3
視界に入り込むのは、祈咲の心配げな顔。普段は綺麗な弓形の眉が今は下げられている。大きな黒目に自分の顔が映り込み、それは今の自分ではなく、幼い頃の自分に見え、また動揺が振り返しそうになる。
──大丈夫。私はもう、大丈夫。
震えそうになる体を抑え込む為に、自身に嘘を吐いた。お前はもうあのときの自分ではない。もう、大人になったのだ。もう大丈夫なのだと言い聞かせてやる。
「大丈夫ですか?」
己への言い聞かせを助長してくれるかのような祈咲の声が届くと、すう、と下がり掛けた体温が戻っていくのを感じた。
「あ、うん、大丈夫よ」
出した声が震えていないことに安堵する。
「先生、やり過ぎですよ」
たしなめるような祈咲の声に、静馬が大袈裟に肩を竦めて見せた。
「すまないね。悪気があったわけではないんだ」
静馬の謝罪に、千里は頭の隅でそうだろうな、と思った。心はまだ正常を取り戻してはいない。しかし、静馬の言葉の意味はやけに理解出来た。
静馬は何も、自分を追い詰める為にそんなことを言ったのではない。それは、ある種の警告のように思えた。それが一体何の警告なのかまではわからないが、事件を深追いすることはやめるべきだ、と暗に言われたのだと思える。
深追いすることが自分の首を絞めることになる。深追いすれば、見なくていいことに、知らなくていいことに直面するだけだ。
静馬はそういった意味合いを込めて、千里の過去に触れてきたのだろう。
それは一体どうしてなのか。
「大丈夫です」
千里は額にうっすらと浮かんだ汗を拭いながら静馬へと言葉を向けた。それに静馬が今一度、謝罪の言葉を口にする。
「お前が何を思って、影石を苛めたいのかは知らないが、必要以上に人の過去を知ろうとするのはお前の悪い癖だ」
國原が静馬を詰るような素振りを見せたので、千里は慌てて大丈夫ですから、と國原を止めた。確かに、勝手に人の過去を調べあげるのは誉められた行為ではない。けれど、今はこの話題を終了させてしまいたかったのだ。
國原は不満を露にしながらも、お前がいいなら、と口を閉ざしてくれた。
「私は自身の深淵など知りません。ですが、この事件の犯人は必ず逮捕したいと思っています」
自身の深淵など、ない。
あれは、深淵などではない。深く沈んだりせず、常に浮上しているのだ。それを無理矢理抑え込んでいるのに、深淵であるはずがないのだ。
「成る程ね」
静馬はそれだけ言い、長い足を組み換えた。綺麗な折り目のついたズボンはいつもクリーニングに出しているのだろうか。着ているスーツにも皺ひとつない。
「しかしね、僕は既にお手上げ状態なんだよ。情報の少なさもあるが、これは人間が止められることではない」
人間が。
その言い回しは不思議なものだ。警察が、ではなく、人間が、と静馬は表したのだ。
「どういうことだ?」
静馬の言葉にいち早く反応を示したのは國原だった。
「修羅の所業、という言葉があるだろう? これは、まさに、それなんだよ」
言葉としては知っている。確かに、今回の事件は残忍でもあると思う。──本当に?
千里の中に疑問が芽生えた。
残忍且つ狡猾、という言葉を刑事という仕事を始めてから幾度となく耳にした。けれど、この事件はそうではない。
被害者は殆どが即死状態だし、なぶられたような痕跡もない。遺体を損壊されているわけではないし、その殺しには──正しい表現とは思えないが──理由がある。
「その表現は違わないか?」
國原も千里と同じことを思ったようで、静馬に対して異論を唱えた。
「この事件の犯人は、正義の味方気取りだ。犯人は、児童を傷付ける大人を殺し、正義の味方だと悦に入っている」
──それも、どこか違う。
國原の意見は捜査本部でも持ち上がっているものだ。確かにそういった見方もあるとは思う。何より、犯人本人がこれは正義だと言っているだから。
しかし、だからといって「正義の味方気取り」だとは思えなかった。
「だから、だよ」
静馬はやけに静かな口調で言った。
「人殺しを正義だと宣われるのは、修羅しかいないのさ」
どうやら、静馬と國原は同じ考えらしい。
「お前がそんなことを言うなんて、珍しいな」
國原は驚きを隠せないといった表情で静馬に視線を向けている。國原曰く、静馬はゲームとして推理を楽しめるのであれば殺人すら許容する節のある男。だというのに、静馬の今の発言は殺人を否定しているように思えた。それは道徳として当たり前のことなのだが、静馬の発言とすると不思議なものだ。
「そうかい? 別に珍しい発言ではないさ。これがね、愉快犯であるならば、修羅だなんだとは言わないさ。それは、頭がイカれているだけだ。──失礼、言葉が悪かったね。精神異常者、或いは精神崩壊している、精神に異常をきたしている、といったところかな。あとは、僕のような常識欠落者だね」
静馬は自身に足りないものを自覚しているようで、自嘲的な笑みを浮かべた。
「しかし、この犯人は、そのどれでもない。殺人を善の行いだと思っている──いや、言葉が違うな。児童を助ける為ならば殺人をもいとわない。寧ろ、それは必要なことだとさえ思っている」
静馬の考えはよく理解出来た。その通りだ。
この犯人は嬉々として殺人を犯しているわけではなく、児童を助ける為に人を殺している。そしてそれを、人助けのように思っているのだろう。
「行き過ぎた義賊、とでもいうところかな」
かつての時代劇でそういったものがあったように思う。人助けの為に、人を殺す。しかし、それは本当に人助けなのだろうか。
「話を蒸し返してしまうようで申し訳ないのだが、君は当時、どうだったんだい?」
「え?」
思考がぐるぐると渦を巻いているところに突然質問をされ、千里は場違いな間の抜けた声を出した。
「おい」
それを國原が諌めるように制止の声をあげる。
「君は当時、誰かがそいつを殺してくれたなら、救われたと思うかい?」
ぐるり、と視界が反転するような気がした。
真っ白な部屋。何もない部屋。気持ちの悪い息遣い。撫でられる肌。殴られる顔。蹴られる腹。
それらが一気に感覚として蘇ってきた。
「……私は」
何度も同じところを突かれると、隠し覆っていたはずの膜は破れ易くなる。
千里は一生懸命膜の破れが拡がらないように意識を今に集中させた。
「私は、そうは思いません」
──本当に?
今の自分の声とは違う声が脳内で重なる。これは、誰の声なのだろう。幼い頃の自分の声とは少しばかり違っている。
きっとそれは、犯人と同化しかけている幼い頃の自分の声なのだろう。
それを無理矢理に振り切ろうとする。
「……あのとき、あいつを殺してもらっても、あの時間がなかったことにはなりません」
自分でもそれが的外れな返しだとは気付いている。静馬が尋ねてきていることは、そういうことではないのだ。自分を傷付ける者がいなくなったら、お前の心は救われたのか、と尋ねているのだ。
制裁をしてもらえることに意味はあるのか、と尋ねられているのだ。
それは、正直なところ、わからなかった。
現にあの男は今も何処かで生きているのだろうし、もしかしたら同じをことを繰り返そうとしているかもしれない。刑期は既に終了しているはずだ。
「それに、苦しむ児童だって、いるはずです」
「苦しむ?」
千里の言葉に静馬が反応をした。
水穂のことをどこまで口にしていいのか悩む。これは、國原にも報せていないことなのだ。祈咲にはこの間、少しだけ話してしまったが、それは今は考えないことにした。
「仮定の話ですが」
千里は迷い、そう前置きすることにした。
「自分を傷付ける相手を殺してもらい、今は解放されたように思え、安堵感を得るかもしれません。けれど、いつしかそれに苦しむようになる可能性だってあります」
少しばかり、水穂の現状とは変えて話した。
「思春期になり、大人になり、あのことは正しかったのかと悩み、苦しみ、罪悪感に苛まれる可能性だってあります」
自らの手ではないとしても、それは間接的に人を殺したことになるのだ。
「そうですかね?」
そう言ったのは、静馬でも國原でもなく、祈咲だった。
「え?」
「だって、殺してもらえたことで、そのこどもは自由を得るんですよ? 大人になることが出来るんです。傷付けられたままでいたら、自分が殺されたかもしれない。自分のないまま、暮らし続けなくてはならなかったかもしれない。それならば、あのとき、救いを求めておいてよかったと思うこどもだっているかもしれない」
祈咲は真っ直ぐに千里の目を見ながら少し早口で述べた。
その意見に関しては、確かに、と思わずにはいられなかった。全ての児童が罪悪感に苛まれるとは限らないのだ。
「お前は犯人の行いを肯定するのか」
國原が詰問するような口調で祈咲へと視線を向けた。祈咲は千里の向かいに座っていて、國原の言葉に対して顔を動かすことはしなかった。
「そういうことではありませんよ」
祈咲の声はいつもより低く、無表情に見えた。黒曜石のように、艶のない瞳がちらりと國原を見やる。
「じゃあ、貴方達は犯人が逮捕された後、千里さんのようなこども達を救えるか、と言っているんです」
祈咲の言葉に、彼もまた、千里の過去を知っているのだと知る。あの日々のことを。それに軽い目眩を覚えた。
「しかし、犯人だとて、全ての児童を助けられているわけではない」
それでも、少なからず犯人の手に因って命を救われた児童がいるのも事実なのだろう。
「そういう、鼬ごっこな会話はやめないかい?」
目線だけで睨み合うようにしている祈咲と國原に、静馬が冷ややかな声を浴びせた。
「失礼だが、その会話に終わりはないよ。救う、救えない、どちらでもないんだ」
静馬の言う通り、二人の会話に終わりはないだろう。一人でも多く救えればいいのか。一人も漏らさず救えるならば意味はあるのか。そんなことは、神様にだってわからないことなのだろう。
いや、この世界に神様などというものはいないのだ。それは、千里自身、痛感している。
「すみません、先生」
祈咲は國原に向けていた視線を静馬へと移し、小さく頭を下げた。はらり、と白髪が揺れる。
「いや、祈咲の言うことにも一理はある。けれど、問題はそこではないんだよ」
静馬はそれだけ言い、続きを口にすることはなかった。
その後はこれといった話が出ることもなく、その日は解散となった。
──本当に、そんなことになるのだろうか。
祈咲は暗闇で自身のスマートフォンを見詰めながら思考を巡らせた。
今日は何の通知もない。
「もっと、上手くやればよかったのかな」
ぽつりと言葉が漏れる。
最初はそれも考えた。そうしてみたこともあった。実際、最初の頃はその手段を選んでいたのだ。
けれど、それにあまり意味がないことに気付いたのだ。それでは、救いを求められることはない。
決して、崇め奉って欲しいわけではない。寧ろ、そんなことは望んでいないのだ。自分が神様などだと思うことないし、この世に神様なんてもなのはいないと知っている。
ふと、鏡に映る自分の姿が視界の隅へと入り込んだ。暗闇にいることが多いせいか、目はそれに慣れていて輪郭程度なら容易に掴むことが出来る。
そして何よりも、その「白」は暗闇の中で浮いている。ぼんやりとそこだけが浮かび上がり、顔立ちは見えない。
それはまるで、自分そのものを映し出しているかのようだった。
自分の為になど生きていない自分。
そこに、感情などはもう、ない。だから、顔の中身などあるはずもないのだ。
「後悔なんて……しないよ?」
誰ともなく、言った。それは、千里に向けてなのか、それともこども達に向けてないのか。それは、祈咲にもわからないことだった。
少なくとも、自分は後悔などしたことはない。あのことが間違いだったなどと思ったことはない。
しかしこの間、千里に手料理をご馳走になった日、苦しんでいる少女がいることを聞かさせた。そのとはそれは、一過性のものだと思い込もうとしたし、今もそう思っている。
──救ってあげられればよかった。
不意にそんな考えを抱き、パソコンを立ち上げる。僅かに焦れったい時間が流れ、パソコンは起動する。暗闇だったそこは、パソコンの辺りだけが異様に明るくなり、その光は周囲にも手を伸ばすようにして、暗闇というものを減らす。
かちりとファイルをクリックすれば、そこには文字の羅列が浮かび上がる。
『影石千里』
そのファイルは、千里に関するものだった。静馬が調べたものをこっそりコピーしたものだ。そこには、千里の産まれたときから、今に至るまでの経歴がある。
この間聞いた、祖父と二人暮らしというのも載っている。あのとき千里はその事情を口にはしなかったが、祈咲は既に知っていた。
千里なら、自分を理解してくれる。そう思えたのだ。
それは千里の過去に起因するものだが、そんなふうに思う相手は初めてだった。
──きっと、あの目だ。
千里のアーモンド型の目を思い出した。それは、過去を決して許していないという目。だからこそ彼女は、刑事という仕事を選んだのだろう。
だから、千里は犯人に辿り着ける、と口にしたのだ。自分を理解してくれるであろう彼女なら、きっと犯人に辿り着けると思ったから。
しかし、彼女は否定の言葉を口にしている。それでも自問自答している様子はあった。
恐らく、過去の自分が語りかけるのだろう。それは祈咲にはない経験だった。自分はもう、片が付いているからだ。
罪悪感に苛まれることなど、ない。苛まれたことなど、ない。だって、今自分がこうして、自分の意思で動けているのは、あのことがあったからだ。でなければ、こんなふうに生きていられることはなかった。
いつまで続くともわからない、地獄の日々を彷徨い続けるだけだっただろう。そしてきっと、精神はどこかで壊れてしまっていたはずだ。
──間違ってなど、いない。
きぃ、と心の奥にある何かが音を立てたように思えた。しかし、祈咲はそれに気付かない振りをし、パソコンの電源を落とした。
そこにはまた、暗闇が拡がった。
祈咲が自分の過去を知っているということに、少なからず動揺をした。こんな自分を、普通の女性だと称してくれたからだろう。それに、過去のことを知られていない以上は、「普通の女性」として接することが出来ると思っていたからだ。
しかし、過去のことを知られてしまったからには、そうはいかないだろう。些細な会話の端でも、地雷を踏んだのでは、と思われてしまうのだ。
國原は千里の過去を知っているが、そういった変な気の回し方をすることはない男なので、一緒にいても苦ではないし、申し訳ない気持ちになることもなかった。けれど、祈咲はどうなのだろうか。
祈咲に気遣われる様を想像し、気が重くなるのを感じた。こればかりは、静馬を少々恨んでしまう。静馬が千里の過去を調べたりしなければ、祈咲がそれを知ることもなかったのだ。
「はぁ……」
空は気持ちが良い程に晴れているというのに、千里の心は暗い雲が覆っていた。
──そんなに些細なことではないというのに。
これが相手が祈咲でなければ、こんなふうにはならないのだろう。知られてしまうのは避けたいことではあるが、気が重いというよりは、不愉快に近い感情を抱くだろう。
相手が祈咲だからこそ、知られたくなかったと思うし、知られてしまったことに気が重くなるのだ。
「どうしたんですか?」
突然背後から掛けられた声に、千里は心臓が痛む程に驚いた。どくん、と思い切り心臓を胸元を殴られたかのような痛みだ。
「……祈咲君」
それは、声の主が祈咲だったからだろう。千里が振り返ると、祈咲は整っているにも関わらずこれといった個性のない顔に微笑みを浮かべていた。
「なにか、嫌なことでもありましたか?」
祈咲は小さく首を傾げる。それは幼いこどもがする仕草のようでやはり彼が青年だということを忘れさせる。
「ああ、ううん。何もないわ」
まさか、貴方のことを考えていた、などと言えるはずもなく千里はそう嘘を吐いた。
秋を過ぎ、冬を目前に控えた空気の冷たさは、太陽の照りとは不釣り合いに思え、実際、太陽の暑さなどは全くない。
「……この間のこと、ですか?」
祈咲が僅かに眉を下げた。左右非対称になった眉から、彼が自分を心配しているのだということが伝わってくる。
正直に言うべきなのだろうか。知られている以上、隠すことなど何もない。けれどやはり知られたくなかったという想いが湧く。
「そうね。急に思い出したから、心の整理がつかなくて」
まさか、貴方に知られてしまったことで悩んでいるなどとは朽ちには出来ず、そういう形で誤魔化した。少なからず嘘ではない。
自ら記憶の蓋を開けたわけではないそれは、簡単に箱の中に納まってはくれない。
「……どんな言葉が適切なのかはわかりませんが、大変だったと思います」
他人からすれば、その程度の言葉しかないだろう。もし、自分が逆の立場であったとしても、それくらいしか掛ける言葉はない。
だって、人は経験していないことは想像しか出来ないのだ。それが想像の余地を越えるものであれば、それをわかることなど出来はしないのだ。
「ううん。もう、昔のことだから」
そんな言葉で片付けられることではない。過ぎたことだと笑えってしまえることではないのだ。
「僕は、紙面上でしか、その出来事を知りません。そのときの、貴女の気持ちまでは知らない。──よかったら、話してくれませんか?」
祈咲は真っ直ぐに千里の瞳を見てきた。いつもは艶のない黒目が、今は潤んだように艶やかだ。瞳の黒さと、髪の白さはどこまでも正反対だ。決して交わることのない色。
「え?」
千里は祈咲の申し出に躊躇った。あれは、人に聞かせるような話ではない。況してや、祈咲に。
「すみません、失礼なことを言って。それで、少しでも心の整理がつけば、と思ったんです。……いえ、ごめんなさい。嘘です。僕がたんに、貴女のことを知りたいと思っただけです」
祈咲は場に似合わず、少し照れたような表情でそう言った。
自分のことを知りたい。祈咲にそう言われ、千里も場違いに胸が高鳴るのを感じた。
「……聞いて、気分の良い話ではないと思うけど」
生憎、本日は非番で時間は幾らでもある。予定も何もない。数分では語れないことを話すだけの時間はたっぷりとあった。
「貴女が良ければ、聞かせて下さい」
「寒くないですか?」
木々が葉をなくした公園は晴れの日だというのにどこか物悲しく感じられる。覆い繁るかのような夏の緑が途端に恋しくなった。
「大丈夫よ」
千里は小さく笑みを浮かべて返した。肌寒いが、我慢出来ない気温ではない。それに、祈咲がカイロ代わりに、と買ってくれた缶のミルクティーが掌をじんわりと暖めてくれている。
千里の過去の話はカフェなどで話せるような内容ではない。なので、こうして近くの公園を選んだのだ。
そういえばまだ夏の暑い盛り、祈咲と此処で会ったことがある。それは遠い昔のようでもあるし、つい最近のことのようでもある。それは、祈咲の服装のせいかもしれない。
彼は夏場でも肌の露出が全くない。今はそれに厚手のパーカーを羽織っているだけだ。だから妙な感覚になるのだろう。
「知っていると思うけど、それは、私が小学校四年生のときだったの」
千里は手の中で温かい缶を回しながら口を開いた。冷えたベンチが体を冷やすような感覚がする。それでも、自らの体温でそれは忽ち消えた。
祈咲は千里の隣に腰を下ろし、同じようにミルクティーの缶を手にしている。その横にはスーパーの白い袋があり、彼が買い物帰りだというのが窺える。
それは、暑い夏の日だった──。
千里は祖父に買ってもらったばかりの真白のワンピースを着ていた。ノースリーブで、スカート丈は膝が出る程度。ふんわりとしたシルエットに、祖父にねだって掛けさせてもらったパーマが合わさると何処かのお嬢様になったような気分が味わえた。
両親が蒸発し、祖父は住んでいた家を手放し、今は安い借家に住んでいる。周りの大人からは「可哀想」にだとか、「大変ね」と言われるが少女の頃の千里にはそんな自覚はなかった。
祖父の年金は決して少なくないし、家を売って両親の借金を肩代わりはしたが、それでもまだ金は残っていた。多額ではないが、二人が暮らすには多少の贅沢は出来る程度。
それに何より、祖父は優しかった。千里は両親の記憶に、良い感情を抱いてはいなかったのだ。いつもピリピリし、事ある毎に叱られた。それは些細なことでもだ。
借家で金がないせいか、新しい服を買ってもらえることも、皆が持っているゲームや玩具を買ってもらえることもなかった。
洋服はいつも母親の知り合いから貰うどこかセンスの古いお下がりで、流行りのゲームを出来ないばかりに友人もいなかった。
しかし、祖父はそんな両親とは正反対だった。本当に、父親の父親なのかと疑いたくなる程に、祖父は優しく、千里が望むものは買い与えてくれた。
祖父はセンスが良く、彼が買ってくれる洋服が千里は大好きだった。この日着ていたワンピースも、一目で気に入り、汚したくないが為に学校に着ていくことはしなかった。
日曜日に袖を通し、緩く巻かれた長い髪を靡かせて近所を散歩する。それが千里の楽しみだった。
両親と共に東京にいた頃は「貧乏の子」と呼ばれ、学校や近所
に友達は一人もいなかった。けれど、祖父に引き取られ、静岡の学校に転入すると世界は変わった。
可愛い服に身を包み、毎朝祖父が器用に結わえてくれるツインテール。クラスの子は千里を「可愛い」と口を揃えて言い、近所の大人達は微笑んで「美人ね」と言ってくれた。
だから、こうしてお気に入りの服を身に纏い、長い髪を靡かせていると、とても気持ち良かった。世界には嫌なことなど何もなく、毎日が楽しかった。そう、あの瞬間までは──。
いつも日曜日にしているように、遠くに見える茶畑を横目で見ながら道を歩いていた。昼過ぎからは友達とお菓子作りをする約束をしている。祖父にあげたなら、笑顔で喜んでくれるだろう。
千里は出来上がったカップケーキを祖父に渡すところを想像し、頬が緩むのを感じた。
いつも人通りは多くない道だった。しかし、近所の家に来訪があれば車が停まっているのもいつものこと。土日になれば都会からの来訪が多い。
だから、そこに車が停まっていることに何の疑問も抱かなかった。確かに、初めて見るグレーのワゴン車だった。けれど、その家の息子さんは以前にも車を買い替えていた。息子さんが勤める会社のギョウセキがいい、と近所のおばさん達が話していたのを覚えている。
ギョウセキとは何だろうか、と思ったから覚えていたのだ。
千里は目新しい車に興味はなく、その隣を通り過ぎようとした。窓には目張りのシールがあり、中は見えない。しかし、そういった車は別段珍しくなどない。
車を通り過ぎ、道を真っ直ぐに進もうとしたそのとき、ワゴン車の扉が静かに開いた。中から人が出てくる、と避けようとしたそのとき、強い力で腕を掴まれた。
何が起きているのかわからず、それでも無意識に悲鳴が出そうになったが、それが外に響く間もなく、扉は閉められた。
──何が、起きたの?
千里は転がされたように車内に引き摺り込まれ、最初は確かに座席の上に背中をつけていたはずが、直ぐに足元の部分へと押し込まれた。そのとき、運転席のシートに額をぶつけた。擦るようにしてぶつけた為、人より少し広めの額がひりひりする。
誰かが、後部座席から運転席へと移動する影が過った。運転席と助手席の隙間から器用に移動する様は慣れているかのように見えたが、一回だけ足を千里にぶつけてきたので、ぼんやりと何度か練習したのだろう、と思った。
何故か、声をあげることはしなかった。それは千里が状況を把握出来ていないからだった。本来ならば足を置くところに押し込まれ、簡単に起き上がることが出来ない。きっと、シートを最大限前に持ってきているのだろう。
ぶぅん、と車体が微かに揺れ、それがエンジン音だと気付いた瞬間、千里は急いで体を起こした。狭いところに強く押し込まれたせいで肘の骨と背骨が僅かに痛い。
どうにか体を起こしたタイミングで発車してしまった。
「降ろして下さい」
千里は運転席に向かって叫んだ。そこでは、二十代半ばくらいの男がハンドルを握っている。野球帽を目深に被っている為、顔はよく見えなかったが、半袖から伸びた腕や服装から若い男だと思えた。
「ねえ、降ろして」
一言目で車が止まることはなく、男は千里の言葉を無視した。いや、無視したというより、耳に届いていないといったふうだ。男の顎や腕はふるふると小刻みに震えている。そして、何やら小声でぶつぶつと呟きを繰り返していた。
その頃には千里の中にはっきりとした恐怖心が芽生えていた。
──浚われた。
知らない車に、知らない男。これは、誘拐だ。
車内は冷房で寒い程だというのに千里は背中にびっしりと汗をかくのを感じた。
──嫌だ。怖い。
単純な言葉だけが脳裏を埋め尽くす。
「お願い、降ろして」
頼むことに意味はあるのか。それでも千里は声を出した。けれど、男に千里の声が届いている様子はない。
──どうしよう。どうしよう。
千里は自身の体が震えていくのがわかった。それでも車は止まらない。千里はもう無理矢理降りるしかないと思い、扉に手を掛けた。その手は酷く震えている。
飛び降りる覚悟を決め、扉を引いてみたがそれはびくりともしなかった。鍵がかけられているのだ。
千里はそれすらわからず、がちゃがちゃと取っ手を何度も動かした。それと同時に、窓を開けるボタンも押す。けれど窓が開いてくれることもなかった。
「嫌、嫌。開いてよ。降ろしてよ」
千里は半ば錯乱しながら、何度も取っ手を引き、何度もボタンを押した。
「お願い、開いて、開いてよ」
車はスピードを上げ、どんどんと進んでいく。目張りをしているせいで薄暗い外の景色は知らないものへと変わっていく。それがまた千里の中の恐怖心を煽る。
「嫌だ、降りたい。おじいちゃん……助けて」
千里は譫言のように同じ言葉を繰り返しながら何度も同じ動作を繰り返す。それでも状況が変わることはない。涙が自然と溢れ、全身が震え出す。
これから先に何が待ち受けているのか想像も出来ないが、恐怖だけが千里の心を覆っていく。
不意に、停車した。どうやら、信号に掴まったらしい。千里は漸く止まった車に僅かな安堵を覚えた。そして、扉から離れ、運転席へと近付いた。
「お願いします、降ろして下さ──っ」
がつん、という初めて経験する衝撃に、目の前に火花が散ったような映像が見えた。真っ暗なところに、ぱちぱち、と小さな火花が飛ぶ。
千里は咄嗟に掌で顔面を覆い、それで漸く裏拳で鼻を殴られたのだと気付いた。鼻骨は痛み、鼻血が垂れていることに気付いた。掌に垂れた、真っ赤な血液。初潮もまだ迎えていない千里にとって、小さな傷口から滲む程度しか血液には馴染みがなかった。
それなのに、今、千里の白い掌には小さな血溜まりがある。五百玉サイズの血液。
それだけのことで、恐怖が全身に蔓延した。
躊躇のない暴力。真っ赤な血。それは、幼い千里の心を一瞬にして蝕むのには十分な要素だった。
これ以上騒いだら殺されるのではないか。しかし、このまま連れ去られても殺されるのではないか。
連れ去られる恐怖から、死の恐怖へと変わる。殺されるとは、一体どんな感覚なのか。どんなふうに殺されるのか。
そもそも何故、自分がこんな目に遭っているのか。
次々と湧いていく恐怖は千里の中を埋め尽くし、その口を閉ざさせた。
その間にも車はどんどんと道を進め、周りの景色は全く知らないものになっていた。
口の中がからからに渇いていて、舌が上顎に張り付くのが気持ち悪かった。だというのに、背中や掌にはべっとりと汗をかいている。そして、全身が震えた。
後部座席に腰を下ろすことも出来ず、足元の部分に踞るようにして身を潜めていたのは再び殴られることを恐れてだった。鼻血がお気に入りのワンピースに滴り、赤黒い染みを作っている。
それは身を屈めると丁度視界に入り、そこからまた恐怖が込み上げる。胃液と共にせり上がる恐怖に、思わず口許を覆った。すると、掌で乾きかけた血液の臭いが鼻の奥に届く。
状況すら理解も把握も出来なかった。一体、自分の身に何が起きているというのか。エンジンの振動が下半身に響き、更に吐き気が込み上げる。それと、車の中は異様に臭かった。何の臭いかはわからないが、何かが腐敗したような臭いがする。
今まで気付かなかったのは混乱していたせいだろう。今だって勿論混乱してはいるが、少しずつ脳の奥が冴えてきた。
──誘拐、されたのだ。
先程よりも、はっきりとそう思えた。自分はもう、家に帰ることは出来ないのかもしれない。祖父に会うことも二度と叶わないのかもしれない。
涙が溢れた。それは恐怖によるものだったのが、そのときの千里の中では、哀しみだった。自分はもう、二度とつい先程まで当たり前だと思っていた生活には戻れないのだ、と。
再び殴られることを恐れ、千里は小声で泣いた。小さな嗚咽を洩らし、このあと訪れるであろう恐怖にうちひしがれた。
──きっと、殺されるのだ。
毎年、何件かは報道される誘拐のニュースを知っていた。どの児童も皆、生きては帰っていない。殺されて、山中に棄てられたりするのだ。
涙は止まらなかった。帰りたい。死にたくない。嫌だ。
喚きたい気持ちが止めどなく溢れてくるが、ワンピースに落ちた血がそれを許さなかった。
短い人生で経験したことなどない恐怖が、千里の全てを埋め尽くしていた。
どれだけの時、身を屈めて泣いていたのか。不意に車が停まった。車体が乱暴に揺れ、エンジンの振動が伝わらなくなった。
──ああ、殺される。
千里は更に涙を流した。しかし、諦めるには至らなかった。もし、車を降ろされるならば、その隙に走って逃げることは出来ないだろうか。どうにか、男の腕を振り払うことは出来ないだろうか。
帰りたかったのだ。祖父が待つ、あのアパートに。その思いだけで、恐怖が全身を支配し、思考が停止しそうになるのをどうにか抑えた。
男が車から降りるのが視界の隅に入り、千里はそこから必死に逃げ出すシュミレーションを脳内で繰り返した。扉が開いた隙がいいか、それとも腕を掴まれたならそれを思い切り振りほどくべきか。そして、取り敢えず、駆け出す。
闇雲にでいい。何処かに家があれば飛び込む。山中などであれば、ひたすら走る。どうか、ここが住宅街などであればいいのだが。
恐怖で外の景色を確認していなかった自分を恨んだ。しかし、それは悔やんでも遅いことだ。取り敢えず、男から離れることを考えるしかない。
千里は意を決して、震える手を抱え込んだ。
すると、背中側の扉がスライドして開いた。ねっとりした風を腕に感じる。
──怖い。
自分を拐った男が近付いてきたことに震えた。男が運転しているというのは、千里にある種の安心感を与えていたのだ。運転している限り、そうそう自分に対してその手が伸びてくることはないのだ。
──でも、逃げなきゃ。
そう思った瞬間、ぐい、と髪の毛を引っ張られた。背中を向けていたせいで腕を掴めなかったのだろう。
「痛……っ」
ぷちぷち、と何本か髪の毛が抜けたのがわかる。その痛みと、予想していなかったことに一瞬思考が止まる。
髪の毛で引き摺られるようにして車から降ろされた。あまり抵抗せずにいたのは、車中に籠っても助からないからだ。本当は怖いし、気持ち悪かった。
見ず知らずの男にこうして触られることは怖い。出来れば車中で踞って抵抗したいが、それでは逃げられない。
車から引き摺り降ろされ、外へと転がった。地面は砂利で、腕が擦れた。尖った小石があるのか、二の腕に刺さり、小さな痛みを感じる。
──今だ。
男が髪の毛から手を離した隙に、千里はどうにか身体を起こし、立ち上がろうとした。
──今しかない。
後少しで立ち上がるというそのとき、思い切り顔を殴られた。そしてまた、地面へと落ちる。左頬に強すぎる衝撃を感じ、目が回った。
しかし、そこが住宅街であることだけはわかった。家が、ある。家が建ち並んでいる。辺りはすっかり暗くなっていたが、家々の窓から灯りが漏れている。
「だれ……」
誰か助けて。
そう叫ぼうとした瞬間、地面に背中を押し付けられ、口を塞がれた。大き過ぎる力は、こどもの千里に抗えるものではなかった。それでも、塞がれた口から声をあげた。
小さな唸り声のようなものが二回程自分の耳に届いた後、今度は腹部に衝撃を感じ、何が起きたのかわからないまま、千里を意識を手離した────。
そこからは、地獄だった。
千里を拐ったのはまだ若い男で、どう見ても二十代半ばくらいだった。千里を──恐らく──自分の家の中に運んだ後、その足を鎖で繋いだ。それは風呂場で、トイレは目の前にあり、動ける範囲で用は足せた。
戸建ての家だとは思うのだが、家の内部は全くわからなかった。動けるのは風呂場とトイレの範囲だけだ。
着替えもなく、食事は一日に二回、朝と夜に与えられた。最初は食事をする気にもなれなかったのが、無理矢理口に突っ込まれた。拒否するように口を閉ざすと、殴られた。
自分の身に何が起きているのか、それでもまだ理解出来なかった。いや、千里の脳は理解することをやめていた。
拉致監禁。
自分の身にそんなことが起きていると、理解したくなかったのだ。
男は毎日背広を来て仕事に行き、帰ってくるのは遅い時間だった。時計もないので正確な時間は不明だが、夏場の空が真っ暗になってから帰宅してきていた。
風呂場とトイレには磨りガラスがあり、そこからだけ時間の経過がわかった。
冷たい風呂場で眠り、冷たい風呂場で一日を過ごす。それでも夏の暑さ暑さに参りそうになることはあった。それでも与えられて水を飲み、浴槽の水で足や手を冷やして凌いだ。
途中からは腹が減り、与えられたコンビニ弁当やパンを無言で食べた。けれど、恐怖がやむことはなかった。
男は千里に性的な暴行を加えることはなかったものの、殴ったり蹴ったりすることは多かった。理由は何もない。
帰宅したと思えば、真っ先に風呂場に来て千里を殴った。風呂場から去ったと思えば、少し時間を置いて蹴りに来た。
その度に、千里の身体には痣が増えた。その度に、恐怖が心を蝕んででいった。
しかし、朝から殴られたり蹴られたりすることは一度もなかった。朝は風呂場に顔を出したと思うと、食事だけを置いていった。
男が口を開くことはなかった。一度も、ではないが、殆ど男の声を聞いた記憶はない。あるとすれば、帰宅したとき、臭い、と言われて頭からシャワーの水を浴びせられたことくらいだ。
臭いのは仕方無いのに、と千里は麻痺し始めた心でそう思った。
この夏場、冷房もない風呂場に閉じ込められ、身体を洗っていなければ、服も着替えていない。下着だって取り替えていないのだ。自分でも、自身からすえたような臭いがするのを感じていた。
殴られたり蹴られたりするとき、その都度死にたい、いっそ殺してくれと願った。それほどまでに男の暴力は一方的で強いものだった。千里の小さな身体は、いつも痛んでいた。
しかし、千里が死ぬことを望んではいないのか、死ぬまでの暴力は与えられず、反対に食事と水分だけは確りと与えられた。死ぬな、と脅されている気分になった。
腹が減るのも、喉が渇くのも防げることではなく、与えられるものを摂取した。生存本能もあるが、男から脅されているという意識が強かった。もし、与えられた食事や水を口にしなければ、それだけで酷く暴力を振るわれる気がしてならなかったのだ。
男は完全に、暴力で千里を支配していた。
監禁されて何日が経過したのかもわからない。男が仕事に行っている間だけが安息を得られる時間だった。
殴られることも、蹴られることもない。なので、磨りガラスから入り込む光が翳ると千里の心は怯えた。
また、殴られる。また、蹴られる。
暑くてこのままでは死ぬと思い、シャワーを勝手に浴びた日があった。熱中症になりかけたのか、頭が重く、吐き気がした。だから、水を浴びた。
それが知られたとき、いつもよりも多く殴られたし、蹴られた。その度に、足に繋がられた鎖がちゃらちゃらと鳴り、千里は痛みから意識を逸らす為にその音だけを聞いていた。
何故か、叫ぼうとは思えなかった。
ここは住宅街だ。叫べば誰かが気付いてくれたかもしれない。それでも叫ぶ気が起きなかったのは、恐らく初日のせいだろう。
男は千里を監禁した初日、もし騒いだら殺す、とだけ言って盛大に暴力を振るったのだ。そうだ、そのときも男の声を聞いた。何の特徴もない、記憶にも残らない声だった。
執拗なまでに暴力を振るわれ、千里の精神はそこで一旦崩壊したのかもしれない。だから、殴られても蹴られても声をあげることもせず、男が留守にしている間も助けを叫ぶこともしなかった。
平和な日常から、地獄へと突き落とされた日。
気付けば、夏の暑さは更に増していた。
身体中が痛くて、それなのに心は何も感じず、しかし暴力を与えられているときだけは強い感情が芽生えた。いつしか、景色は真っ白になっていた。
いるのは確かに風呂場だというのに、そこは真っ白な部屋にしか思えなかったのだ。
真っ白な空間に身を置き、既に千里の血などで汚れたワンピースも真っ白に見えた。色がなくなっていたのだ。
──それから後のことははっきりと記憶出来ていない。
ただ、ひたすら与え続けられる暴力のだけを身体が覚えている。腹を蹴られる度に一瞬止まる呼吸。頭を叩かれる度に感じる目眩。頬を殴られると口に広がる血の味。それらだけはやけに鮮明に覚えていた。
誰か、助けて。
誰か、私を救って。
何度も心の中で叫んだ。
痛む身体を縮こまらせて、泣いた。
──いっそ、殺してやろうと思った。
こいつさえ、殺してしまえば、この地獄は終わる。
──けれど、殺せるものがなかった。
いや、躊躇ったのだ。人間を殺すということを。
恐らく、無我夢中になれば相手が大人の男であろうが殺すことは出来ただろう。けれど、それは千里には出来なかったのだ。
だから、何度も頭の中で男を殺した。殴られているとき、蹴られているとき。男をぐちゃぐちゃにして殺した。原型を留めない姿に変えた。
けれども、男は生きていて、また、千里に暴力を加えた。死にたくるほどの暴力を。
いつの間にか、どちらが現実かわからなくなっていた。
この手で殺したのか。それとも、殺していないのか。殺す度に、誰かが駄目だと叫び、それでも殺せと言い、でも男は生き返る。
千里の意識が朦朧とし始めていたからだ。
ギルティ・メイズ 碓井 旬嘉 @shunkausui
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