第1章『汝、死して償え』
────人の数だけ正義がある。
────正義は人の数だけ存在する。
ならば、僕は「僕」の「正義」を貫こう────。
恐ろしく鮮やかな白だと思った。白髪ともつかず、到底地毛とも思えない程に美しく、軽やかな白。例えていうならば、白銀。僅かな翳りもなく、透明感とはまた違う。純粋な白。何者にも染められず、汚されずに保ち続けたかのような白さ。確か、真っ白な鳩はこんな色をしていた、と思う。目映い程の青空を高く舞う白鳩。けれどそれは、真っ赤な眼をしていなかったか。そして、そこにいる彼もまた、紅い眼をしているように見えた。
「おい、影石」
その声に、はた、と我に返った。影石
「どうかしたか?」
國原に訊かれ、千里はいえ、と首を横に振りながらも視線を動かした。しかしそこには、目当ての人物は既にいなかった。
「被害者は、小学校教諭の角田
「ちょ、ちょっと待って下さい」
千里はペンを持つ手を國原の胸の位置に持ち上げた。事件の概要を國原から聞きながらメモを取っていたはいいが、早口過ぎて追い付かない。今のところ、被害者の名前までしか記入出来ていない。
「ここまでで十分待った。これ以上は待てない」
國原はぴしゃりと言い放つ。千里はそれに対して何も返す言葉はなく、すみません、とだけ頭を下げた。
警視庁捜査一課所属の刑事。肩書きを聞けば殆どの人間が千里のことを「女伊達らに凄い」と言うだろう。しかし、実際は凄くも何ともないのだ。二十七歳という年齢も鑑みても凄いのだろうが、本人としては凄いとは微塵も思えなかった。
妊娠を機に所轄時代の先輩が警察官を辞め、そこにその
女に刑事は務まらない。そんな空気の中で仕事をしているのだ。幾ら信念があって就いた仕事とはいえ、やってられないと思い、やけ酒をする夜だってある。
──何も、そんな日に事件が起きなくても。
今朝まで前回の事件の後処理に追われ、散々事務扱いをされた時間が漸く終わった。明日から非番ということも手伝って、今夜は大学時代の友人と居酒屋で飲んでいたのだ。
職業柄、言えないことは沢山ある。そのなかでも言えることだけを選んで愚痴を溢しながら、三杯目のビールを呑みきったとき、スマートフォンは鳴った。
小学校で殺人事件があった、というものだ。非番は明日から。それに今はそこかしこで事件が起きていて、捜査一課は人手不足の状態だった。突然の召集は珍しくない。
千里は友人達に途中で抜ける謝罪をし、コース料金より少しばかり多めの金を置いて居酒屋を後にした。スーツ姿ではなく、ブラウスにフレアスカートにヒールの高いパンプス。着替えに帰る暇はないと思い、そのまま連絡を受けた現場に直行した。
したのはいいものの、國原から即座に注意を受けた。そして、酒臭さを抜く為にシャワーを浴び、スーツ姿に着替える為に一度帰ってこいと言われたのだ。幸い、事件現場から千里の住むアパートは近く、往復して一時間弱だった。とはいえ、現場の捜査は大幅に進んでいて、今はその報告を國原から聞いているところだ。
「お前は、信念があって刑事になったんだろう」
國原に真っ直ぐ目を見詰められた。ただでさえ鋭い眼光をしているので、視線が交わると威圧感さえある。
「……はい」
國原は千里の前任の女刑事と親しく、千里の事情も彼女から聞いているらしい。それは彼女の親切心で、千里が少しでも刑事として働きやすいようにとの考慮であった。事実、事情を知る國原は千里のことを他の刑事のように「女だから」と馬鹿にはしない。男性刑事に接するのと同じように接してくれる。だからこそ今も、こうして厳しい言葉を掛けてくれるのだ。
それは理解しているのだが、やるせない気分になるのも事実だ。
しょぼくれる千里を哀れに思ってか、國原は厳しい言葉を切り、小さく溜め息を吐いた。
「後一度しか言わないぞ」
仕方無いな、と見て取れる表情で國原は言った。
「ありがとうございます」
千里はそれにぺこりと頭を下げ、ペンを握り直した。
「──で、生徒や親御さんから大層評判のいい先生だったらしい」
千里が書き留めやすいようにか、國原は先程よりも幾らかゆっくりと喋ってくれた。
「……評判いいからって、いい先生だとは限りませんよ」
ぼそりと呟く千里の頭に國原の手が乗った。くしゃり、と頭を撫でられ、千里の細い長い黒髪が舞う。國原は普段、仕事のときは千里に対して厳しく接するが、一歩仕事から離れてしまえば兄のような表情を見せてくれる人だった。
「……すみません。事件に私情は禁物でした」
千里は少し乱れた髪を手櫛で直しながら謝った。國原の顔を見上げると、國原はいつもの厳しい顔をしていた。
「第一発見者の少女に話を聞きに行くぞ」
國原の言葉に千里は大きく頷いた。
「それにしても、最近多いですね」
歩み始めて直ぐに千里は國原に向かって声を掛けた。辺りはまだ鑑識やらが出入りしていて慌ただしい。遺体発見現場は被害者が勤務する小学校の体育館。そこには大きくブルーシートが張られていている。学校の周りには野次馬とマスコミが集まってきていて騒々しい。
「ん?」
少女がは校舎内にある保健室にいるらしく、千里と國原は並んでそこを目指した。思っていたより多くの刑事が集まっているようで、事件を終えたばかりの自分達まで駆り出されたことに納得する。
「なんていうんですかね。小さい子を相手にしている職業の人が殺されているというか」
千里の考えに國原はそれか、と頷いた。
「上層部は、同一犯の線が濃厚だと考えているらしい」
「そうなんですか?」
夜の学校というのは本来不気味さを漂わせるはずなのに、今の此処は昼間よりも騒々しく思える。
「ああ。まだ、一部にしか伝えていないみたいだが、だから今度の事件も捜査人数を多くしたって話だ」
何処から、と訊いてみたかったが、訊いたところで國原が答えないのはわかっていたので千里は疑問を飲み込んだ。
このところ、今回のような事件が立て続けに起きているのだ。小学校の教師が殺されるのはこれで三人目だし、千里がこの前に担当していたのは児童養護施設の園長が殺害されたものだった。この近辺で、立て続けにそんな事件が起きている。
これを疑問に思わないものはいないだろう。
「まあ、トラブルを抱えていない人間なんて少ない。トラブルの大小に関わらずな」
だから、世間は殺人事件で溢れている。それでも、と思う。他人に殺される程のトラブルを抱えている人間などそうそういないようにも思えてしまうのだ。
「殺害方法が一致してます」
千里は國原の大きな姿を横目で見上げた。
「全部、じゃないだろ?」
そう言われてしまうと黙るしかなかった。一致しているといっても、全てじゃない。確かに、児童養護施設の園長は今回と同じように喉を剃刀状のもので切られて死んでいたが、他の小学校教諭は違う。
「早合点ですね」
千里は自己完結をし、言葉を止めた。
「ま、上層部がそう睨んでるなら、早合点でもないかもしれないがな」
國原は曖昧な返しをし、校舎内へと入っていき、千里もそれに続いた。夜の為、電気は所々しか点けられておらず、外よりも暗く感じた。ぽつぽつと点いた明かりは薄気味悪い。
保健室は一階の奥にあるらしく、國原が進んでいくのを追っていく。校舎内に入るときに来客用のスリッパに履き替えたのだが、安物なのか歩きづらい。学校で来客用のスリッパを履くというのは、嫌でも自分が大人になったことを知らされるような気分だった。
ぱたんぱたんと、スリッパの音が薄暗い廊下に響き渡る。遺体が発見されたのは体育館なので、校舎内にはまだ捜査は及んでいないようだ。これから、校舎内にも怪しいところがないか捜査するのだろうが、今はまだ静かだ。
──犯人がまだいたりして。
何となく、そんな想像をした。千里はそれを馬鹿な考えだと振り払い、保健室へと向かう。保健室は煌々と電気が点いているようで、扉の磨りガラス越しにもそれがわかる。
「失礼します」
國原が低い声で告げ、扉を開けた。保健室の蛍光灯は想像以上に眩しく、目が痛い程だ。國原の背に続き保健室の中へと入り、成るべく静かに扉を閉める。保健室の中には高学年と思われる少女と三十歳くらいの女性がいた。白衣姿のところを見ると養護教諭だろう。
「鈴原
國原が確認するように少女に訊くと、その少女はこくり、と小さく頷いた。恐怖と戸惑いが窺える表情だ。学年は五年生ということだったが中学生くらいに見えなくもない。背が高いのと、すらりと伸びた手足のせいだろう。最近のこどもは手足が長い。
「幾つか、質問をしてもいいかい?」
そう尋ねる國原の隣に白衣姿の女性が立つ。
「鈴原さんはまだ混乱しています。後日改めて、というわけにはいかないのですか?」
凛とした声は気の強さを思わせる。彼女は一見派手な顔立ちに見えるが、よくよく見れば化粧は薄い。元の顔立ちがはっきりしているのと化粧映えする顔立ちなのだろう。
「貴女は?」
國原は女性に軽く視線を向けた。
「養護教諭の
ゆかりはそう言うと名刺を國原に差し出した。
「スクールカウンセラー、ではないんですね」
その言葉は、ならば出てくるな、という響きを含んでいる。千里は内心はらはらしながら二人のやり取りを見ていた。
「ええ、違います。我が校には専任のスクールカウンセラーはおりません。週に三日、来て頂いていますので」
「事情聴取は早い方がいい。ショッキングな出来事というのは、忘れがちです。こどもの場合は特に。なので、今夜のうちに幾つか質問させてもらい、その後も必要あらば伺います」
國原は背筋を伸ばし、ゆかりを見下ろすような態勢で言う。大柄な男に見下ろされれば普通の女性ならば引いてしまうところだ。けれど、ゆかりは一歩も引く様子はなく顎を持ち上げ、國原を見上げた。ゆかりは小柄ではないが、上背のある國原と並べば小さく見えてしまう。
──ハブとマングース……。
千里は場違いなことを考えてから、止めに入る必要性を思い出した。
「あ、あの、鈴原さんが怯えてしまいます。その辺にしておきましょう」
千里は二人の間に割って入るようにして上手く作れない笑顔で言った。
「──失礼しました」
先に引いたのはゆかりだった。ゆかりは持ち上げていた顎を引き、ぼんやりとした水穂に向かってごめんね、と謝る。水穂は戸惑いを浮かべながらも、何処かぼんやりとしていた。
「では、質問しますよ」
國原はゆかりに形だけの確認を取り、椅子に座らされた水穂の前で片膝を付く。
「まず、どうしてこんな時間に学校にいたのかな」
國原は普段とは違う、柔らかい声で水穂に質問をした。こどもへの接し方をきちんと心得ているようで、いつものような強面でもない。
「君が、角田先生が死んでいるのを発見したのは、七時くらい、ということだけど、どうしてこの時間に学校にいたの?」
確かに、小学生が学校に残っている時間ではない。これが中学生や高校生であるならば、部活や委員会、といった可能性はあるが小学生ではないだろう。
水穂はぼんやりとした表情を、考えるかのような表情に変えた。
「……忘れ物を、取りに来ました」
「忘れ物?」
「はい。明日の、宿題のプリントを忘れてしまって……それで……」
小学生にしては丁寧な言葉を使う。親の教育がしっかりとしているのか。
「うん、それで?」
國原が続きを促す。千里は会話の内容を手帳に記入しながもスマートフォンにも録音させていた。これは、書き逃しがないようにする為の千里の癖だった。
「そしたら、学校は開いてなかったんです。それで、どうしようかな、て困っていたら、体育館から声が聞こえました」
「どうして、体育館の近くにいたの?」
「五年生の下駄箱、体育館の近くなんです」
千里と國原が校舎内に入ってきたのは来客用の場所だったので、体育館とは離れていた。けれど、高学年用の昇降口は体育館の側ということか。
「声って?」
「……叫んでいるような、怒鳴っているような」
「それで、見に行ったのかな」
「はい」
受け答えは非常にしっかりとしている。それが千里が水穂に抱いた印象だった。しかし、これは別段おかしなことではない。いきなり非日常に放り込まれる。それに誰もが錯乱するわけではない。いや、錯乱しているからこそ、異様に落ち着いてしまう場所もあるのだ。
こんな仕事をしていると、嫌という程事件関係者に話を聴くことがある。それが仕事だからだ。そういったとき、こうして落ち着いている人は意外と多い。
「……そしたら、角田先生が──」
「そこまでにして頂いていいですか」
ゆかりが水穂の言葉を遮る。それを國原が睨み付けた。
「鈴原さんが怯えています」
千里はその言葉に疑問を持った。事情聴取中、千里はずっと水穂の様子を観察していた。けれど水穂に怯えた様子はない。むしろ、淡々と説明しているように見受けられた。それでもそれは、非常時の冷静さなのだろうが、とはいえ怯えとは違う。
「まだ訊きたいことがあります」
「発見時のことはお話出来ましたよね? それなら十分なのでは?」
ゆかりは威嚇するような目付きを國原と千里に向けてきた。千里はそれに僅かにたじろいでしまったが、國原は少しも動じた様子はない。
千里は一歩引き、睨み合うかのような二人を交互に見た。國原とゆかりは互いに譲らず、無言の攻防を続ける。攻防というより、互いに無言で攻めているように思えなくもない。
結局、國原が根負けをして、大きな溜め息を吐いた。恐らく此所が警察関係の場所であれば國原は引くことはしなかっただろう。此所は学校。あくまで相手──ゆかりのテリトリーだ。
「はぁ。では、最後に一つだけいいですか」
國原は微かに眉間に皺を寄せた。
「内容によりますが」
ゆかりは毅然とした態度のまま返す。
「……不審な人物を見なかったかだけ尋ねても?」
極当たり前の質問。ゆかりはそれに、ええ、と頷いた。
「じゃあ、最後に、怪しい人とかを見なかったかな」
國原はゆかりに対して取っていた憮然とした態度とは違い、先程までと同じように柔らかい口調で水穂に訊いた。
「……見てないです」
そのとき、千里は水穂の視線が僅かに揺れるのを見逃さなかった。ゆら、と本当に僅かだが、揺れたのだ。それは、一体何を表しているのか。
「もう、いいですよね。お引き取り下さい。今後、鈴原さんに訊きたいことがあるときは、必ず私を通して下さいね」
何故、親御さんではなく? と自然な疑問が千里の頭に浮かんだ。けれどそれは水穂の身辺を調べればわかることだ。今ここで、ゆかりに問いを投げ掛ける必要はない。千里と國原は一度顔を見合わせてから、一度撤退することを決めた。
「色々とありがとう。今夜はゆっくり休むといい」
國原は水穂の頭を撫で、ゆかりには挨拶せずに保健室を後にした。千里は水穂とゆかりに頭を下げ、その後に続いた。
「──何か、知ってますね」
この表現が正しいかどうかはわからないが、國原の背に掛ける。
「多分な」
國原も同様のことを思っていたらしく、頷く。
水穂だけではない。恐らく、ゆかりも何かしら知っていて、それは警察に知られたくないことなのだろう。もしかしたら、水穂が千里達が訪れる前にゆかりに何か言ったのかもしれない。そして、それを警察には言わないように、と言ったのか。
「調べてみる価値はあるかもな」
「そうですね」
事件を知らされた職員達が集まってきたのか、校舎内は先程と比べ明るくなり、騒々しさも漂っている。校庭の方に目を向ければ
野次馬もマスコミも増えている。
「よし、やるか」
國原の意気込みに千里は大きく頷いた。
翌日は当然学校は臨時休校となっていた。目当ての人物の到着を待つ間、千里はスマートフォンでネットニュースを確認した。トップページに今回の事件が載せられている。先週起きた児童養護施設の園長が同様の手口で殺害されたことから同一犯の可能性も視野に入れての捜査──。これは今朝の捜査会議で捜査員にも告げられたことだ。
喉を剃刀状のもので切り裂いて殺害する。相当手練れの犯行だろう、と監察医は言っていた。そこから過去にも、似たような事件がないか、今、他の捜査員が洗っている。
「お待たせしました」
待たされていた応接室に灰田 ゆかりが姿を現した。臨時休校の為か、白衣は羽織っていない。シンプルな薄いグリーンのツーピースだ。
──もっと、暗い色合いでなくていいのか。
そんな疑問を千里は抱いた。普通、職場内の人間が死ぬと、周りの人間は無意識に暗い色合いの服装を選ぶ。喪中、というのが日本人の中に根付いているからだろう。なのに今日のゆかりの服装は、暗い色合いどころか鮮やかな色だ。
別に、そういった服装がいけないというわけではない。ただ、なんとなく不自然というか、気に掛かるのだ。ゆかりはそんな千里の視線に気付かず、千里太刀の向いの席に腰を下ろした。タイトスカートは丈が短めなのか、座ると太股の半分近くを晒してしまっている。ストッキングを穿いた脚はどこか艶かしい。
「鈴原さんではなく、私で宜しいのかしら?」
ゆかりが脚を斜めに伸ばした。元々綺麗な形の脚をしているが、その姿勢は更に美脚に見せる。
「ええ。貴女にお伺いしたいことがあります」
國原はそんなゆかりの美脚には一瞥もくれずに口を開く。
「答えられることでしたら」
相変わらず毅然とした態度で臨むゆかり。千里は此所に来る前に國原に言われたことを頭の中で反芻した。
──灰田 ゆかりの一挙一動を観察するように。
國原が質問をし、千里がそれを観察する。少しでも怪しいところやおかしなところがあれば、すかさず書き留める。千里はそれを胸に刻み、ゆかりの姿だけを目に映した。
「貴女は、何故昨夜あの時間に学校にいたんですか? 他の職員は全て帰られていましたよね?」
夜の七時。絶対に誰もいないと言い切れる時間ではないが、夕べに限ってはゆかり以外の職員は出払っていた。いたのは用務員である年配の男性一人だ。
「仕事が残っていましたので」
「仕事とは?」
「労災の書類です。授業中に怪我をしたこどものものです」
ゆかりは単調に受け答えをしていく。今のところ、おかしなところは何もない。視線も真っ直ぐに國原に向いているし、瞬きの数が多いということもない。手の位置も、ずっと腿の上で重ねられている。
「そういったことは普段はあまりないとお聞きしましたが?」
これは昨日のうちに他の教職員に訊いていたことだ。保健室を後にし、その足で教職員の集まる職員室へと向かった。今後のマスコミや保護者への対応に頭を悩ませる教職員の数人を捕まえて訊いたのだ。
教職員達は突然の出来事に戸惑いを隠せておらず、こちらの質問について考える余裕もなさそうに答えられることは答えてくれた。そのうちのひとつが、ゆかりの滞在についてだった。ゆかりは他の職員達と違い、事件の連絡を受けて学校に戻ってきたのではなく、ずっと学校にいた、ということだったからだ。
いつも、そんなに遅くまで彼女は残っているのかと訊くと、答えてくれた全員が、それはない、と返してきた。彼女はいつも定時には帰っていく。それが全員の答えだった。
「たまたま、です。滅多にないというだけで、先週ではありませんから。私、これからスクールカウンセラーの先生と打ち合わせがありますので、失礼しますね」
ゆかりは答えるとこちらの返答を待たずに、応接室を出ていってしまった。残された千里と國原は思わず顔を見合せた。
「……完全に何か隠してるな」
千里はそれにですね、と頷きながらも、妙な引っ掛かりを覚えた。いや、妙な引っ掛かりどころではない。完璧に引っ掛かる。ゆかりと話したのは、昨日今日と少しだけ。しかも、話した、と言えるのは國原であって先生ではない。それでも彼女が頭の良い──賢い人間だというのは肌でわかった。
顔付きも知性が感じられるし、毅然とした態度もそうだ。そんな彼女ならば、こちらに不信感を抱かせないことなど容易いことではないのだろうか。何か物事を隠すならば、もっと上手く立ち回りそうなものだ。なのに、ゆかりからは何かを隠し立てしている気配しかしない。だとするならば、それはきっと、わざと、ではないか。
千里は行き着いた結論を國原に告げたが、メリットがない、と一蹴されてしまった。
「そう……ですよね。下手すれば、自分が疑われかねないですもんね」
そんなリスクを犯す人間などまずいないと言っていいだろう。だとしても、ゆかりの行動は気になるものがある。
「うーん、行ってみるか」
悩んだ表情を隠せずにいた千里に、國原がぽつりと言った。
國原に連れていかれたのは、所謂高層ビルだった。都心のオフィス街に聳えるそれの周りにはスーツ姿の男女と外国人が多い。雑多な街を通り抜け、そこの敷地へと足を踏み入れる。自分の周りと同じようにスーツ姿だというのに、違和感を覚えざるを得ない。どこか、浮いているように思えてしまうし、実際、浮いているだろう。
かっちりとブランドものであろうスーツを、戦闘服のように身に纏う彼ら。髪型もぴっちりとしていて、鳴らす靴音も違う。
──これが、エリートと呼ばれる人達なんだろうな。
千里は忙しなく行き交う彼らを見ながら、そう思った。
「こんなところの誰に用があるんですか?」
千里は國原の背を追いながら尋ねた。ゆかりに話を聞きにいった帰り、そのまま電車に乗り、この土地へと連れてこられたのだ。初めて降り立つ街は疎外感を与えてくるのと、オフィス街の為か、目まぐるしく人が行き交っていた。そんななかを、数分歩き、目的のビルへと辿り着いた。
「んー、ちょっとな」
國原の口調は勤務中のものではなかった。受付と思われる場所に足を進める國原の後をついていく。國原は、このオフィスビルにいてもさして違和感はない。スタイルがいいからだろうか。千里は國原の広い背を見ながら、そんなことを思った。
國原は受付に立つ女性に何かを言い、その受付の女性は電話機を耳に当てた。そして、綺麗に口紅を塗った唇を上品に動かす。一歩離れた千里の耳に、その内容は入ってこない。大勢の人間が出入りしているだけで、辺りは騒がしく感じるのだ。美人と称すことの出来るその女性は電話機を置くと、通行証らしきものを二つ、國原に手渡した。洗練された動作は、千里には真似できなそうなもので、だからこういった場で働いているのだろうなと思わせるものだった。
「行くぞ」
國原が通行証を千里に渡してくるなり、駅の改札に似た機械の方へと足を向けた。千里は相変わらず國原の後をつけ、彼の見よう見真似で、その機械を通り抜けた。
テロが多発する時代。大手の企業などが入るこのビルもテロ対策を徹底しているのだろう。あちらこちらに警備員の姿がある。
千里はまるで地方から上京してきた者が東京見物でもするように、きょろきょろとビル内に視線を這わせた。
「きょろきょろするな」
「はい、すみません」
國原に注意を受け、千里は視線を動かすのを止めた。そこで初めて気付いたのだが、行き交う人々は誰も千里達のことを気にしていない。それもそうだろう。一日で何百人という人間が出入りしているのだ。見たことのない顔などと気付くものなど、いない。
──当たり前なんだろうけど、どこか希薄に思える。
この人数、認識しろというほうが土台無理な話なのはわかる。他所の者だって出入りしているだろうから、社員証でないもの掛けていても気にならないのもわかる。けれど、ここは現代社会の縮図のようにも思えた。明らかに場にそぐわない人物が歩いていても、一目もくれないのだから。
複雑な想いを抱きながら、國原と共にエレベーターに乗り込む。エレベーター内も大勢の人がいて、背広姿の背中に囲まれ、窒息しそうだ。満員電車を思い出す程の混み具合。止まる毎に人が減ったり増えたりするので、目的の階に到着するまでさして状況は変わらなかった。
「はぁ。苦しかった」
それに、香水やら化粧やらの臭いが混ざりあって酷い異臭と化していた。
「忍耐力がないな」
國原に言われ、千里は少し頬を膨らました。それは、國原の口調が柔らかいから出来ることだ。
「背の高い國原さんにはわかりませんよ。背中に囲まれる気持ちなんて」
満員電車に乗るときもいつもそうだ。いつも目の前には背中があって、左右隣にも背中があって、見える景色は背中だけなのだ。
「うん、確かにわからないな」
國原は長身なので、そういったときも、人より頭が飛び抜けている。息苦しい思いなどしたことがないのだろう。
「こっちだ」
エレベーターから漸く抜け出し、深呼吸をしていると、國原が右を指した。ふかふかの床は絨毯が敷き詰められているようだ。こんなビル、入ったことがない。廊下だというのに靴音が鳴らないのは変な気分だった。
國原の後をつけていくと、一つの扉の前で止まった。そこは、磨りガラスのドアだが、その横にインターホンのようなものと、オートロックみたいなものが付けられている。そして、ドアには警備保証会社のシール。上を見れば防犯カメラ。あまりの徹底振りに、感心の息が漏れる。
國原はインターホンのようなものを鳴らすのかと思いきや、スマートフォンを取り出し、何やら操作をするとそれを耳にあてた。電話をかけているようだ。
「俺だ。開けてくれ」
まるで、実家にでも言うような気軽さで國原は電話の相手に告げた。そして、直ぐにスマートフォンを耳から離す。
「……お知り合い、なんですか?」
千里はスマートフォンをスーツのポケットへと仕舞う國原に尋ねた。
「ああ、そうか。まだ説明してなかった──」
かたん、という音がして、自動ドアのように扉が開く。引き戸ではないが、内開きに扉は静かに開いた。
──一瞬にして、目を奪われた。
あまりに鮮やかな白銀の髪は、建物内だというのに陽の光を浴びているかのように眩しい。そしてそれは、白い、陶磁器のような滑らかな肌によく映えていた。
「どうぞ。お入り下さい」
屈託のない笑顔を向けられて初めて、目の前の人物が男だということに気付いた。女性だと思ったわけではない。ただ、性別を感じさせなかったのだ。顔立ちや背格好というわけでもない。確かに小柄だし、男らしい顔付きというわけではないが、女性に思える程ではない。恐らく、その髪の毛のせいだろう。
「あ、貴方っ」
千里は我に返り、彼を指差した。
「はい、何でしょうか」
彼は黒目がちの瞳を動かし、首を傾げさせた。可愛らしい仕草だ。真っ白の髪がさらりと揺れる。
「どうした」
千里の行動に驚いたらしい國原が問い掛けてくる。千里はそれに対し、どちらに答えたらいいものか迷いながらも、國原を選んだ。
「彼、昨日の現場付近にいたんです」
この鮮やかな髪色を見間違えるわけがない。彼は、闇の中、真っ白な髪をやけに目立たせていたのだから。
「ああ、はい、いましたよ」
彼が笑顔で答えた。人好きする笑顔は小動物を思わせる。
「静馬さんに言われて、見に行きました。僕の住むアパート、あの近くなんです」
彼はにこにことしたまま言う。特別顔立ちがいいというわけではないが──とはいえ、平凡というわけでもない──どこか惹き付けられるものがある。整ってはいるが、これといった特徴もない顔立ちと言えるだろう。
「静馬が? 」
彼の言葉に反応したのは國原だった。
「はい。静馬さんから。現場の雰囲気と、周りを見て来て欲しい、と」
柔らかな声だ。抑揚は少ないが、淡々としているわけでもない。
「あ、こんなところで立ち話もあれですから、お入り下さい」
彼はそう言って、千里達を中に招き入れた。
「椿
彼は、千里達を案内しながら、少しだけ振り返って自己紹介をした。
「赤い花の椿に、祈りに、咲く、と書きます」
何故か、彼にぴったりの名前だと思った。赤い椿が咲く様を想像すると同時に、それが朽ちるところまで想像してしまった。真っ赤な椿が、ぽとりと頭を落とす様子。背筋がぞっとした。
お前も自己紹介、と國原につつかれ、千里は慌てて自己紹介をした。背筋を這った妙な感覚はもうない。
「影石 千里です」
國原が自己紹介しないところを見る限り、彼らは面識があるのだろう。
「宜しくお願いしますね。僕、この事務所の助手をしてます」
祈咲は明るい声の調子で言う。この事務所、と言われても、千里には此処が何なのかまだわかっていなかった。扉にも何も明記されていなかったし、國原の説明も途中のままだ。
祈咲は夏だというのに、長袖の赤いシャツと、首には黒の格子柄のストールを巻き付けていた。部屋の中は低めの温度設定にはなっているが、外に出れば暑いだろう。
「先生。お連れしましたよ」
祈咲は奥へと進み、大きな声を出した。明るい子だ。表情も笑顔が多いし、可愛らしい、という印象を抱ける。年齢は、十代後半くらいか。
「ああ、どうぞ」
千里と國原は同時に足を踏み出した。奥まった部分は企業の応接室のような造りになっている。豪奢なテーブルに、皮張りのソファー。複雑な形をしたインテリアライトに、大きな観葉植物。広く取られた窓からは眩しい程に陽の光が差し込んでいて、見える景色は格別だ。辺りの高層ビルを見渡せる。
「久し振りだね、弘輝」
すらりとした男性が歩み寄ってきた。長めの黒髪は前髪が目にかかっていて鬱陶しそうだ。
「お前、あれが連続殺人だって気付いてたのか?」
國原は挨拶もなしに男に問う。
「久し振りなのに、挨拶もなしなのかい? 相変わらずつれない幼馴染みだ。それなら、隣の可愛いお嬢さんを先に紹介してくれないかな」
男は千里に視線を向け、微笑んだ。切れ長の瞳が特徴的な美青年だ。年の頃は國原と変わらないくらいだろうか。長身細躯はまるでモデルのようだ。
「はぁ。お前も相変わらずだな」
男にずい、と顔を近付けられ、千里はそれに思わず身を引いた。幾ら綺麗な顔とはいえ、こんなふうに不躾に近寄られることには抵抗がある。
「こんにちは、可愛いお嬢さん。私の名前は古味
静馬、と名乗った男は身を引いた千里に気付いてか、顔を離した。
「影石 千里……です。國原さんの部下になります」
こんな自己紹介でいいのかと思いつつも、それ以上に気になることがあった。それは静馬の自己紹介に対してだ。彼は今、自分の職業を探偵、と言った。千里だって一応刑事の端くれだ。そういった職業がドラマや漫画の中だけでないことは知っている。知っているが、現実の探偵はドラマや漫画などの登場人物とはかけ離れていることも知っていた。
探偵事務所、というものは確かに世間には存在する。しかしそれは、大きな事務所を構えていて、そこにも何人もの探偵がいるのだ。主な仕事は身辺調査や家出人探し。それらもドラマや漫画と相違ないだろう。無論、個人で事務所を構える探偵だっている。けれどそれはこんな高層ビルでないことだけは言える。細々と個人の依頼を受けて生計を成り立てているのだから。
──なんというか、理解が追い付かない。
千里はどこからどう考えたものか悩みながら、静馬の綺麗な顔を見た。光沢のある艶やかな髪を揺らしながら、静馬は微笑む。
──色男って、こういう人のことを言うのかな。
理解が追い付かないがために、千里の思考回路はずれていく。
「で、弘輝、何の用だったかな?」
静馬は千里から視線を外し、國原に尋ねた。少々芝居がかった喋り口調ではあるが、それは彼の風貌によく似合っているので問題はない。
「はぁ。その前に、こいつにきちんと説明させてくれ」
國原がぽん、と千里の肩を叩いた。そういえば、まだ國原の口から説明を受けていなかった。
「弘輝の悪い癖だね。何でも自分がわかっていれば、周りへの説明を怠ってしまう。よくそれで刑事が務まるものだと感心するよ」
そう言われてみれば、國原にはそういったところがあるかもしれない。事件の捜査中もよく、肝心なことを千里に伝え忘れたりするのだ。自分が知っているので、相手も知っていると錯覚してしまうのだろう。
「放っといてくれ。悪かったな」
國原は珍しく軽い口調で言う。それだけで、國原にとって静馬が心を許している相手だというのがわかる。
「こいつは、俺の幼馴染みなんだ」
「生まれた病院も一緒なんだ」
「それでもって、今はここで探偵業を営んでいる」
「優秀な探偵なんだよ」
「いちいち口を挟むな」
國原が何かを言えば、それに静馬が付け足す。そんなふうに静馬の説明は終わったが、わかったことといえば、静馬が國原の幼馴染みで探偵だということだけだ。しかし、それ以上を知る必要はない。千里はわかりました、と頷いた。
「こちらのお嬢さん、結構ドライだったりする?」
静馬が國原に少しだけ身を寄せて訊いた。
「誰だって、お前みたいな奴と比べたらドライに見えるさ」
國原は大きな溜め息を吐いて答えた。千里はそんな二人のやり取りを見て、くすりと笑った。気兼ねせずに済む相手がいるというのは、このうえなく幸せなことだと思う。
「静馬先生、お茶の準備が出来ましたよ」
その声に、祈咲がいつの間にか離れていたことに漸く気付いた。祈咲は大きなトレーを手にして、笑顔を見せた。
「ありがとう、祈咲。君も一緒にどうぞ」
「では、こちらを置いたら僕の分も持ってきますね」
祈咲は言いながら、トレーの上に載せたものをテーブルの上へと移していく。無駄のない動きは洗練されているようだ。こうしたことに慣れているのがよくわかる。
テーブルの上には、薄茶色の液体と氷の入ったグラスが三つ─全てにストローがさしてある──と、皿に載せられたクッキーが置かれた。千里がそれを眺めていると、静馬に座るように促され、國原がソファに腰を下ろすのを待ってから、その隣に座った。
「アイスアールグレイティーです。苦手だったりしますか?」
祈咲に不安げな表情で訊かれ、千里はいえ、と首を横に振った。すると祈咲はよかった、とまた笑みを見せた。祈咲はきちんと礼をしてから下がり、直ぐに自分の分のグラスを手に戻ってきた。祈咲は腰を下ろした静馬の隣に座る。千里の向かいの席だ。
「では、話を聞こうか」
静馬は長い脚を組み、膝の上に手を乗せた。どんなポーズも様になるスタイルのよさだ。
「俺が来た時点でわかってるくせに。面倒なやり取りをしてる暇はない。本題に入ろう」
國原は溜め息混じりに言った。こうして数分見ているだけで、國原が静馬に振り回されているのがよくわかる。
「この界隈で、こどもを相手にする職業に従事している者が数人、殺されている。これを、お前は連続殺人事件だと思っているんだな?」
探偵といえど、一般市民。そんな話をしてしまって大丈夫なのだろうかと、千里は内心で心配をした。しかし、今のところは報道されている内容だ。
「うーん、確信はないんだけれどね。でも、あまりに不自然だろう?」
静馬が言ってからストローを口につけた。その隣では祈咲もストローを口にしている。長い睫毛が白い頬に影を落としていた。肌の白さといい、髪の白さといい、アルビノの可能性を疑ったのだが眉毛と眉毛を見て、違うと気付いた。
「確かに、立て続けというのは不自然だな」
「お嬢さんの解釈を聞いてもいいかな?」
祈咲を眺めているところに不意に話を振られ、千里は、え、と妙な声を出した。
「ああ、祈咲に見惚れていたかな。気持ちはわかるよ。祈咲は美しいからね」
静馬に言われ、千里は顔が熱くなるのを感じた。見惚れていた。そう言われればそうなのかもしれないが、本人の前で言葉にされると恥ずかしい。
「い、いえ、そうじゃなくて」
「僕の髪色が気になるんですよね」
祈咲がにっこりと笑いながら言う。そうなのだが、なんだか事情がある気がして聞けなかったのだ。たんに脱色している、とは思えない色だったから。
「これ、脱色してるんですよ。お洒落でしょう?」
しかし、祈咲から告げられた言葉は、あまりに普通のものだった。
「大変なんですよ。少しでも地毛が出てくると格好悪いから、こまめに脱色してるんです」
なんとなく、嘘だと思った。それはただの勘でしかないが、そう思ったのだ。
「そうなんですか」
それでも、千里は話を合わせた。本当のことを言わないのは言いたくないから。その気持ちはよく理解出来たから。
「で、お嬢さんは、この事件についてどう思う?」
この事件。静馬はそう纏めることで、複数の事件が連想殺人であることを示唆しているように思えた。
「私には……なんとも」
千里はぼそりと答えた。
「駄目だよ、お嬢さん。君は刑事なんだ。自分の意見ははっきりと口にしなくてはね」
静馬は言い終えるとにっこりと笑った。
「はい。しかし、本当に私としては、なんとも言えないのです。同じ手口もあるようですが、まだ捜査資料などを見ていませんし、被害者達の共通点などもわかりません」
千里は素直にそう答えた。実際、最近起きている複数の事件が同一犯の可能性があると聞かされたのも昨夜のことだ。今回の角田殺害の事件は自分の担当であるが、その他は違う。まだ手元に他の事件の捜査資料は回ってきていないのだ。
「成る程。よくわかりました」
静馬は静かに頷いた。
「では、私の意見を言いますね。客観的にニュースを見る限りでは、同一犯だと思われますね。犯行の手口が一致しているものもありますしね」
それは根拠とするにはあまりに些細なことだ。確かに剃刀状のもので喉を裂く、というのは殺人として一般的な手口ではない。けれど、世には模倣犯もいうものも存在するのだ。
「まあ、これだけでは説得に欠けるとは思いますが、後は直感でしょうかね」
千里の心のうちを見抜いたかのように静馬が言う。
──直感。
刑事にとって、大切なものであり、それと同時に信用してはいけないもの。直感というのは千里にとってそういった認識であった。
「僕はこれで失礼します。仕事がありますので」
不意に祈咲が立ち上がった。グラスにはまだ半分以上アイスティーが残っているが、祈咲はそれを手に、千里達から離れていった。離れるときも、笑顔で丁寧に頭を下げる。全てが育ちの良さを思わせた。
「彼は、いつから助手を?」
なんとなしに質問してみた。
「祈咲かい? 祈咲は、私がこの事務所を立ち上げてからずっと助手をしてくれているので、もうかれこれ五年になるかな」
「五年……」
彼の見た目から推測出来る年齢から五を引くと、どう見積もっても中学生くらいになってしまう。
「ああ、そうか。祈咲は幼く見えるけど、あれでも二十三歳だよ」
そう言われ、千里は驚いた。祈咲の見た目はどう見積もったとしても十八歳がいいところだ。素直に見れば、もう少し下に見える。なので、先程の質問をしたのだ。だというのに、祈咲は立派に青年と呼べる年齢だった。
「驚くのも無理はないね。美しい見た目だし、小柄だからね」
特別背が低いという程でもないが、決して高くはない。それと、鮮やかな色の服装のせいもあるのだろう。それと、白髪。それがきっと、彼の外見をあやふやにしているのだ。
「もう少し、お前の見解を聞かせてもらっていいか」
國原が話を戻した。
「私の見解を、と言われても、ね。これといったものはないよ。ただ、繋がりを感じるだけだ」
「繋がりを?」
國原はメモも取らずに静馬の話を聞いている。捜査の一環というより、彼に助言を求めに来たように見えるし、実際、そうなのだろう。
「ああ、そうだね。この事件は繋がっている。そう思えるだけだよ。もっと話を聞きたかったら、情報を揃えてきてからにしてくれないかな? 報道だけでは何もわからない」
國原はそれにわかった、とだけ答えた。情報を揃えて、というのは、彼に捜査状況を教えるということになる。それを國原は承知しているようだった。
「じゃあ、私には私の仕事があるからね」
静馬が言うと、國原は立ち上がり、また来る、と言った。千里もそれに続いて立ち上がる。
「では、お嬢さん、またお会いしましょう」
静馬は綺麗に微笑む。千里は、ええ、と答え、小さく頷く。苦手というわけではないが、どこか心を許せる相手には思えなかった。
「いいんですか?」
高層ビルから少し外れた場所にあるカフェは外国人が多かった。仕事中のような外国人もいれば、ベビーカーを横に置いている外国人もいる。
「何がだ?」
千里の問いに、國原はアイスコーヒーを飲みながら返してきた。
「探偵といえど、一般市民ですよ」
國原は基本的に規律に厳しい。だというのに、静馬に捜査情報を与える約束をしていた。それが千里には理解出来なかった。
「ああ、静馬のことか。いいんだよ。静馬は所謂、警察庁公認の探偵だ」
「警察庁公認?」
そんな肩書きは初めて耳にする。
「あいつの母親が警察庁の人間で、あいつも警察学校を主席で卒業し、一時は警察に籍を置いていたこともある。でも、警察の規律だとか
俄には信じ難い話ではあるが、國原は嘘を言うような人物ではない。千里はそうですか、と納得した。
「どうも、一筋縄で行きそうにない事件だから」
確かに、単純な殺人事件には思えなかった。
一体、事件の裏には何があるというのか。それを解き明かすのが、千里達の仕事なのだ────。
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