012・とりあえず、お名前教えてくれますか?
いつでも動けるように身構えつつも、七海は闇の中から現れた女性想力師、その容姿をじっと観察してみた。
身長は七海と同じくらいで、年齢は二十代前半。モミアゲだけ伸ばしたおかっぱヘアーで、赤いカチューシャをしている。薄い桜色のレディースシャツの上に白のセーターを重ね着し、濃い紫色のロングスカート、紺色のソックスと、ショートブーツを履いている。
アクセサリーの類は一切身に着けておらず、スタイルは豊かでも貧相でもない。顔は素朴で地味な印象。だが、その顔からどこか凄味を感じる。それは、彼女の瞳に宿る光が非常に少ないからだ。芸能科に在籍する七海が、嫌でも多く目にすることとなった、挫折し、夢破れ、絶望した人間の瞳をしている。
一通り女性想力師の観察を終えた七海は、今度はその背後で音もなく浮遊する想力体、アバドンのほうに目を向けた。
尻尾を除いた全長は、おおよそ二メートルほど。輪郭は昆虫の蝗に近い。だが、形こそ似ているものの、アバドンから蝗らしさはほとんど感じなかった。その理由は、アバドンの体が地面に対し水平ではなく、垂直だからだろう。
蝗は地面に対して体を水平にしているのが自然体だが、アバドンは地面に対して体を垂直にしている方が自然体に見える。蝗ではありえない直立姿勢。それが、アバドンから感じる蝗らしさを大きく薄めていた。
もちろん、アバドンの蝗らしさを薄めている要因は他にもある。イナゴと同様に体節の繰り返しで構成されているその体だが、至るところに黄金の装飾が施されており、体の表面を覆う外骨格には蟲めいた凹凸や棘などが一切ない。そのため蟲というよりは神像、もしくは機械のような印象を受けた。
蝗の頭部にあたる部分には、人間とほぼ同じ大きさの顔がある。だが、正円を描く無感情の目が二つあるだけで、鼻、口、耳といった器官は存在しない。
腹部にあたる部分は蝗と似たつくりだが、途中から徐々に細長くなっていき、その先端には針というには余り太く、巨大な、ランスじみた円錐状の凶器がついていた。
胸部にあたる部分からは、六本三対の脚——否、腕が生えている。腕の末端は馬蹄によく似た楕円形になっており、その馬蹄状の外骨格は、対となる腕と体の正中線上でぴたりと合わさっていた。
最後に羽。アバドンの背中には、蝗によく似た羽が生えている。だが、空中に浮遊しているにもかかわらず、現在その羽は閉じており、動いていない。イナゴと違い、羽を使わずに浮遊、移動できるのだろう。
蝗の王・アバドン。
地面に対し直立浮遊しながら、六本三対の腕すべてを体の正中線上で合わせるその姿は、まるで神に向かって祈りを捧げているようにも、許しを請いているようにも見える。眷属であるイナゴから感じた悍ましさ、醜さは感じない。むしろ美しく、神々しくすらあった。
そんな、名も知らない女性想力師と、堕天使の中でも指折りの知名度を持った想力体。それらを前にして、七海が真っ先にとった行動は——
「こんにちは、昨日ぶりですね。とりあえず、お名前教えてくれますか?」
敵想力師の名前を聞くことだった。
もちろん、純粋に彼女の名前が知りたかった訳ではない。この行動には裏がある。
目下、七海の最優先事項は、空羽がこの場に到着するまでの時間稼ぎ。一秒でも多く時間を稼ぐことが、自身と芽春の生存に繫がる。そう考えての行動。
声優として、敵の前ではったりをかますキャラを演じたときの経験を活かし、精一杯の虚勢を張る。こちらの不利を相手に悟らせてはいけない。状況は二対二。数だけ見れば互角だが、実際には大きな開きがある。相手は想力師と想力体のコンビだが、こちらは一般人と想力体のコンビなのだ。正面から戦えばどうなるかは、想像に容易い。
だが、レコーディングブースの中と、実際の敵の前とでは、やはり勝手が違う。心臓は今にも口から飛び出しそうだし、表情は引き攣る寸前。呼吸は意識してしないと即座に乱れるだろう。
そんな七海の問いかけに、敵想力師は首を傾げた後で「名前?」と呟いた。次いで、こう続ける。
「ふふ、そうよね。不世出の天才声優、あの御柱七海が、底辺で這い回る見習い声優の名前なんて、知ってるはずないわよね。私の名前は
敵想力師——樹梨は、どこか自虐的に名乗った後、怪しく微笑んだ。
お姉さん系の女性キャラが似合いそうな声。滑舌も良い。才能は有ると思うし、訓練もしている——などと、もはや病気と言っても過言ではない声に対する分析をしつつ、七海は小さく会釈した。
「こちらこそ。よろしくお願します」
「ご丁寧にどうも……ねぇ、御柱さん? そっちの質問には答えてあげたんだから、今度はこっちの質問に答えてくれないかしら?」
「え? あ、はい。いいですよ。どうぞ」
その問答で時間が稼げるなら願ってもないことだ。七海は小さく頷き、樹梨からの質問を待つ。
「それじゃあ遠慮なく。御柱さん、あなたはいつから想力の世界に? 初めて想力体を見たのはいつかしら?」
「それは——」
「七海……答えちゃダメ……あの女は……七海の想力師としての練度を……回答から探ろうとしている……」
デカラビアの言葉に、確かにそうかも――と、七海は思った。先程の樹梨の声には、興味の感情の他に、偽証の感情を感じたからである。
「あら、疑り深い想力体さんね。別にそんなこと考えちゃいないわよ。なんなら私から教えてあげましょうか? 私が初めて想力体を見た日、つまりはこのアバドンと出会った日は、一ヶ月とちょっと前よ」
怪しい笑顔のまま「まだまだ新米でしょ?」と続ける樹梨。この声にも、やはり偽証の感情を感じる。
ならば——
「申し訳ありませんが、こちらが不利になりそうな質問にはお答えできません」
ここは、答えるべきではない。
七海が想力体を初めて認識したのは、僅か二日前。その事実を知ったら、樹梨は七海を格下と見なしていきなり襲い掛かってくる可能性がある。時間を稼ぐためにも、ここは要求を突っぱねるのが正解だ。
「ちょっと、こっちは教えてあげたのに、そっちは教えてくれないなんて酷くない?」
こう言うと、樹梨は不満げに唇を尖らせる。僅かばかりの申し訳なさを七海は感じたが、やはり話す訳にはいかなかった。
黙秘を貫く七海。樹梨は、そんな七海を見つめつつ、再び怪しく微笑んだ。
「って言うか御柱さん? 言えないのは不利になるからじゃなくて、何か後ろめたいことがあるからなんじゃないの?」
「後ろめたいこと?」
「ええ。例えば……そうね、御柱七海が声優として成功したのは、陰で想力体の暗躍があったから。とか?」
「んな!?」
樹梨の口から出たこの言葉に、七海の表情が歪む。
「そ、それは断じて違います! 私が初めて想力体を見たのは、ほんの二日前なんですから!」
「七海!?」
慌てて振り返り「挑発に乗っちゃダメ!?」とでも言いたげな視線を七海に向けるデカラビア。だが、七海はデカラビアを無視し、感情のまま口を動かす。罠なのは承知の上。だが、声優としての自分を、御柱七海の誇りを馬鹿にされては、黙ってなどいられなかった。
「ふ~ん。そっちの想力体さんの反応からして、嘘じゃないみたいね。御柱さんは想力の力じゃなくて、実力で今の地位を築いた訳か。つまんないの」
樹梨の口から出たこの言葉に、七海の表情が更に険しさを増す。が、それは一瞬のこと。七海は、平常心、平常心――と、胸中で呟き、会話が途切れないよう、次なる質問を口にする。
「なぜ、イナゴを使って芽春を襲ったんですか? 芽春とあなたの間に、いったい何があったんですか? 答えてください」
この質問は、七海が樹梨に対して、一番聞きたいことでもあった。
もしかしたら、芽春と樹梨の間には、自分が知らない、偶然居合わせた自分なんかが首を突っ込んではいけない、何かしらの因縁があるのかも。そう思っての質問。
しかし——
「大した理由なんてないわよ。ただの腹癒せだもの」
樹梨の口から紡がれた言葉は、なんとも理不尽なものだった。
「は、腹癒せ!?」
腹癒せ。つまりは憂さ晴らし、八つ当たり。
「そ、腹癒せ。私より若くて可愛い大西芽春ちゃんが、ちょっと気に食わなくてね」
「それって——あなた、昨日の『天使のホイッスル』のオーディションで芽春に負けて、音響監督に突っかかったっていう?」
「あら、聞いてたの? ええ、私のことよ」
七海の言葉を素直に肯定する樹梨。そして、こう言葉を続けた。
「声優としての実力だけを見れば、間違いなく私の方が上だった。なのに、私は負けた。実力と関係ない、若さと、ルックスなんていう要素のせいでね。とてもじゃないけど納得できなかったから、こうして襲うことにしたの」
「そ、そんな理由で——」
「そんな理由? 十分すぎる理由よ。そして、誰もが普通に思っていることだわ。自分より可愛い奴、頭のいい奴、金を持っている奴、消えろ、死ね、殺したい。でも、大抵の人間は思うだけで実行には移さない。理由は簡単、力がないからよ。法律、警察、一般常識、モラルといった、強大な力を跳ね除ける力がない。だから、仕方なく感情を押し殺す。でもね、私は違う。私には力がある。想力という力が。だから我慢なんかしないの。想力体を認識できるあなたならわかるでしょう?」
「一緒にしないでください!」
さすがに冷静じゃいられなくなり、語気を荒げて反論する七海。そんな七海に続いて、デカラビアも口を開いた。
「アバドン殿……差し出がましいことを言うようですが……あなたの契約者は少々錯乱している様子……窘めたほうがよろしいかと……」
「はは、お気づかい感謝する。しかし、私はすでに言葉は尽くした後でしてね」
「あなたの契約者が暴走を続ければ……いずれは大手の者たちが……」
「自制心を失った想力師と想力体の行き着く先は、私とて理解しているさ。しかし、我が主殿はもう止まれんらしい。なれば、それにつき合い、共に滅びるのもまた一興」
「あくまで契約者に殉ずる……と?」
「そうとも。元より肉体の消失権を握られている以上、我々想力体は契約者につき従うより他にない。契約者に従うその中で、何かしらの娯楽を見つけ出し、それを追及することこそが肝要だ」
この言葉を最後に、デカラビアとアバドンの会話は終わる。それを見計らって、七海は口を開いた。
「デカラビアさん、想力体が契約者に従うしかないって?」
「私たち想力体は……想力師に肉体を具現化してもらうことで……この世界に干渉してる……でも、その肉体の消失権は……常に想力師の側にある……だから想力体は……契約した想力師に逆らえない……体がなくなったら何もできない……虚ろな毎日に……地獄に逆戻り……」
「なるほど」
「だから……ろくでもない人間や……馬が合わない人間と契約すると……その想力体は凄く苦労する……一度契約すると……その想力師が死ぬか……想力が認識できない状態にならないと……契約は切れない……」
「つまり、アバドンさんは苦労している想力体な訳ですね」
「それって、私がろくでもない人間ってこと? 酷いこと言うわね、御柱さん」
比較的ストレートに馬鹿にされても、樹梨は怪しい笑みを絶やさない。そして、彼女はこう言葉を続けた。
「さてと、無駄話はこれくらいにして、そろそろ始めましょうか? 人通りの少ない路地裏といっても、時間をかけ過ぎると誰かくるかもだし」
この言葉と共に、右手を胸の高さまで上げる樹梨。それを見た七海は、警戒を強めて腰を落とし、デカラビアは七海を庇うように前に出た。
「七海、下がって!」
こう口にした後「七海には手出しさせない」と言わんばかりに、樹梨に向かって空を駆けるデカラビア。そんなデカラビアを見つめながら、アバドンが呟く。
「チェックメイトだ。デカラビア卿」
「何を——っ!?」
デカラビアは言葉を最後まで言い切ることが出来なかった。酷く驚いたように目を見開いた直後、不自然な動きで左右に揺れ、地面に向かって落下していく。
「デカラビアさん!?」
何が起きたのかわからないまま声を上げる七海。一方の樹梨は、浮かべていた怪しい笑みを更に色濃くした。
流れ星さながらに墜落し、地面を転げ回るデカラビア。樹梨の前方一メートルほどの場所で落下の勢いは止まったが、どうやらまともに動けないらしい。力なく地面に横たわり、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「機能……不全!? まさか……イナゴの毒? いつ? なぜ? 先の戦闘で……私は傷一つ負っていないのに……!?」
「確かに、あなたは我が眷属を歯牙にもかけず撃退してみせた。ですがデカラビア卿。あなたは先程、ある異物を体内に収納しませんでしたかな? 自らの意思で」
「ま……さか……」
「そう、大西芽春。彼女の服の内側に、極小のイナゴを忍ばせていただきました」
アバドンは体を傾け一礼し「無粋な真似をして申し訳ない」と、デカラビアに向かって謝罪の意を示す。
「ふふ、作戦成功。これで想力体の方は無力化ね。事前に対策を立てた甲斐があったわ。それにしても、毒が回るまでに随分と時間が掛かったわね。時間稼ぎも楽じゃないわ」
この言葉に七海とデカラビアは戦慄する。時間稼ぎをしていたのはこちらだけではなかったのだ。しかも樹梨は、事前に対策を立てたと言った。これはつまり、樹梨がデカラビアの存在を、以前から知っていたことを意味する。
「しかし、少量とはいえ我が猛毒をその身に受けて、苦痛にのたうつこともなく意識を保ち、会話すらこなすとは、さすがはデカラビア卿」
「そういえば、あんたの毒を食らった相手とまともに会話が成立したのは初めてね。知名度の高い想力体だけあって、モノが違うってことかしら?」
「いつ……あの子に……イナゴを……? 集団戦闘の最中とはいえ……私が見逃すはず……」
「デカラビア卿が気づかないのも無理はありません。そのイナゴは、先程の小競り合いの最中ではなく、あなた方と彼女が合流する以前から忍ばせていたものですから」
「「——っ!?」」
アバドンの言葉に、七海とデカラビアが息を飲む。
芽春の服の内側には、七海と落ち合う以前からイナゴが潜んでいた。つまり、芽春にイナゴの毒を打ち込むことなど、いつでもできたということ。
その事実と、現況から導き出される答えは——
「あなたたちの狙いは、芽春じゃなくて——!?」
「そう、本命はあなたよ! 御柱七海!」
叫び、樹梨は胸の高さまで上げていた右手を、七海に向かって勢いよく突き出した。直後、彼女の右腕が極彩色の百足へと姿を変え、七海に向かって突進する。
「きゃあ!」
人間の腕ほどもある巨大百足が左肩に直撃し、後方に弾き飛ばされる七海の体。次いで、ビルの壁に背中を強打する。
「かは……!」
声すら出せない激痛に身を捩り、地面にうつ伏せになる。そんな七海を見つめながら、樹梨が楽しげに笑い声を上げた。
「あっはは~! きゃあ! ですって、きゃあ! さすが天才声優! いい声で鳴くわ~」
「……っ!」
歯を食いしばりつつ顔を上げ、樹梨のことを睨みつける七海。百足になっていた右腕を元に戻した樹梨は、これ見よがしに舌なめずりをした後で、七海に向かって足軽に近づいていく。
「ま、待て……」
蚊の鳴くような声と共に、樹梨に向かって黒い手を伸ばすデカラビア。毒でまともに動かない体に鞭を打ち、七海を守ろうと必死に手を伸ばす。
「ふふ」
樹梨は、そんなデカラビアを楽しげに見下し、ゆっくりと伸びてきた黒い腕を右足で踏みつけた。次いで、地面に横たわるデカラビアめがけ、冷たい声で言い放つ。
「大人しくそこで寝てなさいな、役立たずの金色ヒトデさん。あなたの大切な人が、これから私の玩具になるところを、特等席でたっぷりと見せてあげる」
ショートブーツの踵でデカラビアの腕を抉り、恍惚の表情で樹梨は笑う。そんな樹梨への怒りを力に変え、痛みを無理矢理抑え込み、七海は口を動かした。
「な、なんで私を狙うのよ? あなたにそこまで恨まれる心当たりが、正直ないんだけど? 私と、あなた、過去に何か接点があった?」
地面に手をついて体を起こし、どうにか立ち上がる。そんな七海へと視線を戻した樹梨は、七海を狙う理由を思わせぶりな口調で語り出した。
「御柱さんにはなくても、私には大ありなのよ。あなたは、私の大切なものを壊したのだから」
「大切なもの? 壊した?」
身に覚えのない話だ。何のことかわからず、七海は困惑の表情を浮かべる。
「ええ、とても大切なものよ。二日前、あなたは――いえ、あなたたちは、私が苦労して作り上げた、理想の殺人鬼を壊したじゃない」
「——っ!? まさか『怨嗟の声』の!?」
「そう、その通り。その殺人鬼よ」
絶えず浮かべていた怪しい笑みを消し、七海の言葉を肯定する樹梨。そして、こう言葉を続けた。
「さっきの話の中にも出てきたけどね、御柱さん。いくら想力師だからって、好き勝手に力を行使できる訳じゃないのよ。社会的に逸脱した行為を続けていると、くだらない正義感を振りかざす大手の連中に目をつけられて、粛清という名の袋叩きに遭う。どんなに強い想力体と契約しても、その粛清には抗えない。大手の幹部連中につき従う想力体は、このアバドンと比べても遜色のない化け物揃いだし、数の暴力にはかなわないわ」
樹梨は「一個人では、組織にはかなわないのよ」と、つまらなそうに吐き捨てる。
「私は、アバドンからこの話を聞いたとき、なんて理不尽な話なのと思ったわ。だってそうでしょ? 想力っていう素晴らしい力を手に入れたのに、それを自由に使えないなんて。いけ好かない奴は、日を追う毎にどんどん増えていくのに!」
いらつきを発散するかのように、樹梨は右足で地団太を踏んだ。何度も何度も、デカラビアの黒い腕を踏みつける。
「二、三人くらいなら、大手の連中は動かないらしいけど、それじゃあまるで足らないわ! だから私は考えたのよ! 私自身は手を汚さず、大手の連中に目をつけられることもなく、気に入らない奴らを殺し続ける方法を!」
最低な発想、そして、最悪な女だ。心底そう思いながらも、七海は樹梨の話に耳を傾ける。
「そこで目をつけたのが、あの掲示板よ。私が想力を認識できるようになる切っ掛けにもなった、あの掲示板。それを利用することを思いついたの」
「掲示板が切っ掛け?」
「そう。あの掲示板で、死んでくれって名前を書き込んだ人間が、本当に死んだっていう書き込みを見てね。とっても羨ましかったから、私にも同じことが起きないかな~って、軽い気持ちで名前を書き込んだら——はは、そいつ次の日に、交通事故に遭って本当に死んじゃったわ!」
「そのときに、心の底から信じたんですか? この掲示板には不思議な力がある。世の中には、不思議な力が実在するんだって」
「その通り! いけ好かない奴が死んでくれた奇跡と感動に打ち震えているときに、アバドンが私の前に現れたの! 私の目の前で、新しい世界の扉が開いたのよ!」
派手な身振り手振りと共に、アバドンとの馴れ初めを実に楽しそうに語る樹梨。そんな彼女を見つめながら、七海は昨日目にした『怨嗟の声』の掲示板と、その中の書き込みを思い出す。
樹梨の話から察するに、空羽が言っていた起点の一つ——
《投稿者・名無しさん
『やった! 願いが通じた! 私の書き込んだ人も死んだ!』》
が、樹梨の書き込みだろう。
あの殺人鬼は、偶然の重なりで生まれた訳ではなかったのだ。いや、始まりは確かに偶然だったのだろう。だが、途中からは必然に変わっていた。あの殺人鬼は、稲葉樹梨の悪意によって、故意に生み出された想力体だったのだ。
「思いついてからは簡単だったわ。掲示板の書き込みで馬鹿なユーザーと管理人を誘導して、頃合いを見計らって殺人鬼の噂を流して、CGを添付して」
「あのCGもあなたが描いたんですか?」
「上手でしょ? 特技の一つよ。ほどなくして私の目論見通り、殺人鬼は自我を形成し、想力体になったわ。私の代わりに、私の気に入らない人間を喜んで殺してくれる、理想の殺人鬼の誕生よ!」
両手を左右に大きく広げ、自らの成果を高らかに宣言する樹梨。狂気に取りつかれたその姿は、まさに鬼女と呼ぶに相応しいものだった。
「殺人鬼が殺した十一人、そのうち六人が私からのリクエストよ! ネットでの噂が原型というのがミソでね! アナログな伝統を後生大事にする大手の連中の目を見事に逃れることができたわ! 私の目論見は大成功! これからも殺人鬼には、私の代わりに気に入らない奴らをどんどんどんどん殺してもらおう! そう、思っていたのに……」
話の後半で声色を百八十度変え、樹梨は剣呑な視線を七海に向けた。
「御柱さん、あなたと――なんて言ったかしら? えっと……そうそう、空羽とかいう男に邪魔されたのよ。あなたたちが、私の殺人鬼を壊した。しかも、完璧な事後処理つきでね」
凄まじい敵意と憎しみを声に乗せ「もう復活は不可能よ」と、七海を睨みつける樹梨。そんな樹梨に臆することなく、七海はこう言葉を返した。
「いくつか気になることがあります」
「何かしら?」
「なぜあなたは、私や空羽さんのことだけじゃなく、デカラビアさんのことを知っているんですか? 空羽さんがあの殺人鬼を倒したことと、私がその場に居合わせたことは、殺人鬼を監視させていたイナゴを通じて知ったんですよね? だとしても、デカラビアさんのことは説明がつきません。どこで、どういった経緯で、デカラビアさんのことを知ったんですか?」
ここまでくれば七海にもわかる。あの日、アモンが察知した何かしらの想力体の眷属とは、イナゴのことだったのだ。
手間暇かけて作った理想の殺人鬼を、見張りもつけずに放置するなどありえない。あの殺人鬼は、イナゴに常に監視されていたのだ。
こう考えれば、七海が空羽の仲間だと勘違いされたことも説明がつく。
あの日、自分から首を突っ込み空羽の段取りをめちゃくちゃにした七海であったが、端から見れば、七海と空羽が協力したようにも見えただろう。そして、空羽が七海に殴りかかったのは、イナゴが逃げ帰った後だった。
だが、説明がつくのはここまでである。ただ一点。デカラビアだけは説明がつかない。あの場に居合わせなかったデカラビアの存在を、樹梨が知るのは不可能だ。
この七海の質問に対し、樹梨は再び怪しい笑みを浮かべると、含みのある声でこう答える。
「御柱さん。最近のネットカフェって、会員制が増えてきたと思わない?」
「は?」
ネットカフェ?
「アングラサイトを多用する人間はね、会員制のネットカフェには少し入り辛いの。実際に後ろ暗いことをしている私なんかは、特にね。料金も馬鹿にならないわ。知ってるとは思うけど、声優活動ってすごく大変なの。御柱さんみたいな人気声優と違って、私みたいなうだつの上がらない見習い声優は、万年金欠でアルバイトが必須。社員割引でもないとネットカフェにもいけないわ」
「あなた、ひょっとして……」
「そう。御柱さんが、空羽とかいう想力師と一緒に利用したネットカフェがあるじゃない? あそこでね、アルバイトをしているのよ、私。まさに、趣味と実益を兼ねた仕事ってやつね」
「は、はは……」
東京って狭いな——と、胸中で呟き、七海は乾いた笑い声を上げた。
「理想の道具を壊した憎っくき相手が来店したときは、怒りで我を忘れそうになったわ。でも、復讐を確実なものにするためにって自制して、不自然にならない程度にあなたたちの会話に聞き耳を立てたの」
「モラルもプライバシーもあったもんじゃないですね」
「私、相手があの御柱七海だって知って、凄く驚いたのよ。でも、同姓同名、他人の空似って可能性もまだあったから、念のためにイナゴを出した状態であなたとすれ違ったの。そしたら反応があって、はい確定」
あれにはそういう意図があったのかと、七海は一人納得する。
通りでなんの警戒もなく想力師としての活動期間を口にしたり、無遠慮に七海を挑発してきた訳だ。樹梨はすでに知っていたのである。七海が想力を認識できるようになったばかりの素人であることも。デカラビアは七海の護衛をしているだけで、契約を結んでいないことも。全部。
デカラビアに対しては、事前にその文献を読み漁り、幾重にも対策を講じていたに違いない。芽春の服の中に忍ばせたイナゴの他にも、幾つか奥の手を用意していたのだろう。
声に偽証の感情が混じる訳だ。樹梨は、自分たちの方はこちらの情報を持っていることを隠し、絶対的有利な立場から、七海とデカラビアを見下していたのである。会話で探りを入れる必要なんてない。初めから、七海とデカラビアは丸裸だったのだ。
「御柱さんにわかる? すぐ近くで、手塩にかけて育てた大切なものに止めを刺された私の気持ちが? わからないわよね? わかる訳がないわ。聞き耳を立てながら、今すぐ殺してやりたいって何度も何度も思ったものよ。でも私、相手が御柱さんだって知って、一度は復讐を諦めたわ。御柱さんには利用価値があったから」
「利用価値?」
「あなたの声優としての人気よ。御柱さんが『天使のホイッスル』のヒロインを演じれば、それだけで視聴者が増えるもの。その増えた視聴者は、同じ番組の中で流れる私の声も聴くことになる。そう思ったの。でも……」
「オーディションで、芽春に負けた」
七海が事実を簡潔に口にすると、樹梨は目を見開き、怒りの形相を浮かべた。
「ええ、そうよ。負けたわよ。若さとルックスなんていう、声優としての実力とは関係のないところで、格下の小娘にね! 信じてくれないかもだけど、私ね、これでも声優のことに関しては真面目にやっていたのよ? 何年も何年も努力して、必死に練習して、何度オーディションに落ちても挫けたりしなかった。子供の頃からの夢だったのよ、声優になることが。昨日まではねぇ!」
凄まじい怒声だった。この世のすべてを呪うかのような、負の絶叫。
「若いからって何? 可愛いからって何!? 声優って、そういう基準でへたくそな奴が選ばれるの!? 幻滅よ、幻滅! あのとき、私は確かに聞いたわ! 私の中で夢が壊れる音を、はっきりとね! そして、その夢が私を、稲葉樹梨をすんでのところで支えてた! 人の道から完全に外れることを止めてたのよ! でも、もう声優なんてどうでもいい! 昔からの夢も、理想の殺人鬼も失った! 職も、学歴も、お金もない! カメラの前で失態を演じて、残ったのは糞みたいな人生だけよ! だったら未来なんて要らないわ! 気に入らない奴らを一人でも多く道連れにして、せいぜい派手に死んでやる!」
樹梨はこう宣言した後、七海に向かってゆっくりと歩き出した。
「まずは、私から理想の道具を奪い、後の障害にも成り得る御柱さん、あなたから。次に、私の夢を砕いた大西とかいう小娘と、あの音響監督。その後は気に入らない奴を順番に始末して——あ、仲間外れじゃ可哀想だから、七井悠里もそっちに送ってあげるわ。仲良しごっこの続きは天国でやりなさい」
「空羽さんの名前がありませんけど?」
「ああ、あの男なら、もう終わってる頃よ」
樹梨は「そんなのとっくに対処したわ」と微笑んだ。
「男のバイト先『サザンクロス』の所在と、今日もバイトに参加していることは調査済み。すでに五千を超えるイナゴの軍勢を向かわせてあるの。想力師としての活動は長いみたいだから、少しは腕が立つかもだけど、たった一人でどうにかなる数じゃない。今頃はイナゴの毒に体を侵されて、激痛で地面をのたうち回っているはずよ」
「え?」
「契約した想力体を、御柱さんの護衛役にあてたのが運の尽きね。御柱さんは、その空羽とかいう男が助けにきてくれるのを期待して、必死に時間を稼いでいたみたいだけど、残念でした。無駄な努力だったわね」
勝ち誇ったように笑う樹梨。そんな樹梨を見つめながら、七海は右手を口元に当て——
「くす」
と、小さな笑い声を漏らした。
「何笑ってるのよ?」
絶体絶命。そんな状況にもかかわらず笑って見せた七海が気に入らなかったのか、足を止め、不機嫌な表情で訪ねてくる樹梨。そんな樹梨を無視して、七海は胸中でこう呟く。
そういえば、工事現場でも、ネットカフェでも、アモンさんの名前は出なかったな——と。
樹梨の空羽に対する備えは不完全だ。樹梨は、空羽と契約している想力体がデカラビアだけだと思っている。アモンのことを計算に入れていない。
きっと、空羽は無事だ。そして、今もこの場所を目指して移動中のはず。
ならば、七海にはすべきことがある。できることがある。
動け。あがけ。諦めるな。子供の頃に憧れて、今なお目標にしている、人に夢と希望を与え続けるアニメのキャラクターたちのように、最後の最後まで、自分のなすべきことをしろ。
「何を一人で笑ってるのかって聞いてるんだけど? それとも何? ついに頭がおかしくなっちゃった?」
空羽が来るまで、少しでも、一秒でも長く、時間を稼ぐ!
「別に、あなたの勘違いが可笑しくて、思わず笑っちゃっただけよ」
乗ってこい! 心の中でそう叫んだ後、七海は声優としての演技力を総動員し、樹梨のことを可哀想なものを見る目で見下した。次いで、侮蔑の感情を乗せた声を、都会の路地裏へと響かせる。
「勘違い?」
イラつきを隠そうともせず声に乗せ、七海に聞き返してくる樹梨。その声には、怒り、敵意といった感情の他にも、興味の感情を感じ取ることができた。七海は、顔では樹梨のことを見下しつつも、胸中ではほくそ笑む。
「ええそうよ。勘違いもはなはだしいわ。あなた、今すぐ鏡を覗いてみなさいよ。それがキャラクターに命を吹き込む人間の顔? 夢を作る人間の顔?」
煽り、挑発する。樹梨の感情を手玉に取って、言葉の一字一句に集中させる。
「芽春はね、声優の卵の中でも、頭一つ抜き出た実力者よ。そんな芽春に自分より上と言わせるほどの技量を持つあなたが、なんで昨日のオーディションに——いいえ、今まで受けたすべてのオーディションに落ちてきたかわかる? それはね、あなたの本質が、本性が、オーディションの度にスタッフに見抜かれたからよ! 才能や、小手先の技術じゃない。声に感情を乗せ、キャラに命を吹き込む仕事、声優。その声優にとって一番大切なもの、心の問題よ!」
ここで樹梨の表情が、鬼と比喩するのも生温い凄まじいものへと変化した。だが、それでも七海は怯まない。その口を動かし、声を発し続ける。
「芽春の方があなたより若いから? 違う」
「黙れ」
「芽春の方があなたより可愛いから!? 違う!」
「黙れって……言ってるでしょ?」
地面に横たわるデカラビアをその場に残し、一歩、また一歩と、七海に向かって近づいてくる樹梨。本能が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らすが、七海はそれを無視。ただただ口を動かした。
今にも逃げ出しそうな足ではなく、身を守ろうとする手でもなく、ひたすらに口を動かして声を出し、言葉を紡ぐ。防御不能の言葉の刃で、樹梨の心を切り刻む。
「稲葉樹梨、あなたは——」
逃げるな。口を動かせ。前を見ろ。攻めるんだ。稲葉樹梨の心に、魂に——
「あなたは声優になるべき人間じゃなかった!! それだけよ!!」
御柱七海最強の武器を、全力で突き立てろ!
「黙んなさいよあんたぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁあ!!」
七海の糾弾が終わると同時に絶叫し、樹梨は怒りに任せて想力を行使した。
樹梨の両腕が、極彩色の百足へと姿を変え、七海に襲い掛かる。
七海は、逃げるでもなく、避けるでもなく、ただ直立し、自身に迫りくる二匹の百足をその場で待ち構えた。
死を覚悟した訳じゃない。
生を諦めた訳でもない。
ただ、見逃したくなかったのだ。
「まったく、七海さんのせいで、店長に迷惑かけちゃったじゃないですか」
自分が助けられる瞬間を、今度こそ。
絶対の自信を感じさせる声が真上から響いた直後、二匹の百足が見るも無残に爆裂四散した。次いで、黒の学生服を着た黒髪の男の子が、七海を守るように路地裏に降り立つ。
想力師・門条空羽が、ついに七海と合流したのだ。
地獄の極炎を身に纏う、一人の騎士を従えて。
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