ギルティ・メイズ

碓井 旬嘉

序章

己の咆哮で覚醒するのは何度目だったか。

「ねぇ、痛い? 痛いよね?」

まるで甘えるかのような声で問い掛けられ、腹の底から吐き気が込み上げる。しかし、もう何十時間も水分しか喉を通過していない為、外へと出されるのは胃液混じりの水のみだ。水が一緒の分、喉が焼けるような感覚はない。ただ、先程大量に飲まされた水がそのまま食道を上がってくるということは時間は然程経過していないということだ。

次に、鋭い痛みが襲ってくる。間違いなく、この痛みによる叫びで目を覚ましたというのに、吐き気と未だ続く恐怖から一瞬痛みを忘れていた。

二の腕のところが、ぴりり、とまるで分厚い紙で深い切れ目を入れられたかのような痛みが走る。小さくも、大きくもない痛み。けれど、既に他の傷が化膿を始めているので、その付近に刃を当てられると、そこまでもが疼く。

「う…………あぁ」

もう、言葉は、ない。直に声も出なくなるかもしれない。

化膿した傷達は熱を持ち始め、全身が熱い。しかし、それを察知されてか、白い錠剤を二回前の覚醒時から飲まされるようになった。そのときが唯一、水を口に出来るときだった。全身が熱い為、貪るように水を飲んだ。水だけは、気の済むまま飲ませてもらえた。

「まだ足りない? 痛みが弱い?」

相変わらず吐き気をもよおさせる声色に、いやいやをするように首を振る。泣き声なのか、呻き声なのか自分でも判断出来ない声が漏れる。痛みは麻痺することがない。恐怖も麻痺することはない。

体は自身の血に塗(まみ)れて、鉄臭いし、凝固した血液というのは固い。それらが肌に纏わり付き、まるで皮膚が鱗のようになったみたいだと思う。かさかさと、凹凸がある肌。

眠りに落ちれば──正確に言えば、気を失えば、痛みで起こされる。しかし、痛め付けは長く続くわけではなく、断続的だ。少し傷を付けられ、深く傷を付けられ、それを延々と繰り返される。

──何日が経過しているのか。

窓は雨戸で塞がれ、外の様子は一切わからない。ただ、ずっと暗い。しかし、目は既に暗闇に慣れてしまい、状況だけはよく見える。次に光を見るときは、この両面は焼けつくように痛いのではないかと思い、直ぐにその考えを頭から振り払った。次に光を見ることなど、きっと、ない。もう、ずっと、此処にいるしかないのだ。そして、このまま死んでいくのだ。

──殺して。殺して。お願いだから殺して下さい。

痛みに呻きながら声を振り絞ろうとするも、喉を通過して外に漏れるのは妙な音だけ。懇願の科白は表へとは出てくれないのだ。

「どうかした?」

妙な声に反応され、視線を動かす。頭ごと動かす気力は既にない。胃の内容物を吐き出すときも、頭を床につけたままなので、それらは全て頬へ、瞼へと張り付く。けれど、臭いは気にならなかった。それは、水ばかりを吐き出すせいではない。

この部屋の汚臭のせいだ。悪臭、汚臭が充満していて、自分の胃液の臭いなど大したものではない。

腐敗の臭いと、死の臭い。

「何か言いたいの?」

顔を覗き込まれ、目を逸らす。自分の体で唯一正常に動くのは眼球だけだった。手足は弛緩したように重く、そして少しでも動かせば傷が痛む。頭など、鉛のようにずしりと重い。恐らく、栄養失調と恐怖から来るものなのだろう。

──死にたくない。殺さないで。殺さないで。

目線を動かした先にある塊を見てしまい、咄嗟に先程とは真逆の思考へと陥る。

──殺さないで下さい。

恐怖を感じ続ける証。未だ絶望を喰らえない証。

恐怖を失うには少ない痛み。絶望を知るには浅い傷。

事の始まりは、幾日前なのか────。


ぐっすりと眠っていた。こども特有の熟睡。しかし、ふと、目が覚めたのだ。目が覚めた際に頭に浮かんだのは、明日の運動会のこと。小学校に入ってから、四回目の運動会。今年の参加種目は徒競走と障害物競争。来年、高学年になれば騎馬戦と組体操があるのが何より楽しみだった。

体を動かすのは好きだ。先月からスポーツクラブにもなった通わせてもらえて、少し体が柔らかくなってきたばかり。もう少しで前屈がマイナス五センチに到達しそうだった。

運動会が楽しみで目が覚めてしまったのか。明日──正確に言えば今日は、母親がウインナーと卵焼きを入れた弁当を作り、父親がビデオカメラを持参して朝から学校に来てくれることになっていた。とはいえ、そんなこと程度の楽しみで目が冴えてしまう程もうこどもでもない。

少しばかり不思議に思いながらも、喉の渇きを覚え、部屋を出た。

一昨年、父親が三十五年という途方もなく長く感じられるローンを組んで購入した、念願の一軒家。まだ父親は三十五歳。しかし、ローンを払い終える頃には定年退職を迎えているので、退職金で残りのローンを支払うから、お前にはローンは残らないよ、と引っ越してきた日に優しい笑顔で言っていたのをはっきりと覚えている。

決して広いとは言えないが、新築の家は家族四人で暮らしには十分だった。リビングに、両親の寝室、姉の部屋、自分の部屋。それと、仏壇を置ける床の間のついた和室。庭もあって、来年辺りには犬を飼おうかと、動物が大好きな母親が言っていた。姉と自分は大喜びし、何の犬がいいか、慣れないパソコンの前で相談しあった。

何の変哲もない家族。それが、自分達だった。

しかし、その、変哲もないが、幸せに溢れているはずの家に、不穏な空気を感じ取った。はっきりと、不穏だと思ったわけではない。水を欲して暗闇の中、ゆっくりと階段を下りているとき、妙に心臓が早鐘を打つのだ。まるで、悪いことをした後、何故かそれが既に親にばれてしまっているのに気付いたようなとき。あの感覚は常々不思議だった。何故、親が知っていることを知っているのだろう、と。謂わば、第六感というものなのだろうが、幼い知識にそんな単語は加わっていなかった。いや、第六感というより、罪悪感から芽生える錯覚のようなものなのだろうが、今はそんなことの真意などどうでもいい。

ただこのとき、それと似たような感覚が体を取り巻いていたのだ。

──部屋に引き返さなくては。

強く、そう思った。しかし、体は言うことを聞かず、勝手に階段を下りていく。物音がするわけではない。それだというのに、妙な気配だけが家中を漂っていたのだ。

階段を下りきり、キッチンに向かう為に体の方向を変えた。そのとき、リビングの灯りが点いていることに気付いた。薄く開いた扉から、一筋の灯りが漏れていたのだ。まだ両親、もしくはどちらかが起きている。それに安堵し、リビングへと早足に向かった。

怖い思いをした。そう告げれば、怖い夢でも見たか、と頭を撫でてもらえることを知っていたから。もう抱き締めてもらう程こどもではないが、頭を撫でてもらえば安心出来る程には幼かった。

「お父さん、お母さん」

一秒でも早く安心したくて、大きな声で呼びながら扉を開けた。どうしたの、と微笑みながら迎えてもらえると信じて。大好きな両親の、大好きな笑顔がそこにあると信じて。早く、早く安心して、それで眠って、明日は運動会で────。

全ては、一瞬にして崩壊した。

「来ちゃ……駄目。来ないで……」

そこにあったのは、両親の笑顔ではなかった。涙と鼻水で顔を汚した母親と、恐怖に顔を引き攣らせながらも、ゴルフクラブを構える父親の姿。それと、ソファの上で肢体を縛られた、一つ上の姉の姿だ。

父親が構えるゴルフクラブは、去年亡くなった、母親の祖父から譲り受けたものだったはず。ホールを回るのは、定年後の楽しみにでもしようと、父親は月に数度、近所で打ちっぱなしを楽しんでいた。たまには連れていって、と頼むと、いいぞ、と一緒に行ってくれた。その後、近くのファミレスで夕飯を食べさせてもらうのが楽しみで──……。頭に浮かぶのは、この場にそぐわないことばかり。

「わぁ。起こしに行く手間が省けたね。でも、まだ、準備の途中だったのに」

──見知らぬ男が、いた。

まだ若い。短い髪は清潔さを感じさせ、細い目は几帳面さを思わせた。背は高いが、こどもの目線なので確かなことはわからない。体も大きく感じるが、実際は半袖から伸びた腕の肘の部分は骨が目立つ。きっと、恐怖心がその男をとてつもなく大きな化物に見せているのだろう。

保育園のときの節分を思い出す。赤い鬼の面を付けたのは、いつも優しい由希先生だとわかっているのに、いつもの由希先生よりもずっと大きく見えたのだ。

「本当は、三人とも縛り上げてから起こしに行くつもりだったんだよ」

場違いな程、にっこりと微笑まれた。悪い顔だちではない。むしろ、整っているだろう。それだけにその笑顔は恐ろしく見えた。まるで、地獄で大量の屍を踏みつけながら微笑む天使のようだ。

「逃げて……」

母親が大粒の涙をぼろぼろと溢しながら這いずってくる。腰が抜けているのだろう。

「ちょっと、勝手に動くなよ」

男がこちらに来ようとする母親の顎を蹴り上げた。あまりに一瞬の出来事に、何が起きたのか理解するのに時間を要した。母親はが、と声を漏らして後ろに倒れ込む。

「逃げなさいっ。走ってっ。お前だけで……もっ」

父親の悲痛な叫びは鈍い音で途切れた。ど、と重たい音がする。

「五月蝿いんだよっ。この子がいないと始まらないんだっ」

男が怒鳴る。その足元では父親が頭を抱えて蹲っている。男が何かで父親の頭を殴打されたようで、額には鮮血の筋が流れている。男の手に目を向けると、そこには金属バットが握られていた。

「お願い……。お願い、だから、こども達だけは……」

母親がどうにか起き上がり、よろよろと頭を下げる。

──自分達だって恐ろしいはずなのに。

「だからさぁ、言ってる意味わかんないの? この子がいないと始まらないって言ってんじゃん」

男は床に額を擦り付けている母親に近寄る。母親は肩どころか、全身をがたがたと震わし、男が近付くと、ひ、と細い声を上げた。それでも震える声でお願いします、とひたすら懇願する。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いっ。親なんてな、いらないんだよ。この子には、これから、僕がずっといてあげるんだ。だから、お前らなんていらないっ」

彼が何を言っているのか全く理解出来なかった。けれど、何故か自分が彼に執着されていることだけはわかる。理由まではわからない。ただ、彼にとって今、自分が必要らしいということだけは、嫌という程はっきりとわかるのだ。

しかし、何が始まらないというのだろう。何が、自分がいないと始まらないのか。

恐怖心に支配されていた。動くことも困難で、両親の逃げろという言葉に従うことすら出来ない。その場に座り込み、震える全身を縮めることすら出来ないのだ。そんなとき、ううん、と小さな唸り声が耳に届いた。それは、縛り上げられ、ソファの上に転がされた姉のものだった。

姉は、寝ていたのか、気を失っていたのか、ゆっくりと目を開ける。その様を、まるで観察でもするように見ていた。姉は目を開けると、途端に顔色を青ざめさせた。一瞬で、何が起きているのか理解したのだろう。彼女は、同年代の誰よりも頭がよかった。それは、勉強が出来るというだけではなく、頭の回転も早く、利口だったのだ。そんな彼女は、今、この場で何が起きているのか瞬時にわかってしまったのだろう。

真っ青な顔で、家族を見回し、それから男を見た。

体が自由でないことには気付いていないのか、身動きは取らずにいる。それとも、大人しくしていなくては、と無意識に自身で動きを封じているのか。

「よし、決ーめた」

男は言ってから、上唇を舐めた。赤い舌がちろりと覗く。軟体動物みたいな動きは気味が悪い。

「最初は、愛結あゆちゃんにしよう」

男の言葉に、母親と父親が息を飲むのがわかった。姉も自分の名を呼ばれ、これから起こることを想像してか、漸く体を動かそうとした。しかし、両手を後ろで縛られ、足は体育座りの要領で脹ら脛と腿が密着して縛られている為、芋虫のように動くことしか叶わない。それでも、必死にもがき、ソファから滑り落ちた。

「はい、いきますよ。よーく見ててね」

目を逸らさなくては。目を塞がなくては。そう思うのに、脳から筋肉に指令は行き届かず、反対に目を見開いてしまっていた。姉はずりずりと、妙な生物のような動きで逃げ惑っていて、それを男が酷くゆっくりと追い掛ける。姉は泣くことはせず、歯を食いしばって、それでも逃げようとした。男はにやにやと口角を上げ、そんな姉の前に立ち塞がる。そして、行動に移した。

「やめてぇーっ」

母親の悲痛な叫びが耳に木霊こだまする。それと同時に、ごん、と鈍い音。姉は体を縛られたまま、背中を金属バットで殴られていた。うう、と低い呻き声を上げ、痛い部分を摩ることも出来ないまま、それでも動きを止めない姉が恐ろしく見えた。恐らく、凄まじいまでの生への執着なのだろうが、姉は他の家族の誰も見ていなかった。きっと、縛り上げられていなかったならば、走って逃げ出していたに違いない。

一つ上なだけで、まるで双子のように仲良しだった姉とそこにいる姉は別人のように思えた。

「大丈夫。一撃で殺したりしないから」

男はそう言うと、再び金属バットを振り上げた。母親が絶叫する。父親はやめろ、と怒鳴りながら男に抱き付こうとするも、いとも容易く振り飛ばされた。どう見ても男より父親の方が体格はいいし、父親はその昔、アメフトをやっていたらしい。なのに、男の力には勝てない。

父親が男に抱き付こうとした隙を見て、母親が姉に駆け寄り、庇うように抱き締める。それでも姉は、まだ逃げようとしていた。母親は姉を抱え、自分のところにも来た。そして、我が子を守るように抱き締める。母親からは鉄の錆びた臭いがした。それは、先程蹴り上げられたせいで、口から出血をしているからだ。

「邪魔すんなよっ」

男は怒り狂った声を上げ、父親の髪を掴んだ。そして、二回程顔面を拳で殴り付け、痛みと衝撃で動きが鈍くなったところを俊敏に捕らえた。テーブルの上に置いてあるロープで素早く父親を縛り上げた。それは姉と同じような姿だった。

余程強い力で殴ったのか、父親の鼻の形は歪み──恐らく鼻骨が砕けている─、鼻血で顔の下半分は真っ赤だった。苦痛に顔を歪ませながらも、それでも動いているのは、逃げる為ではないだろう。家族を、守ろうとしているのだ。

「次はあんただよ」

母親の肩越しに、その声を聞いた。母親は姉のロープを必死にほどこうとしていたが、男の行動の方が早かった。

「逃げて……」

ロープのほどききれない姉のことは諦めたのか、母親は背を肩を押してきた。

「それは駄目だって言ってんだろっ」

男がまた怒鳴る。

この家は周りと少し距離がある為、この騒ぎを近所が聞き付けることはないだろう。しかも、深夜だ。

「安心しなよ。この子のことは殺さないから。だから、逃がす必要はないんだよ」

酷く優しい声だった。それが偽りではないことを証明する声色。自分だけは殺されないという確証を得た。その反面、自分以外は殺されるのだと、はっきりと理解してしまった。

「な……なら、愛結も……。愛結も殺さないで……」

母親の泣き声に、姉の目が光る。希望の色を見出だしたのだろう。助かるかもしれない、という。

「それは駄目。駄目だよ。皆殺すんだよっ」

男は言い、母親の首に手をかけた。細身の母親の首は細い。男の片手にすっぽりと納まってしまう程だ。

「僕はね、この子に絶望を知って欲しい。そして、絶望の中の光が僕なんだと刻み込みたいんだ。だから、一人として残してはいけないんだよ」

母親は苦しそうに喘ぎ、必死に男の手を振り払おうとするも力で男に勝てるわけがない。みし、みし、と嫌な音がする。それでも母親は抵抗を続けていた。その顔は血色を失い、目から涙を流し、口をだらしなく開いている。

「大丈夫、まだ殺さないから」

言葉と共に、母親の細い首は解放された。どさり、と母親は崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。がほ、と咳き込みながら、それでも尚、こども達を助けたいのか、手をもがく。

「君は、本当に大人しいね。イイコだね」

こちらに言葉が掛けられた。大人しいのではない。動けないのだ。恐怖から、ではない気がした。どうやら自分は殺されないらしい。それは何故か最初から肌で感じていて、その恐怖だけはない。けれど、恐ろしいのだ。

眼前の男のことが、全く理解出来なかった。行動も、言葉の意味も。到底日本語を喋っているようには思えなかった。

──彼は、一体誰なのだろうか。

頭の隅に芽生えた疑問を繰り返しているうちに、母親までも体を拘束された。手慣れた行為に見えた。人を縛るのが手慣れているというのは、どう考えてもおかしいのだが、そう思えたのだから仕方無い。

「よし、準備は整ったね。漸く始められるよ。よく、見てて」

男はそう言うと、頭を撫でてきた。細い指で、髪をすかれるように手をかけられ、ぞわり、と何かが這い上がる。嫌悪感。それしかなかった。

「愛結ちゃん。行くよー」

嬉々としたその声は、場にそぐわず、まるで遊びを楽しむかのようだ。男は金属バットを振り上げ、姉の背中を狙い、思い切り打ち付けた。姉は、う、と声を漏らし、恐怖に顔を歪ませている。見たことのない姉の形相は、何故か自分を捉えていた。それは責めるかのような視線で、目を逸らしたいのに、出来なかった。男の言葉に従う気など到底ないというのに、体が、筋肉が言うことをきかない。

「はい、もう一度ー」

男は今度は姉の腹を打ち付けた。母親が必死にロープをほどこうとしたので、足の拘束だけは解けていたのだ。剥き出しの腹に、金属バットが打ち込まれる。どす、と鈍い音がして、姉は苦痛以上の表情を浮かべた。そして間も無く、嘔吐をし、喘いだ。吐瀉物が床にぶちまけられ、すえた臭いが鼻につく。

近くでは母親が身動きが取れないまま泣き叫び、父親も必死に男に近付こうとしている。それでも父親はいつの間にかテーブルにくくりつけられていて、一歩も動けない。全てを見ているようでいて、何処か曖昧だった。もしかしたら、思っているより長い時間が経過しているのかもしれない。

「うわ、汚い。それに、五月蝿い。やっぱり親からにしよう」

男は姉の体を蹴り飛ばし、母親に向き直る。母親は姉への攻撃をやめてもらえたことに、少しばかり安堵しているようにも見えた。それでも、姉が殺されることは間違えようのない事実なのだろう。けれど、殺される我が子を目に焼き付けてから死ぬくらいねらば、せめて、先に死んでしまいたいと思うのか、母親は姉が痛め付けられているときよりも僅かに落ち着いた表情になっていた。

──ああ、愛されていたのだな。

不意に、過去形で感じた。

両親は、自分と姉に、惜しみ無く無償の愛を与えてくれていたのだ。今の今まで、彼らの愛を感じなかったわけではない。ずっと、感じていたが、これ程までに強く感じる機会など普通に生きていたらあるはずもないのだ。

彼らは、自分達は殺されてもいいから、それでもこども達だけは殺さないで欲しいと懇願し、行動に移そうとしてくれた。

──もっと、一緒にいたかった。もっと、愛して欲しかった。いつか、恩返しがしたかった。

途端に涙が溢れる。今後繰り広げられるであろう惨状を、避けることは出来ないのだと、嫌という程に理解してしまっているからだ。逃げる術もなければ、誰か助けを呼ぶ術もない。あるのは、崩壊しかないのだ。

幸せな日常の崩壊が、これから始まろうとしているのだ。

「簡単には死なせてあげないから、覚悟しなよ」

男は楽しそうに言いながら、リビングと繋がったキッチン部分へと軽やかな足取りで向かう。対面式のキッチンは、料理をしながら皆と過ごせる、と母親が喜んでいたものだ。以前住んでいたマンションはキッチンが孤立していて、出来上がった料理を運ぶのも一苦労だし、何より料理中、母親はキッチンで一人きりだった。手伝おうにも狭いキッチンを二人で使うのは無理があり、いつも料理が出来上がるのをリビングで姉や父と待っていた。そんなキッチンから、男は包丁を持ってきた。

買ったばかりだと記憶している包丁は滑らかに光を帯びている。尖端は鋭く尖り、蛍光灯の明かりを浴びて一点の光となっていた。

「はい、お待たせ」

家族中、既に気力を失っているのか、男が自分達から離れても、誰も動こうとしなかった。自分以外は簡単には動けないという状態なのもあるが、それでも声一つあげない。異様な空気だ。この、崩壊という空気に呑み込まれてしまい、正常な精神など消え失せているのかもしれない。

「何処からがいいですかー?」

男は包丁を弄びながら、体育座りのようになった母親の前にしゃがみ込む。細身の為、しゃがみ込むと大きくは見えない。実際、上背もそんなにはなさそうだ。

母親は眼前に掲げられた包丁に、ごくり、と唾を飲み込んでいる。何故、こんなにも鮮明に辺りが見えるのか。やはり、目を閉じることは出来なかった。

──その理由は、後から理解した。

母親の絶叫がリビングに響く。男が母親の右の脛に包丁で切れ目を入れたのだ。縦に、真っ直ぐ。ぴぃ、とまるで紙にカッターで切れ目を入れるように、躊躇なく。そこからは鮮血がじんわりと流れる。何故か、血が吹き出るのを想像していたので、何処か地味な映像に思えた。このとき既に、自分の精神は異常を来(きた)していたのだ。逃げもせず、家族達が痛め付けられるのを、観察でもするかのように眺めていたのだから、到底まともとは言い難いだろう。それもこれも、崩壊の空気のせいだ。

いきなり突き落とされた非日常。精神を狂わせるのに時間などさして必要ないのだ。

「ああ、五月蝿い。これでも入れとけよ」

男は母親の悲鳴を煩わしく感じたようで、テーブルの上にあった布巾を母親の口に突っ込んだ。母親は、もが、とくぐもった声だけを出す。

「五月蝿いの嫌いだから、あんた達もね。なんだ、最初からこうすればよかったよ」

ぶつぶつと言う男の姿は人間ではなかった。悪魔でもない。死に神でもない。化物でもない。もう、実体のない何かでしかなかった。

男はキッチンから二枚の布巾を持ってきて、父親と姉の口に、母親同様に突っ込んだ。二人とも手を塞がれているし、大きめの布巾だった為、吐き出すことも難しそうだ。

「はい、再開」

明るい声が再開を告げる。

男は今度は、母親の左腕に真っ直ぐな切れ目を入れていく。身動(みじろ)ぎされないよう、母親の体を自身の力で固定し、深めの傷を入れた。先程よりも、包丁を引くペースがうんと遅い。母親は切りつけられる間、痛みによるくぐもった悲鳴をあげ続けた。

「手首落とした簡単に死んじゃう? それとも、それくらいじゃ死なない?」

独り言のような科白。母親はやめてと言わんばかりに首を振る。腕からは真っ赤な血が、フローリングへと滴っている。細い傷からは、細い血の筋が出来ていた。

「でも、こんなもんじゃ弱いよね」

男は首を捻りながら、何かを考えているようだった。がたがたと、父親がテーブルを揺らしている。まだ、家族を守ろうとしているのだろう。それに男が眉間に皺を寄せ、舌打ちをした。

「五月蝿いの嫌いだって言ってんだろっ。何度も言わせんなよっ」

まるでこどものヒステリーのように時折叫び出す。男は父親へと歩み寄ると、顔面に膝をぶつけた。何処を狙うでもなく、何度も膝で父親の顔を蹴った。鼻、額、目、頬、と色んな箇所に当たっていく。が、が、と膝が当たる音なのか、嫌な音が耳にまとわりつく。

「大人しくしないと、お前から殺すぞっ」

男は叫びながら、何度も何度も父親の顔を蹴る。父親は漸く暴れる気力をなくしたのか、だらん、と頭を下げた。気絶しているわけではなさそうで、血で汚れた顔は目が開いていた。

「わかればいいんだよ」

吐き捨てるように言い、男は父親から離れる。

「んだよ、予定が狂うな。時間も掛かる」

男が苛々しているのが手に取るようにわかった。男はぶつぶつと、呟きを続ける。

「ゆっくり殺してやろうかと思ったけど、一気にやっちゃおうかな。それからのが楽しみなわけだし。こいつらヤるのなんて、パフォーマンスみたいなもんだし……」

聞こえた言葉に、ぞくり、と悪寒が走る。それからのが。彼らが殺された後に、何があるというのか。そしてそれは、自分に関することではないのか。何の予想もつかないが、嫌な予感だけはした。不吉な気配。

「でもな、あまりにあっさりだとな……」

男はぶつぶつと繰り返しながらも、母親の脇腹辺りを刺し続けていた。母親はずっと、うう、とか悶える声をあげている。それらは布巾に吸い込まれ、はっきりとは聞こえない。男の単調な動きは不気味だった。ずっと、母親の脇腹を刺し続けているのだ。

深くもなく、浅くもなく、ずぶ、ずぶ、と。

そして、脇腹を刺すことに飽いたのか、今度は包丁を首に当てた。

「此処を切ったら、一発だよね。でも、派手に血は飛ぶんだろうな」

嬉しそうな、楽しそうな声に変わる。母親は涙を止めどなく流しながらも、諦めた顔をしていた。虚ろな目は既に現実を見ていないように思えた。痛みと恐怖で心が壊れてしまったのだろう。あまりに呆気ない。

「まどっころしいの、少し飽きた。どうしようか」

男は言い、母親を蹴飛ばした。それでも母親は呻き声ひとつ出さない。どさり、とだらしなく倒れたままだ。それはもう、母親ではなく、ただの塊に思えた。

「しかも、もう抵抗もしないし。早いな。もっと泣き叫んでよ」

まるで壊れた玩具を見るような目付きだった。そしてそこには侮蔑も含まれている。男は母親に跨がると、母親の首に手をかけた。漸く、母親が反応を示す。とはいっても、抵抗をするわけでもなく、暴れるわけでもない。ただ、苦しそうに目を何度も瞬きをするだけだ。忙しない瞬きは、首を締める速度に比例しているように見えた。

力を込めれば瞬きの回数が多くなり、力を弛めれば瞬きは減る。男はその差を楽しんでいるようだ。はは、と笑い声を漏らしながら、母親の反応を喜んでいる。しかし、直ぐに飽きが来たのか、表情を固くしだ。そのとき、ぺき、と骨が折れる音が響いた。母親の瞬きは、それと同時に終了した。

何だか、モニター越しに映像を見せられているような気分だった。この惨状が、目の前で繰り広げられているものには思えなくなっていた。手足を椅子に固定され、見たくもない映像を無理矢理観賞させられている気分だ。

そんなふうに、味気ない、だけれど残酷で、残虐で、恐ろしく、不気味な映像は続けられた。

次の男のターゲットは父親だった。

父親はテーブルに固定されたまま、最初は何度も足を金属バットで殴られていた。何度も、何度も、何度も。その度に父親は体を跳ねさせた。きっと、相当痛かったのだろうと思う。両足の脛を、力強く、何度も金属バットで殴られたら、きっと骨は砕けただろう。やがて、痛覚が麻痺したのか、父親の体は跳ねなくなった。

すると男は今度は肩を殴り続けた。やはり、金属バットで。まるで何かに打ち込むように、数を数えながら。いーち、にーい、さーん、と陽気な声と金属バットが肩に当たる音がリビングに響き渡る。がす、とか、ばす、とか初めて聞く音に混じって、ぱき、という音もしていたと思う。

朧気な記憶に焼き付いているのは、奇妙な音達と、血の臭い。母親から流れ出た血の臭いがリビングに充満していた。しかし、何時しかそれには慣れてしまう。あんなに鉄臭く、あんなに生臭かったのに、鼻は慣れた。

逃げる隙なんて、幾らでもあったと思う。体を縛られていたわけでもないし、リビングの扉を塞がれていたわけでもない。なのに、体は動くことをせずに、目を塞ぐことも出来ない。ひたすら、繰り広げられている惨状を、まるで脳に、心に記憶するかのように眺めていた。──そう、記憶していたのだ。一生懸命、録画するかのように記憶していた。

──ふと、トイレに行きたくなった。どれだけの時間、惨劇が続いているのかは定かではないが、これまで尿意すら覚えなかった。全神経が麻痺してしまっていたのだろう。それでも漏らしている、ということはなく、唐突に激しい尿意に襲われた。感覚が戻ってきているのだろう。

男は父親の肩を殴るのにも飽きたのか、次は何をしようか迷っているようだった。

──頭が悪いのかな。

それとも、人を痛め付けることに慣れていないのか、男の拷問に似た行為のレパートリーは酷く貧弱だった。切ったり殴ったり。そんな程度のことしかしないのだ。それとも、内容などどうでもいいのだろうか。ただ、思い付く限りに痛め付けて殺せればそれでいいのか。

「どうかした?」

尿意を我慢出来ずに身動ぎをすると、男が目敏く気付いた。緩慢な動きでこちらを見る。

「……トイレに、行きたい、です」

何だか酷く場違いな科白。静かな教室で、教師に向かって告げているようだ。皆の視線を感じながら、少し恥ずかしくて、それでも欲求の方が勝ってしまうとき。

「いいよー。トイレ、何処。連れていってあげる」

恐らく、逃げようとするのを防ぐ為なのだろう。頷くと、男は金属バットを放り出した。からん、という音がする。男に手を引かれる。ごつごつとした手だった。見た目は細いのに、触るとしっかりとしていた。

一歩リビングから出るなり、途端に現実へと引き戻された。いつも見ている廊下。視界に入る限界が、日常を思い出させたのだ。足元から嫌悪が込み上げ、背中に恐怖が張り付く。気味の悪さが粘りけを持って、足枷のように動きを鈍らせる。

此処は、まだ現実だ。リビングのように、地獄と化していない。だからこそ、恐怖を再確認させられたのだ。麻痺などしていない。まだ、していないのだ。

「うわあぁぁぁっ」

勝手に口から悲鳴があがった。がたがたと全身が震え、開いた口は閉じることを知らない。ひたすら、恐怖が全身を取り巻く。途端に芽生えた本当の恐怖心というものは、留まることを知らずに沸き上がる。不意に逃げ出したい衝動に駆られ、男の顔をちらりと見た。まだ、様子を窺う余裕はあったのだ。

男の視線と、自分の視線とが交わる。男は厭らしい笑みを浮かべていた。

「トイレは?」

地の底から這うような声で訊かれ、震えながらも頷いた。すると男はにジャマの襟元を掴むと、乱暴に目の前まで迫ってきていたトイレに放り込まれた。あまりに一瞬の出来事に何が起きているのか理解が追い付かなかった。そして、自分を支配している恐怖というものの大きさにも耐えられていなかったのだ。

がちゃん、とトイレの扉を閉められ、何を思ったのか用を足した。そして直ぐに、トイレの扉を開けようとする。未だ全身は震えていたが、それは大きなものでなく、小刻みなものへと変わっていた。落ち着いたわけでも、冷静さが残っているわけでもない。これが、普通でない状態というやつなのだ。

トイレから出ようとしたが、出られなかった。どんなにドアノブを回してみても、扉を押すことが出来ない。恐らく、向こう側に何かを置かれているのだろう。がちゃがちゃと、何度もドアノブを回しながら、全体重を掛けてみるが、それでも扉はびくともしない。

今だというのに。あの男が側にいない今が逃げ出すチャンスなのに。焦りから、手汗をかき、ドアノブを握る手が滑る。それをパジャマで拭き、また試す。何度そうしていただろうか。それでも扉が開くことはなく、はあはあと息が上がっただけだった。

もう一度だけ。逃げることを諦めきれずに唇を噛み締めたそのとき、がたがた、と扉の向こうで音がし、体を震わせた。

──戻ってきた。

また、あの男の気持ち悪い顔を見なくてはいけないのだ。また、あの男が家族を痛め付けていくところを見なくてはいけないのだ。自然に涙が溢れ出す。

「お待たせ」

ばん、と扉が開いたとき、意識を保っていることは難しかった。


とてつもない異臭に目を覚ました。思わす鼻を塞ぎたくなり、そのとき初めて腕が動かないことに気付いた。いや、腕だけではない。全身の動きが封じられていたのだ。

「起きたー?」

呑気な声色を聞き、一気に覚醒した。目覚めたばかりの脳は、親切なことに全てを忘れさせてくれていたというのに、男の声を聞いただけで、それらは一瞬にして蘇ってきたのだ。

慌てて体を動かすも、芋虫のようにされたそれではもがくことしか出来ない。

──逃げなきゃ。

咄嗟に浮かぶ言葉も、動きが封じられているせいで敵わない。それでも、と身を捩った先に見えた光景に驚愕した──。

黒かった。

リビングに撒き散らされた液体は赤黒く、なんとも言えぬ異臭を放っていた。その中に転がるのは、比較的崩れていない姿の母親。しかし、覚えている姿とは違い、全身が血に染まっていた。

「あれね、血を出す為に全身を刻んであげたんだ」

男が自分の固まった視線に気付いたのか、嬉しそうに説明をしてきた。

そして、母親の直ぐ隣に転がされたのは父親だろう。手足が完全に潰れている。腕も、足も、だらんとし、何処と無く柔らかそうに見える。それでもって、その手足は、胴体とはくっついていなかった。

「物置にね、のこぎり、あったでしょ? あれで斬ったんだけど、疲れたよ。もう、へとへと。なかなか起きてくれないから暇だったんだよね」

科白と声色が全く合っておらず、相変わらず不気味さだけを漂わせていた。嬉々として説明することではない。寧ろ、説明自体いらぬものだ。手足と胴体が離れた父親の姿は、まるで壊れた玩具だった。表情はなく、虚ろな目だけが何処かを見ている。

「最後はね、あれだよ」

男はそう言って、変わり果てた両親から少し離れたところを指差した。指先の動きにつられてそちらに視線を向ける。するとそこには、姉の姿があった。

姉は、関節の全てが有り得ない方向に曲がっていた。肘も膝も、手の指も、頭も。全てが本来と逆方向に折れている。それは、昔観た公共放送でやっていた人形劇のマリオットを思い出させた。

「子供は簡単に折れるよね。一番楽だったかも」

男はくすくすと笑った。

もう、何を感じればいいのかわからなかった。怒り? 憎しみ? 恐怖? 嫌悪? 全ての感情が入り雑じり、全ての感情が失われていく。哀しみも、絶望も、何もない。そこにあるのは、やはり崩壊だけだった。

血塗(ちまみ)れの惨状はリアルでもあり、非現実的でもあった。受け入れることも出来れば、拒否する気持ちも生まれる。リアルだと思えるのは、嗅覚のせいだ。血腥なまぐささが鼻腔を刺激してくるから。

「さあて、メインイベントの始まりだよ」

男は言いながら、近寄ってきた。

──話が違う。咄嗟に思った。殺さない、と言ったのに。だというのに、男は手に包丁をしっかりと握り締めていた。血に濡れたそれは、母親を刻んだものと同じものだろう。血は既に固まっていて、黒く変色している。

「大丈夫。殺したりしない。怯える顔を見せてくれるだけでいいんだ、よっ」

声にならなかった。何が起きているのか理解すら出来ない程の痛みが太股に走る。悲鳴をあげることすら不可能な衝撃。包丁を太股に食い込まされたのだ。刺されたとは違う。言葉通り、それは太股に食い込んでいる。食い込んでいるそれを、ぐり、と捻られた。

「が……あぁ」

ぎち、と肉が内部で切れる音がする。ぶちぶち、と細かい何かが裂かれるような感覚だ。痛みを通り越した痛み。鋭い先端は尚も内部で動く。くるくると、簡単に回りはしないので肉を断ち切りながら動く。

「痛い?」

勝手に涙が溢れる。太股を攻撃されているはずなのに、全身に痛みが回っているような感覚だった。何時までも一店を突かれ、抉られる。

「は……あ、あ。うぅ……」

痛みに漏れるのは苦痛の声と唾液と涙。手足を縛られているので、身悶えも満足に出来ない。ひたすら、ひたすら同じ箇所を突かれる。

「痛いんだね? 痛いよね?」

男は痛がる自分を見て至極嬉しそうに笑っている。そして、動きに拍車を掛けた。更に、強い力で包丁を動かされる。ぷち、だとか、みち、だとか変な音だけがする。悶絶する痛みがずっと同じ箇所から全身へと響く。自らその場所を見る勇気もなく、目をきつく閉じた。額に脂汗が浮かぶ。

「これ以上やると、筋組織が切れちゃうかもしれないからやめておこう」

不意に包丁を抜かれた。その瞬間、今までとは違う、熱い痛みがきた。瞬時、火を押し付けられたような痛みだ。

しかし、漸く解放された攻撃に安堵の息を吐く。無論、傷付けやれた部分はまだじわじわと痛むが先程までと較べれば大したことはなく感じられた。初めてする呼吸の仕方に肺と気管支と喉が痛くなる。それでも呼吸は正常には戻らない。

「次はね」

柔らかな声に、目を見開いた。まだ、次があるのだ。何処かで、先程の行為で終わりだと決め付けていた。殺さない、という男の言葉を信じきっていたのだ。

「ここでーす」

男は右腕に包丁を当てる。何をされるのかわからずに、必死に身を捩る。先程とは包丁の当て方が違うのだ。突き刺す形ではなく、腕に沿って刃の部分を当てているのだ。

「そう。そうだよ。もっと怯えて」

男は言いながら、体を抱えてきた。首に男の息がかかり、吐きそうになる。全身を舐められるように気持ち悪い。

「や……やめて、下さい」

震えた涙声で訴えるも、男はそれに更に嬉しそうにした。

「怖いんだね?」

ふふ、と笑った吐息が今度は耳にかかる。ぞくり、と全身に鳥肌が立ち、体が震える。刃物はゆっくりと、滑らかに肌に下ろされた。気付けばパジャマの上を脱がされている。室温は寒くはないのに、体の芯は冷えている。手足は触れられずとも冷たいであろうことがわかる。なのに、肌に当てられた包丁はもっと冷たく感じた。まるで氷を押し付けられているかのようだ。

く、と包丁の向きが斜めに変わる。刃先が肌に軽く食い込むが、弾力を感じるだけでまだ痛みはない。ぞわぞわと、腹の奥が疼く。いてもたってもいられないような感覚が込み上げた。

「い……嫌だ。嫌だ嫌だっ」

口からは拒絶の言葉だけが吐き出される。それに呼応するように刃先が肌に差し込まれ、熱い痛みが襲う。ぐい、と力を込められれば痛みが増し、その動きを止めたいのに体を固定されているせいで何も出来ない。

逃げたいのに逃げられない恐怖。されるがままにしかなれない。どうにもならず、ひたすら怯えるしか出来ない。やめてくれと泣きながら懇願することしか出来ないのだ。

「嫌だあぁぁっ」

己の悲鳴が脳内に木霊する。

「うわあぁぁぁぁ」

暴れ出したい程の痛みが体内を貫く。

肉を削がれた。皮膚ではない。肉だ。

痛みにもがきたいのに、傷口を押さえたいのに、それすらも許されず、押さえ込まれていた。焼けるような痛みと、出血していく感覚がよくわかる。そこだけに無理矢理意識を集めさせられていた。

「あぁ……」

剥き出しの組織がひりひりと熱を持って痛む。ずくずくと、血管が拡張する気がし、鼓動が強くなる。どん、どん、と打ち鳴らす心音だけが聞こえる錯覚すらした。

到底、理解など及ばない。何故、自分がこんな目に遇っているのかを考える余裕すらない。そして、そんなことを考えたところで意味はない。考えて、わかったところで、この状況を回避出来るわけでもないのだ。

「…………っ」

不意に、とてつもない感覚に襲われ、息を呑んだ。あまりの痛烈さに声すらも出ない。剥き出しだった肉に触られたのだ。しかも、指でなぞられたのだ。

「痛いんだ」

痛みでがたがたと震え出すと、歓喜の声を出された。奥歯が上手く噛み合わず、がちがちとなる。うっかりすると舌を噛みそうだった。その様子に喜んだ男は、更に傷口を触り、なぞり、つつき──爪で抉った。

声にならない悲鳴か漏れる。

何ヵ所抉られたのかもわからない程、長い時間に思えた。


「ふぅ…………っ」

強烈な痛みで目が覚めた。

「は…………ぁ」

手足は未だ封じられ、何処が痛いのかすらわからない。

「おはよー。勝手に寝ちゃ駄目だよ」

男の言葉で意識を失っていたことを知る。そして、漸く痛みの箇所がわかった。

──背中だ。

背中を勢いよく切りつけられたらしく、痛みが酷い。右から左にかけ、斜めに痛みが走っている。痛みに堪えられずに転がると、背中がフローリングを擦り、更に違う痛みを与えられた。今度は慌てて丸まってみるが、するとそれはそれで傷が裂けるように痛む。

──誰か誰か誰か。誰か助けて。

誰にも助けてもらえないことなどわかっているのに、心の中で必死に叫ぶ。そこで初めて部屋が真っ暗なことに気付いた。男の気味の悪い顔を見なくて済むのは有難いが、視覚を奪われると嗅覚が発達する。それは、異臭を強く感じるということ。家族の腐敗の臭いがまとわりつく。そして、全身が敏感になる。

暗闇は男の顔を隠してはくれるが、男の行動までも隠してしまう。何処にいて、何を持っているのかもわからないのだ。

──痛い痛い痛い。

頭が覚醒する毎に、背中と、肉を削がれた部分の痛みが増す。最初に傷付けられた太股の痛みなど気にならない程にそれらが痛んだ。痛くないはずはないのだ。本来は痛いはずなのに、更に痛い箇所が生まれれば、些細な痛みに変わり、いずれは痛みすら忘れる。

肩で息をし、はあはあと喘ぐ。涙が溢れ続け、唾液が垂れる。まだ三ヶ所。たったの三ヶ所傷付けられただけ。それなのに全身が痛い。

「はい。次だよー」

暗闇からぬ、と声が聞こえる。方向感覚が狂い、何処に男がいるのかすら判別がつかない。逃げ惑い、体を動かす度に傷口が何処かに当たり、また痛みに呻く。それでもどうにか逃げようとする。

「熱いっ……」

脹ら脛に猛烈な熱さを感じた。逃げようとしていたせいで気付かなかったのだ。男がライターを手にしていることに。

「痛いっ。熱いっ」

かち、かち、といたぶるように何度も脹ら脛に火を点けられる。一瞬ずつだというのに妙に熱く、肉の焼ける厭な臭いが鼻につく。

「やめて……もう、やめて下さい……っ」

じりり、じり、と焼かれ、笑い声が聞こえる。くくく、と堪えたような笑い声がもう逃げられないことを教える。それでも、火を当てられる度に足を跳ねさせる。

「あはは……あはははははははは」

狂ったような笑い声が、精神を狂いに導く。

脳内には、つい昨日までの楽しく、幸せだった家族の様子がまるで走馬灯のように浮かぶ。皆で旅行をしたとき、叱られた後母親が抱き締めてくれたこと、姉のゲームの取り合いで喧嘩したこと、動物園で父親に肩車をしてもらったこと。たった十年の日々。物心ついてからはもっともっと短い。それでも、幸せだと思った。毎日が楽しかった。もっと、もっと一緒にいたかった。もっと、もっと家族で笑いあいたかった。なのに、なのに何故こんなことになっているのだろう。

何故、家族達は見知らぬ男に殺され、何故、自分は見知らぬ男から拷問に似た行いをされているのだろう。

こいつは誰なのか。何故、こんなことをするのか。

疑問と恐怖とがない交ぜになり、錯乱状態になる。決して解放されることのない地獄が永遠に続くように思えてならなかった。

何度も何度も焼かれ、次には何度も何度も火の点いた煙草を首に押し付けられた。ライターの火とはまた違う熱さと痛み。何度も何度も声をあげる。その度に楽しそうな笑い声が耳に届く。

脹ら脛がじくじくと痛み始めるも、触れることも出来ない。首も同じように痛み始める。

失神と覚醒を何度も繰り返す。気を失っている時間が長いのか短いのかもわからぬうちに、痛みと己の咆哮で覚醒をする。水だけ与えられ、叫び過ぎて喉が切れたのか、口内には血の味が広がる。

──顔だけは攻撃されなかった。

数ヶ所肉を削がれ、切られ、焼かれた。体の全てを傷付けられたように思える。腕も、足も、胴体も、首も、手も、指も。傷が付いていないところはないのではないか。

──殺して。お願いだから殺して下さい。

そう思えた。いっそ、一思いに殺してもらった方がどんなに楽か。いっそ、死んでしまいたい。

化膿した傷達が疼き、熱い。傷だけでなく、体自身も熱を含んでいた。それでも抗生剤と解熱剤らしき薬と大量の水を与えられ、生き延びさせられていた。

男は本当に自分を殺す気はないようだった。大量に血が出るような行為はしないし、殴ることも、首を締めることもしなかった。ただひたすら、体を傷付けてきた。

もう、体は動かない。鉛のように重い体と頭。動きをなくしたせいか、拘束は解かれていた。自由に動く体を手に入れても、それでも体は動かない。逃げる気もとうに失せていて、ひたすら殺してくれることをだけを願った。

殺して下さい、とお願いしたことがあった。あれは、何回目の覚醒のときだったか。臍の辺りを焼かれ、柔らかい皮膚が焼かれる痛みは半端なものではなく、泣きながらお願いした。こどもの口から出る科白ではなかった。

泣きながら、殺して下さい、殺して下さい、と大声で叫んだ。けれど、男は笑った──。

何度、男の笑い声を聞いたかわからない。しかし、そのときの男の笑い声が、その中で一番満足に満ちたものだった。愉快そうでもなく、楽しそうでもなく、満足に満ちていた。

そして、願いは叶わなかったのだ。

殺して下さいと願っては、暗闇に慣れた目で、塊と化した家族を目にしては死にたくないと願う。それの繰り返し。

──もう、既に本当の意味で精神は異常を来していた。

だって、こんな状況で死にたくないと思えるのだ。体中が痛くて、熱くて、助かることなどあるはずないと思えるのに、まだ生きたいと思うのだ。生きていたって、痛いだけなのに。舌を噛みきれば死ねる。そんな知識だってあった。自由になった手足ならば、包丁で自分の喉を掻き切ることだって出来た。それなのに、自ら死を選ぶことはしなかった。

死ぬ気力や体力がなかったわけではない。死にたくないないという想いが強かったのだ。死にたくはない、でも、殺して下さいと願うときもあった。

強烈な痛みを与えられているときは、殺して欲しくて仕方無かった。そのまま、包丁をずぶりと心臓に突き刺して、首を捻り上げて、殺して欲しいと願った。しかし、攻撃から解放されると、家族の死骸を見ると、死にたくないと願った。あんなふうにはなりたくない、と思うのだ。ただの肉塊にくかいには成り果てたくなかった。

「そろそろ、傷付ける場所がなくなってきたよ」

もう何度失神と覚醒を繰り返したのか、幾日が経過したのかも何もかもわからなくなった頃、男が寂しそうに言った。それもそうだろう、胴体は幾箇所も焼かれ、カッターや包丁で切り込みを入れられ、腕も足も同様だった。腕と足については肉も削がれている。後残るのは、顔と骨だけだ。顔は相変わらず無傷だし、骨も何処も折られていない。彼なりの拘りなのだろう。それの意味など、どうでもよかった。

傷付ける場所がない。ならば、この行為は終わりを迎えたのだろうか。そんな考えは甘いということを直ぐに思い知らされた。

男はいそいそと、足に手を伸ばした。何をしようとしているのか、想像もつかない。

「爪を剥がしながら、答えを教えてあげようね」

失ったはずの抵抗感が一気に蘇ってきた。散々痛め付けられ、抵抗する気などなくしていた。それでも痛いものは痛いし、熱いものは熱かった。しかし、暫く耐えれば壮絶な痛みは去ることを学んだのだ。傷付けられた後だって勿論痛いが、痛がれば痛がる程に攻撃が増すことにも気付いていた。

なので、声を圧し殺し、唇を噛んで痛みに耐えていた。けれど、違う。これは、違う。

肉も削がれるのだってとてつもない痛みだし、切られるのだって強い熱さの痛みが全身を走り抜けるし、焼かれるだって跳ねる程に痛い。それでも、爪を剥がされる痛みというのは、想像を絶するものだということを知っていた。

実際に爪が剥がれたことがあるわけではない。ただ、いにしえより続く拷問の一種だということを知識として持っていたのだ。それに、爪は十枚ある。足だけで、十枚。手も入れたら二十枚だ。それらを全て剥がされることを想像すると、既に嗄れきり、擦りきれた喉を震わせないわけにはいかなかった。

およそ自分のものとは思えぬ声が喉からあがる。まるで獣の咆哮のようなそれに、男は嬉しそうにした。そして、ゆっくりと足を掴む。逃げたいのに体に力が入らない。全身に力を込めてみるが、簡単に取り押さえられる。それでも必死にもがいた。けれど実際は殆ど動けていないのだろう。掴まれた足が解放されることはなかった。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ。やめて……やめて下さいっ。お願いだから、やめてっ」

がらがらと鳴る喉で懸命に訴える。弄ぶように右足の親指を触られた。男は右手に何かを持っている。それが、工具箱にあったペンチだということは暗闇に慣れた目でははっきりとわかってしまう。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ」

振り絞るような声で叫ぶ。涙がとめどなく流れ、体の震えも止まらない。じわりじわりと、男は右足の親指を掴む。そして、そっと爪に触れた。全神経をそこに集中させたように、他の感覚が失われる。

かち、と爪を挟まれた。

「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ」

言葉に置き換えることの出来ない苦痛。叫びは止まらず、勝手に喉から漏れる。だらしなく口を開き、震えた声を出し続けた。痛い、という感情すらなかった。体をびくつかせ、跳ねさせ、震えた。

「あのね、君と初めて会ったのは、駅前のコンビニなんだよ」

男は今度は左足の親指を触る。振り払おうにも体力は残っておらず、それに、初めて知る痛みに体は自分のものではないようだった。はあはあと、呼吸をあらげ、小さな呻き声を出し続ける。

「君は、お母さんとお姉さんと買い物に来たよね。ほら、アニメのくじを引いたの、覚えてる?」

話を聞いている余裕などないはずなのに、男の声はしっかりと耳に届き、脳で理解していた。

「可愛いと思ったんだ。大きな瞳に、さらさらの黒い髪。きらきらとした表情。本当に可愛かった」

ばり、と衝撃が走った。また、悲鳴があがる。動ける範囲で上半身を捩り、腕をばたつかせた。傷口を床に打ち付けてはいるが、そんな痛みなど爪を剥がされることに較べたら些細なことで、その痛みを紛らすことすら出来なかった。

「僕ね、そんな可愛い君に一目惚れをしたんだよ」

また、剥がされた。

──何で。何で何で何で何で何で何で。

何故、こんな目に遇うのか。それは、自分のせいなのか。誰でもなく、自分だから。だから、家族を殺され、こんな目に遇わなくてはいけないのか。

──違う。違う違う違う違う違う違う。

違う。自分のせいじゃない。そんなのは違う。

突き抜けるような痛みはどんなに悲鳴をあげても、どんなに暴れても止むことはない。

「だからね、君に僕を刻もうと思ったんだ。それに、可愛い君の怯えた表情を見てみたくなってしまったんだよ」

歪んでいる。狂っている。

四枚目が剥がされる。頭がおかしくなりそうだった。三枚は立て続けに剥がされ、四枚目までは少し感覚を置かれた。どうせやるなら一気に全てを剥げばいいものを、と思う。おかしくなりそうではない。おかしくなっているのだ。

蛇の生殺しのようにストレスを与えられるのならば、一気にやって欲しいと願うなど、とうにおかしくなっている。

五枚目はいつくるのか。痛みと怯えを抱えながら、足をもばたつかせた。風が生々しい爪の剥がれた場所を撫で、染みるように痛む。

「ねぇ。僕のこと、もう、忘れられないでしょう?」

忘れてやるものか。忘れたくとも忘れられないわけではない。一生、覚えていてやる。ずっと、記憶に刻んでやる。忘れろと言われても忘れてなどやらない。

憎しみが芽生えた。それは、ここにきて初めての感情だった。

五枚目を剥がされたそのとき、もう一度絶叫した。

「これはね、罰なんだよ。僕を狂わせたのは、君だ。君を想うと、眠ることすら出来なくなった。だから、その罰を与えているんだよ。君に僕を刻むことで、僕の心は癒えるんだ」


「……痛い……痛い……痛いよ 」

足の爪は全て剥がされた。指先がぷるぷると震えている。痺れたように足全体が妙な感覚だった。少し足を動かせば風を感じてひりひりとした痛みが走る。少しでも指を曲げれば重力がかかって痛む。

「痛い……痛い」

譫言うわごとのように繰り返した。上半身をどうにか少し起こし、右肘をついて、ずり動く。

「痛い……痛いよ」

それしか言えない壊れた人形のように繰り返す。もう、足に剥がす爪はない。後、残るのは手の指だけ。そこまで爪が剥がされてしまったら、一体どうなってしまうのだろう。痛い、と繰り返しながら男から必死に距離を取ろうとした。

「大丈夫。逃げなくても、手の爪は取らないよ」

男が優しく言い、頭を撫でてきた。

──触るな。

「痛い……痛いんだ……足が……痛い」

それでも、口から出るのはその言葉だけだった。それ以外、何も考えられなかった。精神は崩壊する寸前だったのだ。

「そんなに痛かったんだね。そうか」

男は頭を撫でながら言い、ぴたりと手を止めた。それでも口から漏れるのは、痛い、という言葉だけ。

「じゃあ、伸びてきたら、また剥がそうね」

在り来たりな表現だが、ぷつり、と何かが切れた。

伸びてきたら、また、剥がす。

頭の中でその言葉を繰り返す。伸びてきたら、また、剥がす。伸びてきたら。また。剥がす。

──伸びるのって、いつ?

それまで、ずっと、こうしているの? そして、爪が伸びたら、また、同じように剥がされるの?

限界を超えた。


奴が寝ている姿に、初めて気付いた。今まで、気付かなかったわけではなく、自分が失神している間に寝ていたのだろうと思う。それに、興奮からか、殆ど寝ないでも大丈夫な状態だったのだろう。

一通りやりたいことを終え、譫言を繰り返す程に壊れた自分を見て、多少なりとも満足感を得て、眠気が訪れたというとこだろうか。絶望から動けなくなった自分を、失神したのだと勘違いし、眠りについたのだろう。

もう、失神などしない。出来ないのだ。神経は過敏になり、眠ることすら不可能だ。きっと、睡眠薬を飲んでも眠れないだろう。

奴の寝息が聞こえる。薄暗い中で、奴に近付く。痛みから立ち上がることは困難で、赤ん坊がはいはいするように移動した。それでも、足の指先が床を擦らないように注意を払った。とはいえ、今ならば痛みなど微塵も気にならなそうだった。

そろそろと、音を立てないように近付く。規則正しい寝息から熟睡しているであろうことは予想出来たが、それでも細心の注意は必要だった。決して気付かれないように。

ゆっくり、ゆっくりと近付く。不思議と緊張などはなかった。心臓も、穏やかに脈打つだけだ。

奴が常に近くに包丁を置いているであろうことは予想出来た。いつでも、握れるようにしているのだ。愛する相手を刻む為に。

手を床に這わせ、静かに包丁の有りかを探る。すると、直ぐにそれは見付かった。指先に、包丁の柄が触れる。

母親に、何度か握らせてもらったことがある。切ったのは、葱だった。固くもなく、柔らかくもないもの。危なくないものだ。母親は隣で笑顔を浮かべて拙い手付きを見守ってくれていた。

そのときと、今の気持ちは天と地程の差がある。温かな気持ちと、冷めきった気持ち。

逃げるとか、解放されることなど、もう望んではいない。逃げられないことも、解放されないことも知っている。

ならば、与えるしかないのだ。

すう、と全身が冷めていく感覚がした。血の気が失せたわけではない。心が、脳が冷静になっていく感覚。

包丁の柄をしっかりと握り、上半身を起こした。

寝ている奴の顔を見下ろす。電気が消えていることを残念だと思った。自分の影で、奴の顔が見えない。きっと、安からな顔をして眠っているのだろう。

すう、すう、という寝息は姉のものを思い出した。日曜日、昼寝をしている姉は、いつも気持ち良さそうな寝息を立てていた。それを父親が幸せそうな表情で眺めていた。

もう二度と、穏やかな日常は帰ってこない。逃げても、解放されても、元には戻らないし、元には戻れないのだ。

ならば、仕方無い──。

「……これはね、罰なんだよ。僕を傷付けて、壊した君に、罰を与えているんだよ。だって、こうしないと、僕の心は癒えることはないから、ねっ」

ぶつり、と血飛沫が飛び散った。顔に、半裸の体に血が吹きかかる。生温い、鉄の臭い。

こうして、終わりを迎え、始まりも迎えたのだった────。

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