015・私が選んだ男をなめるなよ

「想界?」


 空羽の口から語られた大雑把な説明を聞いた後、七海はそう呟き、周囲を見回した。


 先程の説明が事実だとするならば、現在七海は、想力によって造られた異空間の中いるということになる。


 間近にまで迫っていた無関係な人々の足音は、確かにもう聞こえない。だが、すぐには信じられなかった。どれだけ観察しても、ここが別の場所と思えない。七海の目に見える範囲での変化というと、樹梨の背後で横たわっていたデカラビアの姿がないことぐらいだったからだ。


「ここ、ほんとにさっきまでとは違う場所なんですか?」


「場所は移動していませんよ。想界は、ベースとなった都市と同じ座標に空間を隔てて存在する、言わば裏側の世界です。そして、曖昧な想力は明確な方向性を持つ想力に引っ張られますから、想界は基本的に最新の状態に、つまりは現在の街並みに酷似した造りになります。更に言えば、東京をベースに構築した想界は、広さ、強度共に、世界でも指折り。中で何をしようと、崩壊の恐れはまずありません。外のことは一切気にせず戦えます」


「あ、だから空羽さんは、お金がないのに物価が高い東京で暮らしているんですね? いざというときに無関係な人たちを巻き込まないために」


 合点がいったとばかり口を動かす七海。一方の空羽は、あえて語るまいと樹梨と向き直り、次のように告げる。


「では、一般人への心配がなくなったところで、続きといきますか」


 樹梨に向かって左足を踏み出し、両手を胸の前へと動かす空羽。左半身を前に出した簡単な構えを取る。


「く、くそ! こんな展開聞いてないよ!」


 一方の樹梨は、足を肩幅に開きつつ、両腕を前に突き出すという構えを取った。だが、様になっていないことは七海から見ても明らかであり、全身から冷汗が噴き出しているのがわかる。呼吸も荒い。


 格上の想力師との一対一など、樹梨は想定すらしていなかったのだろう。すでに余裕はまったくない。空羽と戦う前に、緊張でどうにかなってしまいそうである。


「立っているだけで随分と辛そうですね。それで僕に勝つつもりですか?」


「だ、黙れ!」


 震える声で叫び、想力を行使する樹梨。前に突き出されていた彼女の両腕が、極彩色の百足へと姿を変えた。


 三度姿を現した巨大百足。触覚と口、無数の足を忙しなく動かして、空羽を左右から牽制する。


 人間の両肩から百足が生えているというトラウマものの光景を直視しつつ、空羽は小さく嘆息した。次いで、こう言葉を続ける。


「またそれですか。なるほど、あなたは百足に対してよほど強い思い入れがあるのでしょうね。とてもよく具現化できています。ですが、自我のない想力構成物は、弱く脆い。見た目が派手なだけだ。七海さんにならともかく、僕には通用しませんよ」


「そ、そんなこと、やってみなくちゃ——」


「なぜ自分自身を強化しないのです?」


 空羽は「聞く価値なし」とでも言いたげに樹梨の言葉を遮って、自身の聞きたいことを簡潔に問う。樹梨はその問いに対し、悔しげに歯を食いしばることで答えた。


 その顔を見るに、どうやらしないのではなく——


「できないのですね、強い自分をイメージすることが」


「ぐ……」


「自分を信じられない者が、想力師として大成することはありません。あなたは敵と戦う前に、自分自身に負けている」


「五月蠅い……」


「技術があっても気持ちで負けていてはどんな勝負でも勝てません。七海さんの言った通りですね。あなたはルックスで負けた訳じゃなさそうだ」


「五月蠅いつってんでしょ! さっさと死んじゃいなさいよあんた!」


 怒りの絶叫と共に、二匹の百足を空羽へとけしかける樹梨。巨大百足がその牙を剥き出しにして空羽に迫る。対する空羽は、落ち着き払った様子のまま左手を動かし、ボクシングのジャブに似た二連打を繰り出した。


 空羽の左拳に触れた瞬間、風船が割れるような音と共に、二匹の百足が弾け飛ぶ。


 最強の攻撃手段であろう巨大百足があっさりと蹴散らされ、呆然自失といった顔で硬直する樹梨。そして、その隙を黙って見逃すほど、空羽はお人好しではない。


 コンクリートに足跡が残るほどの力で地面を蹴り、急加速。右拳を振りかぶり、樹梨へと驀進していった。


 渾身の攻撃を放った樹梨の体は動かない。無防備な状態のまま、空羽の攻撃をなす術なく受けるだろう。


 これで戦いは終わりだ。空羽の攻撃で樹梨はその意識を絶たれ、アモンと戦闘中であろうアバドンは実体を失い、すべての力を行使できなくなる。


 もう安心だと七海は安堵し、強張っていた体を弛緩させた。


 その、直後——


「え?」


 七海の口から疑問の声が漏れる。空羽が両足で地面を踏みしめ、自身の動きに急制動をかけたのだ。


 七海が「なぜ?」と目を見開く最中、バックステップを踏む空羽。そして、後退する空羽の眼前を、何かが高速で横切っていく。


「あぶな」


 再び体を強張らせる七海の耳に、僅かに焦りを感じさせる空羽の声が届く。次いで、とある声が路地裏に響いた。


「チッ! 掠りでもしてくれれば終わってたのによ」 


 初めて聞く声だった。棘のある、ざらついた感じの声。攻撃的な印象を受ける、荒っぽい声。


 七海は声の出どころを特定し、その場所へと視線を向ける。


 そこには黒焦げの巨大イナゴが横たわっていた。そのイナゴからは長い尻尾が伸び、空羽のすぐ左横まで続いている。


 これは、つまり——


「死んだふりとはね……」


 七海の考えを代弁するかのように空羽が声を発した。すると、巨大イナゴはその体を起こしつつ尻尾を動かし、再度毒針で空羽を狙う。


「おっと」


 空羽は二度目のバックステップを踏み、七海のすぐ近くまで後退。一方の巨大イナゴは、空振りした尻尾を引き戻しながら羽を動かし、飛行を開始した。


「正直ヒヤリとしましたよ。でも、いささかせこくありませんかね?」


「は、勝ちゃあいいんだよ。勝ちゃあな」


 こう言葉を返し、能面のような顔で下卑た笑みを浮かべる巨大イナゴ。この豊かな感情表現からもわかる。やはり、あのイナゴは特別製だ。他とは違う。


「明確な自我がある……か。あなた、眷属ではありませんね?」


「ピンポーン、せいかーい。俺はアバドンの伝承、その解釈の一つをベースにして本体から切り離された特別製だ。眷属じゃなくて分身なんだよ」


 アバドンの分身。その割には随分と性格が違う。アバドンが饒舌な紳士なら、巨大イナゴは口数の多いチンピラといった風情である。アバドンから感じた気品や教養を、巨大イナゴからは微塵も感じることができない。


 難敵であろう想力体の登場に警戒を強め、七海を庇うように立ち位置を調整する空羽。そんな空羽と七海を斜め上から見下しつつ、巨大イナゴは余裕たっぷりな声でこう言い放つ。


「本体には劣るが、俺は神話に名を刻むれっきとした想力体だ。その俺にてめぇ一人で勝てんのかよ? ああん?」


「あ……あはははは! 形勢逆転ね! これで実質二体一よ! 存分に痛めつけてから殺してあげるわ!」


 救援の登場に余裕を取り戻したのか、樹梨は巨大イナゴと同じ、もしくはそれ以上の下卑た笑みを浮かべた。


 勝利を確信した様子の巨大イナゴと樹梨。そんな二人の言動を見聞きした空羽が、小さく呟く。


「これは、想定外の事態と言わざるを得ないですね」


 七海は震えた。あの空羽が、常に自信に満ち溢れていたあの空羽が、弱気とも取れる発言を口にしたのである。


 途端、七海の心に不安の感情が押し寄せてきた。七海は、その感情に突き動かされるままに、縋るような視線で空羽の顔を窺う。


 そして、見た。


「いいですねぇ」


 凄絶なまでに歪んだ、空羽の顔を。


 見るものによっては笑っているようにも見える獰猛な表情を浮かべる空羽。そして、驚喜の感情を声に乗せて、人が変わったように叫ぶ。


「想定外の事態! 予想外の事態! 燃えます! 滾ります! 漲ります!」


 七海は、豹変した空羽の言動に身震いしながら強く思う。私は、門条空羽という人間を見誤っていた――と。


 門条空羽。彼は、何をするにしても事前準備を怠らず、ある程度の道筋を立ててから、理路整然と行動する人間である。七海は、短いつき合いながらも空羽をそう分析していた。そして、そういった人間は、得てして想定外の事態、不慮の事故等に弱いものである。だからきっと空羽も――と、七海は勝手に考えていた。


 だが、その予想はまったくの的外れであったらしい。


 空羽は、想定外の事態に直面したとき、動揺するどころか歓喜に打ち震え、烈火のごとく燃え上がる人間なのだ。


 そして、七海はこうも思った。


 この想定外の事態に直面したときの高ぶりを、より強く、より熱くするために、空羽は事前に入念な準備をして、事に当たるのではなかろうか?


「あはははは! 七海さんが一緒だと、想定外のことばかり起きて楽しいですねぇ!」


 心底楽しそうに笑いつつ、空羽が叫ぶ。その声には、先程と同じ驚喜の感情に加え、狂喜と狂気の感情を感じることができた。自身の敗北など、微塵も考えていないことがわかる。


 ひとしきり笑った後、空羽は口が裂けたかのような笑みを顔に貼りつけたまま、両の拳を堅く握り締めた。次いで、敵に向かって突撃する。


 の獣と化した空羽が、巨大イナゴと樹梨に襲い掛かった。




     ◆




「ふっ!」


 気合の掛け声と共に、右腕を高速で振り下ろすアモン。黒炎で作られた剣が刀身を伸ばしながら突き進み、イナゴの軍勢に直撃した。


 炎剣は速度を減じることなく振り切られ、蝗の軍勢に決して小さくない綻びを作り出す。想力で造られた東京の街並みが垣間見えた。


 しかし——


「無駄です」


 アモンの攻撃によってできた軍勢の綻びは、瞬時に無数のイナゴたちによって塞がれてしまう。そして、数にしてみれば数百、数千のイナゴが一度に焼失したというのに、軍全体にはほとんど変化が見られない。


「しっ!」


 先程アバドンの声が聞こえてきた方向に向けて、今度は左手を一閃するアモン。左手の炎剣がイナゴの群れを薙ぎ払い、再びイナゴの軍勢にわずかばかりの綻びを作る。が、またもや別のイナゴたちがその綻びを塞ぎ、アモンと外界とを遮断してしまう。


「それも無駄です。何度やっても同じですよ、アモン卿」


 アモンの剣が通過した場所、そことはまるで違う方向から聞こえてくるアバドンの声。軽く舌打ちをした後でそちらに視線を向けるアモンだったが、その視線の先に存在するのはイナゴの軍勢だけである。


 現在アモンは、アバドンとの空中戦の真っ最中。旗色は良くもなければ悪くもない。膠着状態だ。


 アモンが攻撃。


 イナゴの数が減少。


 アバドンがイナゴを補充。


 以上の三つが延々と繰り返されている。このサイクルの終わりは見える気配すらない。


「守勢に回った私を打倒することは、いかにあなたとて不可能ですよ。アモン卿」


 今度は三方向から同時に聞こえてくるアバドンの声。その二つに向け、即座に両手の炎剣を振り下ろすアモンだったが、結果は同じ。周囲のイナゴの数をわずかばかり減らしただけで、大局は動かない。


「何度同じことを繰り返すおつもりですか? いい加減大人しくしていただきたいのですがね。ここで私と共に、もう一方の戦いが終わるのを静かに待とうではありませんか」


「論外だ。私の攻撃で減じるイナゴの数が、お前のイナゴ生産速度を大きく下回れば、その余剰分を空羽に差し向ける腹積もりなのだろう?」


「はは、そんなまさか。そのようなこと、私は——」


「ふん」


 今度は声が聞こえた方向とは反対方向に剣を振るい、イナゴを薙ぎ払うアモン。だが、そこにもアバドンの姿はない。


「聞く耳持ちませんか。まあいいでしょう。先の宣言通り、私の分身があなたの契約者を倒すまで、足止めに専念させていただきます」


 口を出すだけで手は出さず、決して攻勢に出ようとしないアバドン。そんなアバドンに対し、アモンはつまらなそうに鼻を鳴らした。次いで、炎剣を構え直しつつ、姿を見せない敵対者に向けこう告げる。


「相手になると言ったからな、つき合ってやるさ。だが、一つ忠告をしてやる、蝗の王」


「なんです?」


「私が選んだ男をなめるなよ」




     ◆




「くそ、なんなんだこいつはよ!?」


 驚愕と焦りを色濃く感じさせる声で、巨大イナゴが叫んだ。次いで、背中にある四つの底無し穴から、イナゴの卵を一斉に産卵。空中に放り出された卵は瞬時に羽化し、新たなイナゴが誕生。そのイナゴ四匹が、順次空羽へと襲い掛かった。


 産卵速度、発射速度共に、本体であるアバドンと比べ大きく劣るが、あの巨大イナゴも眷属生産能力を有しているらしく、空羽との戦いの当初からその能力を使用。眷属版のイナゴと連携して、四方八方から空羽を攻め立ててきた。


 数の上では常に有利である巨大イナゴ。だが、その表情は険しい。なぜならば——


「あははは!」


 数の不利をまったく感じさせない一騎当千の戦いぶりを、空羽が披露しているのだ。


 空羽は心底楽しそうに笑いつつも、自身に向かって突撃してくるイナゴに向け、正確無比な拳を繰り出した。羽化したばかりで固まっていないイナゴの外骨格を素手で貫き、イナゴ四匹を瞬く間に死骸へと変え、獣のさながらの動きで路地裏を駆ける。


「くそが!」


 悪態をついた巨大イナゴが毒針で空羽を狙う。掠った時点で動けなくなるであろうその毒針を、空羽はあろうことか紙一重でかわしながら前進。巨大イナゴとの距離を詰める。


「だったらこうだ!」


 巨大イナゴは尻尾の進行方向を力尽くで変え、空羽の死角から毒針で足を狙う。が、空羽はまるで背中に目でもあるかのような超反応を見せ、斜め上に跳躍。毒針をかわした。


「跳んだな! 終わりだ!」


 叫び、小さく笑みを浮かべる巨大イナゴ。再度尻尾の進行方向を変え、空羽の動きを追尾。跳躍した空羽を下から毒針で狙い撃つ。


 空中に身を躍らせた空羽は機敏に動けない。なす術なく毒針に貫かれる——


「なにぃ!?」


 はずだった。


 目を見開き、驚愕の声を上げる巨大イナゴ。空羽が空中で何かを蹴り、もう一度跳躍。進行方向を大きく変えたのだ。


 イナゴの毒針は、すでに空羽がいなくなった場所目掛け直進し、そこで何かを貫く。


 それは、透明な板。


 空羽が想力で具現化し、空中に設置した、即席の足場である。


 それと同じものを無数に設置し、空羽は鋭角な軌道で空を駆けた。そして、巨大イナゴとの間合いを手が届くまでのものにする。


「しっ!」


 空羽、渾身の右回し蹴り。それを受け止めようと、巨大イナゴは左足二本を防御に回す。


「ぐぎ!」


 空羽の回し蹴りが命中した次の瞬間、巨大イナゴの口から苦痛の声が漏れた。次の瞬間、空羽の回し蹴りによって圧し折られた巨大イナゴの左前足が、放物線を描いて地面に落ちていく。


「こぉんのぉ!」


 イナゴの危機に樹梨が動いた。右腕を巨大百足に変え、空羽へとけしかける。


 樹梨の右腕から伸びた巨大百足は、空中をうねりながら突き進み、自然落下の途中だった空羽の脇腹に直撃した。


 初めて見る空羽の回避失敗。その光景に七海は息を飲み、樹梨は笑みを浮かべ——


「ははっ!」


 空羽も笑った。


 空羽は、自身の脇腹にめり込んでいる百足の頭に右手を乗せると、強く握り締める。すると、空羽の指が外骨格を貫き、百足の頭部に突き刺さった。


 両足が地面につくと同時に、背負い投げでもするかのような大きな動作で百足を引っ張る空羽。当然、百足と繋がっている樹梨の体も引っ張られることとなり、地面を離れ宙を舞う。そして、樹梨の落下地点には、左拳を振りかぶる空羽の姿がある。


 ここにきて、ようやく七海も理解した。空羽は、樹梨からの攻撃を避けられなかったのではない。この状況を作り出すために、あえて避けなかったのだと。


「いやぁぁああぁ!」


 このままでは自身がどうなるかを悟ったのか、恥も外聞もかなぐり捨てて、あらんかぎりの声で悲鳴を上げる樹梨。その悲鳴に、巨大イナゴが反応する。


「チッ! 世話の焼ける!」


 百足を中ほどから断ち切った後、巨大イナゴは宙を舞う樹梨の体に尻尾を伸ばし、絡め取った。


 空中で静止する樹梨の体。直後、暴風のような風切音を伴った空羽の左拳が、すぐ下を通過する。


「っひぃ」


 引き攣った声を口から漏らす樹梨と、そんな樹梨を抱えて空羽から距離をとる巨大イナゴ。その両名を、空羽は無言で見送った。


 空羽と巨大イナゴとの間合いが再び開き、連綿と続いていた攻防がようやく途切れる。路地裏に、一時の静寂が訪れた。


「強ぇ……」


樹梨を地面に降ろした巨大イナゴが、苦々しく呟く。


「ちょ、あんた! なに、弱音!? 許さないわよ!」


「率直な感想ぐらい言わせやがれ。マジで強ぇんだよ、あのガキ。単独であそこまで戦える想力師は滅多にいねぇ。大手の幹部クラスか、それ以上だ」


 焦燥を強く感じさせる声でこう告げる巨大イナゴ。空羽に圧し折られた左前足からは、紫色の体液が止めどなく溢れ出ている。


 七海は、巨大イナゴと樹梨、そして多数の眷属を、たった一人で相手取る空羽の後姿を見つめながら、ある言葉を思い出していた。


 想い次第で、人は神も悪魔も越えられる。


 他ならぬ空羽の口から語られたこの言葉。これはまぎれもない真実だった。人は想いの力で、神も、悪魔も、堕天使だって越えられる。


「ど、どうにかなさい! このままじゃ私たち——」


「頑張って、空羽さん!」


 気がつけば七海は、樹梨の言葉を遮るように声を上げていた。声優として鍛え上げられた七海の声が、樹梨の声を掻き消して路地裏に響き渡る。


 瞬間、樹梨の顔が弾かれるように動いた。憎々しげな顔で七海のことを睨んでくる。だが、七海も怯まなかった。負けてなるものかと、勇気を振り絞って樹梨の顔を睨み返す。


 互いに険しい表情で睨み合う七海と樹梨。だが、ほどなくして変化が起きた。七海を見つめる樹梨の表情が、憎々しげなものから嬉しげなものへと、徐々に変化していったのである。


「え?」


 樹梨の表情の変化に困惑し、小さく声を漏らす七海。そんな七海の視線の先には、すでに笑顔と言ってもいいものにまで表情を変えた樹梨がいた。そして、樹梨はその笑顔を保持したまま七海を指差し、こう口を動かす。


「イナゴ、あの男じゃなく、御柱七海を狙いなさい」


「「——っ!」」


 瞬間、空羽の表情から笑みが消えた。七海も、自身の体から血の気が引くのを感じる。


「そう、そうよ。何も、力であの男を上回る必要はないのよ。あの男は、自らの勝利条件に、御柱七海の生存を入れているはず」


 言葉の途中であったが、樹梨が何を言わんとしているのか悟ったのだろう。巨大イナゴは視線を七海へと向け、下卑た笑みを浮かべた。次いで、背中の底無し穴からイナゴの卵を産卵。空中に放り出す。


「そこを突き崩してさえしまえば、あの男の勝利は消える。そうすれば思考に敗北が過り、想力行使に支障をきたすはずだわ」


 ここで七海は思い出す。これも、空羽の口から語られた言葉だ。


 想力師はイメージを具現化して戦う。戦闘時は負けることを考えてはいけない。負けをイメージした瞬間、自陣営の敗北が確定する。


「忘れていたわ。そうよ、想力師の戦いは力比べじゃない。想いのぶつけ合い、世界の塗り潰し合い、そして——」


 両腕を巨大百足に変えた樹梨、尻尾を振りかぶる巨大イナゴ、卵から羽化したイナゴたち、それらの視線が、一様に七海に向かって注がれる。


 そして——


「心の折り合い」


 樹梨のこの言葉を合図に、一斉に七海へと襲い掛かってきた。

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