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静馬の事務所の中には甘い匂いが漂っている。これはクッキーを焼いている匂いだろう。香ばしくも甘い匂いが充満しているが、漂う空気はそれとは不釣合いな程に重苦しい。
「日本の警察が無能なことは嫌という程知っていたけれど、まさかこれほどまでとはね」
静馬が息を吐き出しながら言う。それは感嘆のせいではなく、彼独特の喋り方だ。静馬は声を出すとき、一緒に微かに息も吐き出す癖があるのだ。
「じゃあ、お前は何かわかっているというのか」
それに対し、國原が刺々しい返しをする。そのせいで事務所内に漂う空気は更に重さを増した。千里はそれに耐え切れずに視線を彷徨わせるが、そんなことをしてもどうにもならないのは明白だった。
「僕は今回のことに関しては正式な依頼を請けてはいないんだ。それなのに僕を頼りきりというその姿勢、どうにかならないのかい?」
そのことは初耳だった。警察庁公認の探偵。それだけの言葉で、静馬は如何なる事件にも積極的に協力してくれるようなつもりでいた。しかし実際はそうではないらしい。正式に依頼をしてから捜査に協力するという仕組みのようだ。冷静に考えればそうだろう。静馬はこれを商売としているのだ。無償でお願いしようなど、甘いことなのだろう。
「昔からそうだったな」
國原が大きく息を吐いて腕組をした。長い腕が胸の前で交差し、それが何故か諦めの仕草に見えた。
「お前には犯罪を憎む気持ちがない。だから捜査をゲームのように思っているところが大きいし、金銭が発生しなければ捜査に乗り出さない」
「だから警察を辞めたんだ。警察の威信を懸けてだけ捜査するなんて面白くも何ともないからね」
それが静馬の真意ということだろう。そしてだからこそ彼は警察という組織から身を引いたのだ。身を引いたという表現は正しくないかもしれない。嫌気が差して見切りをつけたというべきか。
「ならば正式な依頼があれば引き受けるのか」
國原の声はいつも以上に低い。こんな國原の声は犯人の事情聴取をする際くらいだ。だからか、軽く背筋が冷える。
「金額によるさ」
静馬はまるで軽口のように言ったが、國原はそれに露骨に眉を顰めた。ここまで感情を露わにする國原も珍しい。千里は口を挟むことを出来ずに傍観を極めるしかなかった。
「お前は市民の税金をなんだと思っているんだ」
「その市民の為に捜査をするのでは? それなら税金がなんだと言われる謂れはないとい思うのだが、如何かな」
不意に話の矛先を向けられ、千里は困惑を隠すことが出来なかった。
「え、あの、私ですか?」
千里が自分の顔を指すと、静馬がそれににっこりと笑った。その笑顔はまるでテレビコマーシャルの俳優のようだ。
「今日は発言していないと思ってね」
故意に発言しなかったわけではない。そんな余地が存在しなかっただけだ。あの状況で率先して発言出来る若輩者などそうそういないだろう。そんな強者がいるならお目に掛かりたい。
「……私からはなんとも」
自分如きが偉そうなことを言える立場ではない。税金の無駄遣いともそうでないとも言えない。出来ることは不甲斐ない警察を、それ以上に不甲斐ない自分を責めることだけだ。鈴原 水穂への事情聴取も満足に終わっていない状態なのだ。
水穂から角田の行為は聞き出せたが、未だそれだけの状況から一歩も進めていないのだ。母親からも角田の卑劣な行為を知っていたか聞きたかったのだが相変わらず門前払いで、一言も話を聞けていないのだ。
そんな自分が人様に言えることなど何もない。
「控えめな女性というのは素敵なものだね。小毬、君も見習ったらどうだい?」
静馬は誰にか、そんなふうに声を掛けた。すると応接間の隅に置いてある衝立の向こうから、全身を黒で包んだ少女が剥れた表情で姿を現した。高い位置でツインテールにしているリボンも真っ黒だ。その少女は可愛いというよりも美人だった。
切れ長の目に、付け根から高く鼻梁の通った鼻に、そしてぽってりと厚めの唇。濃い目の化粧を施してはいるが、素顔も整っているのがわかる。
「私はこのままでいいの」
小毬と呼ばれた少女は真白の頬を膨らませたまま言う。頬紅をしていないせいか少し血色が悪い印象を受ける。
「もう少し控えめになってもいんじゃないかな」
静馬は苦笑を浮かべ、言う。それに小毬は更に頬を膨らませる。年の頃は十代後半くらいだろうか。しかしその表情は彼女をもっと幼く見せる。
「今日は祈咲は来るかわからないと言っているのに居座るのくらいは自重してくれてもいいんじゃないのかい」
ふう、と息を吐く静馬と頬を膨らませたままの小毬を交互に見ながら、彼の言葉に反応する自分に気付いた。微かに残念だと思う気持ち。此処に来れば祈咲に会えるものだと思っていた。だというのに、今祈咲は此処にいないし来るかもわからないという。それを残念に思う自分がいた。
祈咲は此処でのアルバイトは週に三日と言っていた。会えない可能性だって十二分にあるのだ。しかしそれを失念していたのだ。
「ジチョウ、てどういう意味?」
小毬は小さな顔を傾かせて言う。自重。確かに頻繁に使う言葉ではないし、読書の習慣のない者なら耳馴染みのない単語なのかもしれない。
「辞書を引きなさい、小毬。僕は祈咲のように何でもかんでも教えてあげるほど優しい人間ではないよ」
「けちなだけよ」
「使い方を間違えているね。辞書は? 持っているかい?」
それに小毬が首を横に振る。すると長い髪の束が顔の動きより少し遅れて左右に揺れた。茶色みが一切ない髪は夜の闇のように美しい。
「それよりも早くこの人達を返してよ」
小毬が嫌悪を露わにした表情をした。あからさまに嫌悪を剥き出しにされるのは正直慣れてはいる。こういった職業をしているのだ。事件の聞き込みをしているとしょっちゅうだ。しかし、彼女にはどんな理由があるのかはわからない。
「仕事じゃないんでしょ。だったら早く返してよ。いるだけで気分が悪くなるわ」
小毬は表情を歪めたまま言う。千里達が気に食わないというより、警察を毛嫌いしているのは明白だ。
「だとしても小毬には関係のないことだね」
静馬はさして相手にしていない様子で返す。
話から察するに小毬は祈咲の知り合いのようだ。一瞬、恋人という言葉が脳裏を掠めたが直ぐにそれは打ち消された。恋人であればこんなふうに来るか来ないかわからないのに会いに来るということはないだろう。
「でも、気分が悪くなるわ」
わかりやすい拒絶というのはさすがに気分のいいものではない。しかしこんなこども相手に腹を立てても仕方ない。
「帰らせてもらおう。此処にいて情報が得られるわけでもないしな」
國原が苦みを含んだ口調で言い、立ち上がった。千里もそれ付き従うように倣う。険悪な空気が流れたまま、その日を終えた。結局静馬のところを訪れても犯人逮捕の兆しは何も見えなかった。
児童に何らかの危害を加えた者が殺害される。捜査本部の見方はそれで固まった。少し前までは児童に関係する職業に就く者、という見解であったがそれは先の事件で崩れた。藤立と二ノ瀬の班が担当している事件だ。
そのことが判明しても捜査は一向に進展を見せなかった。児童相手というのはデリケートなこともあり、深く話を聞くこともなかなかに叶わない。
「参ったわね」
二ノ瀬が深い溜め息を吐いた。捜査本部そのものが活気を失っている。それもそうだろう。つい昨日、また新たな事件が起きたのだ。
殺害されたのは無職の男だった。年齢は三十四歳。彼の犯した罪は誘拐未遂だった。帰宅途中の小学生女児を攫おうとしたが、騒がれた為断念。しかし男は以前からその少女をターゲットに決めていたらしく、数度声を掛けていたようで少女は常日頃怯えていたらしい。
──それで殺害されたのか。
それだけのこと、ではない。実際少女は攫われそうになったショックから家に閉じこもっているのだ。攫われそうになってから二週間という時が経過しても、彼女はそのことに未だ怯え、外に出ることが出来ないのだ。
しかし、だからといって殺していいということではない。
これは先程藤立が口にした科白だったが、千里はそれに心から同意することは出来なかった。それでも、否定することも出来ない。
人を傷付けるということが許せなくて刑事という職業を選んだ。しかし、人を傷付ける者を罰することを許すというのも難しい。それは道徳の問題だけではない。千里の中の問題だ。
「……お前はどう考える」
周囲に人が少なくなった会議室で國原に小声で尋ねられた。國原の質問が意図することは聞かずともわかる。
「私は、それが人を殺していい理由になるとは思いません」
そう言いながらも自身で釈然としない。
本当に? 本当にそう思っているの?
脳内で問い掛けが響く。何度も何度も確認するように同じ言葉がリフレインする。
「本心は?」
千里の迷いを見抜いたように國原が重ねて質問をしてきた。
「本心でも、です。私は、だからこの道を選びました。被害者達に同情も出来ませんが、犯人を許すことも出来ません」
言葉にするとそれはすとんと心の奥に落ちた。何を複雑に考えていたのだろうと思う。自問自答をしているだけでは答えは出ない。こうして、他人に訊かれ、答えてこそ見えてくるものもある。そう考え、自分の未熟さに嫌気が差す。
「だったら、頑張るしかないな」
國原はそう言って千里の頭を撫でた。それはまるで千里の悩みに気付いていたようだ。
実際千里はここのところずっと悩んでいた。悩んでいたとはまた違うかもしれない。複雑な感情をずっと抱えていたのだ。
殺人は許し難い罪だ。けれど、殺害された側にも非がある。しかし、犯人に対し直接、というわけではない。犯人は自分に関係のない人間を殺しているのだ。それでも、千里の中では殺された側に憐憫の情が少しも湧いてこなかったのだ。
そうなると捜査意欲というものはがくんと落ちる。犯人を逮捕するということに躍起になれないのだ。決して犯人を野放しにしていいと思うわけではない。しかし積極的な捜査も出来なくなるのだ。
今國原はそんな千里の思惑を読み取ったように会話を誘導してくれた。そして、千里がすべきことを導いてくれたのだ。
「ありがとうございます」
國原の手が頭上から去ると同時に千里は礼を述べた。それに國原は小さく笑って見せるだけで何も言わなかった。
そうだ、自分は刑事なのだ。それなら自分がやるべきことは決まっている。
過去の夢を見た。それは酷く残酷で、酷く壮絶なものだった。暗闇に自分だけがいて、誰の助けも救いもない世界。自分だけがそこに存在しているのが耐えられなくて、誰かがいればいいのにと思った。もう暫くあの世界が続いていたならもう一人の自分が存在していたかもしれない。
けれど、自分は一人でしかなかった。
だというのに、夢の中ではもう一人がいた。それは自分と同じ姿を象ってはいたが決して自分ではなかった。自分の姿なのに自分でない存在というのは酷く不思議に思えた。
顔を服装も全部一緒。けれど、ひとつだけ違うところがあった。それは、自分と同じ姿をした存在は全身血塗れだということ。
目の前に立つ、自分と同じ姿をしたそれは全身を血に濡らしていた。お気に入りだった真白のワンピースは穢れていた。赤黒い血で、斑に染まっている。あたかもそれが最初からの模様のようだ。
そして少女特有の桃ように産毛が生えた頬も赤い。人並みより広めの額にも赤が散っている。ワンピースから伸びた手足からも血が滴っている。
──そして、こちらを捉える瞳も真っ赤だった。
深紅に染まった瞳が真っ直ぐに本体を見詰めてくる。目を逸らすなと言わんばかりの強い眼光を放っている。
──本当はこうしたかったんでしょう。
──これが貴女の望みだったんでしょう。
自分と同じ姿をした自分がそう問い掛けてくる。
──違う。
そう叫ぼうとしたが、声が出なかった。喉が焼き潰されたように痛い。
──ほら、そうなんじゃない。貴女は、こうしたかったのよ。
違う。違う。そうだけどそうじゃない。私はその道を選ぶことはしなかった。だから、貴女は私じゃない。
口に出そうとしても出ない言葉を、何度も内心で繰り返した。否定した。決して肯定などしてはいけない。
──なら、代わってくれるひとがいたら?
彼女は悪戯な笑みを浮かべた。自分では絶対にしない表情だ。自分であって自分でないその姿は異様なものでしかない。
──それでも私は今を選ぶ。
そう答えるつもりでいた。
次の瞬間、景色は見慣れたものへと変貌を遂げた。目覚めたのだ。毎日目にしているクリーム色の天井。少し洒落た壁紙。淡いブルーのカーテンの隙間からは朝日が覗いている。
千里は二度ほど瞬きをしてから、額に浮いた脂汗を掌で拭った。ねっとりとした汗は拭った程度ではすっきりしない。
昨日の國原とのやり取りのせいだろう。だからこんな夢を見たのだ。出来る限り蓋をしている過去の出来事は些細なことで呼び起こされる。それは刑事になってからは頻繁に起こってはいたが、こうして児童に絡む事件だと尚更だ。
千里は深い息を吐き、起き上がった。汗のせいで全身が気持ち悪い。夢見が悪かった為アラームより大分早く目覚めている。これならシャワーを浴びる余裕もある。それなら、と千里はバスルームへと足を運んだ。
今更確認するまでもないのに、という思いながら熱い湯を頭から浴びる。夏真っ只中の朝には少々熱い気もするが脳を覚醒させるにはちょうどいい。狭いバスルームは湯気で満ちていて視界が悪い。覚醒しながらも、どこかぼんやりとし気分になる。
覚悟を決めたとは違う。何をしたって、何を言ったって、何を考えたって過去には戻らない。それだけだ。それは諦めという感情に似ていた。振り返っても悔やんでも仕方がないから、敢えて納得した振りをするのだ。これしか道はなかったのだと言い聞かせるうちにそれが正しかったのだと思えるように。
いつしかそれでよかったのだ、間違えてなどいなかったと思えるようになってきていた。自分の選択は正しかった。自分で道を切り拓いたのだと思えてきていた。
しかし、今回の事件の捜査をしていくうちに折角固まりつつあった、長年積み重ねてきた考えが崩れようとしていたのだ。それでも、昨日國原と話していると自然と自分のすべきことは見えた。でもそれは自分のすべき道であって、過去を肯定するのとは違っていた。
それでも、今はそれを信じるしかない。過去は決して間違っていなかったと、あのときの自分は正しかったのだと、今現在立っている場所は正解なのだと信じるしかない。
そんなまやかしにも似た感情は非常に脆いものだ。ふとしたことで崩れ去りそうになる。それをどうにか堪えてこの場に立ち続けるしかないのだ。
千里は思考を無理矢理振り払い、バスルームを後にした。
一人の児童がとあることを口にした。
それは被害者に危害を加えられた児童の一人だった。
──僕らを救ってくれる神様なんだ。
少年はそう言っていたらしい。
神様。人を殺める存在をそう生ずるのか。
それは疑問を抱くか抱かないの問題ではなかった。道徳においての問題
でしかない。それと法律。これらのことが幼いこどもに判断出来るわけがない。しかも、虐げられているこどもなら尚のこと。
それに付け込んだわけではないのだろう。恐らく、犯人は善意のつもりなのだ。いや、善意とは違う。これは犯人なりの「正義」なのだ。
犯人は正義という名の下に殺人を犯しているのだ。そしてこどもはそんな犯人に救いを求める。そこに差し出される救いの手。それを神と呼ばずして、なんと呼ぶのだろうか。
正義などではない。ただの殺人鬼だ。そう言い切れない部分は確かにある。けれど、犯人が行っていることは決して許されることではない。今はそう思って捜査に挑むしかない。
千里の心中は複雑さしかなかった。認められることではないし、認めようとも思えない。しかしそれでいて否定しきれない自分がいる。いかほどに自分の中で議論を重ねようが、どちらかに思い切れる切っ掛けがないのだ。
こんなまま捜査に挑み続け、真実を見落とさないだろうか。
ふと不安が脳裏を過ぎる。
そのとき、スマートフォンが着信を知らせた。小さな音と振動を同時に伝えてくる。千里は表示された名前を見て驚かずにはいられなかった。驚いたまま通話の状態にする。
「突然呼び出してしまい、申し訳ありませんね」
ゆかりが深く頭を下げた。殊勝なゆかりを目にするのは初めてで、スマートフォンの液晶画面にゆかりの名が出たとき以上に驚愕した。
事件当夜、ゆかりとは連絡先の交換をしていた。あの夜からゆかりには小さな嫌疑が掛けられていた為、連絡先の交換をしたのだ。無論それは事件について聞きたいことが出るかもしれないという名目でだが。しかしまさかゆかりの方から連絡があるとは思ってもいなかった。
「いえ……どうされましたか」
ゆかりに呼び出されたのは小学校の保健室だった。夏休み中の小学校はやけに静かで、少々の気味悪さがある。
「お一人ですよね」
ゆかりが千里の背後を確認するように訊いてきた。電話の時点でゆかりから出来れば一人でゆかりのもとを訪れて欲しいとお願いされたのだ。端的に言えば、國原を伴うな、ということだ。
「はい。お約束通り一人です」
今日は既に捜査本部は解散となっている為、今は千里にとってプライベートの時間だ。なので、何処に赴こうとも國原に許しを得る必要はない。
「ありがとうございます」
ゆかりは再度深く頭を下げた。夕刻だからか今のゆかりは白衣を羽織ってはいない。それで彼女の職務が終了していることが窺える。いつもと違うゆかりの調子に千里は戸惑った。彼女の様子からするに重要な話があるのだろう。それを國原なしで聞くというのは不安なものだ。
「お掛け下さい」
ゆかりは言い、ひとつのパイプ椅子を手で示した。千里はそれに失礼します、と小さく言い、腰を下ろした。
「あの、私に何か」
ゆかりから受けた連絡は話したいことがあるから小学校に来て欲しい、というものだったが、それ以上は教えてもらえなかった。電話越しでは話せない、と言われてしまったのだ。そのときからゆかりの調子は今までと違っていた。
「鈴原さんのことについて、です」
それ以外にゆかりからの話というのはないだろう。予想はついていた。
「……角田先生のことですか」
しかしそれについては以前聞いている。水穂は角田のことをゆかりに相談していたと言っていた。
「いいえ、違います」
ゆかりは静かに首を横に振った。だとすると他に何があるというのだろうか。
「鈴原さんから聞いていますか?」
「どの件についてでしょうか」
そう返してみたはいいものの、どれというほど手持ちの情報はない。しかし、ひとつだけ思い当たることがあった。
「もしかして、こどもを傷付ける大人を排除してくれる、というお話についてですか?」
これは賭けだった。この情報は警察内部でも極秘扱いになっている。決して外部に漏らさぬようにとの達しを受け、今のところマスコミへ発表する予定もない。こんなことが世間に知れれば混乱が生じるだろう。
本当に辛い思いをしている児童だけではなく、邪魔な大人がいると判断した児童が面白半分に実行する可能性がある。とはいえ、未だその方法は不明なままだ。
相手が未成年どころかこどもということもあり、どの事件の聴取も進みが悪いのだ。
もし、ゆかりが言いたいのがこのことでなければ何も知らない一般人に捜査情報を漏らしたことになる。千里はそれでも賭ける方を選んだのだ。
「それです」
正解だった。
ゆかりの言葉に千里は僅かに安堵した。賭けてみたはいいものの勿論不安もあったのだ。敢えて自分から情報を漏らすなどあっていいことではない。
「……これからのことは、警察としてではなく聞いていただきたいのですが」
ゆかりの前置きに千里は戸惑いを隠せなかった。恐らくこれからゆかりが告げる内容は捜査にとっても重要なことだろう。それを警察としてではなく聞けと言う。即ち捜査には使うなということだろう。
刑事として悩むなというほうが無理な話だ。
「何故でしょうか」
返事をする前にそれだけは確認をしておきたかった。それを確認しないことには頷くことも断ることも出来ない。
「私の勝手な見解なのですが、貴女は過去に──こどものときに何らかの経験をしていますよね」
千里は息を飲んだ。何故、という言葉が喉元までせり上がってきたがどうにか飲み込む。冷静さを取り繕う必要がある。
「貴女が鈴原さんに接しているのを見て思いました。悲惨な体験をした児童に関して、他人ごとではないというような目をしながらも、必死に距離を置こうとしているのが見て取れたんです」
ゆかりはそこまで言ってから、大学時代に心理学を齧っていたと付け加えた。そして彼女の職業柄、大勢の児童を見てきている。人を見る目は通常より養われているのだろう。
「だからこそ、貴女に鈴原さんの力になって欲しいと思ったんです」
千里はゆかりの顔を見た。きちんと化粧が施された顔には悲痛にも似た表情が浮かんでいる。彼女は本当に児童のことを考える女性なのだろう。
「……一応、お話だけ聞かせて頂くことは出来ますか。私は刑事です。犯人を逮捕することを第一に考えなくてはいけません。これから聞くお話が捜査に重要であると判断した場合、ここだけの話、というわけにはいかなくなります」
千里が言うと、ゆかりは真剣な眼差しで頷いた。赤く彩られた唇は決意の証のように噛み締められている。
「それは勿論です。私も鈴原さんの為にも犯人は逮捕されるべきだと思っていますので捜査に有益だと思う情報は使って頂いて構いません。私の言葉が足りませんでした。鈴原さんの気持ちについて、貴女個人として聞いて頂きたいのです」
千里はそれなら、と強く頷いた。自分が聞いたところで何になるというわけではないのはわかっている。それでも、と思うのだ。
「鈴原さんが角田先生から受けていたことは省略しますね。問題はその後です。彼女はとある噂を耳にした」
「それが、こどもを傷付ける大人を排除する、というものですね?」
千里の確認にゆかりが頷いた。自分より結構年上だと思っていたが、こうして間近で見るゆかりの顔は年がそれほど離れていなように思えた。恐らく五つも離れていないだろう。
「そうです。彼女は日々に悩んでいるなか、インターネットの書き込みでそういった事柄を目にしたらしいのです。それで、彼女はそれについて調べた」
千里が幼い頃と違い、今時のこどもはインターネットの扱いに長けている。調べた事柄など数分で調べ上げてしまうのだろう。
「鈴原さんは幼いながら母親と折り合いが悪いことに気付いていました。その原因はわかりません。ただ、悩みを相談出来る間柄でなかったことは明白です。だから彼女はその噂に頼ろうとした。そこで出てきたのがひとつのサイトだったらしいのです。そこには助けを求めるこどもはメールをくれ、とだけ書いてあったそうです。鈴原さんはそこに角田先生から受けた被害と自分の胸の内を書いてメールを送ったそうです。勿論、あんなことになるとは知らずに」
サイト。それだったのか、と千里は目を見開いた。
「噂について調べているときも、どんなふうに排除してくれるのかはどこにも書かれていなかったそうです。ただ、排除してくれる。幼い児童が、それが殺人を意味するなど思うはずもありません。自分の前からいなくなってくれればいい。鈴原さんはそんな思いで助けを求めたそうです」
そして、水穂の願いは成就した。角田が殺されるという結果をもってして。そのときの水穂は一体どんな気分だっただろう。
そもそもメールを送ったのだって気休め程度だったかもしれない。誰かに聞いて欲しい。形だけでも誰かに救いを求めたい。そんな想いでメールを送ったのだろう。
「鈴原さんは自分を責めています」
「え……?」
千里は目を伏せるゆかりの顔を凝視した。たっぷりとマスカラの塗られた睫毛が頬に陰を落としている。
「自分があんなメールをしたから、助けを求めたりしたから角田先生が殺されてしまったのだと、小さな心を責めているんです。……私がもっと早くに対処をしていればよかったのですが」
ゆかりまでもが己を責めていた。千里は脳が動き続けるのを感じた。何を思案しているわけではない。ただ、脳が動いているのだ。
千里は水穂の気持ちを考えてみた。彼女はきっと自分のせいで角田が殺されたと思っているのだろう。だからこそ自分を責めている。それに対し、ゆかりはどう接していいのかわからないと正直な気持ちを告げてくれた。
──それもそうだろう。
水穂の気持ちは水穂本人にしかわからないのだ。周りがいくら貴女のせいではないと言ったところで彼女の気持ちが晴れることはないのだろう。それはもしかしたら永遠に。
「……確かに私は貴女の推測通り、こどもの頃に人には打ち明けづらい経験をしています。もしかしたらそれは鈴原さんが経験したことより壮絶かもしれません」
とはいえ、それは周りが計ることであり水穂からしてみれば何よりも辛い経験だろう。水穂が角田からされたことは簡単に消えるものではない。辛い経験というのは誰かと較べたところで軽くなるものではないのだ。
「けれど、私に何か出来ることがあるとは思えません」
千里は正直な想いを口にした。それにゆかりが落胆するのが見える。
「私がどんな言葉をかけても、例え犯人が逮捕されたとしても、鈴原さんが抱いた感情を消すことは出来ないのだと思います。随分と薄情な言い方になりますが、鈴原さん本人が折り合いをつけて生きていかなくてはならないのだと思います」
勿論、角田が殺害された件に関して水穂に罪はない。これが水穂が大人であって、誰かに殺人を依頼したというならばそれは罪に問われるだろう。しかし今回はそれとは違う。水穂はまだ刑事罰を受けられる年齢でもないし、そもそもそれが殺人依頼などとは知らなかったのだ。知らなければいい、というものではないのも理解してはいる。
けれど水穂の精神状況を考えてみたら、それは極自然なことなのかもしれない。しかし、と千里の思考は留まることを知らずに動いていく。
兎も角、水穂が何らかの罪に問われることはないだろう。しかしそれがまた彼女を苦しめるのかもしれない。
千里は考えをゆかりに対し、次々と言葉にしていった。
「私個人の考えではありますが、鈴原さんは一生自責の念に囚われて生きていくようになると思います。それほどに重いことですから。でも、彼女は悪くない。誰だって助けを求めたくなる。それが見ず知らずの他人であっても。その気持ちはよくわかるつもりです。だから、私は犯人が許せない
初めてだった。今回の事件はどこか他人事であり、それでいて身内を抉られるようなものだった。だからこそいまいち捜査に身が入らず、様々なことを悩んだ。しかし今ゆかりから水穂の話を聞き、初めてこれらの事件の犯人が憎いと思えたのだ。
こういった悩みを抱えているのは水穂だけではないだろう。きっと多くの児童が同じ感情に苛まれているはずだ。劣悪な環境に身を置いていた児童などは最初のうち安堵して暮らすのだろう。けれど成長したとき、己の犯した罪の重さを知るのかもしれない。
これは罪と呼べるものなのかどうか疑わしいところではあるが、本人はきっとそれを罪だと感じるのだろう。救われた後に訪れる自責の念。もしかしたら後悔も自責もない者だっているかもしれない。切り拓かれた未来だと思う者もいるかもしれない。それでも水穂のような感情に囚われて生きていく者もいるのだ。
それを思うと犯人のしたことが許し難いことに思えてならない。無論、被害者達が児童にしたことだって許されることではない。現に児童達は誰かに救いを求めるほどに傷付いていたのだから。
「私は犯人逮捕に尽力を注ぎます。それと同時に、鈴原さんとも出来る限り接見しようと思います。私が掛けてあげられる言葉などたかが知れていますが、少しは彼女の気持ちがわかりますから」
千里が言うと、ゆかりはありがとうございます、と深く頭を下げた。
「私が隠していたのはそのことだったんです。角田先生が殺された夜、鈴原さんからその話を聞きました。そこで私は黙っているよう言いました。角田先生から受けたことも含めて。そのことは誰にも言ってはいけないと。そうすることで鈴原さんの気持ちが軽くなれば、と思ったのですが反対に彼女を追い詰めてしまったようですね。私としては執拗に警察から聴取を受けたりするのを避けたかったのですが」
ゆかりはそう言って自嘲的な笑みを浮かべた。確かにあの夜にそれらのことを聞いていれば急いで事の真相を水穂から聞き出そうとしただろう。水穂の気持ちも考えずに。それは水穂を深く傷つけることを意味している。
捜査の結果としては変わらなかっただろう。あの夜に水穂の話を聞いていたとしても、犯人が捕まっているということはないように思うのだ。そんなこと程度で簡単に状況は変わらない。そんな程度の時間差で捕まるような犯人ではないだろう。
だとしたら、ゆっくり水穂から話を聞き出せただけよしとするしかない。角田を死に追いやったという水穂の気持ちも、あの夜に話を聞いていたとして何も変わらないのだ。
「出来る限りのことをします」
千里はその言葉を強い口調でゆかりに告げた。
祈咲の姿が視界に飛び込んできた。鮮やかすぎる白。それはあまりに眩しかった。
「祈咲君」
今日は迷うことなくその名を呼んだ。するとそれに祈咲はゆっくりと振り向いた。声の主が誰かわかっている振り向き方だ。
「千里さん」
祈咲は千里の姿を認めると微笑んだ。幼さの残る笑顔だ。
「仕事帰り?」
夕暮れの住宅街は人がまばらだ。少なくもないし、多くもない。制服姿の少女達と買い物袋を提げた中年の女性。それと犬の散歩をする老爺。
「そうです」
千里の問いに祈咲は微笑んだまま答えた。祈咲を見て、この間静馬の事務所で会った少女の存在を思い出した。小毬、と呼ばれていた少女だ。彼女は祈咲と一体どんな関係なのだろう。そう思ったところで訊けない。
「千里さんもですか?」
祈咲に訊かれ、千里は頷きながら手にしたスーパーの袋を見せた。
「そういえばお料理されるって言ってましたね」
「久し振りにしっかり作ろうかと思って」
返しながら祈咲の手元も見るとそこにはドラッグストアの袋が提げられていた。半透明の袋の中には栄養固形食が大量に入っていた。それと同じくゼリー状の栄養食だ。祈咲はいつもこんなものを食べているのだろうか。
「いつもそんな食事なの?」
つい、訊いてしまった。長袖から覗く祈咲の手首が細過ぎて訊かずにはいられなかったのだ。千里の質問に祈咲は苦笑いを浮かべてから口を開いた。
「料理出来ないので、どうしてもこういったものになってしまうんですよね」
男性の独り暮らしならそんなものなのかもしれない。とはいえ、それでは栄養が偏ってしまうだろう。
「……もしよかったら、今度、食事を届けましょうか」
不意に口から出た言葉だった。端からそんなつもりでこの話題を選んだわけではない。
言ってからしまった、と思った。どう贔屓目に見ても自分達の関係は親しいとは言い難い。祈咲だって親しくもない相手にこんなことを言われても困るだろう。
今のはなし。そう言いかけたとき、祈咲の唇が動いた。
「本当ですか? 嬉しいな」
予想外の科白だった。まさかそんな返しが来るとは思ってみなかったので千里は驚きのあまり言葉を失った。
「あ、もしかして社交辞令みたいなものでしたか? すみません、図々しく勘違いしてしまって。恥ずかしいな……」
祈咲はそう言って首の後ろを掻いた。その頬はうっすらと赤く染まっている。
「あ、いいえ、違うの。言ってからもしかしたら迷惑だったかしら、と思ったから驚いたの」
「そうでしたか。よかった、勘違いでなくて。迷惑なんかじゃないですよ」
祈咲は照れたように笑った。その笑顔に胸がざわりと妙な音を立てた。心臓が動くのを感じた。そんなことは初めてで自分でも驚いた。
「どうかしましたか」
黙り込んだ千里の顔を覗き込むようにして祈咲が訊いてきた。あまりに突然のことで千里は思わず身を引いてしまった。突如視界に飛び込んできたのは目に痛いほどの白だった。
「え、ああ、なんでもないわ」
千里は驚いたのを隠すように首を横に振った。しかし祈咲は千里の様子に気付いたようでくすくすと笑っている。少しばかり笑いを堪えたかのような仕草が彼をいつもより更に幼く見せた。
「すみません」
祈咲は一頻り笑い終えてから目に浮かんだ涙を拭って謝罪の言葉を口にしてきた。笑いながら、涙を拭いながら謝罪をする姿は怒る気を削ぐ。
「……いいわ」
千里は眉を下げて笑った。それを見た祈咲は何やら楽しそうに笑っている。一気に距離が縮まったような気がした。そんなことはあるはずもなく、錯覚なのはわかっている。それでも今このときは確かにそう感じたのだ。
「はあ、千里さんと話すの、楽しいです」
祈咲は再度笑い、その後に小さく息を吐いた。
──楽しい。
そう言われ、頬が僅かに熱くなるのを感じた。夏の暑さのせいとは違う。それは自分でもわかる。
「そう、かしら」
千里は熱を帯びた頬に軽く触れながら返した。祈咲が小さく微笑むだけで鼓動が強くなる。こんなことは初めてだった。祈咲の一挙一動に心臓が動く。それの意味がわからないほどこどもではない。しかし簡単に認めるわけにもいかなかった。
まだ出会って間もないし、会話だって数えるほどしかしたことがないし、それも濃い内容ではなく他愛ないどころか実のない話だ。それでも、と思い当たる節もあった。
静馬の事務所で背中を押してもらったこと。自分を普通の女性だといってくれたこと。自分に笑いかけてくれるところ。挙げ始めれば幾つも出てくる。
きっかけは存在していた。それをずっと見ないようにしていただけ。だから何故祈咲を見付けると声を掛けたくなるのかもわからない振りをしていた。それでもまだ素直に認められない自分がいる。そんなことに現を抜かしている場合ではない。
自分にはやるべきことがあるのだ。水穂の為にも、必ず今回の事件の犯人を逮捕しなくてはならないのだ。
千里は自分の感情に蓋をした。するしかなかったのだ。
「すみません。失礼でしたよね」
祈咲は僅かに眉を下げる。顔を揺らしたせいか、綺麗な白髪の髪がはらりと揺れた。黒目がちの目が彼を実年齢より幼く見せるのだと思っていたが、それは間違いだったようだ。彼が実際の歳より幼く見えるのは表情のせいだろう。
祈咲の表情はどこかこどものようなときがあるのだ。
「いいえ、気にしてないわ」
千里は答えながら祈咲のころころと変わる表情を見た。目を大きく見開いたり、細めたり、笑ったり、すまなそうな顔をしたり。それはまるでこどものようだった。
祈咲はよかった、と微笑んだ。
まるで、自分が真っ直ぐに育った姿を見ているようだと思った。自分があの出来事を経験せず、何事もなく普通の経験だけを積み重ねていたら。そうしたならば、こんなふうな人間になったのではないかと思えたのだ。
だからこんなに気になるのだろうか。だから、こんなに心が動くのだろうか。
「じゃあ、僕は帰りますね」
祈咲の言葉に我に返った。何処か遠くの空で烏が鳴いている。不安を煽るような、それでいて切なさを含んだ鳴き声だった。
千里も祈咲に別れを告げ、居住を構えているアパートへの道程を歩き出した。
まだまだだ。まだまだ辿り着くことは出来ないだろう。
そもそも辿り着けるはずはないのだ。辿り着けないようにしているのだから。
闇が濃くなる。何処までも拡がるような闇はいつしか、拡がることをやめ、濃さを増すことを覚えた。次第に濃くなる闇はもう、一歩前すら見えないほどだ。
何も見える必要はない。見えてはいけないのだ。
なのに。なのに、遥か遠くに何かが見えた。それはまるで一筋の光のようではないか。
そんなことはあるはずもない。あるわけがないのに。
ならば、目を閉じてしまおう。何も見なければいいのだ。そうすれば、それはないことと同じになるのだから。
またひとり、またひとりと被害者が増えていく。
己の罪は死を以てして贖え。それしか償いの術はないのだと言わんばかりに殺されていく大人達。
『汝、死して償え』
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