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「座ってて」
千里は部屋の電気を点けてから祈咲に言った。千里の部屋は1DK。今二人がいるのはダイニング部分。こうして来客があったとしても寝室を見られることはない。それが理由でそういった造りを選んだのだ。
「僕も何か手伝いますか?」
祈咲は座る前にそう尋ねてきた。
「大丈夫よ。座って楽にしてて」
千里が言うと、祈咲はわかりました、と微笑んで腰を下ろした。テーブルの下にカーペットは敷いてあるが、それだけでは座り心地は悪いだろう。千里は買い物袋をキッチンに置いてからクッションを祈咲に手渡した。祈咲はそれにありがとうございます、と言い、受け取りその上に座り直した。
これから作ろうとしている物は時間のかかるものではない。しかし、その間祈咲と二人きり。何を話せばいいのだろうか。自分から誘っておいて無言で料理を作り続けるというのもいかがなものかと思う。けれど気の利いた会話を出来る自信もない。
どうしたものかと悩みながら、買い物袋の中身を取り出していく。
「いつも洋風なお料理が多いんですか?」
どう会話を切り出すか悩んでいると、祈咲から話し掛けてくれた。これといって特徴はないが、耳に残る声が部屋に届く。
「ううん、和食が多いかしら。煮物とか好きなんだけど、短時間で食べれないから今日はやめたのよ」
これが明日も家でゆっくり出来るのなら煮物を作るのもいいだろう。今日から煮込めば明日には確りと味が浸み込む。けれど明日家で食事を出来るとは限らないので簡単に作れて、今日美味しく食べられる物を作ろうと思ったのだ。
「そうだったんですか」
祈咲は声だけでも微笑んでいるように感じられる。
「祈咲君の実家は何処なの?」
「東京ですよ」
答えるまでに僅かに間があったように思えた。そしてその答え方に違和感を覚えた。ここも、今千里達が暮らしている場所も東京だ。そういった場合、区や市を言うものではないだろうか。
「千里さんは?」
「ああ、私は静岡なのよ」
千里は大学進学を機に上京したのだ。それからずっと東京にいる。今後地元に戻ることもないだろう。四年前に育ててくれた祖父が他界してからそう思うようになった。
「静岡なんですね」
祈咲が千里の返しを復唱する。普通であればここから、実家にはどれくらいの頻度で帰るのかとか、地元の話を聞いたりするものだがその類の質問が祈咲の口から出てくることはなかった。
千里としても地元のことについて語りたくない気持ちが強い為、それは有難かった。
「ご兄弟は?」
地元について訊かないのであれば、家族構成くらいしか話題は思い付かない。
「……姉が、いました」
──いました。
祈咲は過去形で答えた。これは訊いてはいけないことだっただろうか。
「僕が小学校四年生のときに事故で亡くなったんです。両親も共に。僕だけが運良く生き残ってしまいました」
祈咲の語る過去は同情せざるを得ないものだったが、妙な引っ掛かりを覚えた。しかしそれがどの部分に対してなのかはわからなかった。
「そうだったの。ごめんなさい、知らなくて」
千里は料理をする手を止めて、祈咲へと謝罪の言葉を掛けた。
「いいえ、とんでもないです。もう、過ぎたことですから。千里さんは、ご家族は?」
「私は、ちょっとした家庭の事情で祖父と二人で暮らしていたのよ」
大したことではない。父親が事業に失敗し、多額の負債を背負ったのだ。両親はその負債を返す為に、身を粉にして働くことになり、千里は父方の祖父に預けられたのだ。それは千里が小学校に上がったばかりの頃だった。
そしてそれから三年後、両親の行方はわからなくなった。行方を眩ませたのだ。父親が残した借金はまだ相当な額が残っていて、祖父は自分の貯金と住んでいた家、持っていた車や」家財を全て売り払ってそれを返済した。
その後、狭いアパートを借りて千里と二人で静かに暮らしていたのだ。
千里はそのことを祈咲に簡潔に話して聞かせた。その間料理をする手は止まっていたが、祈咲は口を挟むことなく聞いてくれた。
──人に話したのは初めてだった。
祖父と二人で暮らしていたというのは何人も話したことはある。けれどその理由を話したことはなかった。
祈咲が自分の過去を話してくれたから、自分も話さなくては、と思ったのだ。これは隠すほどのことでもない。恥ずかしいことでもないし、可哀想なことでもない。ただ、人と少しばかり違うだけ。そうはいっても、人と少しばかり違う家庭環境など有り触れている。
人並みの家庭環境の方が実は少ないのだ。仲の良い両親は自分を愛してくれて、そのなかで幸せに育つ。そういったことは非常に少ないのだと、千里は祖父から教えられた。
そんな祖父も幼い頃に父親を病気で亡くし、母親と身を寄せ合うように暮らしてきたとのことだった。そして祖父の妻──つまり千里の祖母も、千里の父親を生んでまもなく死亡した。事故だったらしい。だから千里の父親も、両親の愛情というものを知らずに育ったのだ。
「聞かせてくれてありがとうございます」
千里が唇を閉じると、祈咲は少し悲しそうに笑って言った。
「お礼を言われるような話じゃないわ。寧ろ、人に聞かせるような話じゃない」
親しい間柄なら兎も角、今の千里と祈咲の関係でこんな話をされても正直なところ困るだけだろう。言うだけ言ってからそのことに気が付いた。
謝るべきだろう。千里はそう思い、再び動かし始めた包丁を持つ手を止めて口を開こうとした。けれど先に祈咲が言葉を発したので、千里は言おうとしていたことを飲み込んだ。
「なんか、似ている気がしていたんです」
祈咲はえらく穏やかな口調でそう言った。
「似ている?」
その言葉に首を傾げる。
「はい、そうです。僕と、千里さんはどこか似ている気がしていたんです」
自分と祈咲が似ている。それはどこか不思議な感じがした。自分ではそんなふうに思ったことはなかった。というか、そんなことを考えたことはなかった。
「だから、生い立ちを聞いて、なんだか納得しました。僕達、家族の愛情を失ったんだなって」
妙な言い回しだと思った。本来なら、家族の愛情を知らずに、と表現するところではないのだろうか。けれど祈咲は「家族の愛情を失った」と表した。
似ている、と祈咲に言われるのは嬉しいと思ってしまう自分がいる。しかしそれはとてもではないがいいと言える共通点ではない。
こんなときに返す言葉が浮かばない。何を言ったらいいのか、全く言葉が脳裏に生まれてこないのだ。
「……そうね」
千里はそれだけを返した。嬉しい、と言うのは違う。似ているというのは確かにどこか嬉しく感じてはいるが、生い立ちに関してはそう思えない。仕方ないことだとは思う。自分や祈咲だけが特別だとも思えない。
「気を悪くしてしまいましたか?」
料理を再開した千里の背中に祈咲の申し訳なさそうな声が投げ掛けられる。千里の短い返事を祈咲はそう解釈したのだろう。
「ううん、そうじゃないのよ。上手い言葉が出てこなくて」
千里は正直な気持ちを口にした。祈咲の顔は見ずに言う。いちいち手を止めていたら料理が進まない。
「それならよかった」
わかりやすく安堵した声が部屋に響く。
「あ、テレビ点けていいわよ」
そうしないと会話が途切れると静かな空間がひたすら続いてしまう。心地悪いわけではないが、なんとなく落ち着かない。背中に祈咲の視線を感じる気がして集中力が保てない。
「はい」
祈咲が答えた後、リモコンを手に取る音が耳に届く。リモコンはいつもローテーブルの上に置いたままだ。決して大きくはないテーブルなので本当はリモコン置き場を用意すればいいのだろが、そうしてもそこまでするのは面倒だった。要所要所でずぼらな性格が現れる。
部屋にはテレビからの音声が漂い始めた。昼過ぎ。これといったテレビ番組がやっている時間ではない。やっているとしてもドラマの再放送か情報番組程度だろう。ザッピングする音が続き、漸くそれは落ち着いた。どうやら祈咲は情報番組でチャンネルを止めたみたいだ。
祈咲らしいように思う。なんとなくだがドラマを観る祈咲というのは想像がつかない。彼の好みというものを知らないからだろう。
千里はテレビの音を背中に聞きながら料理する手を進めていった。会話をやめると手はどんどんと進んでいく。料理をするのは久し振りだが、集中しだすと早い。作る物が簡単というのもあるのだろうが、幾らもしないうちに料理は完成した。
「美味しそうですね」
祈咲はテーブルに並べられた料理を前に歓喜の声を上げた。そうした素直な反応をされるとどうにも落ち着かない気分になる。そもそも他人に手料理を食べてもらうことはこれが初めてだった。手料理を食べてもらったことがあるのは祖父だけだ。
「ありがとう」
千里は照れ隠しでそれだけを言った。
「じゃあ、いただきます」
祈咲が軽く手を合わせ、行儀よく言う。まるで給食のときのこどものようだと思った。
「どうぞ」
祈咲はなにやら他の楽しそうにフォークを手にした。早速といったようにまずはグラタンに手を伸ばす。ホワイトクリーム作りは慎重に行ったので滑らかに出来たと思う。しかし感想を聞くまでは自信を持てなかった。
「うん、美味しいです」
祈咲は大きく一口を食べ、頷きながら言う。想像していたより熱かったのか、口元を動かしている。
「よかった」
千里は祈咲の反応を見てから自分も料理へと手を伸ばした。グラタンもポトフもなかなか上手く出来ている。自信で満足しながら食事を進めていった。
食事中というのはどうしても会話が少なくなる。それでも少しずつだが言葉を交わした。殆どが他愛のない話題で、気付けば過去のことあは全く話していなかった。
学生時代のことや、こどもの頃のこと。そういったことは自然に話題に上らない。それは千里が意識的に避けていたからだろう。子どもの頃のことは出来れば話したくない。話したくないことを除けばいいのだろうが、どうしてもそのことから先が話せなくなってしまうのだ。だったら最初から話題にしなければいい。
そうすると出来る会話というのは限定されてしまうが、実際日常の会話で幼少期のことを話すというのは滅多にないことなので困ったことはない。千里は今までもこうしてずっと、幼少期のことを話さずに過ごしてきた。
「ご馳走様でした」
食後に、と淹れた紅茶を飲みながら祈咲が丁寧に頭を下げてきた。静馬の事務所でハーブティーを淹れるような祈咲にティーパックの紅茶を出すのは少々気が引けたが、それかインスタントコーヒーしかないのだから仕方ない。
「お粗末様でした」
人に手料理などご馳走したことがないので、こういったときの返しの言葉すらわからない。それなりに上手く人付き合いをしてきたつもりではいたが、実はそうでもなかったと思い知る。
「誰かにご飯作ってもらうなんて、本当に久し振りだったので温かく感じました」
祈咲はマグカップを静かに置いて、息を漏らすようにそう言った。実家を離れて久しいのだろうか。千里も誰かの手料理など、祖父が作ってくれたものを食べたのが最後だったと記憶している。
「そう思ってもらえて嬉しいわ」
突然の誘いをしてしまった為、そう言われて安堵した。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
こうした会話で礼を返すのはおかしいとは思ったが、口にせずにはいられなかった。あのまま一人だったら、きっと料理をすることはやめていただろう。そして進展しない事件もことを悶々と考えていただろう。しかしこうして祈咲がこうして来てくれ、事件のことは頭からすっかり抜けていた。
勿論、事件のことを考えなくていいというわけではないが、たまには頭から抜くことも必要だ。今日はそのいい機会だったと思う。
「……千里さんは今回の事件についてどう思いますか」
祈咲の落ち着き払ったような声が部屋に響く。いつの間にか夜に近くなった部屋は昼間のそれとは違う静けさがある。
「今回の事件」
千里は口の中で復唱する。すなわち、今千里が携わっている事件のことだ。
「早急に犯人を捕まえたいとは思っているわ」
千里は一番に思い付く言葉を外へと出した。それがまず、やるべきことだ。これ以上被害者を増やさない為にも、水穂の為にも。
「それは刑事として、ですか?」
祈咲はまるで尋問のように訊いてくる。テレビの点けられていない部屋がやけに静かだからだろうか。
「それも、勿論あるわ。ただ、他にも」
千里はそこで言葉を途切れさせた。ここからは先は個人的なことで、國原にも伝えていないことだ。それを祈咲に告げていいものだろうか。迷いが生じた。
祈咲は警察関係者でないからこそ伝えてもいいのかもしれないが、反対に一般人だからこそ言ってはいけないかもしれないというのもある。
「ただ?」
祈咲が先を促すように千里の目を見詰めてきた。黒色の瞳が真っ直ぐに千里を捉える。
「大丈夫ですよ。静馬さんに言ったりしませんから」
千里の迷いを読み取ったらしい祈咲が苦笑を浮かべて言う。彼なら、大丈夫。根拠のない自信が湧いた。そして、同時に彼に聞かせたいと思ったのだ。
「……一人の女の子が悩んでいるの」
「え?」
祈咲はこのところ静馬へと情報提供する場に同席をすることが多かった。それが静馬の意思なのか、祈咲が自ら望んでなのかは千里には知る由もない。なので、事件についての詳しい説明を省くことが出来た。
「彼女は、殺してもらうつもりなんかじゃなかったって。ただ、高学年の子だから、多少は理解していたかもしれない。けれど、それが本当になるとは思っていなかった、そんな感じだったの」
恐らく、水穂からしたら気休め程度の気持ちだったのだろう。誰かに救いを求めるという形が彼女にとって重要だったのだ。
「けれど、本当に殺されてしまい、彼女は罪悪感に苛まされている」
角田を殺したのは自分も同然。水穂の小さな心はそれだけで満たされてしまっているようだった。
「そんなこと……」
祈咲は喉を詰まらせたような声を出した。
「彼女は、結果としては救われたのではないんですか」
結果だけ見ればそうかもしれない。水穂は角田から救い出されたのだ、しかしそれはまた、水穂に新たな苦しみを与えることになった。
「だからね、その子の為にも犯人を逮捕したいと思っているの」
それが千里の正直な気持ちだった。無論、刑事として、というのだってある。刑事になった以上、悪事を見過ごすことは出来ない。例えそれが犯人が正義だと思っていることだとしても。
「そうなんですね」
祈咲は小さくそう零した。
「でも、それがどうかしたの?」
同じような質問を以前静馬の事務所でもされた。そのときに千里なりにすべきことがはっきりと決まったのだ。それは祈咲のお陰だと言えるだろう。
「いいえ、進展せずとも意識は変わらないのかな、と思いまして」
祈咲の言いたいことは理解出来た。恐らく、水穂の件がなければ千里としてもここまでの意識を持つことはなかっただろう。犯人が許せないという気持ちはあるが、ここまで絶対に逮捕してやる、といったものではないだろう。そしてここまで進展しない事件ならば、どこかで諦める気持ちになっていた可能性だってある。
千里はその全てを口にした。自分の部屋で二人きりという環境が千里の口と気持ちを軽くしたのだろう。それと、祈咲の微妙な立場だ。
一般人であって、完全な一般人でない。だからこそ話せることがある。これがたんなる友人であれば、今の会話の殆どが話せないことだ。
今回の事件はマスコミに公開していないことも多く、秘匿すべきことも沢山ある。しかし祈咲は静馬の事務所の人間なのでこうして話すことが出来るのだ。
「そうね、変わらないわ」
千里は一呼吸置いてから答えた。自分の意思は変わらない。変わることはない。
「……私には、人に言えない過去がある」
ぽつりと溢すように呟いた。しかし祈咲はその言葉をきちんと拾ったらしく、え、という声を上げた。
「だから、刑事になったの」
だから、自分が関わった事件の犯人は必ず逮捕したい。刑事を目指したときからそう考えていた。千里の過去が刑事という仕事に直結するわけではない。しかし、それでも犯罪に関わる職に就きたかったのだ。
過去を忘れない為に。犯罪を憎しみ続ける為にも。
でないとどこかで風化してしましそうだった。あの出来事は、自分とは関係のないものだと思い込んでしまいそうだった。それが悪いわけではない。もしかしたら、そのほうが幸せなのかもしれない。
刑事ではなく、普通に企業に就職して、過去から離れる。そんな未来もあったかもしれない。けれど、千里にそれは出来なかった。
言い訳が欲しかったのだ。もしかしたら、忘れられないかもしれない。過去と離れることは出来ないかもしれない。そうなったときの言い訳だ。
自ら忘れないようにしているのだ。心にわざわざ刻み込んでいるのだ。
そうすることで自分に言い訳をしているのだ。
「だから、犯罪が憎いということですか」
祈咲は静かな声で訊いてきた。勿論、今胸中で思ったことは口にしていない。けれど祈咲はそれを読み取ったかのように訊いてきたのだ。
「……そうね」
過去のことを詳しく話すことは躊躇われた。そう思ってから自分の考えに違和感を覚える。
──躊躇われた。
今までの自分だったら、いや、相手が祈咲でなければ、話すことは出来ないと思ったはずだ。なのに今は躊躇われたのだ。
祈咲に自分の過去を知られるのが怖いと思った。自分を普通の女性と言ってくれた祈咲に「普通でない」自分を知られたくなかった。
確かに自分では普通だと思っている。過去のことはあれど、今の自分は普通の女だ。多少、人と距離を取るなどはあるが、それはなんの過去もなくともそういった性格の人だっている。なので自分は「普通」なのだと思っている。
しかし、人が千里の過去を知れば誰でも「普通ではない」と思うだろう。祈咲にはそう思われたくなかった。
自然と口を閉ざしてしまい、部屋の中には沈黙が漂った。どちらも言葉を探しているように思える。それでも口を開くことはない。
「もう、遅いですね」
どれくらいの時が経っただろう。恐らく数分程度だったのだろうが、沈黙の時間はその何倍にも感じられた。
「あ、そうね」
気付けば部屋の掛け時計は夕方をとうに回っていた。窓の外も暗がりが広がっている。
「じゃあ、僕は帰りますね」
祈咲の微笑みに千里は頷いた。少しだけ寂しさを感じる。けれど彼を引き止める言葉も話題もない。
「今日はご馳走様でした」
玄関先で祈咲が丁寧に頭を下げた。はらりと白髪が揺れる。
「こちらこそ、急に誘ってごめんなさい」
千里の言葉に祈咲は笑って首を横に振る。また、白髪が揺れる。
「千里さん、得意料理ってなんですか」
唐突に祈咲が質問をしてくる。祈咲の声は耳障りがよい。
「得意料理……。そうね、ビーフシチューかしら」
得意ではあるが、なかなか作る機会はない。祖父と暮らしていたときはよく作っていた。それはビーフシチューが祖父の好物だったからだ。祖父が喜んで食べてくれるから、かなりの頻度で作った。そのため、ビーフシチューが千里の得意料理になったのだ。
「いいですね、ビーフシチュー。好きなんですよね。今度は、それを作ってくれませんか?」
「ええ、いいけど……」
「約束ですよ。では、お邪魔しました」
祈咲はそれだけ言うと、もう一度頭を下げてから扉の外へと出て行った。その後姿を、何故か引き止めたい衝動に駆られたが、腕が伸びることはなかった。
暗闇が拡がっている。どこまでも果てしなく続かのような闇。一寸先すら見えない。
そんな夢を見るようになっていた。いつからだろう。前からではない。ここ最近だ。どうしてだろうか。どうして、先が見えなくなってしまったのだろうか。
いや、元々先なんて見えてはいなかった。目の前のことだけを熟してきたのだ。やるべきこと。やりたいこと。やらなくてはいけないこと。
それだけが自分を構成しているのだ。それだけが自分の存在証明なのだ。
祈咲はふう、と息を吐いた。ずっと微笑む形を作っていた顔の筋肉に疲労を感じることはない。慣れだろう。いつしか、そういった表情を作ることに慣れてしまっている。
しかしそれは好んで慣れたものだ。生きていく上で必要な行為だから。それが出来なければ周囲に馴染むことは出来ないから。
こんな見た目だ。周囲に溶け込むことは出来ない。だからこそ、打ち解ける必要があった。そうしないと、存在が浮き彫りになってしまうから。
浮き彫りになって得なことなど何もない。
ちか、ちか、と暗闇の中でスマートフォンが受信を報せる光を放った。なるべく手から離さないようにしている。仕事中や人と会っているときはさすがに無理なので、それは一人のときの習慣だった。
受信メールを開く。
『たすけてください。ぼくをたすけて』
短い言葉に必死さを感じた。
『君を苦しめているのは誰? 教えて。そうしたら君を助けてあげられる』
本来は一通目で全てを報せてくれるのが望ましい。しかしそれが出来ないことから、ある程度幼いことが窺える。これは急いだほうがいいかもしれない。
次のメールが来るまでの時間が非常にもどかしく感じられた。スマートフォンはまだメールの受信を報せない。
ただそこには真っ暗な画面があるだけだった。夜の闇の中ではそれは祈咲の姿を映すこともしない。
ぶる、と小さくスマートフォンが震え、祈咲は急いでメール画面を開いた。そこには小さな悲鳴が書き込まれていた。
拙い言葉達が懸命に助けを求めている。祈咲はそれを一読すると、『待っててね』と、短いメールを返信した。
不意に足元に闇が拡がる気がした。まるで奈落に落ちるかのような感覚だと思った。ぽっかりと自分がいる空間だけが闇に染まり、底をなくす。どこまでも落ちていくような感覚の中で、焼けるような痛みを思い出した。
気付けば、自分の腕に触れていたのだ。一年を通して長袖に包まれた腕。
「早く行かなきゃ」
祈咲の譫言のような呟きは夜の闇へと溶けていった。
新たな事件が起きた。
今度は学童の職員が殺されたのだ。四十代の女性。
「預かっている生徒に躾と称した折檻を行っていたらしいよ」
藤立が眉間に皺を寄せる。折檻の内容は真冬に水風呂に入れたり、塩を大量に投入したスープを飲ませたりと、身体に傷がつかないものだったようで、挙句に親に言ったら仕返しをすると脅しまでかけていたらしい。
「一連の事件で何が驚くって、これだけの児童が傷付けられていることよね」
二ノ瀬が溜め息混じりに言う。それは捜査員の誰もが思っていることだった。
実際、そういった事件での検挙例は幾つでもある。実の子を虐待で殺したり、保育士が預かっている幼児を虐待していたり。決して少なくはない。
それでも、こんなふうに次々とそういった者達が殺害されていくのは正直驚きしかないほどに数が多い。そしてこれはまだ、そういった事例の氷山の一角に過ぎないのだろう。こういった被害を受けている児童の全てが救いの手を求めているわけではない。
「そういった事件の担当の課とか作ったほうがいいんじゃないかしら」
二ノ瀬の言葉に藤立が頷く。そういった専門の相談施設はある。しかしそこに連絡をするのだって、こどもたちからしたら勇気がいることだろう。それは今回の犯人へ救いを求めるのも同じだと思う。
だからこそ、犯人に連絡をするということは彼らが逼迫した状態だというのは窺える。だからといってそれは勿論褒められたことではない。しかし責められることでもないのだ。
これをどう対処していくべきなのかも問題として圧し掛かっている。そこまでは警察の仕事ではないのかもしれない。けれどどうしてもこの事件とそのことは切り離せないのだ。
「それは他の役所の仕事だろう」
國原が溜め息混じりに言った。
「まあ、それもそうなんだけどね」
藤立までも溜め息を溢す。
自分達警察がするべきことは犯人の逮捕だ。
「……犯人、逮捕出来るのかしら」
ぽつりと、二ノ瀬が弱音を吐いた。二ノ瀬が弱音を吐くのを初めて聞いた。二ノ瀬はいつも凛とした佇まいをしていて、強気な態度で何事にも挑んでいた。そんな二ノ瀬が弱音を吐いている。
手詰まり感は捜査本部全体に広がっている。手詰まりどころではない。少しも犯人に近付けていない状況なのに被害者だけが増えていく。この状況を打破できる空気もない。
「こども達がどこからその情報を入手しているかもわからないんですよね」
千里の言葉に藤立が頷く。
「一貫して口を割らないんだよね。まあ、力ずくで口を割らせるっていうのは不可能なんだけど」
盛大な溜め息が会議室に漏れる。
相手がこどもなだけに、無理を通すことが出来ないのだ。これが大人相手であれば多少の無理も可能だ。しかしこども相手に無理を押し通せば児童保護がどうだとか言い出す連中も出てくるし、そもそも親がそれを許さないことも多い。
そうなると児童達がどういった経緯で「助けを求める」という情報を入手しているかすら明らかに出来ないのだ。
「完全に手詰まり」
國原が溢す。今の状況をそれ以外の言葉で表しようがない。現状として捜査本部は機能を停止している状態に近いのだ。
「目撃情報も特に出てこないままなんですよね?」
千里の質問に二ノ瀬が頷く。今まで何人と殺害されてきた。だというのに、目撃情報はひとつもない。これは犯人が相当手慣れているというのが窺える。手慣れているから、短時間で犯行に及ぶことが出来る。だからこそ、人目につくこともないのだ。
「取り敢えず、俺達は行ってくるよ」
國原の言葉に千里は立ち上がった。何処、と言われなくとも行先は判断出来る。というよりも、一か所しかない。
「いってらっしゃい」
藤立と二ノ瀬もその場所がわかっているようで何処とも訊かずに揃ってそう言った。
電車に揺られながら、親子連れを眺めた。若い母親に幼い男の子。男の子は眠いのかぐずっている。年の頃は四歳くらいだろうか。母親は千里よりも若いように思える。
母親は男の子を適当にあやしながらもスマートフォンから目を離せずにいるようだ。メッセージアプリか、それともネットサーフィン、もしくはゲーム。膝に纏わりつくこどもそっちのけでスマートフォンの画面を食い入るように見詰めながらも素早く指を動かしている。
最近、こういった光景をよく目にする。一昔前、それこそ携帯電話の機能がここまで進化していないときはこのような光景を目にすることはなかった。しかし今はこういった光景が有り触れているし、寧ろこういった親子が当たり前のようになっている。
親子でなくとも、車両内でスマートフォンなり携帯電話を手にしていない者は少ない。誰も彼も、画面を食い入るように見詰めている。
千里にはあまりそういった習慣がない為、よくよく観察するとそれは異様な光景のように見えた。皆、こうして一人で電車に乗りながらも誰かと繋がっている状態なのだ。勿論、そうでない者もいるだろう。ゲームによっては違う場合もある。
インターネットで繋がる。二十年近く前からでは想像も出来ないことだろう。千里としてはメールもオンラインゲームも当たり前に育った世代だ。刑事の先輩から、モノクロでメールも同キャリア同士でしかメールが出来ない携帯電話もあったという話を聞いたときは信じられないくらいだった。
時代は流れ、便利になったはずのものが犯罪を生んでいる。それは嘆くべきことなのだろう。
電車が揺れ、立ち上がったこどもが転ぶ。それでも母親は気付かず──いや、気付いていてもゲームやメッセージアプリの方が大切なのかも知れない──、こどもはひとりで起き上がった。
親子の関係も希薄になっているのかもしれない。
しかし、親というものをはっきりと知らずに育ち、今こどもがいるわけでもない千里には判断出来ることではなかった。
電車を降り、オフィス街を進み、高層ビルの中にある静馬の事務所へと向かう。既に何度となく歩いた道。ここを通過する度、進展を願う。けれどいつも何の成果もなく、帰路を辿ることになるのだ。
静馬に期待を寄せているのだろう。静馬なら、自分達に見付けられない真実を掴んでくれるだろう、と。けれどそれは人頼みだ。自分達警察が真実に辿り着かなくてはならないというのに。
「今日もこれといった情報はないまま新しい被害者が出たわけだね」
静馬は千里と國原の顔を見るなり溜め息を吐き出した。その気持ちは痛いほどに理解出来る。それでも自分達はいつも手ぶらで此処を訪れている状態なのだ。
「……すみません」
千里はつい反射的に頭を下げた。まるで此処までの道程で思っていたことを言い当てられたような気分になったのだ。
「まあ、謝罪の言葉が聞きたいわけではないのだがね」
静馬はそう言い、千里に気を落とさないように言ってくれた。
「しかし、犯人が狡猾なのか、と思うが、まあそうではないだろうね」
「どういうことですか?」
ソファに座るように促されるのに従いながら返すと、静馬は足を組んでから答えた。いつも長い足だと思ってしまう仕草だ。
「なに、簡単なことだよ。被害者と犯人に接点がないだけのことだ」
目から鱗だった。
しかしよく考えてみればそうだ。犯人はこどもからのメッセージをもとに被害者を選んでいるのだ。それなら勿論、犯人と被害者は何の接点もない。
当たり前のこと過ぎてその考えを失念していた。
「まあ、この事件の犯人は無論馬鹿ではないとは思うよ。馬鹿ならば、とっくに有益な情報を落としているだろうからね」
事件現場にはいつも何の情報も落ちていないのだ。
「プロファイリングは終わったのかい? それも意味はないと思うけどね」
静馬の言葉に國原が「なら聞くな」とだけ返した。実際プロファイリングも難航している。これといった犯人像が見えてこないままなのだ。統一性がないわけではない。寧ろ統一性しかないのだ。
出てくるプロファイリングの結果は「幼少期に何らかのトラウマを抱く経験をしている」という事柄だけだ。正直そんなことは素人でもわかるだろう。
そんな結論しか出せないチームの何を以てしてプロだというのだろうか。
「いらっしゃいませ」
少しばかり重くなり始めた空気を打破するように特徴のない声が響く。それが祈咲の声だとすぐにわかった。
祈咲はいつも通り手に茶を載せたトレーを持っている。千里達の訪問に気付き、用意をしてきたのだろう。
「ああ、祈咲も一緒にどうだい?」
静馬が言うと、祈咲は失礼します、と言って茶を配り終わってから静馬の隣に腰を下ろした。その仕草は優雅で、どこか静馬に似ていると思った。
「今日も無能さを曝け出しに来てくれたんだよ」
静馬に言われ、千里は恐縮した気分になる。対して國原はわざとらしく眉間に皺を寄せているが、それは本気ではないように思え、静馬と國原の親密さが窺える。
「まだ進展はないんですね」
祈咲が憐憫の眼差しを向けてきたので千里は小さく頷いた。
最近、水穂にも会えていない。捜査が忙しいことと、水穂の登校が疎らなことが原因だった。ゆかりから水穂が登校してきたときに連絡が入るのだが、聞き込みやなんやらで夕方までに小学校に出向けないことが多いのだ。
水穂に会ったからといって、捜査が進展するわけではない。しかし、自分の決意が固まる気がするのだ。自己の為に水穂を利用するわけではないが、それに近いことは認める。それでも犯人が逮捕出来るならばいいと思う。それが水穂の未来の為になるのならば。
「いつになったら犯人が逮捕されるんだろうね」
静馬が本気と取れる溜め息を吐いた。静馬としても本腰を入れなくてはならないのか、進展のなさを煩わしそうに眉を顰めた。
「……」
千里と國原は黙り込み、部屋の中には沈黙が漂った。しん、と呼吸以外の音しかない部屋は千里の過去の記憶を呼び戻した。
──あの部屋もこんなふうに静かだった。
それは限られた時間だけだったが、確かにそこには自分の呼吸の音しかなかった。それがまた、窮屈だった。窮屈とは違うかもしれない。しかし、恐怖はとうに越えていたのだ。
「ひとつ聞きたいんだが」
國原が沈黙を破って口を開いた。
「なんだい?」
國原の問い掛けは静馬に向けられてのものだった。千里は國原の視線に合わせるようにして静馬の顔を見た。視界の端に祈咲の姿が入る。鮮やかな白がちらちらと揺れる。
「お前、本気で解決に導くつもりがないだろう」
静馬の眉がぴくりと動いた。形の良い眉は手入れをされているのだろうか。千里は國原の言葉が思いもよらないもの過ぎて、そんなことを考えてしまった。
静馬が乗り気でないのは端から知っていた。けれど、捜査本部からの依頼に多少は事件に向き合う姿勢を見せてくれていると思ったのだ。だというのに、國原はそんなことを言う。
「どうしてそう思うのかな」
静馬は静かな口調で返す。その声には感情が見えず、國原の言葉に対して静馬がどう思っているのか全く読み取れない。淡々とした声は冷たさすら含んでいる。
「最初からだ」
國原は真っ直ぐに静馬を見詰めている。その視線も、何を考えているのかも千里にはわからなかった。この二人の関係はいまいち謎のままだ。幼馴染で言いたいことを言い合える仲。しかし、本当に心の内が理解しあえているようには思えない。
恐らく、根本的に違い過ぎるのだろう。
千里の知る國原は正義感の強い男だ。ヒーロー気質とでも言おうか、生まれつき犯罪を許せないと思っているようなタイプだ。それは千里とも違う。千里は原因があって、犯罪を憎むようになったが、國原は元からそういう性格なのだろう。
けれど静馬は──國原の言葉を借りれば、殺人すら許容する節があるらしい。だとすれば、二人は対極の位置にいる。
そんな二人が心から理解しあえることはないのかもしれない。
「……例えばね、この事件を解決することが、深淵を覗くことだったとしても、君は犯人を逮捕したいと思うかい?」
静馬の問いは國原ではなく、何故か千里に向けられてのものだった。
「え……?」
静馬の問いの意味がわからず、千里は首を傾げた。
「君は自分の過去と照らし合わせて、この事件をどう思うんだい?」
どくん、と心臓が痛いほどに音を立てた。それは強い力で思い切り胸を叩かれたような感覚だ。
──どうして、そんな質問を。
千里は心臓が物凄い速さで脈打つのを感じた。身体中に勢いよく血液が回り、頭が痛くなり始める。どくどくと、蟀谷が痛くなる。
「お前……調べたのか」
静馬に対して不満を唱えたのは千里ではなく國原だった。國原は千里の過去を知る数少ない人物だが、彼がそのことを口にしたことは一度だってなかった。だから、見ない振りに似たことをして過ごせていたのだ。
忘れることは出来ない。なかったことにも出来ない。自分なりに向き合う術を見付けたつもりではいた。それでもそれは、所詮「振り」でしかないのだ。
「調べるなとは言われていないしね。深く付き合っていくには知る必要があると思っただけだよ」
なんでもないというふうに静馬は言ってのけた。確かにその通りだ。調べてはいけないことではないし、調べないでくれとも言っていない。一緒に仕事をする相手のことを調べるのは必要なことかもしれない。
どうとでも納得させる言葉は出てくる。しかし、だからといって納得出来るものではなかった。
人には知られたくないのだ。知る必要のない人に、知られたくなかった。
──あの、壮絶な日々を。
千里は眩暈に似たものを感じ、座っているというのに足元が歪む幻想を見た。ぐにゃりと視界が歪み、足元の床であった場所は渦を巻いている。
ぐるぐると視界が回り、立っているのか座っているのかさえわからなくなる。
──お願いだから、助けて。
自身の悲痛な叫びが脳内に木霊する。幼い自分の声は今よりもうんと高い。
──どうして私がこんな目に。
──どうして私なの。
幼い自分が何度も何度も叫ぶ。抜け出したいと、助けて欲しいと叫ぶ。
混乱が生じる。こんなふうにいきなり過去に突き落とされるのは初めての経験だった。己で思い出すのではない。強制的に過去の出来事の蓋を開けられたのだ。
「千里さん?」
その声は深い湖の底に届く、一筋の光のようだった。細いが、確りと軌道を描き、自分のところへとだけ届く光。
一瞬にして世界が元へと戻った。驚くほどの速さで視界が開けていく。
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