第2章『深淵と深淵』
祈咲の姿を頻繁に見付けるようになった。仕事帰り、休みの日、早朝。これといって決まった時間帯ではない。それでも祈咲を見付けるのだ。祈咲は千里の存在に気付くと必ず声を掛けてくれた。笑顔を向け、挨拶程度のことばだが、それでも近寄ってきてくれるのだ。
千里もそれに笑顔で返すようになっていた。挨拶から近況を報告しあうようになり、他愛ない世間話をするようになった。気付けば夏は終わりを迎えようとしていた。
事件は一向に進展を見せていなかった。それでも被害者の数はあれから二人、増えた。塾の講師の男と、幼稚園教諭の女。どちらもやはりというか、児童に危害を加えていた。塾講師は生徒に対しての言葉の暴力、幼稚園教諭は従妹への虐待。
エスカレートしているのだろうか。それとも今まで明るみに出なかっただけで、元々犯行の数は多かったのだろうか。それの判断は未だにつかないままなのだ。
このまま捜査は何の進展もしないのだろうか。捜査本部の中ではそういった声が上がり始めていた。それでも警察の威信に懸けて必ず犯人を見付けだせというのが上からの達しでもある。
「どうなるのかねえ」
藤立がホットコーヒーの入った紙コップを片手にしながら近付いてきた。コーヒーの良い香りが鼻腔を擽る。まだ涼しい時期とは言えないが熱いコーヒーを飲むのが苦ではない気候へと移っていた。
「……そうですね」
小学校が再開され、先週水穂に会いに行った。だが水穂は夏休みが明けても登校していないようで会うことは叶わなかった。ゆかりが保護者へと連絡を入れてはくれているのだが、母親は「落ち着いたら登校させる」の一点張りで水穂の詳しい状態を教えてはくれないらしい。
水穂は事件の被害者ではないので強制的に話を聞くことも出来ない。だとすると、彼女が登校してくるのを根気よく待つ他ないのだ。それに、水穂に話を聞くのは捜査の一環ではない。たんに、彼女の心を考慮してのことだ。
「千里ちゃんは、今回の犯人像、どう考えてる?」
藤立に訊かれ、千里は首を傾げた。そのことも未だに捜査本部では議論がなされている。いまのところ有力な見方は、幼少期に大人から何らかの危害を加えられそれがトラウマになっている。そして、同じように傷付けられているこどもを助ける「正義」という名目の下、殺人を行っている、というものだ。大方それで間違いはないのだろう。
犯人がこれは「正義」だと言っているのだ。あれからも被害者の側にはメモが落ちていた。「正義」と二文字が記されているメモ。そう、これらの殺人は犯人にとって正義なのだ。
「マスコミに発表はしないままみたいだね」
藤立の言葉に千里は頷いた。連続殺人である可能性は以前発表したが、メモのことと児童達が口にしている「助けを求める」という件については発表されていないままだし、今後も発表することはないだろう。
「ま、俺達に出来ることをするしかないってことだよね」
捜査が長引き疲れているのが見て取れる。実際どの捜査員もそうだった。何の成果も挙げられないまま被害者だけが増えていく。そうなると調べることが増える。さすがに今以上に人員は増やせない為、一人当たりの仕事量が増えているのだ。疲れないはずはない。
正直、千里の疲労もピークに達していた。歩き回ることも多いせいか肉体的な疲労も大きく、全身が固まったように怠く感じる朝もある。足も浮腫むし、肩や腰も痛い。そのお陰か夜はベッドに入れば一瞬で深い眠りに落ち、アラームが鳴るまで目が覚めることもない。
それと、捜査が進展しないという焦りやこれ以上被害者が増えたら、という危惧。それらは精神的疲労に繋がる。ふたつの疲労が重なり、捜査員の誰もが顔に疲れの色を滲ませていた。
「それしかないんですよね」
小さな積み重ねが必ず身を結ぶとは限らない。それがこの仕事だった。
「だったら、聞き込み行くわよ」
そこに二ノ瀬と國原が姿を現した。二ノ瀬も國原も元気溌剌、といった表情はしていない。そこにあるのはやはり疲労感だった。
「はいはい。行きますよ」
藤立はだらけたような口調で言い、コーヒーを飲み干した。束の間の休息を味わっていたのだろう。藤立は重たい腰を持ち上げるように歩き出し、千里と國原に向かって軽く手を振った。
「國原さん、私達は……」
「静馬のところに行く」
國原はきっぱりとした口調で言う。
「え」
つい、間の抜けた声が出てしまった。静馬のところにはあの一件以来足を運んでいなかったのだ。國原が行こうと言うこともなかったし、静馬の方から連絡があることもなかった。
「正式な依頼がでたんだよ」
國原は言って、一枚の茶封筒を取り出した。そこには「古味 静馬様」とひどく綺麗な字で書かれていた。きっと上層部の者からの書面だろう。
「あいつに頼むのは正直気が引けるが、いくしかないな」
國原は封筒をぴらぴらと動かしながら溜め息を吐いた。
「何故、古味さんに捜査を依頼するのが嫌なんですか?」
移動中の電車の中で千里は國原にその質問をした。静馬が捜査に加わることで犯人逮捕に繋がるならいいことではないのか。
「この間、お前も聞いていただろう」
口を挟むことは出来なかったが、話は確りと聞いていた。あのとき、國原は静馬について捜査をゲームのように思っていると言っていた。
「はい」
千里は頷きながら動いていく景色に目を向けた。ビルばかりかと思っていると、途端に緑が広がったりする。それが東京の不思議なところだ。
「あいつは昔からそうだった。事件や犯人を憎むという気持ちに欠けるんだ。なに、別に刑事全員にそういった気持ちが備わっているわけではないのは知ってるさ。出世したい奴、取り合えず刑事になった奴、色んな奴がいる。でも、静馬はそのどれとも違うんだ。あいつは、どこか特殊なんだよ」
「特殊、ですか」
言われてみなくとも、静馬がどこか人と違うのは理解している。しかしそれは表面的なことだ。千里は静馬について何一つとして知らない。
「そうだ。あいつは捜査を知恵比べのようにしか思っていないんだよ。犯人を見付けるのが楽しいだけなんだ。静馬は、殺人すら許容する部分がある」
がたん、と電車が揺れた。恐らくレールの繋ぎ目だったのだろう。立っている乗客の体がそれに合わせて揺れた。
「これは物の例えだがな。あいつは法律がどうとか考えてないってことだ。法律で殺人が禁止されてるから、それが罪だから犯人を見付けようだなんていう考えを持ち合わせちゃないってことだ」
殺人を犯すということについて、善悪という考えを持っていないということだろうか。そんな人間は稀有だ。人間というのは成長していく段階でそういった物事を刷り込まれていくものだ。しかし静馬にはそれが成されなかったということだ。
恐らく、先天性のものだろう。理由は、静馬の家族は警察庁の人間だということ。そんな環境で育ったのなら、そういった思考は自然と刷り込まれるはずだ。だというのに、静馬にはそれがない。國原が彼を「特殊」と表す
「だからあいつは正式な依頼がない限り、自分が面白そうと感じた事件以外は進んで捜査はしないんだ」
「そうだったんですか」
千里は初めて知る事実に驚きを隠せなかった。静馬がそういった人物には思えなかったという驚きではない。千里はそこまで静馬の人と成りを知っているわけではないからだ。そういった人間がいるとういことだ。
確かに物事に対しての考え方は千差万別だ。それは勿論犯罪に対しても同じだろう。犯罪を憎む人もいれば、それに対しての何の感情を抱かない人もいるのだろう。
しかし、と思う。そういったケースは極稀のようにも思えた。前述の通り、人は成長段階で道徳いったもの学んでいく。それは例外なく。それでも静馬はそんななかでそういったものが培われなかったということだ。それを驚かずして、何に驚けというのだろう。
「今回の事件は不謹慎だが、あいつは面白がると思ったんだがな」
國原はそう言って大きな溜め息を吐き出した。揺れる電車の中では掻き消えてしまう。
「そうなんですか?」
先程から似たような言葉しか返していないと思いながらもそう口にした。
「ああ。あいつは犯人が直ぐに捕まるようなものには反応を示さない。だから、今回はうってつけだと思ったが、どうやら読みは外れたようだな」
國原は再度溜め息を吐く。生まれた病院まで一緒の幼馴染と言っていたが、それでも理解が追い付かないようだ。
「正式な依頼があっても請けてくれるかどうか、てとこだな」
不安が過る。正直捜査本部だけでは手詰まりの状態だ。ここで静馬のような人物に捜査に加わってもらうことで進展を望みたいというのが上層部の狙いなのだろう。しかし静馬に断られてしまったら元も子もない。
「出来るだけ下手にでるしかないか」
國原が今日何度目かわからない溜め息を落としたところで、車体は大きく揺れた。
静馬の事務所には先客がいたようで、奥の部屋で待っているように言われた。そこには祈咲がいて、千里の姿を認めるなり微笑みを向けてくれた。
「こんにちは」
祈咲は微笑んだままそう挨拶をしてきた。今日も鮮やかな白だ。
「こんにちは」
それに千里と國原は同時に挨拶を返した。祈咲はお茶を淹れてきますね、と言い更に奥へと引っ込んでいった。部屋の中は柑橘系の匂いがする。芳香剤の類か、それとも誰かの香水か。
「彼もなかなか不思議な青年だよな」
國原が祈咲の去った部屋で、ぽつりと口にする。それに千里も肯定した。肯定しない理由はない。鮮やかな白は瞼裏に焼き付く。
「お待たせしました」
去ってから幾らもしないうちに祈咲が部屋へと戻ってきた。手にはティーセットの乗ったトレー。白い陶器は祈咲の髪色とよく似ていた。
「ハーブティー、大丈夫ですか?」
祈咲はテーブルの上にティーセットを並べながら訊いてきた。ことり、と小さく上品な音が鳴る。
「大丈夫だ」
「大丈夫よ」
料理をしなくとも、こういったふうにもてなしをすることから茶には詳しいのかもしれない。反対に千里は料理をするが茶の類には全く以て疎かった。正直に言えば、紅茶とハーブティーの違いを明確に説明は出来ない。それほどに茶についての知識はなかった。
「よかった。カモミールが入っているのでリラックス出来ると思いますよ」
その気遣いは嬉しかった。連日成果の出ない捜査に疲れ果てている。恐らく、祈咲は千里達がここに来たということからそれを読み取ったのだろう。ふんわりとどこか癖のある香りが鼻腔に届く。独特の匂いはそれだけで緊張が解れるような気がする。
祈咲は自身も千里の向かいに腰を下ろし、茶を啜っている。上品な仕草。育ちが良いように思えるが、彼の生い立ちや家族構成については何も知らなかった。
この事務所の扉は全て防音になっているのか、隣の応接室の声は少しも聞こえない。ただ、静かな空間に各々が茶を啜る音だけが響いている。外はまだ暑さを残しているが、温かい茶を飲むのが苦痛というほどではない。九月に入るなり、暑さは急激に和らいだ。それでもまだ昼間は照る太陽が熱気を与えては来るが、陽が沈んでしまえば途端に暑さは失せる。
季節が緩やかに変化していく。それでも捜査は何の進展も見せていない。捜査本部全体が焦りを見せ始めた。
「捜査の状況、芳しくないのですか?」
祈咲がティーカップをソーサーに置きながら訊いてきた。静かな部屋の彼のどこか平坦な声が響いた。この声が隣の部屋に聞こえることはないのだろう。
「そうだな」
國原が短く答えた。芳しくないどころではなく、だからこうして静馬のもとを訪れているのだ。
「君は捜査に協力することは?」
國原の質問に祈咲は小さく笑んだ。口元が僅かに動いただけの笑み。それは祈咲がよく見せる表情だ。
「僕は基本的には調べごとだけです。推理する頭は生憎持ち合わせていませんので」
丁寧な口調は千里を相手にしているときとは少しだけ違う。そこには「他人」という空気が含まれているようだった。
祈咲からは人懐っこい印象を受けていたが、國原に対する態度を見る限り違うようだ。そこには明確に線引きがされているように思えた。
「調べごと?」
國原が茶請けにと祈咲が用意したクッキーを摘みながら返す。
「そうです。調査対象の身辺とか、事件であれば現場を見に行ったり、近所の人に話を聞いたりと、そういったことしかしていません」
祈咲の受け答えはまるで就職試験の面接のようだった。はきはきと必要なことだけを述べていく。しかも祈咲は背筋を伸ばして座っているので余計にそんなふうに見えた。それはこの静かな空間にはやけにしっくりとくる。
「だとすると、君は捜査の内容については殆ど知らないということか?」
國原はまるで尋問するかのような口調で訊いていく。淡々とした声が空間に吸い込まれて消えてから、祈咲は口を開く。
「重要なことは知らない場合が多いです。知る必要もないですしね」
対する祈咲の声も淡々としていた。こんな祈咲の声は初めて聞くので、まるで別人のようだとさえ思えた。
「そうなのか」
そこで会話は終了した。何故、國原が祈咲に質問を重ねたのかはわからない。たんに時間を持て余してなのか、それとも何らかの意図があったのか。千里ではそれを計りようがない。
「やあ、待たせたね」
会話が終了して幾らもしらいうちに静馬が部屋へと入ってきた。ノックもなく、静かに扉を開けた為、声がするまで入室に気付かなかった。静かな空間でも意識を集中させていなければそんなものなのだろう。
「正式な依頼が下りた」
國原は挨拶もなしに静馬に茶封筒を向けた。すると静馬は僅かに眉頭を寄せ、表情を歪めた。
「まずは挨拶をするのが礼儀ではないのかい」
静馬の特徴的な声はどこか冷気を含んでいるように感じられた。どうやら、國原が挨拶をするまで封筒を受け取る気はないようで、手を腰の後ろで組んでいる。いちいち芝居がかったような動作だ。
「……お忙しいところに失礼致します」
國原がいつもよりワントーン低い声で述べた。それに静馬はいまいち納得していないという表情ながらも、渋々といった様子で國原から封筒を受け取った。そしてゆったりとした動作で封筒の中身を確認する。
「……成程ね」
静馬は中身を一瞥しただけで溜め息を漏らした。形の良い唇から漏れる吐息。封筒の中身がどんな文面なのかは千里にはわからない。けれど静馬が溜め息を吐き出したくなるものなのは確かなようだ。
「これは、断ることは許されないようだね」
静馬はそう言ってもう一度大仰な溜め息を吐いた。部屋には気鬱が立ち込めるようだ。
「今回のはお前が興味を持ちそうだと思ったんだけどな」
國原が電車でも言っていたことを再度口にした。確かに今回の事件は普通──といった言い方は不謹慎かもしれないが──のものとは違う。静馬が人とは違うのならば、こういった一筋縄でいかない事件には興味を持ってもよさそうなものだ。
「……今回の事件はこれといって興味を引かれないだけだよ」
静馬は開いた紙を封筒の中に仕舞いながら答えた。それは答えになっているようで答えになっていないものだった。
「しかし、携わらないわけにはいかないみたいだ」
静馬が本日何度目かわからない溜め息を吐いた。それを祈咲が心配げな表情で見ている。
「で、どこまで調べているんだい」
祈咲が表情を変えないまま、静馬の前に千里達に出したのと同じお茶を置いた。千里達の前にあるのとは違い、湯気が立ち昇っている。
「特にこれといった進展はないままだ。こどもが救いを求める先があるというのが判明したくらいなもんだ」
どうやらその話は静馬の耳に入っていたようで、静馬がそれに驚いた様子はない。捜査に協力はしていなくとも、捜査状況は伝わっているのだろう。
「その人物の特定に難航している、と」
そうなのだ。とはいえ、千里達はその担当ではないので詳しい進捗状況まではわからない。調査することが多い為、細かいことまではいちいち報告はされない。報告されるのは大きな進展があったときくらいなのだが、その大きな進展というものが全くない。
「絞れていないどころではない。犯人像もプロファイリングすら確定していない」
年齢も性別も絞れていないのだ。そもそも、今回の犯人が何時からこの事件を起こしているのかもわからないのだ。
幼少期に大人から何らかの虐待を受けていた。それしか挙がっていない。犯行の手口としても男性でも女性でも可能。色んなことが不透明なままだ。
「こんな情報ではさすがの僕でも推理は出来ないね。しかし、そうも言っていられないみたいだがね」
静馬へと渡った封書はそんなにも効力があるものだったのだろうか。自分には関係のないことだとしても多少は気になる。
「お茶のお代わり、いりますか?」
暗くなりかけた空気を打破するように祈咲が千里と國原に向かって尋ねてきた。それに千里と國原は同時に頷いた。祈咲はそんな二人を見て、微笑んでからテーブルの上のティーカップを下げた。
「で、君達は今回の事件をどう見ているんだい?」
自分の意見など、捜査に役立つとは思えない。しかし、静馬が訊いてくる以上、何かしら理由があるのだろう。
「正直、俺はお手上げ状態だ。犯人を逮捕したいとは思うが、それと同時に無理なのではないかとも思っている」
國原の胸の内を初めて聞いた。國原がそんなふうに感じているとは知らなかった。いつも自信に溢れた男、というわけではないが、そういった弱音に似たものを吐くタイプでもない。そんな國原がこのようなことを言うほどの難事件ということだ。
「君は?」
静馬は國原の言葉には特にコメントしないで千里に訊いてきた。
「……私は、必ず犯人を逮捕したいと思っています」
「それはどうしてですか?」
続きを促してきたのは静馬ではなく、祈咲だった。祈咲は手にトレーを持って戻ってきていた。そこには新しいハーブティーが載っており、独特な香りが辺りに広がる。
「私個人の意見ではありますが、犯人を許せないと思っています」
詳しいことは語らずに、それだけを口にした。國原は千里の過去を知っているのでその理由はなんとなしに察することが出来るだろう。そしてそのお陰で水穂のことについては話さなくて済む。
静馬は以前、千里になんらかの過去があることを見抜いているので、それを考慮それば千里の言葉の意味は理解出来るだろう。
「成る程ね」
案の定、千里の言葉の意味を深く言及してくることはなかった。千里はそれに内心安堵した。緊張するくらいなら嘘を吐けばいいのだが、生憎千里は嘘を吐くことが苦手だったし、相手が國原と静馬では簡単に見破られてしまう気がしたのだ。
それならば嘘を吐くことに意味はない。
簡単な言葉ではあるが、一番説得力があったのか、國原も静馬も納得したような表情をしている。
「まあ、やれるだけはやってみよう」
静馬は言いながら、國原に資料を渡すように指示をした。それに静馬が鞄の中から大きな封筒を取り出す。そこには本来ならば持ち出し付加の重要な資料が入っているのを千里も知っていた。
「出来ればデータにして欲しいんだがな」
國原は封筒を受け取る静馬に溜め息混じりに言う。実際捜査本部でも資料はデータ化を始めている。そのほうが印刷などの時間も短縮出来るからだ。
「どうも液晶画面上というのは味気なくてね」
肩を竦めてみせる静馬はそれだけの仕草で絵になる。
「昔から言っていたな」
「捲るという行為がね、脳を動かすんだ」
静馬の言いたいことは何となくわかる。画面を見ているだけだと、情報が脳を素通りしていくときがあるのだ。それは勿論集中力に欠けるときなのだが、そういったときも紙であれば自然と集中力が戻ってくるのだ。
「なら、さっさと脳を動かしてくれ」
「完全な人頼みだけはやめてくれないかな」
淡々とした応酬が続いていく。それを千里と祈咲が同時に眺めていた。祈咲は千里の向かいに座っていて、整った顔がよく見える。相変わらず鮮やかな白さだ。
彼の髪は本当は脱色ではないのだろうという確信があった。その理由は白さが鮮やか過ぎるからだ。こんな白さは脱色やカラーリングなどで出せないように思えてならないのだ。
「今言えることは、何もないよ。圧倒的に情報が少ない。しかし、これ以上の情報が集まるとも思えないがね」
それもその通りだ。
「犯人が今よりもっと犯行を重ねてくれ、情報が増えていくのを待つしかないのかもね」
「不謹慎だぞ」
「そう言われてもね。そうでもないと情報が増えないだろう?」
とは言え、それが最善でないことだけはわかる。本当はこれ以上被害者が増える前に犯人を逮捕するべきなのだ。急がないことには被害者は増え続ける一方だろう。決して終わることのない制裁。いや、これは私刑というべきだろうか。
これは犯人にとっては正義の裁きなのだ。
「私としては一刻も早く犯人を逮捕することを望みます」
千里は今一番に思うことを素直に口にした。それが何よりの望みだ。水穂の為にも。これ以上被害者を増やさない為にも。
「犯人を逮捕できる自信はあるんですか?」
三人の会話に口を挟んできたのは祈咲だった。祈咲の声はいつもよりワントーン低い気がした。それは少し祈咲のものとは違うように思えた。
その祈咲の一言で場の空気が水を打ったようにがらりと表情を変えた。三人とも口を噤み、祈咲へと視線を向ける。
「……正直、自信はないわ」
千里は小さく口を開く。それが今の正直な気持ちだった。自信など、あるはずもない。
「でも、それでも逮捕しなくてはならないと思うの。……それは犯人の為にも」
不意に口をついて出た言葉だった。今までそんなことは微塵も考えたことはなかった。いつも意識は被害者でも犯人でもなく、こども達へと向かっていた。
「犯人の為に?」
祈咲の形の良い唇が動く。少しばかり血色が悪く思えるのは気のせいだろうか。
「そう。犯人の為。貴方は間違っていると、伝える為に」
千里は真っ直ぐに祈咲へと視線を向けて答えた。それはまるで祈咲によって導き出された答えのようだった。そう、心の奥にその概念はきっとあったのだ。しかし、それが表面に現れることはこのときまでなかった。
「……そうですか」
祈咲はそれだけ言うと、失礼しました、と小さく笑みを浮かべた。それに静馬が構わないよ、と返す。部屋の空気はその一言で元へと戻った。しかし、千里の胸のざわつきは治まることはなかった。
「協議をするべきかな」
静馬がティーカップを持ち上げながら言葉を発した。
「何をだ」
「そうだね。協議することなど存在しないみたいだ」
静馬と國原は短く会話を終了した。また、静かな空間へと戻る。誰も特に言葉を発することもなく、時間だけが過ぎていく。かち、かち、と掛け時計の音がやけに大きく耳に届く。
恐らく、短い時間だったと思う。それでも千里にはとてつもなく長い時間に感じられた。二、三分程度が十分程の体感を味わう。
「では、今日のところはこの辺りでいいかな。他にも仕事はあるものでね」
かつ、とティーカップをソーサーに置く音がした。そこで漸く時間が動き出したのを知る。そうだ。この短い時間は止まっていたのだ。
「そうだな」
國原は静馬に同意して、立ち上がった。千里もそれに続いて立ち上がる。
「次に来るときは有益な情報を期待しているよ」
「出来ればな」
そう言い合う二人にはこの間のような険悪な雰囲気はなかった。千里はそれに心中で安堵した。
非番の午後、千里は水穂の通う小学校へと足を向けた。水穂に会う為だ。今日の午前中、ゆかりから水穂が登校してきたという連絡があったのだ。それで午後の、クラブ活動の時間を狙って水穂に会うことを決めた。
気付けば、事件の進展もないまま秋は深まり始めていた。まだ風が冷たいということはないが、陽射しの強さはなくなっていた。青々としていた草木はどことなく色が薄くなっているようにすら思える。ついこの間まで熱帯夜が続いていたというのに。
茹だるような暑さは消え失せ、涼しささえ感じる。
「お待ちしてました」
まずは保健室へと足を運ぶ。そこではゆかりが白衣姿で待っていた。今日は落ち着いた色合いのパンツスタイルだ。彼女が足を出しているときは所謂武装なのだろう。こうして隠すことも何もないときは自然な格好なのだろう。
「鈴原さんは?」
千里はゆかりに簡単な挨拶を済ませてから訊いた。水穂のクラブ活動はバレーボールだと聞いている。
「クラブ活動には参加しないようなので、こちらでお預かりしますと現担任には言ってあります」
現担任とは以前水穂を連れてきてくれた若い男の教諭のことだろう。やる気のなさと面倒臭さを滲ませ、それを隠すこともしなかった男。彼が水穂の担任というのは些か不安がある。彼では水穂を巧く気遣うことが出来ないように思えてならないのだ。
「では、こちらでお持ちしていればいいですかね」
千里の問いにゆかりが頷く。相変わらず化粧は綺麗に施されている。
「……貴女の過去をお伺いすることは出来ますか」
ゆかりは千里に長椅子に腰掛けるように促してからそう、言いづらそうに訊いてきた。もしかしたら、ゆかりなりに千里がどれだけ水穂の気持ちがわかるか知りたいのだろう。
──不意に蘇る。
明る過ぎる部屋。どこもかしこも白かった。そのせいで更に明るく思えた。
「申し訳ありません……」
千里は言い淀んだ。到底人に打ち明けられることではない。──人に話したいことではない。
「いいえ。こちらこそ申し訳ありません」
ゆかりは深々と頭を下げてきた。顔の横に垂らした髪がはらりと揺れる。
「あ、頭を上げて下さい」
話せないのは千里の勝手で、ゆかりが悪いことなど何もない。人に話せることではないし、人に聞かせる話でもない。
ゆかりは静かに頭を上げ、もう一度申し訳ありません、とだけ呟くように言った。國原と牽制しあっているときには気付かなかったが、本来の彼女はわりと大人しい性格なのだろう。
何を返したものかと悩んでいると、コンコン、と小さく扉がノックされた。その音はあまりに小さくて、会話をしていたら聞き逃していただろう。
「鈴原さんですね」
ゆかりが言って、扉へと近付いた。からりと扉を開けると、そこには小さな姿があった。水穂の背格好は同世代では大きい方だろう。しかし、身を縮こめるようにしているその姿は実際よりも遥かに小さく見える。それはまるで水穂の心の内を表しているかのように思える。
「……こんにちは」
水穂は千里を見てぺこりと頭を下げた。学校か家でそういった教育をしているのだろう。千里もそれに応えるようにこんにちは、と挨拶をした。
「バレー部なんだってね」
ゆかりに促されるようにして近寄ってきた水穂に尋ねる。上手い会話の糸口など見付けられない。だから、今のタイミングに相応しいと思える題材を選んだつもりだった。
「バレーボール、好きなのかしら」
千里は訊きながら、水穂に長椅子の隣に腰掛かるように手で示した。水穂は促されるまま座りながら、首を横に振った。
「……沙奈ちゃんに誘われたから」
「沙奈ちゃんとは仲が良いの?」
「一年生から同じクラスです。一番お話しします」
所謂親友というものだろうか。
「今は、クラブ活動をする気にはなれない?」
核心を突くのが早いかもしれない。そう思いながらもその質問を口にした。
「……体が、動かないんです」
水穂は小さな声で答えた。その声は湿りを含んでいて、小学生のものには思えなかった。女の子でも声変わりはする。男の子ほど顕著ではないが、甲高い声が落ち着いたものには変化する。水穂は既に声変わりを済ませているのだろうか、それとも元々こういった声なのか。それは千里には判断出来なかった。
「体が動かない?」
千里が首を傾げると水穂は小さく頷いてみせた。
「ボールが飛んできても、全く体が動かないんです」
心因的なものだろうか。しかし千里は大学でも特に心理学を専攻していたわけではない為、詳しくはわからない。
「だから、暫くクラブ活動はお休みしようと、思ったんです」
水穂はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そうなの」
千里は上手く言葉を見付けることが出来ずにいた。水穂本人の口から話を聞いたわけではない。彼女が悩んでいること、彼女が感じている罪のこと。
まずはそのことから聞き出さなくてはいけないのかもしれない。千里はちらりとゆかりに視線を向けた。するとそれでゆかりは千里の言いたいことを察してくれたようで、静かに保健室を去った。午後の保健室で水穂と二人きりになる。
「角田先生のこと、灰田先生から聞いたわ」
千里は敢えて小さな声で言う。二人の間だけの話だと思わせる為だ。これは事情聴取をしていく上で学んだことだ。
千里の言葉に水穂が僅かに目を見開いた。人に知られてしまった。しかも、警察に知られてしまったという表情だ。
──恐ろしいのだろう。
警察に知られてしまったことで、自分が何らかの罪に問われるのではないか、罰せられるのではないかと思っているのだろう。
「……私を、逮捕して下さい」
逮捕がタイホ、と片仮名の響きに感じられた。恐らく、漢字での表記を知らないのだろう。
「え……?」
今度は千里が驚いた表情をする番だった。
「お願いです。私を、逮捕して下さい」
水穂は千里に縋り付くようにして、懇願してきた。千里の手を握るように掴み、頭を深く下げている。そして、その声は震えている。
「鈴原さん……?」
これが、水穂の抱える罪の重さなのだろう。こんなに幼い子が、逮捕してくれと懇願をする。千里はそれを上手く受け止めることが出来なかった。
──私はここまでの感情を知らない。
千里は過去の出来事を想起しながら絶望に近いものを感じた。厳密に言えば絶望とは違う。しかしそれに似ていることも事実だった。
「私が、角田先生を、殺してしまったんです」
どうやってそれを否定すればいいのか。 何を言えばいいのか。掛ける言葉すら見付けられない。
「鈴原さん、あまり自分を責めないで」
漸く掛けられた言葉はそれだけだった。在り来たりな発言だと、自分でもうんざりするものだ。
「貴女は、悪くないわ」
しかし、本当にそうなのだろうか。本当に水穂に非は全くないと言えるのだろうか。いや、と千里は心の中で頭(かぶり)を振った。水穂は知らなかったのだ。あれが、殺人依頼だということに。
しかし、本当に? と思ってしまう。
大人を排除してくれる、という言葉。そこから本当に排除イコール死だという認識はなかったのだろうか。これが小学校低学年ならばそういった可能性もあるだろう。しかし水穂は高学年だ。理解していた可能性は十分にある。
もしかしたら、わかっていたのかもしれない。だからこそ、こんなことを口にするのかもしれない。
「鈴原さん」
千里の呼び掛けに水穂は微かに頭を動かした。しかし、視線が交わることはない。千里はもう一度、水穂の名を呼んだ。
「水穂ちゃん」
今度は苗字ではなく、彼女の名前を呼んだ。水穂が今度はそれに真っ直ぐに千里を見詰めてきた。幼い瞳は水気をたっぷりと含み、それは今にも零れだしそうだった。
「貴女が悪くないとは言えないかもしれない。でもね、私達は貴女を逮捕することは出来ないの。それは、貴女が角田先生を殺したわけではないからよ。そして、貴女が明確な殺意を持っていたとも証明出来ないから」
我ながら難しいことを口にしているとは理解していた。相手は大人ではなく、まだ小学生というこどもだ。しかし、だからこそだ。上っ面だけをなぞるような言葉を重ねて慰めたところで、彼女はきっと納得しないだろう。そして己を責めることもやめもしない。だからこそ、こうして正直な気持ちを口にすることを選んだのだ。
それが一番、水穂に伝わると思ったから。
「……」
水穂は瞳に涙を浮かべたまま、千里の言葉を聞いている。その水はあまりに透明で美しく、そこには無垢さしか感じられなかった。
彼女は心の底から救済を求めたに過ぎないのだ。そしてそれは彼女だけではなく、この事件に関わる全てのこども達がそうなのだ。
「だからね、自分を責めないでとも言えない。貴女はこれから先もずっと、自分を責め続けるかもしれない。一生、罪の念に苛まされるかもしれない。でもね、覚えておいて。これは消えることはないことなの」
きつい言葉かもしれない。けれども、言う必要があると思った。今何を言ったところで、水穂の気持ちが晴れることはないだろう。だったら敢えて現実を教えようと思ったのだ。彼女が逃避を始めてしまえば、この言葉が届くことはなくなるから。
「でも、約束はするわ。必ず、角田先生を殺した犯人を、貴女を苦しめる人を逮捕する」
それが今、千里に言える全てのことだ。これ以上のことは何も言えなかった。口にする言葉を持ち合わせてはいない。
「……宜しくお願いします」
水穂は震える声でそれだけを言った。
夜の闇が広がっている。公園の奥の方は何も見えない。公園の入り口付近に「痴漢に注意」という看板があり、だったらこんな見通しの悪い公園などなくしてしまえばいいのに、と思わずにはいられなかった。
世の中は危ない物事が多過ぎる。危ない人間が多過ぎる。世の中に平穏など存在しないのではないかと思えてくる。そして実際、平穏など存在しないのだろう。いつ、どこで悲惨で壮絶な空間に身を置くことになるかわからないのだ。
「何見てるの?」
甘ったれたような声が耳に届いた。
「闇だなって」
答えると、少女が首を傾げる。さらりと黒髪が揺れ、思い出さなくていいことを思い出した。そういえば、あの人の黒髪も揺れた。
「いつも言うことが難しい」
頬を膨らませられ、ごめん、と謝ると、少女はいいよ、ところりと表情を変えた。可愛らしい娘だと思う。彼女に教養がないのは本人のせいではない。彼女が悪いことは何もない。
「辞書引くのは面倒」
「そんなこと言わないで。君の為だよ」
「教えてくれればいい」
「いつもいつもというわけにはいかないでしょう?」
「そうだけど……」
「隣にいるときは教えてあげるよ。だから、一人のときは辞書を引いて」
「いつも隣にいて」
「そう出来ないってわかってるよね」
いつか彼女は一人になる。そのときの為に、出来る限りのことを教えてやりたいと思っている。彼女が一人でも生きていけるように。
「人助け、だものね」
それをまるで覚えたての言葉のように口にする。
「そうだよ」
「わかった。だって、それで助けてもらったんだもの」
少女は納得したように頷いてくれた。
「じゃあ、帰ろう、祈咲。闇を見てても仕方ないわ」
「そうだね、小毬」
夜の闇にはたった二人分の影すら地面に落とすことは出来なかった。
鮮やかな白が広がったような笑顔だった。
「お久し振りです」
祈咲の笑みに思わず見惚れ、千里は直ぐに挨拶を返すことが出来なかった。
「……久し振りね」
確かに近所でアパートの近所で会うのは久し振りだった。捜査が忙しく、いつも家に帰る時間は疎らだったからだろう。朝に近かったり、夕方だったり。そして祈咲の方も必ずしも決まった勤務時間ではないようで、そうなると遭遇することもなかなかない。
「お忙しいみたいですね」
祈咲が僅かに憐れみを表情に出し、そう言った。
最近は頻繁に静馬の事務所を國原と共に訪れていたが、そこでも祈咲に会うことはなかった。しかし静馬から話は聞いているのだろう。
「そうね」
忙しいだけで捜査は進展はしていない。それが悔やまれるところだった。
水穂にも必ず犯人を逮捕すると誓ったというのに、それは果てなく遠いことのように思えた。
「早く、犯人を逮捕することが出来るといいですね」
祈咲は形の良い眉を下げて言う。
「この後、空いてる?」
千里は不意に話題を変えた。警察関係者でない人と、進展のない事件の話をしても仕方がない。気が滅入るだけだ。
「え? ああ、はい、空いてますよ」
祈咲は一瞬虚を突かれたように目を見開いた。その表情は可愛らしいものだった。
「じゃあ、ご飯食べに来ない?」
紀文転換のつもりだった。本来なら友人を誘って飲みにでも行きたいところだが、そんな気力はない。しかし、誰かと気分転換はしたかった。
「今日、非番なんですか?」
今は昼間だ。陽が高いとはいえ、秋になっているせいか眩しさはない。気温はさして低くはないが、陽射しの強さがないだけで一気に暑さを感じなくなるものだ。
「そう、非番なの」
本当は今日は水穂に会いに行く予定だった。ここ最近、千里の非番は水穂に会うことに費やされていたが、今日は水穂が欠席しているとゆかりから連絡があったのだ。どうやら発熱したらしい。季節の変わり目、こどもは風邪をひきやすいだろう。
「最近、料理してなかったからしようと思って。でも、一人分作るのも面倒だと思ってたところなのよ」
少し前までは出来る限り料理をしていたが、ここのところは忙しくてコンビニで買って食事を済ませてしまう日が続いている。だから今日こそは久し振りに料理をしようと思い、スーパーで食材を買ってきたのだ。しかし、いざアパートに近付くにつれ、なんとなしに面倒な気分に変わり始めていた。
──疲れているのだろう。
疲労を感じない日はない。それは勿論肉体的なものもあるし、精神的なものもある。精神的なものに関しては、焦りが一番大きい。犯人に全く以て近付けていないという焦りだ。
「では、お邪魔させてもらいます」
祈咲は少し悩んでから、綺麗な笑顔で言った。その笑顔を見てから、部屋は片付いていたか気になってきた。けれど、最近は寝に帰るだけの日々が続いていたので散らかりようがないのも事実だ。
「嫌いなもの、あるかしら」
千里と祈咲は自然に並び、足を進めた。昼間近。太陽はすっかり昇り切っている。後は沈むだけだろう。
「特にこれといって好き嫌いはないですよ」
祈咲はそれが当たり前なことのように答えた。確かに祈咲にはあまり好き嫌いがあるようなタイプに思えない。良くも悪くも無難に見えるからだろうか。その、白い髪以外は。
「何を作ろうとしていたんですか」
少し離れた公園からこどもの泣き声が聞こえてきた。男女はわからないが、その子は火が点いたように泣き叫んでいる。転びでもしたのだろうか。その泣き声は千里の耳に深く止まることはなかったが、祈咲はそれに対して足を止めた。
「……何があったんですかね」
祈咲が静かに訊いてきた。
「え、ああ、転んだのかしら」
幼い子は軽く転んだだけでも大泣きすることがある。しかし、祈咲の問い掛けはそんな軽い感じではないように思えた。
「ああ、そうですよね。きっと、そうです」
祈咲は一人で納得するような素振りで頷き、止めた足を動かし始めた。千里もそれに合わせる。並ぶと身長差はさしてない。それでも肩幅などは全く違うことがわかる。小柄に見えても意外と逞しいようだ。
「すみません、行きましょう」
「そうね」
ふいに祈咲が違う人のように思えた。しかしそれは本当に気のせいだったようで、今隣に並ぶのは千里の知っている祈咲だった。
「それで、何を作ろうと思っていたんですか?」
「ああ、簡単なんだけど、ポトフとグラタン。違うものが食べたいとか、ある?」
千里の問いに祈咲は笑顔で首を振った。
「よかった」
食事に誘っておいて好みでないものを押し付けるのはさすがに気が引けるので祈咲の答えに安堵した。とはいえ、祈咲が気を遣っている可能性も否めはしない。
「楽しみですね」
祈咲は笑顔のままそう言う。何だかこちらまで楽しみだという気持ちになってくる。その場の流れで誘ってしまうという、よくよく考えればかなり失礼なことをしたというのに、祈咲は嫌な顔ひとつしない。そこには祈咲の性格の良さが表れているような気がした。
並んで、他愛のない話をした。犬より猫が好き。夏より冬が好き。夜の散歩は気持ちがいい。本当に些細な話だったが、祈咲とそういった話をするのは初めてだった。いつも口を開けば事件の進展についてのことが多かったように思う。
そもそも事件を通じて知り合ったのでそれも当たり前なのかもしれないが。
「お洒落な外観ですね」
千里の住むアパートの前に来ると、祈咲はアパートを見上げてそういった感想を漏らした。
「そこが気に入って借りたのよ」
千里はそう言い、階段に足を掛けたく。千里の借りている部屋は二回部分の端だ。しかし、祈咲が後をついてくる気配がなかった。
「どうしたの?」
段差に足を掛け、振り返る。祈咲は階段から少し離れたところで足を止めていた。
「あ、いや、ついてきておいて今更なんですけど」
祈咲の言い掛けた言葉に一抹の不安が過る。勢いでついてきたはいいが、途端に面倒になったとかだろうか。だとしたら迷惑なことをしてしまったと思う。千里は急いで謝罪の言葉を口にしようとした。
「僕が部屋に上がって、彼氏さんとか怒ったりしませんか?」
「え?」
祈咲が千里を真っ直ぐに見てきながらそんなことを言うので、思わず間抜けな声が出てしまった。
「いや、僕も一応男なので、彼氏さんとかいたら嫌だろうなと思いまして」
祈咲は何故かえらく真面目な顔で言う。その表情を見ていたら笑いが込み上げてきた。千里は笑いを堪えることが出来ず、吹き出してしまった。それに祈咲が驚いた顔をする。
「え、と、何か笑われるような発言でしたか?」
祈咲が小首を傾げる。それはどこか幼いこどもようで愛らしい。祈咲には悉く愛らしいという表現を使いたくなることが多い。仕草や動作のせいだろう。
「ううん、ごめんなさい。笑うことじゃなかったわ」
寧ろ褒めて然るべきようなことだろう。紳士的とは違うが、交換の持てる発言だ。
「気遣い、ありがとう。でも、気にしなくて大丈夫よ。怒るような相手はいないから」
残念というか、千里には恋人という存在はいなかった。それは、今はということではなく、生まれてこの方だ。誰かを好きになったことがないわけではない。しかしその相手と恋人同士になりたいと思ったことはなかった。
好意を寄せる相手から告白されたこともある。それでも千里はそれを受け入れることはしなかった。男性恐怖症というほどではない。それでも付き合うということには踏み切れないのだ。
「意外ですね」
千里の言葉に祈咲は黒目がちな瞳をぱちくりと瞬きさせた。
「そうかしら?」
そう言われても自分のことなのでなんとも言えない。
「ええ。千里さん、素敵な方なので、当然恋人がいるものだと思ってました」
祈咲の言葉に心臓が小さく動いた。世辞だとわかっている。それでも心は素直に反応してしまうのだ。
「そんなことないわ」
それだけ返すのがやっとだった。ありがとう、とか、そう言ってもらえて嬉しい、とかもっと気の利いた言葉は幾らでも存在するだろう。それでも、千里の心にはそれしか浮かばなかったのだ。
「早く入りましょう」
戸惑いを隠すように祈咲から顔を逸らして言った。最近気付いたのだが、祈咲は話す相手を真っ直ぐに見詰める癖があるようだ。だからか、祈咲と話していると言わなくてもいいことまで口走りそうになるし、秘めようとしていたことまで声に出してしまうのだ。勿論それが助かることもあるし、困ることもある。
少しばかり火照ったかのような頬に軽く触れながら階段を昇っていく。後ろから僅かに距離を開けて祈咲が後に続いてくる気配を背中に感じる。背後に視線を感じるというのも緊張するものだ。早く部屋に辿り着こうと、足早になってしまう。
「ここよ」
自身の部屋に前に着き、祈咲に示す。影石、という表札が扉の横にある部屋。鉄製の扉は外壁の煉瓦調に合わせて赤胴色をしている。
「扉もお洒落ですね」
祈咲はその扉を見て微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
そう返し、千里はバッグから鍵を取り出した。直ぐそこに買い物に行くのでも千里は必ずバッグを手にしている。必要なものがそこには全て入っているからだ。近所に買い物に行くだけなら鍵と財布が入る程度の小さなバッグがあれば十分なのだが、入れ替えをするのが面倒だった。なので、いつも同じバッグを持ち歩いているのだ。
自分でももう少し女らしくてもいいとは思う。でもその必要性を感じないのも事実だ。料理が出来るだけましだと、いつも自分の女子力の低さを誤魔化している。
それでも祈咲は素敵だと言ってくれた。それは千里の表面しか見ていないからだろう。もっと親しくなれば話は別だ。
「あまり片付いてないけど」
一応前置きはしてみたが、このところ部屋にいる時間はとてつもなく短い。なので散らかりようがない為、部屋の中はわりと綺麗な状態だ。
「気にしませんよ」
祈咲はまた微笑んで言う。祈咲は本当に微笑んでいることが多いように思う。彼の性格が穏やかなのか、それともそうしていることで人間関係が円滑に進むことを知っているのか。常に微笑んでいる人というのはそのどちらかが多いというのは千里が人生で学んできたことだった。
しかし祈咲はそのどちらでもないように思えるのだ。祈咲が穏やかでないというわけではない。寧ろ、穏やかな性格と言えるだろう。けれど、だから彼が常に微笑んでいるかと言われればそれは違うように思えるのだ。そして、人間関係を円滑に進める為でもないように思える。
祈咲とは確かに仕事上の付き合いと呼べる関係しかない。だから、彼が微笑んでいるところしか見たことなくとも何の不思議はない。それでも、それも違うと思えてしまうのだ。
彼の何を知っているわけでもない。何も知らない。知らないからこそ、どれもこれも、通常のことがしっくりとこないのかもしれない。
「どうぞ」
扉をゆっくりと開け、祈咲を部屋の中に招き入れる。閉め切っていることが続いたせいか部屋の空気は少し淀んでいるような気がする。
滞在する短い時間、窓を開けることをしていないせいだろう。夏の暑さが和らぐと、途端に風が冷たくなる。外にいる分にはいいのだが、部屋にいて窓を開けると寒さを感じるのだ。だからここ最近ずっと窓を開けることをしていなかった。
千里の跡にお続いて祈咲が部屋の中へと入る。玄関先では丁寧に靴を端に揃えて寄せている。親の躾がよかったのだろうか。
そう思ってから祈咲が青年と呼べる歳だということを思い出す。どうも祈咲の年齢を失念してしまうことが多い。年下だからということだけではないだろう。何故か彼を少年だと思ってしまうのだ。
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