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暑さが増している。 

 千里はぼんやりと昼最中の公園を眺めた。本日は非番。仕事人間という程、仕事一色の日々を送っているわけではないが休みだからといって予定が詰まるわけでもない。刑事という仕事に就く前は、事件が起きれば休日返上で働くものだとばかり思っていたが、現実は違った。

 非番という名の休日はきちんと交代で回ってくるのだ。勿論、非番の日に呼び出しが掛かることも皆無ではないが、持前の班が事件を担当している場合は確実な休みが取れる。

 千里のような新米の刑事に休日まで出来る捜査などあるはずもなく、千里はぼんやりと暇を持て余していた。

 探せば都合のつく友人はいるだろうが、明日からまた仕事だと考えると友人と遊びに出掛ける気も起きない。休日は日々の疲れを取るもの。そんなふうに考えるようになったのはいつからか。それに、今は誰かと楽しく過ごせる気分ではない。

 事件が解決した後ならば、それもいい。けれど今は殺人事件に携わっているのだ。人が殺された。しかもそれは連続殺人事件かもしれない。そんな最中(さなか)に友人達と楽しく談笑などしていられない。

 千里が殺人事件を恨む気持ちは人よりも強い。だからこそ、今の職業を選んだのだ。だからといって、常日頃その考えが頭や心についてまわるわけではない。忘れているというのとも違うが、うっすらともやがかかっているような感覚に近い。そしてその気持ちは殺人事件に関わることでクリアになるのだ。

 オンとオフ。言うなればそんなところなのだろう。

 平日の昼間。公園内は閑散としている。これが午前中、もしくは午後であれば幼いこども達とその親で賑わっているのだろうが、今の時分は家で昼食を摂っているはずだ。公園の中には千里の他に、昼休みらしき若いスーツ姿の男がスマートフォン片手に食事をしている。住宅街の公園で食事をしているところを見ると、営業マンだろうか。食べているのは菓子パンだ。スマートフォンを弄る為にそういったものを選ぶのだろう。

「あ、やっぱり」

 千里がそんな営業マンらしき男を眺めていると、不意に声が降りかかった。千里がそれに反射的に顔を上げると、そこには白髪を靡かせた少年──もとい、青年がいた。

「椿君、だっけ」

「祈咲でいいですよ」

「祈咲君」

 そんなやり取りをしているうちに、祈咲は千里の隣に腰を下ろした。公園の狭いベンチは並んで座ると距離が近い。今日は陽射しが強く、茹だるような暑さだというのに祈咲はまるで全身を布で包んだかのような格好をしていた。赤い千鳥格子のストールを首に巻き、着ている白いシャツは長袖だ。それに鮮やかなオレンジ色のパンツ。

「お休みなんですか?」

 祈咲は千里に笑顔を向けてきた。あどけなさの残る笑顔は彼がもう青年だということを忘れさせる。幼いこどものような、邪気のない笑顔だ。

「ああ、うん」

 千里はそれに頷いた。

「祈咲君も?」

 千里が尋ねると祈咲は、はい、と笑顔のまま頷いた。

 何を話せばいいのか。人見知りではないが、昨日今日知合ったばかりの人間と談笑出来る程社交的でもない。中途半端な性格というのは時に難となる。

 ──暑くないの?

 千里はそんな質問を祈咲にしかけて、しかし直に飲み込んだ。なんとなくだが、見た目に関しての質問は祈咲にはしづらい。それは説明のつかない白銀の髪色のせいだろう。

「長閑ですね」

 祈咲が不意に口を開いた。穏やかさと爽やかさが同居したような声だ。

「そうだね」

 確かに、長閑だ。陽射しは強く、茹だりを感じはするが木陰にいれば時折心地いい風が吹く。夏独特の空気だ。眩しさの中にも、穏やかさがある。

「休みの日はいつもここに?」

 祈咲に訊かれ、千里は曖昧に頷いた。いつも、というわけではない。なんの予定もないときや、ふらりと散歩をしたくなったときだけだ。それをそのまま祈咲に告げると、そうですか、と返ってきた。

「お仕事、楽しいですか?」

「え?」

 思わず、祈咲の方に顔を向けた。祈咲の横顔があるとばかり思っていたのに、そこにあったのは正面だった。目のサイズも、鼻も、そして口のサイズも理想的。けれど個性がない。整っていると気付はするが、その顔立ちを美形とまで呼ぶことは出来ない。それでも陽の光を背景に見る彼の姿は美しかった。煌く白銀の髪がそう思わせるのか、それともそれは彼が黒髪であったとしても同じなのか。

「あ、すみません。語弊がありますね」

 千里が黙ったのを自分の質問が悪かったと勘違いしたらしい祈咲は慌てた素振りを見せた。通常は綺麗な弓形ゆみなりの眉が今は下がっている。

「刑事さんの仕事に楽しいとか失礼でした。申し訳ありません」

 祈咲はぺこりと頭を下げる。初対面のときも思ったが、祈咲は今時の若者にしては礼儀正しい。

「え、ああ、大丈夫よ」

 年下の男と話すのは久し振りだ。事件関係者であれば関わることもあるが、こんなふうな会話をすることはない。

「質問を変えますね。お仕事、遣り甲斐はありますか?」

 祈咲は少し照れたような表情をした。はにかむように歪んだ口許が可愛らしい。

「遣り甲斐、か。どうかな」

 千里は祈咲から視線を外し、素直な感想を口にした。まだ会って二度目だというのに、それに抵抗はなかった。それは不思議な感覚で、自分でも理由はわからなかった。

「……変な質問をしてしまったみたいですね」

 隣で祈咲が項垂れるのがわかった。横目で見ても、しゅんとしているのがよくわかる。今度はそれに千里が慌てた。

「ううん、貴方が悪いわけじゃないの。ごめんなさい、上手く答えられなくて」

「いえ、千里さんが謝ることじゃないです。僕が失礼なことを訊いてしまったから」

「そうじゃなくて、全然失礼なんかじゃないよ」

 そこまで言ってから、互いに顔を見合わせてくすりと笑った。祈咲は僅かに口角を上げ、目を細めている。静馬が言っていた通り、綺麗な子だと思った。

「私はね、詳しくは言えないんだけど、思うことがあって刑事になったの。けれど、実際は上手くいかないことばかり。正直、向いてないのかも、て思うことも沢山ある。それでも辞めたくないし、なのに、向き合えなくなるときもある」

 何故、ほぼ初対面に近い状態だというのにこんなことを話せるのか。それは、祈咲の持つ不思議な雰囲気のせいだろうと思い当たった。ふんわりとしているようで、それでいて確りとしている。祈咲はそんな空気を纏っているのだ。

「悩んでいるのは、いいことだと思いますよ」

 祈咲は柔らかい口調で言ってきた。

「え?」

 千里はその祈咲の言葉の意味がわからずに、首を傾げた。

「だって、悩むということは、きちんと向き合っているということじゃないですか。悩まずにこなせているのなら、それは目を逸らしているということ。なら、悩めば悩んだだけ、仕事と向き合えているということになります」

 目から鱗だった。そんなこと、考えたこともなかった。悩めば悩む程、刑事という仕事が向いていないように思えていたのだ。

「そっか」

 靄がかかっていた心が少しだけだが晴れた気がした。

「ありがとう」

 千里は微かに口許を綻ばせて祈咲に礼を告げた。

「お礼を言われるようなこと、言えてないです」

 祈咲はそれにまた照れる素振りを見せた。

「お昼ご飯、もう食べた? まだならご馳走するけど」

「すみません、もう食べてしまいました。それにこの後、用事があるんです」

 やんわりと断られてしまい、少し残念だという感情が沸いた。もう少し、彼と話がしたかったのだ。

「ううん、謝らないで。また事務所に行くことあると思うけど、そのときは宜しく」

 千里が言うと祈咲は笑顔ではい、と頷いた。いつも無愛想な顔ばかりしている國原と一緒にいることが多いせいか、こうしてくるくると表情を変える男性は新鮮だった。

「では、またお会いいましょう」

 祈咲はにっこりと笑ってから頭を下げた。そして静かに立ち上がり、公園から去っていく。一人残された千里は、先程までとは少しばかり違う気持ちで公園を眺めた。


 静馬が構える事務所の調度品はどれもこれも高級そうなものだった。千里などでは一生かかっても揃えることは出来ないだろう。そしてそれらには傷ひとつついていない。扱いに気を付けているのか、それとも定期的に新しい物に買い換えているのか。どちらだとしても千里には到底無理なことに思えた。

 千里は元来、淑やかさとは無縁で、よく物を落とすし、よく物にぶつかる。独り暮らしをしているアパートに置いてある家具はそのせいで傷だらけだ。そして次に、定期的に買い換えるなど以ての外だ。値段の問題ではない。いや、無論それもあるのだが、それ以上に無駄なことをしたくなかった。使える物は限界まで使う。それが幼い頃祖父の下で暮らした千里にとって、当たり前のことになっていた。

 しかし静馬はそんな内装に似合う風貌をしていた。高級そうなスーツを身に纏い、すらりと均整の取れたスタイル。静馬がいる空間だけ切り取れば、それはまるでセレブ雑誌のグラビアのようだ。

「何か、進展はあったのかい?」

 静馬が耳馴染みのよい、それでいて僅かに癖のある声で國原に尋ねた。組まれた脚は異様に長い。

「いや、何も。あれば此処には来ない」

 國原は淡々と返す。そう、捜査には何の進展もなかった。連続殺人事件として動き始めてはいるが、被害者たちの共通点がないのだ。あるとすれば、児童に関する職業というだけだ。それが動機に直結可能性はあるが、しかしそれの何処にかはわからないのだ。

 散々、捜査会議でもこれについて議論されている。けれど、答えのようなものは見付からない。

「お前の見解は?」

 捜査資料をずらりとガラス張りのテーブルに並べ、國原が訊いた。静馬はそれに対して首を傾げる。わからない、といったふうではない。己でもう少し考えろというふうだ。

「被害者たちの身辺は洗ったんだろうね?」

「それは勿論」

 千里が答える。そんなことは初期のうちに済ませている。それでも見えてくることはないのだ。

 ──愉快犯の犯行では。

 捜査本部ではそんな意見も持ち上がっている程だ。

他には幼少期に大人──それが児童に関する職業であったなどで──によって何らかの虐待を受けたものが犯人であった場合。それが愉快犯以外の線でプロファイリング班が出したプロファイリングした結果だ。

 ──大人への復讐。

 捜査会議で有力な扱いを受けている見解はこの二つだ。それでも、千里はどちらにも閃きを感じることは出来ずにいる。どちらもこれといった否定材料があるわけではない。しかしかといって肯定する材料もないのだ。

 何にしろ、情報が少ない。被害者同士の共通点がなさ過ぎるのだ。

「被害者達に共通の知人や友人はいない。そして、被害者同士が顔見知りということもない。職業が職業なだけに、仕事関係で顔を合わせたことがある者は数人いるが、それでも個人的な付き合いはないようだ」

 國原は資料を丁寧に広げながら情報を静馬に与えていく。

「赤の他人も同然ってことでいいのかな」

 静馬の言葉に國原が頷く。千里は傍観者になっている状態に焦りを感じた。折角念願だった刑事になれたというのに、思うように成果を挙げることが出来ずにいる。

「あ、あの」

 千里は思わず声を出してしまった。國原と静馬から同時に視線を向けられた。

「何だい?」

 静馬が柔らかな声で問い掛けてくれたお陰で委縮せずには済んだが、それでも続く言葉は出てこない。傍観者でいたくないと思ったが為に、勝手に喉が動いてしまったのだ。

「あ、いえ、何でもないです」

 千里は慌てて顔の前で手を振った。これといって何か言いたいことがあったわけではないのだ。

「遠慮しない方がいいですよ」

 千里が口を噤み掛けたとき、穏やかな声が耳に届いた。祈咲のものだ。

「すみません。突然口を挟んでしまって」

 三人の視線が祈咲に集まると、祈咲は微かに顔を赤らめた。元は白い頬と耳朶にうっすらと赤みがさしている。黒目がちな瞳がきょろきょろと動いている。

「いいんだよ、祈咲。君の発言は役に立つことが多いからね」

 静馬が微笑みを携えて言うと、祈咲は安堵したような表情を作った。そして祈咲は静馬に促されるまま彼の隣へと腰を下ろした。

「なので千里さん、遠慮しないで言いたいことを言うべきです。こういったことというのは、どんな発想がヒントになるかわかりませんから」

 そう言う祈咲は、彼の方が遠慮がちに見えた。それでも、先の公園での出来事のように彼の意見というのはすんなりと千里の心に響く。

「……捜査会議で挙がっている二つのことなのですが、私としてはどちらも違うように思えるんです。何が、とかこれが、というのがあるわけではないのですが、ただ、どちらでもない気がします」

 最初は祈咲の後押しのお陰もあり張った声を出せたものの、最後の方はどうしても萎んでしまった。どうやら、刑事としての素質云々の前に自信を持つことの方が先かもしれないと今更なことに気が付いた。

「成る程ね」

 静馬がふむ、と頷いてみせた。國原も同じようにし、祈咲はにっこりと笑っている。居た堪れないとは違うが、どこか落ち着かない。まるで就職の面接を受け、その沙汰を待っているかのような気分だ。

「うん。いいと思うよ。出されたものについて延々と考えていても時間が無駄になる可能性もあるしね。否定するその姿勢はいいものだね」

 別に否定をしてかかっているというわけではないのだが、特に否定はしなかった。國原も何やら思案顔をしている。

「じゃあ、君が思う犯人像はどんなものかな?」

 静馬に訊かれ、千里は言葉を詰まらせた。千里は警察学校の講義でしかプロファイリングについて学んだことはない。そんな千里にこれだけの情報から犯人像など割り出せるはずもない。

「千里さん」

 また口を噤もうとした千里の耳に祈咲の声が届いた。ちらりと祈咲に視線を向けると、その先では彼が唇を小さく動かしていた。

 ──がんばれ。

 祈咲の唇はそう動いたように見えた。桜色に白を混ぜ込んだような唇の色はどんな口紅でも再現出来ないもの。

「……私怨に似たものは感じます」

 千里は呟く様に言葉を紡いだ。

「私怨?」

 隣に座る國原が首を傾げるのが視界の隅に入る。千里は視界のメインに祈咲を映し続けた。それだけのことで言葉が続けられる。

「はい。私怨、です。殺害方法は基本的には様々ですが、どれも怨恨は感じないというのが捜査本部の見方ではありますが」

 絞殺、撲殺、刺殺。後は、剃刀状のもので喉を一掻き。どれもこれも手の込んだ殺し方ではなく、寧ろ短時間で行えるものを選んでいる。そして、遺体を損壊するなど死人を侮辱するようなこともされていない。それらのことから、捜査本部は怨恨の線は薄いと見ているのだ。 

 それでも千里にはそこに、明確な殺意を感じたのだ。それは確実に殺すという想いの強さだ。どの被害者にも躊躇いの痕はなかった。絞める方向も殴る場所も、刺す場所も、そして斬る場所も的確だというのが監察医からの報告だ。

 それが表すものは明確な殺意ではないのかと千里は考えたのだ。確実に殺してやるという想い。そこに存在するのは「恨み」ではないのだろうか。確かに愉快犯の犯行だとしてもそこにあるのは「殺意」だ。しかし恨みを含むものとは違うのだ。しかしその感覚的なものを言葉という形にして外部へ出すのは難しい。

「確実に獲物を仕留める。そのように思えるのです」

 この言葉は私怨に繋がるものではない。自分でも理解はしているが、今はそうとしか形に出来なかった。それがひどくもどかしい。

 祈咲を見たまま口を閉じると、彼はよく出来ましたと言わんばかりに微笑んだ。彼の持つ独特の白さのせいか、その姿は宗教画の天使のように見えた。性別のない、穢れなく美しい存在。生き物とは形容出来ないものだ。

「獲物を仕留める、か」

 静馬が細い顎に指を添える。手足同様にその指も細い。

「これらの話を統合すると、これは連続殺人であり、犯人は被害者全員に恨みを抱いている、ということになるぞ」

 國原が言い、千里はそれに曖昧に首を傾げた。そういうことではない。何せ、被害者達に共通点はないのだ。もしかしたら、犯人という共通点があるのかもしれないが、だとすればその人物は捜査上に上がってくるだろう。

「そういうことだとするならば、捜査本部でも意見が出ている、幼少期に何らかの虐待を受けた者、という線が濃厚にならないかい?」

 今度は静馬に指摘される。千里は自分の説明力のなさを恨んだ。

「なんと言いますか、きっと、犯人は何らかの共通項を元に被害者を選んでいるのだと思います。そしてそこには、私怨がある。それは幼少期のトラウマなどが原因だという可能性は勿論あると思われます。けれど、それだけが私怨ではない。彼らには殺される理由がきっとあったのでは、と思うのです。そこに、犯人の私怨が絡むのではないか、と。無作為に、児童に関わる職業に就いている者を殺しているわけではないのではないか、と……」

 また語尾が消え入りそうになる。

「君は何か、経験をしているね?」

 静馬が静かな瞳を千里へと向け、千里はそれに息を呑んだ。同時にひゅ、と喉が鳴る。

 ──嫌。嫌。お願い、もうやめて。お願いだから、やめて。

 泣き叫ぶ少女の声が脳裏に浮かぶ。

 痛い記憶。悲しい記憶。理不尽な思い。恨み。つらみ。

 ──殺してやる。殺す。殺さなきゃ。

「……何のお話でしょうか」

 千里は震えそうになる声を必死で隠した。それでも太腿の上で握った拳は震えている。冷や汗が流れる。

「静馬。それは今回の事件には関係ない」

 國原の声を聞いたのを最後に、千里の意識は途切れた。


 額にひんやりとした感触を覚え、千里はうっすらと目を開けた。見知らぬ色の天井が視界に飛び込む。大理石のような模様だ。

「あ、気が付きましたか?」

 抑揚をほぼ感じない声が耳に届くが、どこか水の中で聞いている感覚に近く、遠くに聞こえた。しかし、幾らもしないうちに正常に戻った。

「私……」

 呟いた声が宙へと吸い込まれていく。

「貧血みたいですね」

 貧血と言われても思い当たることはなかった。朝食を抜いたわけでもない、生理でもない。そもそも千里は貧血気味の体質ではない。

「血色、まだ少し悪いですね」

 祈咲に覗き込まれ、身じろぐ。影のせいか、彼の髪が黒く見えた。

「でも、もう大丈夫だから」

 誰かに心配されるというのは居心地が悪い。嘗て浴びせられた数々の声を想起させられるからだ。

「もう少し横になっていて下さい。何か温かい飲み物持ってきますね」

 祈咲はそう言うと静かに姿を消した。千里はその背を見送ってから、仰向けになった大勢のまま顔を動かしてみた。どうやら先程までいた応接室とは異なるようだ。この事務所のプライベート的な空間なのだろうか。

 千里が体を横たわらせているのはソファのようだ。それは応接室にあるものと同様に柔らかい。体がふんわりと沈み込み、気持ちがいい。

 ──貧血。

 ではないだろう。思い当たる要因がないというのもあるが、それ以外の原因を自覚しているからだ。

 過去のことを思い出したせいだ。忘れる努力を特別しているわけではない。かといって、積極的に忘れないようにしているわけでもない。忘れられないだけだ。しかしその記憶を不意に呼び起こされることには慣れていない。

 ──大丈夫になることはない。

 だからこそ、この仕事を選んだのではないか。

 千里は大きく深呼吸をし、ゆっくりと体を起こした。体を少し動かすと、急激に指先に血が巡っていくような感覚がした。一瞬だけ、眩暈に似たものを感じる。けれどそれは本当に一瞬で、直ぐに視界はクリアになった。

「起きちゃ駄目ですよ」

 焦ったような声がして、千里は顔をそちらに動かした。そこにはティーカップを載せた小さなトレーを手にした祈咲がいた。

「本当にもう大丈夫だから」

 声が掠れたのは喉が渇いているせいだろう。祈咲は小さく溜め息を吐いてそれ以上言うのをやめたようだった。

「麦茶、温めてきました」

 トレーが眼前に差し出されると香ばしい匂いがした。湯気が鼻先を擽り、喉が鳴る。

「ありがとう」

 千里はティーカップを受け取りながら礼を述べた。祈咲がそれに微笑む。柔らかな笑顔は小振りの野花を思い出させる。道端に咲いた、薄紫色の小さな花弁。千里は小さい頃その花が大好きだった。

「美味しい」

 こくりと麦茶を飲むと、そう零れた。それくらいに美味しい麦茶だった。

「よかったです」

 また祈咲が微笑む。

「あ、國原さんは?」

 どれだけ眠っていたかはわからないが、声の掠れようからするに短時間ではないだろう。だとすると、自分のせいで先輩を待たせてしまっていることにある。

「捜査会議があるとかで、戻られましたよ」

 捜査会議は夜。千里が意識を失ったのは昼過ぎ辺り。ということは相当な時間眠っていたことになる。それは紛れもなく失態だ。

「最悪だ……」

 千里は頭を抱えたくなるのを抑えながらも、小さく零した。そのとき、ふ、と息が漏れるような音が静かな部屋に響いた。それは音というよりも声に近い。千里はその音がした方に視線を向けた。するとそこでは祈咲が慌てたように両手で口許を覆っている。その指は男性のわりには細い。

「……すみません」

「え?」

 千里は一瞬、何故祈咲に謝られているのか理解出来なかったが、一拍も置かないうちに状況を把握した。恐らく先程のは祈咲が吹き出したものだったのだろう。

「えった、何かおかしかった?」

 千里としては一体今のどこに吹き出す要素があったのかがわからない。

「あの、いや、千里さんも普通の女性だったんだなって」

 祈咲はしどろもどろとでもいうように口を開く。

「私、普通の女性のつもりなんだけど」

 自分から出た言葉なのに少しの抵抗を覚えた。けれど自分は普通の女性だ。そう言い聞かせるように、心の中でもう一度同じ言葉を繰り返した。

「ええと、何と言いますか、千里さんて何処か冷たい空気があるっていうか。あ、悪い意味じゃないですけど。なんとなくですが、普通の女性とは違うのかなって思ってたんです」

 そんなことは初めて言われた。冷たい空気があるなど、記憶にある限りでは一度も言われたことはない。何を見抜かれたのだろうか。心外ではない。確かに自分は冷たい──いや、冷めた部分がある。それは勿論自覚しているが、誰にも悟られないようにしていたつもりだ。実際、他人にそれを指摘されたことはない。友人にも、國原にもだ。だというのに、祈咲はそれを見抜いた。彼と話したのはこの間の公園での一度きりなのに。

 それも長い時間ではなかったし、仕事に対しての悩みを零した程度だ。その会話の何処から、千里の冷めた部分の片鱗を読み取ったというのだろう。それとも、会話からではないのだろうか。

「すみません、気分を害しましたか?」

 黙り込んだ千里も見てそう思ったのか、祈咲がすまなそうに訊いてきた。気分を害することなどない。事実を言われただけなのだから。

「ううん、大丈夫よ」

 千里は小さく微笑みを作って返した。祈咲はそれに、少し腑に落ちないような表情をしたが、千里はそれに気付かない振りをした。必要以上に接しない態度だ。

「それより、もう帰るわ」

 千里は立ち上がりながら、眩暈や怠さがないことを確かめた。ふらつきなども平気そうだ。少し、頭の奥が眠いくらいだ。

「静馬さんに言ってタクシーを呼んでもらいますね」

 千里は祈咲の厚意を断った。此処から自宅までタクシーで帰ったりしたら幾らかかるか。今は給料前で財布の中も寂しい。クレジットカードはあるが、電車で帰れるものに大金を使いたくはない。それを説明すると、祈咲はわかりました、と頷いた。

 静馬と祈咲に謝罪と礼を告げ、千里は静馬の事務所のある高層マンションを後にした。


 鈴原 水穂は膝をきつく閉じ、その上で二つの拳を握り締めていた。その姿から伝わってくるのは拒絶に近いものだ。千里はどうしたら水穂の気持ちが理解できるか考えてみたが、良案が思い付くことはなかった。

 消毒の臭いが充満する保健室で千里は水穂と二人きりだった。最初は國原もいたし、養護教諭である灰田 ゆかりもこの部屋にいた。しかし國原がゆかりを別室に連れ出したことにより、千里はこうして水穂と二人きりになったのだ。これは國原の提案だった。ゆかりが同席していては前回のように満足のいく質問をすることが出来ないからだ。いちいち口を挟まれ、質問に制限がかかる。ゆかりとしては生徒である水穂のことを考えてなのだろうが、それでは捜査は進まない。ということで、國原がゆかりにも訊きたいことがあるという体で彼女を別室へと連れ出したのだ。 

 ゆかりを連れ出す役割が千里ではないのは、千里では長くゆかりを足止めすることが出来ないだろうからだ。國原にそう言われ、千里はそれに頷くしかなかった。とはいえ、水穂から有力な情報を引き出すのも難しいように思えた。 

 水穂は頑なに俯き、先程から幾度名前を呼んでも顔を上げようとはしない。水穂と二人きりになってから、十分は経過しようとしている。

「水穂ちゃん」

 千里は今一度、呼び掛けた。それでも反応はない。

 校庭からは部活動だろうか、賑やかな声がする。けれど、今この空間はそこだけが切り取られたような空気が流れている。静かで、誰も触れることの出来ない、そして誰も気付くことのない空間。

 水穂は少しも顔を上げず、ひたすらに板張りの床を眺めているように見えた。何を考えているのか。それとも何も考えていないのか。耳の横で束ねた髪が彼女の横顔を隠している。可愛らしいハート型のヘアゴムが異様に映る。

 きっと、水穂は何かを知っている。それが國原の見解だった。千里もそう思った。事件当日、水穂の様子は少しおかしかったのだ。無論、担任教師の死体を目撃し普通でいられるはずはないのだが、そういうことではなかった。

 確かに怯えていたり、戸惑っている様子はあったが、それ以上に用意された答えを述べている印象を受けたのだ。もう少し言葉に詰まったり、何かを忘れたりしてもよさそうなものなのに、水穂は少ないとはいえ全ての質問に答えた。それが意味することとは。

「……怖かったよね」

 千里は水穂の前に膝をついた。板張りの床は固く、膝の骨が少し痛い。それでも痛みは無視して、水穂の固く握られた手に自分の手を重ねた。夏休み直前のこの時期だというのに、水穂の手はひんやりと冷たかった。通常こどもというのは体温が高いものだ。これでは末端冷え性である自分の冬場の手より冷たい。

 二つの小さな拳をそっと撫でる。さらさらと手触りがよく、若さが羨ましいと思えた。滑らかで、柔らかい皮膚。そこにあるのは紛れもない幼さだった。

「少しでいいの。何か、教えてくれない?」

 滑らかな手の甲をふんわりと撫でる。すると、水穂は拳を握る力を緩めた。強張る感覚がなくなったのがわかる。

「何も……知りません」

 それでも水穂から出てきた言葉はそれだけだった。そしてそれはまた、用意された答えのように思えた。彼女は一体、何を隠しているのだろうか。彼女にそう答えるように指示しているのはきっとゆかりだ。それは千里と國原の見解だった。ゆかりも何かを隠している素振りがある。それもあからさまに。いや、わざとこちらが気付くようにしている。

 ゆかりの行動が指すものとは。その答えを水穂から引き出そうとしているのだ。だがそれが上手くいく気配はない。

 ──役割を反対にした方がよかったのではないか。

 千里は今更ながらそんなことを思った。

「角田先生のことは、好きだった?」

 千里は唐突に質問を変えた。この質問は事前に國原と作ったものではない。國原とは水穂に出来るだけ事件当日の話を聞くことを決めていたのだ。しかし千里はそれとは全く違う質問を水穂にしてみた。

「角田先生、女の子から人気あったみたいね。かっこいいものね」

 この事件の被害者である角田の顔は遺体の他に生前の写真で知っていた。精悍な顔付きをしていて、涼しげな目元がハンサムと言えた。

 殺害された角田はその風貌から女生徒からの人気が高く、そして気さくな性格からは男子生徒から人気が高かったようだ。教師としても生徒思いの面が見られることが多く、父兄からの信頼も厚かったようだ。しかしそれらは全て資料上のこと。千里が実際にそんな角田の姿を目にしたわけではない。千里が目にしたのは絶命している角田だけだ。

 水穂は千里の質問に答えようとしなかった。答えが用意されていない質問には無言を貫けとでも言われているのだろうか。

「水穂ちゃんは角田先生のこと、どう思っていたの?」

 質問の仕方を変えてみる。それでも水穂は口を開くことはない。しかし、握られていた力はどんどんと弱くなり、今はもう殆ど力は込められていない。

「……嫌い、だった?」

 訊いてから直接的過ぎたかと思う。しかし、こどもというものは遠回しに訊いたとしても意図を理解しないか、もしくはそれを理解出来なかった振りをする。嘗ての自分は後者だった。

 水穂は答えを口にすることなく、千里の顔を見上げてきた。二重瞼のはっきりとした瞳は年齢のわりに大人びた印象を与えてくる。大人びた、というよりは色気なのかもしれない。こういう子は年を重ねるごとにどんどん色気を増すのだろし、そしてそれは生まれ持ったものなのだろう。

「答えたくない、かしら」

 千里は呟くように言った。水穂の綺麗な茶色の瞳を微かに揺れた。本当に僅かな揺れ。それを見逃さず、千里は水穂の手を握った。先程まで温かいと思った手が今はひんやりとしている。緊張の証だろう。

「……私の、せいなんです」

 水穂がそう小さく漏らし、瞳から一滴、透明な液体を零した。ぽとりと落ちたそれは床の上に小さな小さな染みを作る。

「どういうこと?」

 何に対しての言葉かわからないが、そこには確かに懺悔が含まれていた。水穂の目からは次々と涙が溢れ出す。茶色の瞳は歪み、朧月のようだ。

「水穂ちゃん。ゆっくりでいいから、お話ししてくれないかな」

 千里は幼いこどもをあやすかのように言った。僅かに水穂が顎を引いたのがわかる。静かに息を飲み、水穂が口を開くのを待った。やけに長い時間に感じられたが、実際は一分も経っていないだろう。

 水穂の薄めの唇が動き始めたそのとき、がらりと扉の開く音が保健室の中に響いた。

「本日はそこまでにして頂いても宜しいですか」

 ゆかりが保健室に戻ってきてしまったのだ。千里は反射的に腕時計に視線を落とした。気付けば水穂と二人きりになってから三十分近くが経過している。幾ら國原といえども、ゆかりのような賢い女性を引き止めるのはそれが限界だったのだろう。現に國原はゆかりの背後で苦い表情を作っている。しかし、國原と千里の役割が反対だったなら、この三分の一も時間を稼ぐことは出来なかっただろう。

 ──惜しかった。

 千里は内心で溜め息を吐いた。せめて、もう少し早く会話の糸口を掴めていれば。これは國原の失敗ではなく、千里の手腕の問題だ。

「また日を改めて伺わせてもらいます」

 國原が渋い顔付きのままでゆかりへと告げたが、ゆかりはそれに対し頷くことはしなかった。千里はそんな二人の様子を横目に、水穂の顔を覗き込んだ。ふっくらとした柔らかそうな頬には涙の跡がついていて、睫毛はしっとりと濡れている。

「また、来るわね」

 千里は出来るだけ優しい声になるように努めて水穂へと言葉を向けた。水穂はゆかりが戻ってきたことにより冷静さを取り戻したのか狼狽の表情を見せる。もしかしたら先程の話の続きを聞く機会は二度と訪れないのかもしれない。千里は自身の会話術の甘さを悔やんだ。とはいえ、先程の流れは狙ったものではない。狙ってあのようなことが出来るなら最初からしている。

「帰ろう」

 國原にそっと肩を叩かれた。大きな手は千里の細い肩を簡単に包んでしまう。千里はそれに唇を軽く噛んだまま頷いた。


「上々だ」

 夕暮れの校舎に背を向けながら水穂との会話の一連を聞かせると國原はそう言ってくれた。國原に褒められることは少なく、千里は何と返したものか言葉を詰まらせた。今回のことにしても叱責されるものだと思っていた。

 確かに國原は厳しいだけの男ではない。千里の気持ちを汲んでくれるし、気遣ってくれることもある。だが、安易に人を褒めたりはしない。後輩を育てるうえでは褒めて伸ばすより、欠点を指摘し改善させるタイプだ。

「しかし、肝心な部分を聞き出すことは出来ませんでした」

 千里はアスファルトに伸びる二つの影を見詰めて言う。足を進める度、影は縦に揺れる。開いた身長差は國原と千里の実力差を顕わしているかのようだ。今更千里の身長が伸びることがないように、この実力差も埋まらないのではないだろうか。押し寄せる不安は引き潮を知らない。

「いや、その言葉を引き出せただけで十分だ。鈴原 水穂は何かを抱え、隠している。それが確信になっただけでも違う」

 そう言われればそうかもしれないとは思う。水穂が何かしら知っているだろうからと聴取に小学校へと赴き、そしてそれは確信を得た。言葉にすればそうだ。

「そこまでわかったなら、後は徹底的に洗えばいい」

「はい」

 千里は少しの蟠りを残しながらも頷いた。何もわからないままよりはずっといい。ほんの僅かだが進展はあった。ならば今はその成果を喜ぶしかないのだ。

「鈴原 水穂に口止めなり指示をしているのは灰田で間違いないだろう」

 國原はゆかりからどんな話を聞き出したのだろうか。

「灰田先生からどんな話を?」

 千里は顎を持ち上げて國原の横顔を見た。暮れ始めた陽の光がくっきりとした陰影を作っている。元々國原は濃い顔立ちをしているが影が出来ることによりそれは増す。

「これといったことは何も。淡々と事件当夜のことを繰り返してくれただけだ」

 國原は老若男女問わずに聴取を得意とする。それだというのに何も聞き出せなかったということは、ゆかりは相当に手強い女性ということになる。

「少し違うかもしれませんが、二人で共謀して何かを隠しているということですよね」

 千里の発言に國原が眉を顰めて頷く。捜査中、國原の険しい顔というのは何度も目にしたことがある。しかし今の表情は今までのものと明らかに違っていた。こんな國原の表情は初めて見る。

 よくよく考えて見れば、児童の絡む事件というのは千里にとって初めてのものだ。今まで携わった幾つかの事件にこどもという存在は誰一人としていなかった。それを鑑みると、國原の表情の意味することも理解出来た。

 こどもというのは繊細な生き物だ。扱いを一歩間違えれば取り返しがつかなくなる可能性だってある。そしてそれ以上に、こども本人に負担を強いることになるのだ。今回の件については、水穂の存在を無視することは出来ない。だとすると、彼女に対しての執拗なまでの聴取や接見が必要となる。

 どうしたってそれは水穂にとって負担以外のなにものでもない。國原はそのことも考えているのだろう。彼は厳しい部分ばかりが目立つが、根が優しい男だということを千里は身を以ってして知っている。それだけに彼なりの苦悩も手に取るようにわかった。そしてそれは、千里自身も思うことだった。

 何を優先すべきなのか。そんなことは自問自答せずとも理解している。千里は刑事なのだ。ならば自分が優先すべきことは水穂の精神状態ではなく、犯人逮捕。その為には水穂と積極的に関わっていくしかないのだ。例えそれが水穂にとって多大なストレスを与えるとしても。

 何かを選ぶには何かを切り捨てなければいけない。普通に考えてみればそこまでの大事ではないだろう。しかし、千里の中では水穂の存在は簡単に切って捨てられるものではなかった。

 何かに怯えたような水穂の表情が脳裏から離れない。そしてそれは嘗ての自分と重なるものだった。

「あまり深入りするな」

 國原の言葉は忠告というよりも警告のように感じた。

 深入りすればする程、自分で自分の首を絞めるような真似をするだけ。それは千里自身、わかっていることだ。しかし制御を上手く出来る自信がない。

「わかっています」

 千里は短くだけ答えた。頭一つ分上にある國原の顔を見上げることは出来なかった。



 真っ暗な部屋に液晶画面の光だけが存在を主張している。掌よりも二倍も大きなそれは、煌々と小さな空間だけを照らす。

 画面上に浮かぶ文字からは悲痛さだけを漂わせている。書き込んだ者の気持ちを考えるとスマートフォンを持つ手が震え、指先の熱は失われる。すう、と冷えていくのがよくわかる。

 どんな想いでここへと辿り着いたのか。どんな苦しみでここへと書き込んだのか。どんな悲しみを抱えているのか。

 如何程の恐怖が彼らを支配しているのか。

 それらは手に取るように理解出来た。

 誰にも助けを求められず、誰が罰してくれるわけでもなく、誰が手を差し伸べてくれるわけでもない。唯一人で、孤独の中で小さな闘いを繰り広げているのだ。決して勝利のない闘いを。

「大丈夫だよ。直ぐに解放してあげるからね」

 静かな声が室内に響いた。

 直ぐに、君を助けてあげるからね。直ぐに、君を自由にしてあげる。君が傷付く必要なんてどこにもないんだ。君を傷付ける存在なんて、この世界にはいらないんだ。

『何も心配しないで。』

 ただ一言が送信された。


 

 新たな殺人事件が起きた。千里はその一報に動揺を隠せなかった。その理由は、連続殺人だということを犯人が明確にしてきたからだ。

「舐められたもんだな」

 國原が千里の隣で歯噛みをし、その音には悔しさが込められていた。千里も同じ気分だった。まだ犯人像すら絞れていない。だというのに、犯人は警察の一歩も二歩も先を進んでいくのだ。兎と亀の追いかけっこどころの話ではない。月と地上程の開きがあるように思えた。

 今回殺害されたのは会社員の男性だった。職業は今までの被害者と共通点はない。しかし、現場にメモが残されていたのだ。どこにでも売っているメモ帳だ。

 ──正義。誰にも邪魔させない。

 この言葉だけが記されていた。

 殺害方法は鈍器で後頭部を殴打。剃刀状のものを使用した形跡はない。このメモがなければ一連の事件とは無関係だと考えられた可能性も高い。だというのに、犯人はわざわざこれが連続殺人だと明記したのだ。

 そして、殺人を正義だという。

 人を殺すことの何が正義だというのだろう。千里は資料に写し出されたメモを凝視した。恐らくわざと丸く書かれた文字は男女の区別もつかない筆跡だ。

「情報が漏洩しているんだろうね」

 千里は聞き慣れない声にきょろりと顔を動かした。声の出所が掴めなかったのだ。

「ここだよ、影石」

 すると声の主は千里の頭を鷲掴みにし、半ば強引に右に回してきた。そこには三十歳前後の男と、そしてそれと同じくらいの女が立っていた。男は座っている千里の倍ほどの身長がある細身で柔和な顔立ちをしている。女も長身で、体の凹凸がはっきりとしている華やかな美人だ。

藤立ふじたてさんにニノにのせさん」

 千里は一組の男女の名前をそれぞれ呼んだ。男──藤立 ふじたて あきはそれににっこりと人のよさそうな笑みを浮かべ、女──ニノ瀬 尋華にのせ ひろかは小さくだけ微笑んだ。彼らは千里と同じく警視庁の捜査一課に所属しているが班が違う。

「漏洩ってどういうことですか」

 千里は立ち上がり二人に挨拶を済ませてから尋ねた。先輩二人の前で座ったままという無作法な真似など出来ない。しかし藤立は千里に再度座るように両肩を軽く押してきた。それに逆らうのも失礼と思い、小さく断りを入れてから椅子に腰を下ろす。

「犯人は俺達が連続殺人を疑い始めたことを知り、こんなメモを残したんだと思うんだ。ほおら、これは連続殺人ですよ、てね」

 藤立は資料をひらひらと振りながら言う。ぺらりぺらりと動く紙はつい目で追いたくなってしまう。

「ということは、犯人の知り合いが警察内部にいると?」

 千里の問い掛けに藤立は肩を竦めてみせた。誤答、ということだろう。

「勿論その可能性もあるけど、今の時代はねえ」

 藤立がもったいぶったように言った。千里としてはそれ以外の可能性を探すことが出来ずにいた。すると姿勢良く立っていたニノ瀬がそんな藤立の頭を軽く小突く。藤立の男性にしては小さな頭が前後に揺れた。

「ちょっと、尋ちゃん」

「学校時代の質疑応答やってるわけじゃないのよ」

 ニノ瀬は綺麗に切り揃えられたボブスタイルの黒髪を搔き上げた。

 確かに警察学校の時分はこういった講義もあった。過去の事件やら講師が作った事件を質疑応答で解決に導いていく。しかし今はニノ瀬の言う通りそんな時間ではない。

「ごめんごめん。新人さんにはつい、ね」

 藤立は悪びれた様子もなく言ったが、千里としては簡単に答えを教えられるよりもこうして己で導くのは嫌いではなかった。その方が力がついていく気がするのだ。けれど今回については答えはまだ見えてこない。

「先月、××市の所轄であったやつ、覚えてる?」

 藤立に言われ、考えてみるがこれといって思いつくことは何もない。

「聞き方がなってないわよ。先月、捜査情報を漏らした人間がいるって話、覚えてるかしら」

 ニノ瀬がまた藤立の頭を小突いた。幾らニノ瀬も背が高いとはいえ、藤立はもっと高い。そんな藤立を小突く為にニノ瀬は細い腕をかなり伸ばしていた。

「はい、記憶してます」

 確か新米の刑事が友人に捜査状況を話してしまい、その友達がSNSにそのことを書き込んでしまった、というものだ。事件はひったくりとさして大きな事件でなかったことと、本人が書き込んだわけではないということから、三ヶ月の減俸といった処分が下されていたはずだ。

「あ、そういう形で漏れた可能性もあるということですね」

 漸く、答えが見えた。

「正解」

 藤立がにっこりと笑う。

 確かにその可能性がないとは言えない。情報漏洩イコール内部に共犯者がいるという思い込みが邪魔をしてしまっていたのだ。昨今の若者はやっていいことと悪いことの区別がつかないものが多い。それは警察という組織においてもだ。

 だからこそ警察の不祥事は後を絶たない。

「だとすると、捜査員を全員調べる必要があるのでは?」

「まあ、やるだろうな」

 答えたのは國原だった。

「藤立、お前大丈夫か? 疚しいことがあるなら、今のうちに退職願書いとけよ」

「そうよ。同じ班から問題がでるとか嫌よ?」

 國原とニノ瀬が立て続けに藤立を責めるようなことを言った。千里としても二人の言葉の意味がわかるだけに何とも言えなかった。

「何処の女に話したんだよ」

「ちょっと待って。話したりしないから。ベッドの中でそんな物騒な話なんてしないから」

 國原の言葉に藤立が反論をする。

 藤立は相当の女好きで、特定の恋人という存在はいない。誰彼構わず口説くということはしないが、女性であるならば誰にでも優しい。それは相手の美醜を問わず。だからこそ藤立には女性が寄ってくるのだ。

「信用ならいなわね」

 ニノ瀬が冗談と思えない口調で言う。捜査の最中とは思えぬ和やかさだ。今日が特別というわけではない。事件は毎日、どこかしらで起きている。内容は様々だとしても、何かしらの事件に追われる日々を過ごす。それが刑事という仕事なのだ。

 捜査員全員、同じだ。

 確かに中にはこの事件で初めて捜査に携わるという者もいるだろう。しかしそれは少数であり、殆どの者がそうではない。そうなると、感覚は麻痺するのだ。初めてのときは千里も勿論緊張したし、携わる事件以外のことは何も考えられなかった。それは過去のこともだ。

 しかし幾つかの事件の捜査に加わっているうちに何時しか感覚は麻痺していった。緊張が全く失われたわけではない。事件に対する嫌悪がなくなるわけでもない。それらは未だに確実に存在する。けれど、それだけではなくなったのだ。

 事件のことだけが頭と心を占領し、それ以外のことが考えられない、ということはなくなったのだ。こういった空時間に談笑出来るようになったし、友人からの連絡に応える余裕も出来た。とはいえ、最初の頃はそれが出来ず、現に友人は刑事になりたての頃より減ってはいるが。

「千里ちゃんからも何か言ってよ」

 藤立が千里の後ろに隠れるようにして言ってきた。長身の男に背後に立たれると視界が仄暗くなる。千里は今、椅子に腰掛けているので尚更だ。不意に翳る視界。

「私からは何も」

 藤立は何処となく静馬を彷彿とさせる。それは彼らの持つフェミニストという特性のせいだろう。それと、立ち振る舞いから感じる育ちの良さ。

「いつもクールだよねえ」

 藤立は千里の援護を諦めたようで、そっと離れていった。すると視界がふっと明るさを取り戻す。それだけで会議室の蛍光灯の灯りがやけに眩しく感じた。

 クールだという自覚はない。熱血というタイプでもないが、クール──冷静というわけでもない。寧ろ、冷静さは欠いている方だと思う。しかし感情を率直に表に出すのが少々苦手なところがある為、他人からはクールだと言われることが多い。

「話を戻すわね」

 ニノ瀬が落ち着いた声で言う。凛とした声は耳障りがいい。

「情報漏洩の件についてだけど、ただの偶然という可能性もあるわ」

「偶然、ですか?」

 千里はニノ瀬の確りと化粧の施された顔を見上げた。顎のラインが理想的で、そこに色気を感じる。

「そう、偶然。情報なんて漏洩していない。たんに犯人が警察を煽ろうと思ったタイミングと警察が連続殺人を疑ったタイミングが重なった。後、もうひとつの可能性」

 ニノ瀬は二本の指を真っ直ぐに立てた。綺麗にマニキュアの塗られた指。ニノ瀬はキャリアという道を進みながらも、常に女性としての身形をきちんとしている。キャリアでもなければ、取り敢えず身形を整えているだけの千里とは全く以って違うタイプの女性だった。

「もうひとつ?」

 國原と藤立はニノ瀬が言いたいことを既にわかっているようで、首を傾げているのは千里だけだ。千里はこのことを口惜しく思いながらも、埋められない経験の差を痛感していた。そしていつかは自分も三人のようになりたい、ならなくては、と決意を固める。

「私達警察が犯人の手の内で踊らされている可能性」

 ニノ瀬は今度は人差し指だけを立てた。その指は顔やスタイルから想像するに、少し短いように思えた。

「全ては犯人の思惑通り、てことよ。連続殺人を疑うタイミングも、犯人が連続殺人であることを報せてきたのも、それを私達が情報漏洩だ何やらと議論を交わすことも、全てが犯人の予定通りのことかもしれない」

 そんな、と千里は声を漏らした。

 本当にニノ瀬の推論通りだとしたら。全てのことが犯人に仕組まれたタイミングだとしたら。自分たちはそんな犯人に辿り着くことが可能なのだろうか。

「まあ、どれが事実かなんて犯人にしかわからないことなんだけどね。願うべくは、三つ目だけではないことね」

 ニノ瀬の言葉に國原と藤立が頷いた。全員、思うところは一緒なのだろう。

「一個目の可能性だけ、潰せるね」

 藤立が一人で頷く。それは調査さえすればわかるだろう。しかし、二つ目と三つ目の可能性だけは絞りきれない。後は願うしかないのだ。

「君らの割り振りは?」

「鈴原 水穂の事情聴取のままだ」

 水穂とゆかりが何かを隠している様子なのは捜査会議でも報告している。なので千里と國原の仕事はその二人からそれを聞き出すこと。しかし未だその成果は挙げられずにいる。あれから二度ほど、水穂とゆかりに話を聞きに行ったが二人別々に、といのは叶わなかった。ゆかりによって阻止されたのだ。

 事情聴取は受けるが、第一に水穂の精神状態を考えること。それが出来ないのであれば聴取には応じない。そういった提示をされてしまったのだ。今回の事件では水穂もゆかりも被害者でも被疑者でもない。そうなると相手の任意がなければ事情聴取を行うことは出来ないのでその条件を飲むしかないのだ。

「特に進展はないって顔だね」

 藤立が言って肩を竦めた。そんな藤立とニノ瀬の担当は一番新しく起きた事件だ。会社員の男性が殺され、犯人が連続殺人を明記してきたもの。

「どっちも大変ね」

 ニノ瀬がふう、と溜め息を漏らす。先程までふざけていた空気は何処にもない。

「ま、お互い頑張ろう」

 藤立は言うと軽く手を挙げ、千里達の側から離れていった。それにニノ瀬がついていく。自分達のやるべきことをしに行ったのだろう。

「俺達も行くか」

 國原の言葉に千里は、はいと頷いた。そろそろ学校は夏休みに入る。そうなるともしかしたら水穂への聴取は行えなくなるかもしれない。今は小学校へと足を運び、ゆかりの許可の下で聴取をしているが、それが自宅、親へと変わるのだ。水穂の親には一度会ったが、厳しい印象を受けた。特に母親が神経質そうなタイプだった。

 それを考えると、あの母親から水穂への聴取への許可が下りるとは思えないのだ。ならば、小学校が夏休みに入る前に出来るだけの話を水穂から聞き出す必要がある。

 千里は心の中で決意を固め、一歩を踏み出した。

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