3
夜の繁華街というのはネオンが目に痛い。疲労からくるものだろうか。千里は下瞼を軽く押さえた。しかしそんなことでは何も変わらない。
週末ということもあり、繁華街はいつも以上の賑わいを見せていた。居酒屋の呼び込みに、キャバクラのキャッチ。若い集団は酔っている様子もないのに広がって大通りを占拠するように歩き、酔っ払った中年達は酒で気が大きくなっているのか、怒鳴るようにして歩いている。見慣れた光景だ。
千里もこの中を友人達と楽しく歩くときもある。しかし今の気持ちはそのときとは全く違うものだった。
水穂とゆかりの聴取から何の進展も得られないまま、小学校は夏休みへと突入した。夏休み初日、水穂の自宅を國原と共に訪ねたが、案の定というか予想通り水穂の母親に追い返されてしまった。
そっとしておいて欲しい。
水穂の母親は眉間に深い皺を刻んでそう言い放った。そしてこちらの返事を待たずに扉を閉めてしまったのだ。そうなると二度目の訪問を躊躇わざるを得ない。水穂から話を聞く機会は登校日だけだ。後は夏休みが明けるのを待つ他ない。
千里は酒臭い道を項垂れながら歩いた。擦れ違う人々が体のあちこちにぶつかる。きちんと纏めていたはずの髪がそれらの衝撃で僅かに崩れている。
今朝の捜査会議で連続殺人の数が知らされた。まだマスコミにはこれらの事件が連続殺人だということすら発表していないが、捜査本部では今やそれ以外の見方はしていない。
一連の事件だと思われるものは全部で十件。しかしこれは恐らく、というものであり、実際はもっと多い可能性がある。年数に至っては過去二年しか遡っていない。いつから、この犯人が動いているのかもわからないままということだ。
だというのに、未だ犯人像すら絞れていない状態だ。はっきりいって警察の上層部は焦っている。それだけの事件が未解決であり、しかも少しも犯人に近付いていない。これらのことを一般市民に知られないようにと必死だ。
問題はそんなところではない、と千里は考えていた。
犯人を逮捕しない限りこの殺人は終わらない気がするのだ。いつまでも、どこまでも続く。──きっと犯人が死ぬその日まで。
ならば、一人でも被害者を減らすべく努力をする必要がある。
──本当に?
誰かが頭の中で囁いた。それは知らない声ではなかった。それは紛れもなく、自分の声。幼い自分の声だった。
どうして、と千里は額を押さえた。自然と視線が下がり、地面を見詰める。無意識に足を止めいていたらしく、正面から人にぶつかられたが謝られることはなく、寧ろ舌打ちをされた。千里は大きく息を吐いて、目線を上げて足を前へと出した。
その中で、鮮やかな白を見付けた。人混みに紛れることもなくその白はまるで浮遊するかのように動いている。それを自然に目で追った。それが祈咲であることがわかったからだ。体の向きが勝手に変わり、彼の方へと足を向けていた。
祈咲はスティック状のお菓子を食べながらスマートフォンを見ている。それでも人にぶつかることなく、すいすいと人波を泳いでいる。小柄な為、集団に囲まれるようになると姿が見えなくなる。それでもその隙間から独特の白がちらちらと見えた。
もう少し。
千里は少しずつ祈咲へと近付いていく。祈咲の方はそれには全く気付いていないようだ。少しずつ距離が縮んでいく。それでも大勢の人に阻まれてしまい、思うように進むことは難しい。一瞬でも足を止めてしまえば見失ってしまいそうだ。
届きもしないのに手を伸ばす。それでも、追い付けない。祈咲は気付かない。もがくかのように人混み掻き分け、焦るかのような気持ちで漸く祈咲の直ぐ近くへと辿り着いた。それは祈咲が徐に歩みを止めたからだった。
祈咲は手にしていたスマートフォンに何かを打ち込んでいるようだ。親指がすいすいと動いている。その横顔は何故か祈咲ではないかのようで、千里は思わず声を失った。静かな横顔だ。
一体何と呼び掛けようとしていたのだろうか。名前、それとも挨拶。声だけではない。言葉も失っていた。祈咲の顔はスマートフォンの明りに下から照らされている。元々白い肌は余計に白く見える。気付けば千里は祈咲の真横まできていた。それでもまだ言葉は何も思い付かない。
ぴたり、と祈咲の親指の動きが止まった。千里の視線は祈咲の指に固定されていた為、視線を浴びていることに全く気付いていなかった。
「千里さん?」
その声だけが聞こえた。周囲は賑やかなままで、笑い声や怒声が響いているのに、自分の名を呼ぶその声だけが耳に届いたのだ。静かな空間で、ぽつりと聞こえた呼び掛け。
「奇遇ですね」
自然に視線を上げ、視界には祈咲の顔が飛び込んできた。漆黒の瞳がやけに大きく感じた。
「え、あ、うん」
見掛けて追い掛けてきた、という言葉は喉の奥へと仕舞われた。きっともう上がってくることはないのだろう。
「お仕事帰りですか?」
「うん、そう」
「こんな時間までお疲れ様です」
「そんなことないわ」
「いいえ、大変ですよ」
「……ありがとう」
短い会話だけが続いていく。いや、会話ではない。祈咲が言ってくれることに短い言葉を返しているだけだ。何を言っていいのかわからないのだ。それは当たり前だろう。見掛けたというだけで反射的に追い掛けてきてしまったが、千里と祈咲は親しいと言える間柄ではない。話すことなどあるはずもないのだ。
「祈咲君も仕事帰り?」
千里が訊くと祈咲は首を緩く振った。口が笑った形を取っている。
「今日はお休みでした。僕、アルバイトなんで、週に三日しか出勤してないです」
意外だった。静馬は彼をいたく気に入っている様子だったし、彼はあの場所によく似合っていた。そのせいか、ずっとあそこにいるような気がしてしまっていた。よくよく考えてみればそんなことは有り得ない。あの事務所は人が住めるような造りにはなっていないだろうし、そもそもあれは静馬の事務所であり、祈咲のものではない。アルバイトではなく正社員だったとしても、祈咲には帰るべき家があるはずなのだ。
そうだ。それがひどく不思議な感じがするのだ。
何となく、祈咲には帰る場所が存在しないような気がしていたのだ。自分でもおかしな話だとは思う。それではまるで彼がホームレスだと思っているようではないか。いや、それともまた違うのだが、上手く説明は出来ない。
何故か彼が自宅という場所を確保しているように見えないのだ。しかし何を根拠にそんなことを感じるのか自分でもわからない。そんなことを考えていると自然と言葉は止まってしまった。
「お疲れですか?」
祈咲が心配そうに訊いてきて、千里はそれで我に返った。
「あ、いいえ。祈咲君の家、どの辺なのかと思って」
疲れていないわけではない。寧ろ疲れは事件の捜査に加われば常に首から背中にかけて纏わりついているかのように離れない。
「この辺りですよ。駅の向こう側です」
祈咲が微笑んで答えた。柔らかな笑みは一瞬にして辺りの喧騒を消し去る。
「そういえば、以前公園でもお会いしましたし、もしかしてご近所なんですかね」
確かに千里の借りているアパートも駅の向こう側だ。あちら側は今いる繁華街とは打って変わって住宅ばかりが並ぶ静かな雰囲気だ。そして住宅の中にはアパートが多く、学生やフリーターも多いのだ。
「かもしれない。駅から近いの?」
「近いですよ。公園の近くにあるコンビニ、わかりますか?」
千里は言われてその辺りの地形を脳内に描いた。この間祈咲と会った公園から幾らも離れていないところにコンビニエンスストアがある。オープンしてまだ二年足らずのその店は外観が少し変わっている。それは上にアパートがあるからだ。
「ええ、わかるわ。結構行くの」
そのコンビニエンスストアは千里がほぼ日常的に利用しているところだった。千里の住むアパートからも近いし、駅からアパートまでの道程にあるのだ。仕事の日も行くし、休日でも行く店だ。
「僕、そのアパートの上に住んでるんですよ」
「え、あそこなの?」
そこは本当に千里が住んでいるアパートの近所だ。徒歩で三分もかからないだろう。まさかそんな近くに住んでいるとは思わなかった。
「嘘。私、そこから直ぐのアパートを借りているんだけど。近くにある、茶色の壁のアパートわかるかしら」
それが千里の住んでいるアパートだ。どこのアパートを借りるか悩んだときに、部屋の造りの他にその外観で決めたのだ。遠目から見るとレンガ造りに見えるところが気に入っている。
「そうなんですか。じゃあ、今まで擦れ違っていたかもしれないですね」
祈咲のその言葉に千里はそうね、と頷いてから間違いに気付いた。そんなわけはない。もし仮に知り合う前に祈咲と擦れ違っていたとしたら覚えているはずだ。祈咲の外見は一度目にすれば忘れることはないだろう。しかしそれを口に出すことはしなかった。
「今度会ったら挨拶しますね」
祈咲がにっこりと笑う。笑顔の多い子だと思う。そしてその笑顔は天使のように美しい。きっと顔の造作が整っているせいだろう。個性的でなくとも、理想の造り。それが綻ぶと美しいものになるのだ。
「私も挨拶するわ」
声を掛けずにはいられないのだろう。今夜のように。
彼はただの知人だ。しかも仕事を通しての。個人的な付き合いは全くない。だというのにどうしてか彼には近寄ってしまう。そしてその理由は自分でもわからない。
──彼に関してはわからないことだらけだ。
こういったことは初めてだった。千里はどうしても相手に対して一線を引いてしまう。けれど、祈咲に対しては違うのだ。一線を引くことを忘れてしまう。
「お仕事帰りに長くすみません」
気付けば辺りは先程よりも騒がしくなってきている。週末の夜が深まってきたせいだろう。二人の周りを人々が避けて通っていくが中には邪魔そうに眉を顰めている者もいる。今二人がいる場所は繁華街の中の広い歩行者天国だ。こんなところで立ち話をしていればさぞかし邪魔だろう。
「ううん。こちらこそごめんなさい」
千里は緩く首を横に振った。それに祈咲が軽く笑う。本当に常に微笑んでいるような子だ。
「このまま帰るわけではないの?」
もし帰るのだとしたら同じ方向だ。しかしこれから何処かに向かうのであれば別だ。
「はい、少しだけ出掛けます」
それに残念なようなほっとしたような気分になる。途中まで一緒に帰りたかったような、それともここで別れてよかったような。複雑な気分。
「そう。じゃあ、また。近いうちに事務所にお邪魔するかもしれないけど」
苦笑いを浮かべて言うと、祈咲はほんの僅かに眉を下げた。事件の進展のなさを憐れんでいるかのような表情だ。千里としても一般市民である祈咲にそんな顔をされてしまうと申し訳ない気持ちになってしまう。祈咲としては警察の不甲斐無さを責めるつもりなど毛頭ないだろう。しかし千里としてはそう受け止めてしまうのだ。
「お待ちしてますね、という言葉は相応しくないですよね」
祈咲はまだ軽い苦笑いを浮かべている。
「ううん。それでいいわ」
千里も同じような表情を浮かべてみた。それでも祈咲と同じ気持ちになることはない。立場が違うのだから仕方ないだろう。目の前にある祈咲の顔はきっと自分のものとは全く違ったものなのだろう。
「じゃあ、気を付けてね」
千里は短く言って、祈咲へと微笑を向けた。するとそれに合わせたかのように祈咲も小さく微笑んでくれた。
「はい、ありがとうございます」
互いに簡単な別れの挨拶をして、別々の方向へと足を向けた。
小学校の夏休みが始まり、二週間もしないうちに登校日はやってきた。八月に入り、暑さは加速度を増している。夏が始まったばかりの頃から暑い日が続き、今年は猛暑になるだろうと散々天気予報で言われていたが、今の暑さは想像以上だった。
千里は滲み出すかのような額の汗を手の甲で拭った。しかしそれだけでは追い付かない。首からも背中へと汗が伝う。長い髪を纏めていなければ首筋に髪の毛が張り付いていたことだろう。
気を抜くと口から暑いという言葉が漏れ出しそうだ。
「暑いな」
千里より先に國原が言葉を漏らした。今日はそれほどまでに暑いということだ。
「猛暑日らしいですからね」
今朝の天気予報でそんなことを言っていた。昨日も、一昨日も。それだけ暑い日が続いているということだ。こんななかで足で捜査をするのは正直厳しい。
学校が終わるのを応接室で待たせてもらっているのだがどうにも落ち着かない。最初はゆかりから話を聞いていたのだが、朝礼で貧血を起こした生徒がいるとかで直ぐに席を外されてしまったのだ。となると、千里と國原に出来るのは待つことだけだった。
小学校の応接室など生徒だったときは入ったことはなかった。そもそも応接室という存在など知らなかった気がする。生徒とこういった部屋は関わりがないのでそれも当たり前だろう。だからどこか落ち着かないのだろう。
「お待たせしました」
出された茶がなくなりそうなタイミングで水穂の仮の担任が応接室へとやってきた。まだ若いその男は面倒なことに巻き込まれたという態度を隠そうともしていない。
「こちらにお連れしました」
男は水穂の小さな体をそっと押して、彼女を応接室へと入れた。水穂は俯いて中へと入ってくる。見えるのは小さな頭だけで表情はわからない。
「私は席を外しても構いませんか」
男はかったるそうな口調で言う。年の頃は千里と同じくらいだろうか。まだ教師になって何年も経たないのだろう。それなのにこんな事件に遭遇してしまうなど気の毒ではあるが、どうにも彼は生徒のことを考えているようには思えない。これならば捜査としてはやりづらいが、ゆかりの方が水穂のことを考えているだろう。
「はい。ありがとうございます」
とはいえ、非協力的な者がいても何の情報も得られないので彼には外に出てもらうことにした。彼が此処に残ったとしても何も変わらないだろう。
「座って」
國原が水穂にソファへと座るように促した。水穂は俯いたままゆっくりと移動をする。小さな体の動きはひどく怯えているように見えた。一体彼女は何に怯えているというのだろう。
水穂は確かに角田の死を目撃はしている。しかし彼女が見たのは遺体であって、殺害される瞬間ではない。事切れた角田だ。それだって小学生からしたら大きなものだとは思う。勿論大人にとっても決して小さなものではない。だとしても水穂の怯えぶりは尋常ではない。
「水穂ちゃん。貴女は、何に怯えているの」
千里はそっと水穂の隣へと移動した。隣に並ぶと彼女の体は更に小さく感じられた。それだけ水穂が縮こまっているということだ。
率直に訊くのは正解ではないだろう。とはいえ、ゆっくりと事を進める余裕はないだろう。恐らく幾らもしないうちにゆかりが此処を訪れるだろう。どうしてもその前に水穂から話を聞きたい。前回はそれで話を中断されてしまった。今はゆかりが生徒の介抱をしているという願ってもないチャンスなのだ。
小学校の登校日は夏休み中に二回。これを逃してしまえば次の機会は一回しかない。それまでは日にちも空いてしまうし、それが過ぎてしまえば後は夏休みが明けるのを待つしかない。
「角田先生のお話、聞かせてもらってもいいかな」
ゆっくり話している余裕はないとはいえ、急いては事を仕損じる。急がば回れ、とまでは言わずとも、水穂に少しでもリラックスしてもらう必要はある。それにこども目線でしかわからない被害者の側面というものもあるだろう。
「角田先生、どんな先生だったの?」
國原は口を挟まずに黙って見守ってくれている。信じてくれているというよりは千里なら、と思っているのかもしれない。國原は千里の過去を知っている数少ない一人だ。
「……」
水穂はずっと俯いたまま一点を見詰めている。こども特有の細い体は微かに反応したように見えた。震えたというより、跳ねたような感覚に近い。確実に何かある。元々それを確信しているからこそ、こうして水穂のもとを訪れているのだがまたひとつ確証を得た気分だ。しかしその何かに辿り着けず仕舞いなのだ。
「先生と何か話したりしたことはある?」
事情聴取は得意な方ではない。寧ろ、苦手だと言える。しかも相手はこどもだ。どうしたらいいのか手探りどころではない。
「……ないです」
答えに違和感を覚える。角田は水穂の担任だ。幾ら角田が水穂の担任になってから四ヶ月といえ、話したことがないということはないだろう。個人的な会話を交わしたことがないとしても「ない」とは言い切らないだろう。特に角田の場合は生徒との距離が近いと評判なのだ。
「角田先生のこと、どう思っていた?」
千里は次の質問をした。これは少し直球過ぎる質問かもしれない。こうした質問をしながらも、千里の中では答えが見え始めていた。それは水穂が隠していることの一部には過ぎないだろうが、せめてこれだけでも本人の口から聞きたいと思う。けれどそれと同時に、水穂に真実を語らせることに躊躇いも生じている。
出来れば口にしたくないだろう。それでも聞き出さないことには何も進まないのだ。
「國原さん、少しだけ、いいですか?」
千里は視線を水穂から國原へと移した。そしてその視線を扉の方へと流す。学校らしい木の引き戸だ。それだけで國原は千里の言いたいことを察したらしくソファから立ち上がった。水穂ばかりを見ていたせいで國原がやけに大きく感じられた。
國原が静かに応接室を後にし、中には千里と水穂だけが残された。部屋の中は一人減っただけで途端に寂しい空気を漂わせる。それは國原の姿が見えなくなって心細く思う己の心境のせいだろう。それでも國原に此処から出て行ってもらう必要があった。
ここから先はデリケートな問題だ。聞く人間は一人でも少ない方がいいし、それが男性ならば尚更だ。
「水穂ちゃん、角田先生のこと、苦手だったのかな」
なるべく口調を柔らかくするように努めた。緊張すればする程、堅い口調になってしまう自覚はある。今それをやってしまったら水穂の心を開くことは不可能だろう。
水穂はまだ顔を上げない。柔らかそうな髪が横顔を隠してしまっている。今日はこの間のように髪を束ねてはいない。千里の手は自然に水穂の顔へと伸びた。そして、顔を隠す髪をそっと耳にかけてやる。それだけのことで水穂は驚いたように目を見開いた。しかしそこに怯えはない。
國原に出て行ってもらったのは正解だっただろう。國原が此処にいてはきっと水穂は怯えたままだっただろう。とはいえ、水穂の怯えが取り払われたわけではない。
夏休み前の聴取では水穂は自分のせいだと零した。しかし今日はそのことに触れるのは難しそうなので質問の方向を変えたのだ。前回機を逃してしまった。なので続きから、というのは難しいと考え、質問を変えてみた。
「……本当に死んじゃうなんて思わなかったの」
水穂は震える声でこの間の続きと思われること語った。
どういうこと、と訊けばいいのか。それとも黙ったまま言葉の続きを待つべきなのか。判断が難しい。
「私ね、こどものとき大嫌いな大人の人がいたの」
千里は自然に出てくる言葉を口にした。水穂がそれに反応して顔を上げる。二重瞼のくっきりとした瞳はうるんでいる。水穂の顔立ちは愛らしいもので、将来はさぞかし美人になるだろうと予想出来た。
「死ねばいいのに、て何度も思ったんだ」
死ねばいい。目の前で苦しみもがいて息絶えればいい。強く強くそう思った。そして、それだけではない。死ねばいいのに、という感情が可愛らしく思えるほどの感情。
「消えてくれれば、私は自由になれる、解放されると思ってた」
しかし願いは叶わなかった。
「わ……私、角田先生が怖かったんです」
水穂は震える声のままそう言った。
「角田先生……最初は優しかったんです。とても……優しくて、いつも、褒めてくれました」
千里は敢えて口を挟まずに、水穂の言葉を待った。水穂は何度も拳を握り返してはゆっくりと口を開く。声でなくその唇も震えている。
「けど、少しずつ、なんかおかしいなって……思い始めました」
「どうしてかな」
続きを促す程度の一言を入れる。水穂は一瞬言い淀んだ。口にしづらいことなのだろうし、恐らくだがゆかりから口止めをされているのだろう。
「私はね、水穂ちゃんの力になりたいの。もう、角田先生はいない。水穂ちゃんが辛い思いをすることはないのかもしれない。でも、水穂ちゃんは未だに辛いんだよね。だからね、それを少しでも軽くしてあげたいの」
自分に出来ることなどたかが知れている。これで犯人を逮捕したからといって水穂の心が晴れることはないだろう。起きたことは消せないのだ。向き合うことが難しいのも知っている。それでも今この瞬間だけは水穂の味方になってあげることが出来る。
──こどもには味方が必要なのだ。
自分にはいなかった。心の拠り所など存在しなかった。あの壮絶な日々。それが明けてから。何が自分にはあったのだろう。
「先生、私に何度も可愛いねって言ってくれたんです。最初は嬉しかった。……でも、可愛いねって言いながら、手を握るようになってきたんです。……撫でるように。それが、嫌だと思いました。それで、先生に呼ばれても残らないようになって……、それでも、先生、気付くと私の後ろにいて」
教師の性的虐待は昨今増えている。様々な事例が検挙されている。それでもそれは被害届を出されたものだけで、児童が打ち明けていないものを数えたら相当な数になるだろう。
「私、それが本当に嫌でした。なので、噂を信じてみることにしたんです」
水穂の声の震えはいつの間にか止まっていた。今までに聞いたことがないくらいに確りとした声だ。
「噂……?」
水穂からは予想以上に話を聞き出せそうだが千里の頭にもうそのことはなかった。今は、少しでも水穂の話を聞いてやりたいという気持ちでいっぱいだった。
「こどもを傷付ける大人を、ハイジョしてくれるんです」
ハイジョという言葉が排除だと気付くのに時間が掛かった。水穂はその漢字、もしくは正しい意味を知らずにその単語を使ったのだろう。だから千里の脳内で上手く変換されなかったのだ。
「それは一体……」
「もう下校時刻をとっくに過ぎています」
いつの間に扉が開いたのか気付かなかった。千里が突然の声に驚くと同時に水穂が息を呑むのがわかった。
「灰田先生」
応接室に姿を現したのはゆかりだった。その後ろのは國原が控えている。苦い表情を見る限り、彼女を引き止められなかったのだろう。
「本日は登校日なので、もう下校時刻なんです」
通常ならば夕方なのだろうが、今日は特別なのだろう。まだ昼を回ったばかりだ。
「鈴原さん、もう帰りなさい」
ゆかりは千里に一瞥もくれずに水穂へと近寄った。水穂の表情は硬いもので、先程までは少しだけだが気が抜けていたというのが今更になってわかった。
──せめて、もう少し時間があれば。
前回と同じだ。しかし前回よりほんの僅かにではあるが成果はあった。とはいえ、それを素直に喜ぶ気にはなれない。水穂が口にした言葉の重さのせいだろう。
きっと水穂は誰かに聞いて欲しいのと同時に誰にも知られたくなかったのではないかと思うからだ。こういった想いは相反する。誰かに打ち明けることがイコール救われるということではない。
ゆかりは水穂をそっと立たせ、応接室から出した。水穂は応接室から出て行くとき、ちらりと千里に視線を送ってきたがそこに込められたものを感じ取ることは出来なかった。
「何か聞き出せたか?」
國原が千里の隣へと並んだ。その聞き方から彼がゆかりからは特に何も聞き出せていないことがわかる。
「断片的な情報ではありますが」
纏まった情報を得れてはいない。途中からそのことを失念してしまっていたせいかもしれない。それでも冷静になって考えてみれば有力な情報ではあるだろう。
「帰りがてら聞こう」
國原は残っていた茶を飲み干したがそれはすっかり冷め切っているだろう。
水穂から得た情報は、彼女が角田から軽いものとはいえ性的虐待を受けていて、彼女がそれについて悩んでいたということ。そしてそのことについて水穂が何らかの噂に頼ろうとしたこと。
その噂とは一体何なのか。
『こどもを傷付ける大人を排除してくれる』
その噂については捜査会議でも報告をした。すると、他の班からも似たような報告が挙がった。それは藤立の班からで、彼らの班は一番新しく起きた事件を担当している。会社員が殺害されたものだ。
その情報は被害者の息子からのものだった。被害者である法川
「噂について、詳しい話を聞きましたか?」
捜査会議が解散した後、千里は藤立とニノ瀬に質問した。
「母親に止められちゃって突っ込んでは訊けなかったんだよね」
藤立がコーヒーの入った紙コップから口を離して答えた。紙コップからは湯気が螺旋状に立ち昇っていて、よくこんな暑い日にホットコーヒーなど飲めるものだと感心してしまう。本日も猛暑日だと今朝の天気予報で告げていた。
「母親は虐待の事実は?」
國原が質問をする。それにニノ瀬が首を横に振った。そのときに目を閉じる仕草は艶気がある。
「知らなかった、と一言だけ」
「同じ家にいて、そんなことって有り得るのでしょうか」
千里は少しだけ眉根を寄せた。逆ならば有り得るかもしれない。虐待をしているのが母親であるならば、それが父親の不在時に行われていれば気付かなかったといこともあるだろう。しかし今回のケースはそれではない。
通常の家庭で考えてみれば父親の在宅時、母親も家にいるはずだ。そんななかで虐待が行われていれば気付かないはずはないだろう。それとも虐待は日常的なものではなかったのだろうか。
例えば、父親が休日に息子を連れ出し、そこで虐待を行う。だとしたら気付かないということもあるだろう。千里はそう思い、その事件の資料を見直した。息子の年齢は十歳だ。だとすればこどもの態度や性格の変化などがあるはずではないか。
「虐待の内容はどういったものだったんですか」
千里は資料から視線を上げてニノ瀬に質問をした。
「身体的なものだったみたいね。少しだけ体を見せてもらったんだけど、軽いものが多かったみたいでこれといった傷跡はなかったけど。つねったり、頭を叩いたり、蹴飛ばしたり。そういったものだったみたい」
躾だと言われてしまえば他人が口を出せない程度ではある。それでもこどもの立場からしてみたら十分に辛いものだろう。母親としてはそれが虐待に当たるという認識に欠けていたのだろうか。いや、それであればそういった受け答えをするはずだ。しかし母親は知らなかったと答えた。
これは本当に知らなかったと言葉通りに捉えるべきではないだろう。恐らく、見て見ぬ振り。だからこそ、こどもは誰にも助けを求めることが出来なかった。
千里はそこまで考えてから考えを中断した。この事件は千里の担当ではない。藤立やニノ瀬が追うべきものだし、家庭内のことは犯人には繋がらないだろう。話を聞くべきは母親ではなく息子。はっきりさせるべきなのは母親が虐待を黙認していたかではなく、息子が口にした噂の件。
「他の班も似たようなネタを掴み始めてるみたいだねえ」
藤立は言ってからコーヒーを一口啜った。ず、という音が会議室に響く。会議室の中はかなり人数が減っている。犯人が警察を煽っているような状況。このことはまだマスコミには発表していない。しかしその挑発に警察が躍起になるのは当然だった。
「似たようなネタ?」
國原は藤立と違い、アイスコーヒーを飲んでいる。
「被害者によって危害を加えられた児童がいるらしい」
藤立は溜息混じりに告げた。
「こどもを傷付ける大人を排除する……」
千里の口から自然にその言葉が漏れた。そのままではないか。
「正義の味方ってことかね」
──正義。誰にも邪魔させない。
藤立の呟きに犯人から残されたメッセージを思い出す。真っ白のメモに残された一文。それが犯人の言いたいことなのだ。
人を殺すことを正義という。
千里はその意味を噛み締めてみた。そして、それを否定できない自分がいることに気付いたのだ。それでもそれは許されることではない。道徳や法律の問題ではあるが、決して許されることではない。
──形を作って否定しているだけだ。
千里は自分の固まった考えを己で認めた。そうしないと過去の自分を責めてしまいそうだった。確実に救われる方法を選ばなかった自分を。
それを否定したくなかった。間違っていなかった。あれでよかったのだ。だから今、自分はここに立っているのだと言い聞かせたい。
「大丈夫?」
ニノ瀬の声に我に返る。途端に眩しい中に放り出されたような気分になる。
「あ、大丈夫です。色々考えていまいた」
千里は咄嗟に嘘を吐いた。そんなことは日常茶飯事だ。本音や本心を口にすることは少ないかもしれない。
「じゃあ、各々やるべきことをやりに行きますか」
藤立がコーヒーを飲み干し、紙コップを握り潰した。ぐしゃり、と柔く紙は縮まる。それは普段上品な仕草が多い藤立にしては珍しい行為だった。それだけ彼の中に怒りがあるということだろう。
「解散だな」
國原の一言で二人一組になり会議室を後にした。
夏休みの小学校はひどく静かだ。今日はプールやクラブ活動もないようで生徒の数は極端に少ない。いるのは図書室に本を借りたり返しに来ている児童だけのようだ。職員室に続く廊下には誰もいない。教師達も職員室に篭って雑用をこなしているのだろう。
そこは千里の知っている小学校とは別物のようだ。事件当夜に訪れた小学校にも同じような感想を抱いたが、そのときとはまた少し違う。
千里と國原が目指している保健室は一階の奥にある。職員室の前を通ったときだけ、中から教師達の声が微かに聞こえた。今は夏休みという長期休暇中。けれどあんな事件が起きたばかりでは通常通りとはいかないだろう。マスコミや父兄への対応は引き続いているはずだ。
千里はそれに同情しながら職員室の前を通り過ぎた。
保健室の前に立つと、中には誰もいないのではないかと思うほどに静かだった。しかし中にはゆかりがいるはずだ。千里は小さく深呼吸をしてから扉を二回、ノックした。
「ご勝手にどうぞ」
ゆかりに事前に連絡は入れていないが、来訪者が千里達であるのがわかっているかのような返事だった。千里と國原は失礼します、と同時に言ってから扉を開けた。中ではゆかりがデスクに向かって何やら作業をしていた。
「今日は何を聞きに来たのかしら」
ゆかりは作業の手を止め、千里達に顔だけを向けた。今日は白衣を着ていない。
「鈴原 水穂が角田から受けていた被害についてだ」
ゆかりは國原の言葉に微かに反応したように見えた。それは本当に僅かな変化で凝視していなければ見逃していただろう。今日此処を訪れる前、國原から課された使命はそれだったのだ。ゆかりの一挙一動を見逃がすなというもの。
ゆかりは極僅かに動きを止めただけだったが千里はそれを確りと見ていた。
「ええ、存じていました。鈴原さんから相談を受けていましたし」
もっと隠すかと思っていたが、意外にもゆかりはあっさりとその事実を認めた。これはさして重要なことではないということか。それとも水穂が話してしまった以上、隠すことに意味はないと判断したのか。
「何故早い段階で教えてくれなかったのですか」
國原が苛立ちを隠す様子もなく詰問した。ゆかりがこのことを早い段階で伝えてくれていればもう少し事件の進展はあったかもしれない。いや、そこまで重大なことではないかもしれないが、水穂への聴取の回数は確実に減っただろう。ゆかりが水穂のことを思うなら、千里達に伝えるべきことだったと思われる。
「鈴原さんが隠したがっていましたのでその意思を汲んだまでです」
ゆかりがさらりと言ってのける。それは正しいのかもしれない。水穂からしたら他人に打ち明けるのはさぞかし苦痛だっただろう。
──立場の違いだ。
ゆかりは養護教諭。正直犯人の逮捕などよりも、生徒の心を第一に考えるのだろう。そして千里達は刑事だ。水穂の心よりも犯人の逮捕が優先されるべきことだ。そこの違いがあるからこそ、ゆかりから情報を引き出すのは難しいのだ。
「角田先生のセクハラが酷くなるようでしたら、私がどうにかするつもりでいました。幸いと言いますか、触れる程度で済んでいましたし、酷くなる前にあんなことになってしまいましたね」
あんなこと。即ち、角田が殺害されたということだ。
「その他に何か隠していることは?」
國原の口調は普段聴取をしているものとは違っていた。國原としても焦っているのだろう。ここまで事件は殆ど進展していないと言っていいだろう。漸く、被害者達の殺害された理由がわかりかけてきたところなのだ。それがわかったとして、犯人に一歩も近付いてはいないのだ。
「ありません」
きっぱりと言い切りはしたがまだ何かを隠しているのは明白だった。それはゆかり自身わざとこちらに気付かせているように思える。これは最初からそうだ。だとしたらゆかりが隠していることは角田の卑劣な行為よりも重要なことになる。
気付かせようとしているわりに頑なにそれを明かそうとしない。ゆかりの真意は未だに不明なままだ。
「鈴原 水穂がとある噂について口にしていたが、それについては?」
「存じ上げません」
ゆかりは國原から目線を逸らさずにいる。毅然とした態度のまま嘘を吐く。ゆかりがひた隠しにすることとは一体何なのか。
「本当に?」
國原が少しだけ距離を詰める。それでもゆかりが動じる様子はない。千里は此処を訪れてからまだ一言も喋っていない。口を挟める空気ではないからだ。
「ええ、本当です」
明らかな嘘は消化されずにその場に漂っている。千里と國原はゆかりの嘘を呑み込めず、ゆかりもそれに気付きながらも弁解も補足もしない。
「まだ他に何か?」
ゆかりは忙しいとでも言うようにデスクに顔を向ける。長い髪はきっちりと纏められていて、すらっとした項が視界に飛び込んできた。後れ毛のない、綺麗な項だ。
「ここにはスクールカウンセラーが常駐していないそうだが、生徒の相談事はあんたが聞いているのか」
國原はゆかりの名を呼ばなかった。呼ぶ必要もないと判断したのだろう。ゆかりがそれに再度こちらに顔を向けた。
「常駐はしていませんが、決まった曜日には来ます。確かに私に相談して来る児童もいますが、担任に相談する子も多いですよ。ここに来るのは、教室に居場所を見付けられない児童が殆どです」
千里にも身に覚えがあった。虐められているわけではない。しかし、教室居に場所がないのだ。千里の場合は原因と呼べるものがあったが、勿論明確な理由や原因などない子もいるだろう。集団生活が苦手。上手く馴染めない。大勢の中で発言するのが得意ではない。様々な要因を抱えて、そういった子達は保健室という場所に登校をするのだ。
千里も短い期間ではあったが保健室登校をしていた時期があった。
──好奇の視線が怖かったのだ。
「鈴原 水穂もそうだったと?」
國原が質問する。水穂がゆかりに角田についての相談をしていたということは、即ち彼女はここを訪れることが多かったということだろう。
「彼女の場合、悩みの原因が担任である角田先生でしたので、自動的に私のところへ相談に来ました」
水穂は母親には相談しなかったのだろうか。母親にもそのことについて訊こうとしたのだが、門前払いを食らってしまい訊けなかったのだ。
「鈴原さんは親御さんには相談をしなかったのでしょうか」
千里はその疑問をゆかりに向けてみた。
「……デリケートな問題ですからね。学校での問題を親に打ち明けられないというのはよくあることです。児童は親に心配をかけたくないと思っていたり、児童によっては学校と家庭を切り離して考えていたりする子もいます。虐めなんかを打ち明けない事例も沢山ありますよ」
それで自殺をしてしまうこどもも昨今増えているのも事実だ。
「今日はこの辺りで帰ります。また、伺います」
國原が低い声で言い、軽くだけ頭を下げた。千里もそれに倣い、ゆかりに向かって頭を下げた。
一人でも多くのこどもを救いたい。一人でも多く。理不尽に苦しめられる必要なんてないのだ。理不尽に悲しみを浴びる必要などない。誰にもそんなことをしていい権利などないのだ。大人がこどもを傷付けていい理由などこの世には存在しない。あっていいはずがない。何人たりとも、そんな権利など持っていないのだから。
死して償うしかないのだ。それ以外にこどもが救われる方法などありはしない。それでしか傷を拭うことは出来ないのだ。
存在を消去することでしかその傷は癒えないのだから。
これを罪だと呼ぶのだろうか。
救いの手を差し伸べることが罪に値するというのだろう。
確かに神様と呼べるほどに崇高なものではない。この手は赤に塗れ、この心は闇に染まっているのだから。
それでも「神様」と呼んでくる子もいる。
でも、神様なんかではない。
さあ、今日も理不尽に虐げられるこどもを助けに行こう。
定期的に訪れる非番を煩わしく感じるようになってきていた。
千里は公園のベンチで深い溜め息を吐いた。夏は盛りを迎え、毎日茹だるような暑さが続いている。なんでも猛暑日の連続記録が更新されたらしい。
昨年は冷夏で暑い時期が極端に短かった。人間というのは不思議な生き物で、どうにも比較的楽だったものと較べてしまう。よくよく思い出してみれば、一昨年は十月まで暑い日が続いていたというのにそんなことはすっかり忘れて、今年は異様に暑い、と文句が口をついて出る。
「はあ、暑い」
額から顎にかけて流れる汗を拭いもせずに千里は呟いた。暑い暑いと幾ら言ったところで暑さが和らぐはずもないことは知っている。それでもその言葉は自然と口から洩れるのだ。
「確かに今年は暑いですよね」
不意に背後からかかる声に千里は一瞬肩を震わせた。早朝の公園は人気がなく、少しばかり不気味だったので突然の出来事に体がひとりでに反応してしまったのだ。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
声の主は静かに千里の正面へと回ってきてそう謝った。
「祈咲君」
千里に声を掛けてきたのは祈咲だった。暑い、と言いながらも祈咲は今日も全身をきっちりと包んでいた。首にはトレードマークのようにストールを巻き、ぴっちりと長袖長ズボン。服の色合いが鮮やかなだけまだましではあるが、暑苦しい印象を消すには至らない。
「ううん、ぼんやりしてたから驚いただけよ」
千里は首を緩く振った。昇りきっていない朝陽が眩しく、祈咲を見上げる瞳を少しだけ細めた。薄目で見る祈咲の姿はいつもと違って見える。輪郭がぼやけ、捉え損ねる感じだ。
「今日はお休みですか?」
祈咲に問われ、頷く。
「祈咲君は?」
「僕は今日、午後からなんです。静馬さんに来客があるようで、午前中は事務所はお休みです」
自営業──探偵職がそう表すのかは不明だが──らしいことだ。今でこそ企業によってはフレックスタイムだなんだと導入しているが一般的ではない。ましてや公務員には関係のないことだ。基本が定時の仕事。半休でも取らない限り、仕事の都合で午後からなどということはない。
「そうなんだ」
「はい」
祈咲は断りを入れてから千里の横へと腰掛けてきた。小柄な体だと思っても、いざ隣に並ぶとそこには男女差がしっかりと存在する。
「お休みなのに早いんですね」
公園の中に小さな犬を連れた老女が入ってきた。普段からこの公園が散歩コースなのか、ポメラニアンらしい犬は真っ直ぐに進んでいく。辺りを見回したり、立ち止まったりはしない。老女もその光景を微笑ましい表情で見詰めながらリードを引いている。
「ちょっと早く目が覚めちゃったのよ」
千里は些細な嘘を吐いた。本当は早く目が覚めたわけではなく、眠れなかったのだ。昨日は早めにベッドに入ったにも関わらず、殆ど眠ることが出来なかった。目が冴えているのとはまた違い、何となくうとうととした状態がずっと続いていた。そうなると明け方には完全に目が覚めてしまうのだ。仕事のときはそれでもベッドに潜り込んで起床の時刻までやり過ごすのだが、休日はそれも落ち着かずに起きてしまう。
「寝苦しいですもんね」
祈咲は千里の嘘には気付かなかったようでそう返してきた。確かにここのところ熱帯夜が続いている。昼間は茹だる程に暑いというのに、夜になってもそれが和らぐことはない。その気象は体力を地味に奪っていく。そんななかで眠れないとなると、それは顕著になる。
実際、聞き込みの最中に歩いているのが辛くなるときすらある程だ。
「毎日暑くて困るよね」
千里が話を合わせると、祈咲はそれに微笑んで頷いた。
「それ、食事?」
千里は祈咲が手にしていたコンビニの袋を見て訊いた。千里と祈咲の間には白いビニール袋が置いてある。中身はペットボトルくらいしかわからない。
「朝ごはんです。天気がいいから外で食べようと思って」
祈咲は袋を持ち上げて見せる。かさりと音がし、袋が眼前に来る。それから中身をベンチの上に広げてくれた。水の入ったペットボトルにサンドイッチと固形栄養食だ。祈咲の年齢を考えると少ない量に思える。
この間繁華街で祈咲に会ったときも彼はそんなようなものを食べていた気がする。コンビニの上のアパートに住んでいるといっていたので恐らく独り暮らしなのだろう。男性の独り暮らし。どうしてもそういった食事が増えるのだろうか。
千里は刑事という仕事を始めてから、体が資本だと思い、自炊をするようにしている。朝も前の晩に炊飯器のタイマーをセットし米と卵焼き、そして味噌汁を必ず食べる。昼はどうしても買ったものや仕事の都合によって食べれないこともあるので、夜は肉や魚、野菜をバランスよく食べるようにしているのだ。
偏食なのか小食なのか。気になったところで訊くことは躊躇われた。そこまで親しい間柄ではないからだ。
「あ、食べていいわよ」
千里はコンビニの袋を指して言う。それに祈咲は失礼します、と断りを入れてサンドイッチの封を破った。ハムとマヨネーズのサンドイッチだ。祈咲は上品な動作でそれを口に運ぶ。育ちがいいのだろうか。大きくかぶりつくこともしないし、咀嚼の仕方もゆっくりと静かだ。
「千里さんは朝ごはんは?」
朝食ではなく朝ごはんと称するところが可愛いと思った。
「食べてきたわ」
今朝もきちんと炊きたての白飯と卵焼き、味噌汁といういつもと同じものを胃に詰めてきた。習慣というのは恐ろしく、どんなに眠くても、どんなに疲れていても同じものを口にしないとどこか落ち着かなくなる。例外なのは呑み過ぎた翌日くらいだ。
「自炊しているんですか?」
「うん、そうね。料理も好きよ」
自炊をするようになってから料理をすることが好きになった。レパートリーが沢山あるわけではないが、作るという行為自体が好きだった。
「そうなんですね」
祈咲がにっこりと笑う。特に会話は弾まない。それもそうだろう。二人で何か話すことなどないのだ。
「事件、どうなってます?」
一瞬静かな空気が流れたところで祈咲が不意に口を開いた。
「え、ああ。そうね、特には、かしら」
幾ら静馬が警察庁公認の探偵とはいえ、祈咲は違う。あの事務所で助手をしている時点で同様に考えてもいいのだろうが自分だけの判断ではどうしようもない。
「大丈夫ですよ。静馬さん以外には漏らしませんから」
祈咲が千里の心中を察したように言ってきた。確かに祈咲はそういった青年だろう。それは僅かな付き合いでもわかる。
「……犯人の掌で踊らされてる感じ、かしら」
千里は捜査の状況というよりも自分の心境を語った気分だった。
「犯人の特定は?」
祈咲の問いに千里は首を緩く振った。それがわかれば事件は解決目前だろう。しかし現状、解決とは程遠い。程遠いどころか全く見えていない。こうしている間にも次の被害者が出るかもしれないのだ。
「難しいんですね」
祈咲の言葉に首を傾げる。難しいといのとは少し違う気がする。情報も少ないし、わからないことだらけだ。
殺人を正義という犯人。しかしその実態は見えてこないのだ。こども達からも上手く話しを聞きだすことは出来ず、どうやって犯人に救いを求めているかもわからないまま。どうやっていったら捜査を進展させられるかも不明なままだ。それは千里個人の問題ではなく、捜査本部全体の問題だった。
「このまま迷宮入りしたらどうしよう」
自分で言って、その表現が正しくないことに気付いた。この事件は犯人を逮捕出来ない限り終わらないだろう。犯人は自分の命が尽きるその日まで殺人を犯し続ける。漠然とだがそんなふうに思うのだ。
そもそも、この連続殺人事件の始まりすら明確ではないのだ。いつからこんな事件が始まっているのだろう。
「頑張って下さいね、というのはおかしいですよね」
祈咲はそう言って苦笑を浮かべた。弓形の眉が歪む。
「ううん、ありがとう」
千里はそう言ってくれる気持ちが嬉しくて礼を述べた。例え気休めだとしても嬉しい。
「大丈夫。貴女はきっと犯人に辿り着きますよ」
祈咲の言葉はひどく耳に響いた。どうしてもそれが気休めの言葉には思えなかったのだ。そして、何故祈咲はそんなことを言ったのだろう。彼は「警察は」ではなく「貴女は」と言ったのだ。
「え……?」
返す言葉が見付からず、千里はそう返した。
「自信を持って下さいね」
祈咲はそう言うと立ち上った。ふと視界が翳る。
「じゃあ、僕は行きますね」
「ええ、また」
千里が言うと、祈咲もまた、と言って笑った。公園の暑さはきたときよりも酷くなっている。陽が高くなってきたせいだろう。
千里は僅かな時間、太陽を見た。たった一瞬だったというのに眩暈に似たものが襲う。視界が真っ暗になり、脳がくらりとする。
目を閉じても瞼の裏が眩しい。小学校の理科の授業で太陽を直接見てはいけないと習った気がする。太陽を直接見ると目が焼けてしまうのだっただろうか。
眩し過ぎるものは直視出来ないのだ。
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