016・私と代わって

「きゃぁああぁ!」


 空羽の右腕に抱えられた七海が恐怖の悲鳴をあげ、都内某所の住宅街に響き渡った。


 すでに戦場は路地裏ではない。敵の攻撃が七海に集中しだした途端、空羽が押され始め、戦線が徐々に後退。ついには路地裏から押し出されてしまったのだ。


「この!」


 空羽、後退しながらも左手で三連打。接近してきたイナゴ三匹をほぼ同時に粉砕する。


 だが——


「っく、手数が!」


 そう手数が足りない。更に二匹のイナゴが毒針を振り翳して突撃してきた。空羽は七海共々右に跳躍し、その突撃をやり過ごす。


「ご無事ですか、七海さん!?」


「は、はい! なんとか!」


「そうですか! 申し訳ありませんが、もう少し辛抱願います!」


「わかりました! で、でもすみません! 私、思いっきり足手纏いですよね!?」


「そんな展開、七海さんを助けると決めたときから想定済みですので、お気になさらず! ただ——」


「ただ!? 何ですか!?」


「この展開は想定……想定内なんですよねぇ……ああ、テンションが下がる」


「下げてる場合じゃありません! 大ピンチですよ!」


「心配ご無用。過程がどうであれ、最後に勝つのはこの僕です」


 不敵な笑みを浮かべ、自信に満ちた声でピンチを笑い飛ばす空羽。その声からも、彼がまだ敗北を意識していないことがわかる。


 しかし——


「あははは! さっきまでの勢いはどうしたのよ!? 防戦一方じゃない!」


 そうなのだ。空羽は、反撃の切っかけを一向に掴めていない。


 七海を標的にして、延々攻撃を繰り返す樹梨と巨大イナゴ。それだけで空羽の行動は七海の防御に限定され、攻撃を封じられてしまうのだ。そして、空羽が攻めあぐねているうちに眷属版のイナゴが量産され、敵の手勢は際限なく増えていく。すでに巨大イナゴの背後には、戦闘に加わっていない予備戦力のイナゴが大量に飛行していた。


 時間が経てば経つほど不利になっていく空羽たち。このままではじり貧である。


「お仲間は助けにこないんですか!? 契約した悪魔はまだいるんでしょう!?」


「きませんね、連絡手段がありません。想界は、次元を隔てて存在する異空間。外側との意思の疎通は不可能。もちろん、想界を一時的に消すなんて選択肢は論外です」


「ならデカラビアさんは!?」


「イナゴの毒に侵された体では、想界の維持でいっぱいいっぱいのようです。戦闘なんてとてもとても」


「八方塞がりじゃないですか!? どうするんです!?」


「むう、確かにこのままだと少々まずいですね。七海さん、勝利のために賭けに出ますよ」


「え? わ!?」


 空羽は一方的に会話を終わらせると、七海を無遠慮に地面に放り出した。そして、七海の姿を樹梨と巨大イナゴから隠すように陣取ると、制服の胸ポケットから何かを取り出し、それを仰向けに倒れている七海に向けて、背中越しに放り投げる。


「受け取ってください。約束の三日間を生き延びることができたら、七海さんに渡そうと思っていたものです」


 空羽の口から放たれた、この上なく真剣な声。その声を聞きながら体を起こし、七海は空羽から放られたものを受け止める。


 七海の手中に納まったそれは、直径一センチ、長さ五センチほどの、円柱状の小瓶だった。中には黒い液体が湛えられている。


「な、なんです? これ? この黒いの?」


「簡単に言うと、アモンの体の一部です」


「ふえ? アモンさんの?」


「はい」


「こ、これを私にどうしろと?」


「飲んでください」


「ええ!?」


 自身の置かれている状況を忘れ、小瓶の中身、アモンの体の一部だというそれを、マジマジと観察する七海。


 黒い。あまりに黒すぎる液体だった。


 この世に存在する負の因子、それらすべてを凝縮したかのようであり、毒か薬かと問われれば、百人中百人が毒と答える。そんな液体。


「なんで私がこんなものを!? アモンさんの体なんて飲まなきゃ——っ!?」


 生理的嫌悪感に突き動かされて、拒絶の言葉を口にしながら視線を空羽へと戻す七海。すると、両手両足を目にも止まらぬ速度で動かし、七海の防御に全力を注ぐ空羽が目に飛び込んできた。気力、体力を振り絞るその後ろ姿に、七海は言葉を詰まらせる。


 すでに振り返る余裕もない空羽は、七海の疑問にこう答える。


「アモンが七海さんの血液を摂取した際、繫がりができたのは知っての通りです! ですが、それは『御柱七海からアモンへ』の繋がりであって、一方通行にすぎません! 現状、七海さんはアモンから想力供給を受けられない!」


「え……」


「七海さんがアモンから想力を受け取るには『アモンから御柱七海へ』の繋がりを作る必要があります! そのためには、七海さんがアモンの体を体内に取り込むことが絶対条件です!」


「つ、つまりなんですか!? 今この場で、私にその繋がりを作って、想力師になれと!?」


「理解が早くて大変助かります!」


「そんな、無理ですよ! いきなり想力師になれだなんて!」


「大丈夫です! 想力師には小難しい呪文の詠唱や、魔法触媒だのステッキだのは要りません! 昨晩お話しした通り、イメージというフィルムに、想力という光を当てて、世界というスクリーンに投影する! これだけです!」


「こ、これだけって……できない! 私、空羽さんみたいに戦えない!」


 命を懸けた戦いなど、七海には縁遠い話だ。自己暗示が使えればどうにかなるかもしれないが、とてもじゃないが使える精神状態じゃない。今の七海は声優であること以外はただの女子高校生。はったりを駆使しての時間稼ぎならともかく、想力を使っての実戦など、無謀以外の何ものでもない。


 御柱七海は普通の人間。かつて七海の中に存在していた別人格、アニメのキャラクターたちとは違うのだ。


「一緒に戦えとは言ってません! 想力を使って、僕がイナゴに特攻する切っかけを作ってくれればいいんです!」


「無理! 無理です! できっこありません!」


 戦闘への恐怖。自身が変質する恐怖。想力への恐怖。樹梨への恐怖。アバドンへの恐怖。イナゴへの恐怖。そして、何よりも死の恐怖。


 今の今までどうにか抑え込んできたそれらが、七海の中でついに爆発した。


 両手で頭を抱えて蹲り、思考を停止。外界との繋がりを可能な限り絶つ。


 もう、何も聞きたくない。もう、何も見たくない。


「……いいんですか?」


 縮こまった七海に空羽の言葉が降り注ぐ。先程までの余裕のない声ではない。どこか冷たい、七海を責めるような声。だが、七海は空羽の声に反応を示さず、ピクリとも体を動かさない。


 聞こえない。私は何も聞こえない。


「本当にいいんですか?」


 聞こえない。何も聞こえな——


「明日のアフレコ、参加できなくてもいいんですか?」


「ふぐぅ!?」


 縮こまっていた七海の体が、拒絶反応を起こしたかのように激しく震えた。そして、更に空羽はこう続ける。


「今日、ここで死んだら、『ベリーベリーベリー』最終回のアフレコに、参加できませんよ? いいんですか?」


 あえて言葉を区切り、一字一句を強調した空羽の言葉。それを聞いた瞬間、七海の中を埋め尽くしていた数多の恐怖が、銀河系の彼方にまで消し飛んだ。そして、ある思いが七海の中を駆け抜け、心に熱い炎を灯す。


「駄目だ……」


 アフレコに、参加できないのは、駄目だ。


 ダメだ。だめだ。ああ駄目だ。ダメダ。え、ありえないんだけど? だめだ。それだけは絶対に駄目だ。


 アフレコに参加できないくらいなら、死んだ方がましだ!


「私はファンを裏切らない。私は夢を諦めない! 私はキャラを見捨てない!!」


 七海は目の前に転がっていた小瓶にすぐさま手を伸ばした。次いで、目を見開きながら小瓶の蓋を毟り取る。


 そして——


「ええい!」


 その中身を気合と共に一気に飲み下した。大悪魔アモンの体が、七海の口内に消えていく。


「飲みました!」


 小瓶を適当に放り投げ、自身の変化を実感できないままやけくそ気味に叫ぶ七海。その力強い声に空羽は笑みを浮かべ、こう叫び返した。


「では、ぶっつけ本番で大変申し訳ありませんが、早速実践です! まず、自分はできると強く思う!」


「はい、私はできる!」


 思い込みは得意中の得意。七海は口に出すだけでなく、胸中でも「私はできる」と何度も復唱した。心に灯った情熱の炎に、次々と薪をくべていく。


「次に、自分の中にある強いイメージを、心の中で明確な形にする!」


 強いイメージ。七海は小考した後、心の中で燃え上がる声優への情熱から、炎を連想した。


 炎。赤く、熱い、すべてを焼き尽くす、燃え上がる炎。


「最後に、そのイメージを通過させるように想力を放出! 強そうなポーズで、気合の入るかけ声と共に、両腕を前に突き出して!」


「ええぇい!」


 七海は気合の咆哮と共に、左手の甲に右手を重ねて、無我夢中に突き出した。


 次の瞬間、突き出した七海の両手、その先から、真っ赤な火球が出現。成功である。


 その火球は、空羽の右前方で飛行していたイナゴ目掛けて突き進み、偶然ではあるが見事命中した。


 しかし——


「え……」


 イナゴは、何も感じないかのように飛行を続けた。外骨格はおろか、薄い羽すら燃える気配がない。


 ほどなくして、炎はあっけなく消えてしまった。イナゴには火傷一つない。


 自身の無力を痛感し、七海の心に再び恐怖と絶望が過る。


「空羽さん、やっぱり私じゃ——」


「イメージが弱い!」


 泣き言は聞きたくないとでも言うように、空羽から檄が飛んだ。そして、空羽は間髪入れずこう続ける。


「なんで炎なんですか! 七海さんは、火や、炎に対して、何か強い思い入れでもあるんですか!?」


「それは……」


「ないのでしょう!? それでは駄目です! 稲葉樹梨を見てください! 彼女は頑なに百足を具現化し続けているでしょう! それは彼女が百足に対して、なんらかの強い思い入れ、もしくはトラウマがあるからです! それらがアバドン、イナゴという蟲の想力体と契約したことで、より強固になった! 彼女の中で、私は蟲使いなんだという明確イメージが確立した!」


 だからこそ、一番具現化しやすく、強い。樹梨は、その一番に縋っているのだ。


「イメージするものは、七海さんの中の特別です! 明確で、強固な、七海さんにとって最強、無敵のものを——!」


 ここで空羽の左頬に裂傷が走る。先端の毒針こそ当たらなかったが、巨大イナゴの尻尾が空羽の顔を捉えたのだ。


 もう、あまり時間はない。


 七海は、気持ちを落ち着けるために目を閉じた。そして、自分自身と向き直る。


 強いイメージ。御柱七海の中に存在する、明確で、強固な、最強で、無敵のイメージ。


 だったらこれだ!!


 七海は、ゆっくりと右腕を伸ばし、頭上へと運ぶ。次いで手刀を作り、僅かな溜めの後、勢いよく振り下ろした。


 そして、叫ぶ。


「シュバルツ・バルダー!!」


 魔法洋菓子職人ソルト。その最強呪文。


 マイクの前で幾度となく叫んだ言葉だ。台本片手に、何度も何度も練習したセリフだ。尊敬する先人たちのアドバイスと、監督のダメ出しで磨き上げた、七海の宝だ。ソルトと共に幾多の激戦を潜り抜けた、七海の武器だ。


 これが御柱七海の最強でなくて、いったいなんだ!


「いっけぇぇえええ!」


 振り下ろされた手刀と共に放たれた、ソルト最強の斬撃呪文。想力によって具現化された闇色の斬撃は、まるで意思を持つかのようにイナゴめがけ突き進み、その体を左右に両断する。


 声優・御柱七海の想いが、堕天使アバドンの眷属に勝ったのだ。


「やったぁ!」


「そうです、それです!」


 七海の口からは歓喜の、空羽の口からは賞賛の声が漏れる。そして、樹梨、巨大イナゴ側の攻撃が一斉に止まった。今の今まで足手纏いだった七海。その七海からの反撃に面喰い、明らかに動揺している。


 瞬間、空羽の目が獰猛な光を帯びた。動きを止め、ただの的と化した周囲のイナゴたちをその両腕で文字通り瞬殺し、巨大イナゴと樹梨に向けて、鋭い視線を向ける。


 二秒ほど体の動きを止め、集中する空羽。そして、イメージが固まったのか、右手をイナゴに向けて突き出し、指を鳴らす。


 瞬間、空羽の周囲に多数の槍が具現化した。


「すご!」


 思わず声を上げる七海。


 空羽の想力行使は、規模、正確性、速度、そのどれもが七海、そして樹梨とは比較にならない完成度だった。具現化された槍の群れは、まるで神話のワンシーンである。


「まずい! お前ら、散開し——」


 槍の群れを前にし、ようやく我に返る巨大イナゴ。背後にいる眷属たちに向けて、慌てて指示を飛ばす。


 だが——


「遅い!」


 空羽の方が早かった。水平発射された槍の群れが高速で宙を駆け、巨大イナゴと樹梨に襲い掛かる。


「くそったれが! 樹梨、俺の後ろに隠れろ!」


 樹梨を庇うように前に出る巨大イナゴ。そして、そのまま我が身を盾にする。一本一本が長さ二メートル強はあろうかという鋼鉄の槍であったが、槍は巨大イナゴに触れた瞬間、砕けるか、弾かれるかした。


 自我を持たない想力構成物は、自我を持つ想力体と比べて、弱く、脆いのである。想力体である巨大イナゴには通用しない。


 しかし、そんなことは空羽も承知の上。空羽の狙いは別にある。


『ピギィ!』


 そう、眷属版のイナゴだ。


 七海のシュバルツ・バルダーで倒せたことからも分かるように、眷属版のイナゴならば、自我のない想力構成物でも打倒できる。


 大規模攻撃による予備戦力の消去。それこそが空羽の狙いであった。


 巨大イナゴの後方に存在していたマンションの壁面は、今や長大な槍と、その槍で串刺しにされたイナゴで埋め尽くされており、趣味の悪い昆虫標本ができあがっている。


 樹梨と巨大イナゴ側の戦力的アドバンテージが、一瞬で消し飛んだ。


「ここだ!」


 槍の着弾で巻き上がった粉塵、その中に見え隠れする巨大イナゴの姿を鋭い眼光で見据えつつ、空羽はその体を前傾させる。そして、一瞬の溜めの後、全力で地面を蹴った。


 弓から放たれた矢の如く、風すらも置き去りにして、空羽は駆ける。


 ここで、空羽の進行方向で変化が起きた。巨大イナゴの背後から、先の大規模攻撃で討ち漏らした眷属版のイナゴが現れたのである。


 数は二。そのイナゴらは、巨大イナゴ向かって驀進する空羽ではなく、七海めがけて飛翔した。七海を庇わせることで、空羽の攻撃を止めようと考えたのだろう。


 だが——


「七海さん、任せます!」


「はい!」


 その手はもう通用しない。


「シュバルツ・バルダー!」


 右手刀と共に、再度斬撃魔法を放つ七海。


 地面に対して水平に放たれた闇色の斬撃は、並んで突撃してきたイナゴ二匹を、揃って真っ二つにした。


「いってください、空羽さん!」


 少しでも空羽の後押しになれと、有らん限りの声を上げる七海。空羽はその声援に無言の前進で答え、更にその速度を上げた。


 そして——


「いける!」


 空羽は、ついに巨大イナゴと肉薄した。


 右拳を振りかぶり、攻撃態勢に入る空羽。一方の巨大イナゴは動かない。動けば背後にいる樹梨が空羽に狙われるとでも思ったのか、槍の群れから樹梨を庇った態勢のまま、空羽の攻撃を待ち受ける。


「おおぉぉおぉおぉぉ!」


 必殺の気合と共に、全身の力と全体重を乗せた拳を繰り出す空羽。その渾身の一撃は、巨大イナゴの能面のような顔に直撃し、そのまま振り抜かれる。


 そして——


「「え?」」


 巨大イナゴの顔は、空羽の拳の前にあっさりと凹み、潰れてしまった。顔だけではない。巨大イナゴの体までもが、まるで空気を抜かれたビニール人形のように、力なく潰れてしまったのである。


 おかしい。先程の空羽の一撃に、尋常ならざる破壊力があったとしても、あの絶命の仕方は不自然だ。そして、不審な点は他にもある。潰れた巨大イナゴの背後に、樹梨の姿が見当たらない。


「抜け殻?」


 常人より遥かに優れた七海の聴覚が、空羽の独白を聞き取った。次いで、空羽は下を向き、こう呟く。


「穴?」


 空羽の視線を辿る七海。そこには、空羽の呟いた通り穴があった。アスファルトで舗装された道路の真ん中に、大きな穴がぽっかりと口を開けている。


 マンホールの閉め忘れなどではない。もしそうだとするならば、穴の周囲にあんなものはないはずだ。まるで、土を掘り返した跡のような——


「七海さん! 逃げ――」


 振り返り、険しい表情で七海の名前を呼ぶ空羽。それに一瞬遅れて、何かが割れるような音がする。


 音がした場所は、七海の背後。その地面から。


 ここでようやく七海の足が動き出した。空羽に助けを求めるように右手を伸ばしながら、懸命に走る。


 だが——


「ぎゃーはっはー!」


 もう、何もかもが遅かった。


 七海の真後ろで、アスファルトが割れる音と共に、巨大イナゴの耳障りな高笑いが響く。


 土中から姿を現した巨大イナゴ。三本の足で樹梨を腹部に抱え込むその体には、アモンの黒炎によってつけられた焦げ跡がない。奇麗に消えている。


 先程空羽が殴り飛ばしたのは、やはり巨大イナゴの抜け殻だったのだ。槍の着弾によって巻き上げられた粉塵、それに紛れての高速脱皮。その後、抜け殻を残して土中を移動し、七海を強襲したのである。


 七海も、空羽も、まんまと出し抜かれてしまった。七海の攻撃は想力体には通用しない。もう、七海には打つ手がない。


「あの土壇場で、こんなナイスアイデアを思いつくとはな! 我ながら冴えてるぜ! おめぇらもそう思うだろぉ!? ぎゃははは!」


 耳障りな高笑いと共に、巨大イナゴは前足を振りかぶる。そして、走る七海の無防備な背中めがけ、躊躇なく振り下ろした。


「かは!」


 交通事故にでもあったかのように吹き飛ばされる七海。その勢いは、七海の体が鉄製の街灯にぶつかるまで止まることはなかった。


 全身を襲う激しい痛みに耐えながら、霞む視界で現状の把握に努める。そんな七海の目にまず飛び込んできたのは、スマートフォンのケースに描かれた、魔法洋菓子職人ソルトのイラストだった。電柱にぶつかった拍子にポケットから飛び出したらしい。


 そのイラストを見つめつつ、七海は弱々しく笑った。次いで、スマートフォンに向けて懸命に右手を伸ばす。


「っく、間に合え!」


「は、おせぇよ! 終わりだ!」


 巨大イナゴが尻尾を振りかぶり、七海に向けて突き放つ。人間を終りのない無間地獄に叩き落とすイナゴの毒針が、七海に近づいてくる。


 それでも七海は、スマートフォンへと手を伸ばした。


 伸びる七海の手。迫る毒針。


「七海さん! 避けて!」


 空羽が悲痛な叫び声を上げる最中、七海の手はスマートフォンへと辿り着き、ソルトのイラストをそっと撫でた。


 そして、毒針が体に刺さる直前、小さく呟く。


「助けて、ソルト……」


 そのときである。御柱七海の内側で、七海以外の声が木霊した。


(七海、私と代わって!)

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