
氷壁はその勢いで双頭犬を一頭の頭を吹き飛ばし、もう一頭の突進を跳ね返す。
絶句兼若を引き抜き、吹雪は氷壁を砕きつつ突撃。よろよろと起き上がろうとしていた双頭犬の頭から尾までを一息に切り裂いた。
真っ二つに裂けた双頭犬の骸が地面に転がり、ようやく辺りに静寂が訪れた。
「……さて」
吹雪はフッと息を吐く。
その時、近くに積まれていた鉄棒が崩れた。
ガラガラと音を立てる山の後ろから、黒い影が跳躍する。鼻先に漂う獣のにおいを認識したその瞬間、吹雪は振り返った。
考えるよりも絶句兼若を引き寄せ、呼吸を整える。
双頭の犬の顔面が視界いっぱいに広がった。牙だらけの口から漏れる熱い息が顔にかかる。
しかし吹雪は表情を変えず。
「――九の太刀『雨垂れ』」
撃った。
ほぼ一瞬で二度の刺突を叩き込む――『雨垂れ』は天外化生流でも特に攻撃的な技。
それは貫通だけでなく衝撃により、化物の体内構造を破壊する。
犬の背中を絶句兼若が食い破った。青く輝くその切っ先を追いかけるように、遅れて赤黒い血と肉とが噴き出した。
吹雪は双頭犬の死体を床に下ろし、絶句兼若を引き抜いた。
「……だいぶ、扱いにも慣れてきましたね」
よくみれば、双頭犬の傷はいくらか凍り付いている。
手応えを確認するように絶句兼若を握り直し、吹雪はその刃から血を払った。
「よし、次は――ん?」
びりりと背筋に嫌な寒気が走った。
それと同時に、どこからか微かに地鳴りのような音が響き出す。
絶句兼若を鞘に納めた吹雪は首をかしげた。
「なんでしょう……?」
いぶかしげに辺りを見回したその時、後ろの壁から爆音にも似た音が響いた。
吹雪はとっさに横っ飛びに転がる。
一瞬遅れて、それまで吹雪の背後にあった壁が吹き飛んだ。立てかけられていた鉄材が吹き飛び、閃光とともに両断される。
「ちょっ、御堂さん!?」
「おぉおおおおおお!」
鬼鉄をぶん回しながら、隣の区画にいた時久が突っ込んできた。
その一撃で鎧武者に似た化物の体が宙を舞い、吹雪めがけて飛んでくる。
「危なッ――!」
悲鳴を上げつつも吹雪は抜刀し、化物の体を一撃で真っ二つにする。
時久が驚いたような表情で吹雪を見る。
「なんだ小娘、いたのか」
「いたのかじゃないですよ! 危うく私まで真っ二つになるところでしたよ!」
吹雪の怒りに対し、鬼鉄を鞘に納めた時久は肩をすくめる。
「真っ二つになっていないから良いだろう」
「なんにも良くないです!」
時久に危うく殺されかかったのは今日だけではない。
今日こそはいってやらねばならない。吹雪は頬を紅潮させ、訴える。
「大体貴方は――ッ!」
視線を感じた。
烈しく燃え上がるような悪意が自分に向けられている。その気配に吹雪は思わず息を止め、絶句兼若の柄に手を伸ばした。
時久の怒号が響く。
「小娘ッ!」
「わっ――!」
時久が吹雪を突き飛ばした。
怪力によって、まるで鞠のように軽々と吹雪の体は宙を舞う。その視界の端に、一瞬超速で飛来する鈍色の塊が映った。
「っ……う……!」
数メートルほど離れた場所に叩き付けられ、吹雪は呻き声を上げる。
直後、轟音。
何が起きたのかも理解できないまま吹雪は一瞬で体勢を整え、絶句兼若の柄に手を掛ける。
もうもうとした土煙が視界を覆い隠し、周囲の状態は不明だ。
側に立つ時久が低い声でたずねた。
「無事か、小娘」
「御堂さん、これは一体……」
土煙が晴れた。
そして目の前に映った光景に、吹雪は口元を手で覆う。
「鉄骨が……!」
眼前には、三本の鉄骨があった。
改修中の工場のため、鉄骨が存在すること自体はなんらおかしくない。吹雪も最初時久に突き飛ばされたとき、どこかに吊られていた鉄骨が落ちてきたのだと思った。
だが、それはまったくの見当違いだった。
それらの鉄骨はどういうわけか、壁に突き刺さった状態で存在していた。
「どうしてこんな事に……?」
「……あそこから飛んできたようだな」
鬼鉄を抜き放ち、時久がある一方を睨む。そこはちょうど鉄鋼の刺さっている壁とは反対側にあり、先ほど彼が吹き飛ばした鉄骨が何本か転がっていた。
鬼鉄をその方向に向け、時久は怒鳴った。
「こそこそするな! 文句があるなら出てこい!」
その声は、かすかなこだまを残して消えていく。
時久はしばらく鬼鉄を手に睨んでいたが、やがて渋い表情で警戒を解いた。
「……逃げたな」
「どうします? 追いかけた方が――」
「追わなくていい」
「でも」
依頼では、工場に棲み着いている化物を一掃するよう指示されていた。
言葉を続けようとする吹雪を、時久が見下ろす。
相変わらず眉間に皺が寄っていて、その表情は険しい。だがそのまなざしはいつものように敵意が滲むものではなく、それどころかどこか気遣わしげに見える。
いつもと異なる時久のまなざしにかすかな不安を感じ、吹雪は口を閉じた。
「……一つ聞きたいが、小娘」
「な、なんでしょう?」
吹雪は思わず姿勢を正す。
鬼鉄を肩に担ぎ、時久は目を細めて吹雪を見つめた。やはり、どこか心配そうに見える。
「……貴様、最近何か獣の声を聞いたか?」
「獣……?」
予想だにしなかった時久の問いかけに、吹雪は一瞬虚を突かれた。
しかしすぐにこめかみに手を当て、じっと考えこむ。
「獣は知りませんけど……犬の声なら、しょっちゅう聞こえますよ。この前の廃デパートでも、あんなにうるさかったじゃないですか」
「……あの、一週間前に行ったところか?」
時久はいっそう険しい表情になる。
その顔にさらに不安が強まり、吹雪は自分の手をぎゅっと握り合わせた。
「え、えぇ。それにさっきもずっと聞こえていたでしょう? 今はもう聞こえないですけど」
「俺には聞こえなかった」
「そんなバカな、すごい声で鳴いていましたよ。御堂さんが鈍感なだけじゃ――」
さすがに言いすぎたかと思い、吹雪は口を押さえた。
しかし時久は特に気にする様子もなく、渋い顔で顎を撫でている。
「……そうかも、しれんな」
「え?」
「俺は少し、目の前の戦いにのめり込みすぎるところがある――そのせいで、犬の声が聞こえていなかったのかもしれん」
あっさり自分の非を認める時久に、吹雪は思わず目を見開く。
それまで『自分の否定は一切許さない』といった言動をしていた時久の姿と、目の前で考え込む時久の姿には大きな隔たりがあった。
「あの、御堂さん……?」
「今日はもう帰るぞ」
「え、で、でも見回りとかは」
「意味がない」
鬼鉄を鞘にしまいつつ、時久はばっさりと言い切った。
吹雪はその言葉に眉をひそめる。
「……意味がない、とは?」
「もし『これ』が、俺の考えている奴の仕業だとすれば」
鷹揚な仕草で、時久は壁に突き刺さった三本の鉄骨を示す。
その次の言葉はひどく不穏な響きを伴って、吹雪の耳に刻みつけられた。
「――この辺り一帯の化物はすでに根絶やしにされている」
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