011・とんでもないのに喧嘩売っちゃった

 勝手に動いた自身の体に驚きながらも、七海は蟲の尻尾の先端、自身の右腕に近づいてくるアイスピックめいた極太の針をじっと見据える。


 緩慢に感じる時間の中で、七海はその針を見つめ続けた。それゆえに、一生のトラウマになりかねないグロテスクな光景を、この後直視することとなる。


 それは——


「ピギィ!」


 黒い半透明の腕が異形の蟲を貫く、その瞬間。


 七海の右腕に毒針を突き立てる直前、逆にデカラビアの腕に貫かれ、なんとも耳障りな絶叫を上げる異形の蟲。その悲鳴に反応し、七海は顔を動かした。そして、異形の蟲の全貌を、始めて視界に収めることとなる。


 その容姿は『馬みたいな蟲』だった。


 体長は五十センチほどで、形だけは馬のように見えるのだが、明らかに蟲、節足動物だ。体は体節の繰り返しで構成され、全身は外骨格に覆われている。それゆえ、馬鎧をつけた軍馬のように見えなくもないが、優雅さや、気品といったものは一切感じられない。そんな体からバッタのそれによく似た羽と、サソリのそれによく似た尻尾が伸びている。


 この総力体が蟲なのはもう疑うべくもないが、一か所だけ哺乳動物に近しい場所があった。 


 顔である。


 顔だけが、人間の女性のものなのだ。能面のような色白の顔が、馬みたいな蟲の体についている。額から金色の触覚を伸ばしたその顔は、黄金の角を生やした鬼女のようにも、王冠をかぶった王妃のようにも見えた。


「イナゴか……」


 左側頭部の髪飾りから、デカラビアの緊張した声が聞こえてくる。


「イナゴ?」


 即座にバッタ亜目・いなご科に属する昆虫を連想した七海だったが、間違いなくその蝗のことではないだろう。おそらく、この想力体の名前がイナゴなのだ。


「そう……大物だとは思ってたけど……とんでもないのに喧嘩売っちゃった……」


 デカラビアはそう言うと、伸ばしていた腕を振り払い、串刺しにしていたイナゴを、近くのお店のショーウインドウに叩きつけた。


 ショーウインドウに叩きつけられたイナゴは、体液をまき散らしてその場に張りつき、絶命。次いで、一昨日の殺人鬼と同じく、空気に溶けるように消滅していく。


「七海……走って……」


「え?」


「走って……逃げるの……早く……」


「で、でも、もう倒したでしょ?」


 七海は、張りついていたイナゴが完全に消滅し、綺麗になったショーウインドウを見つめながら言う。


 想力体は死んでも復活するらしいが、それには時間が必要なはずだ。根本的な解決にはならないが、当面の危機は回避できたはずである。


「あれは本体じゃない……ただの眷属……すぐに次がくる……」


 焦燥の感情を含んだデカラビアの声に、七海は「次?」という言葉を返すことができなかった。七海が見つめる先、ショーウインドウに映る自分の左側頭部から、更に五本の腕が現れ、視界の外に向かって疾駆したからである。


デカラビアが更なる攻撃を繰り出した。七海がそう理解した直後——


『ピギィ!』


 と、先程と同じ断末魔が、デカラビアが腕を伸ばした方向から複数聞こえてきた。


 ショーウインドウに映る自分の姿を見つめつつ、七海は本日三度目の生唾を飲む。その間にも、デカラビアは髪飾りの青宝石から新たな腕を出現させ、七海の周囲に展開。それにより、今やショーウインドウに映る七海の姿は、左側頭部に極大のイソギンチャクを着けているかのようで、百年の恋も一瞬にして冷めてしまいそうな様相を醸している。


「走って……早く!」


「先輩? あの、さっきからどなたと話してるんです? それに、この急に伸ばした腕はいったい——って、ふえ?」


 七海は芽春の言葉が終わるのを待つことなく、右手で芽春の左手を取った。そして——


「走るよ芽春!」


 こう口にすると同時に、全力で駆け出す。


「な、なな、なんですかいったい~!?」


 困惑と驚愕の双方を感じさせる声で芽春が叫んだが、七海はそれを無視。芽春の手を取ったまま、近くの路地裏へと飛び込んだ。


「その子も……連れてくの……?」


「当たり前でしょ! 狙われたのは芽春なんだから!」


 デカラビアの呆れるような声に、七海は走りながら返答する。理由はわからないが、イナゴの狙いは芽春なのだ。あの場に置いていけばどうなるかは火を見るよりも明らかである。一緒に連れていくより他にない。


 これは絶対に譲れない。そんな思いが込められた七海の声に、デカラビアは諦めの溜息を返した。次いで、敵性想力体について語り始める。


「七海……さっきの蟲の名前は……イナゴ……アバドンっていう……堕天使の眷属……」


 堕天使・アバドン。それが芽春を狙っている想力体の名前。


「詳しくはネットで——」


「調べてる暇がありません!」


「だよね……仕方ない……今回は口頭で説明する……」


 七海は、狭く、複雑で、土地勘もない路地裏を全力で走りながら、デカラビアの言葉に耳を傾けた。


 堕天使・アバドン。またはアポリオン。


 ヨハネの黙示録に登場する蝗の王。サタネルという種類に分類される強大な堕天使。その名は『破壊の場』『滅ぼすもの』『奈落の底』を意味する。


 堕天使、または悪魔として扱われ、堕天使としてはルシファー、悪魔としてはサタン、サマエルと同一視されることがある。


 ヨハネの黙示録『七つの厄災』の五番目。第五のラッパが鳴らされると同時に天空の彼方より飛来し、イナゴの群れを率いて、額に神の刻印が押されていない人間、つまりはキリスト教徒以外の人間に襲いかかり、尾についた毒針を用いて、五ヵ月もの間死をも上回る苦痛を与えるという。


 空を埋め尽くすほどの蝗の大量発生、つまりは蝗害こうがいを神格化した存在——とのことだ。


「堕天使の中でも……指折りの知名度を持った実力者……直接戦闘になった場合……私だけじゃ……七海を守り切れないかも……」


 声に悔しさを滲ませ、デカラビアは自身の力不足を吐露する。ソロモン七十二柱の一柱にして、三十の軍団を従える地獄の大侯爵であるデカラビア。そんなデカラビアに弱音を吐かせることからも、アバドンとやらの力量が伺える。


「とにかく……今は逃げる……空羽がくるまで……時間を稼いで……」


「え!? 空羽さん、きてくれるんですか!?」


「私たち想力体は……契約した想力師と……意志の疎通が可能……さっき連絡した……今は……とにかく逃げて……」


 この言葉に、七海は大きく頷く。


 当面の目標ができた。空羽がくるまでとにかく逃げる。


 目標が明確になるとやる気が出てくるのが人間だ。七海は、何がなんでも逃げてやると心に決め、芽春の手を握る右手に力を込める。


 だが、その瞬間——


「ちょ、ちょっと先輩! いい加減にしてください!」


 芽春が声を上げ、左手を力任せに振り回した。七海の右手から、芽春の左手がすり抜ける。


 手を振り払われた七海は、慌てて急制動をかけ、停止。すぐさま後へと振り返る。すると、眉毛を吊り上げ、少し怒った様子の芽春がそこにいた。


「も~! いきなり走り出して、いったいなんなんですか!? 芽春は説明を要求します!」


 不信感と怒りを言葉に乗せて、七海を非難する芽春。有無を言わさずこんな路地裏まで連れてこられたのだ、無理もない。


 守るべき後輩から向けられた負の感情。その感情に心を痛めつつ、七海は悩んだ。


 想力体を視認できない芽春に、今の状況をそのまま説明しても信じてはもらえないだろう。いや、逆だ。信じさせたらダメなのだ。信じたら最後、芽春は想力体を視認できるようになり、二度と日常には帰れない。


 どうしたものかと思案する七海であったが、敵はその僅かな時間すらも与えはしなかった。


 七海の耳にあの音が、イナゴの羽音が届いたのである。


「——っ! どこから!?」


 七海は即座に思考を中断、必死になって羽音の出どころを探す。


 羽音が聞こえてくるのは——真上。しかも複数!?


 ビルとビルの隙間で空を見上げる七海。その視線の先には、数えようと思うのも馬鹿らしくなるほどの、夥しい数のイナゴの群れが見て取れた。


 大群となって押し寄せてきた異形の蟲。背筋も凍るその光景に、意識を遠のかせる七海だったが、状況の変化がそれを許さなかった。尻尾の先の毒針を光らせるイナゴたちが、芽春めがけて一斉に急降下を始めたのである。


 向けられている疑惑の視線を無視し、七海は芽春へと跳びついた。


「芽春、伏せて!」


「ふえ!? 先輩!?」


 芽春の体を力任せに押し倒す七海。次いで、自分の体を盾にするように、芽春の上に覆い被さった。


 七海が芽春に覆い被さった直後、路地裏に様々な音が響き渡る。


 神経を逆撫でする羽音。


 体節が擦れ合う、蟲特有の動作音。


 イナゴたちの断末魔。


 他にも、他にも——


 耳を塞ぎたくなるような悍ましい音の数々。その中で唯一、間近から聞こえる力強い風切音だけが、七海を励まし、勇気づけてくれた。


 ほどなくして、それらが一様に聞こえなくなってから、七海は恐る恐る顔を上げる。


 見えたのは、夥しい数のイナゴの死体と、事切れる直前の半死体。


 そして——


「デカラビアさん……」


 器である髪飾りから飛び出し、七海と芽春を守ってくれたであろう、五芒星の悪魔の後姿だった。


「七海……無事? 怪我は……ない?」


「あ、はい。私は大丈夫です」


 体を見下ろし、所々触れながら七海は言う。特に異常は見当たらない。


「そっちの子は……?」


「芽春? 大丈夫、芽春?」


 芽春の体を優しく揺すり、問いかける七海。だが——


「芽春!?」


 返事がない。


 地面に仰向けになったまま、芽春はピクリとも動こうとしない。七海は、その体を慌てて抱き上げた。


「芽春!? しっかりして、芽春!?」


 脳内を駆け巡る嫌な予感。両の目から涙が溢れるのを感じつつも、七海は胸の中にある芽春の顔を覗き込んだ。


 そして、見つける。


「きゅ~」


 芽春の頭から浮き出た、大きなたんこぶを。


「これって……」


「うん……頭を打って……気絶してるだけだね……」


 七海が力任せ組み伏せたときに、地面に頭部を打ちつけ、そのまま気絶したのだろう。間の抜けた気絶顔を見るに、命に別状はなさそうである。


「よかった……よかったよ~」


 芽春の無事を確認し、心底安堵する七海。涙を拭うその傍らで、デカラビアも声を発した。


「そうだね……気を失ったのは……好都合……」


 デカラビアはそう言うと、腕を伸ばして七海から芽春の体を取り上げた。


 そして——


「ちょ!?」


 そのまま腕を縮め、いつぞやのサインのときと同じように、芽春の体を窓の中へと収納してしまった。


「これでよし……」


「な、ななな、何やってるんですかデカラビアさん!?」


「ん? 身柄の確保……ここが一番安全……」


「生き物を入れちゃって大丈夫なんですか!? 消化しちゃったりとか!? 空気とか!?」


「大丈夫……事が済んだら……出せばいい……」


 冷静に語るデカラビア。その様子を見るに、本当に問題はなさそうである。


「まあ、なんにせよ……七海が無事で……よかった……」


「あ、はい。デカラビアさん、助けてくれてありがとうございました」


「ん……さて、次は……」


 七海の礼に短く言葉を返した後、デカラビアは周囲に横たわる半死半生のイナゴたちを見据え、次の言葉と共に目を見開く。


「消えろ……」


 瞬間、デカラビアの瞳から幾重もの蒼白い閃光が迸る。その閃光は、まるで意思を持つかのようにイナゴたちの体に降り注ぎ、瞬く間に焼き尽くした。


「うわぁ……すごぉ……」


 目からビームを出したデカラビアと、綺麗になった路地裏を交互に見据え、驚嘆の声を漏らす七海。


 あれだけの大群を相手に、七海を守りながらものともしない強さ。ソロモン七十二柱、その力の片鱗を垣間見た。


「眷属は自我が希薄だからね……束になっても……私の敵じゃない……」


 デカラビアはここで言葉を区切り、路地裏の先を見据えた。次いで、こう告げる。


「眷属なら……ね……」


 鋭い眼光と共に紡がれた、この言葉。これが何を意味するのかを、七海は瞬時に悟る。


 そして——


「これはこれは」


 七海の耳に、地の底から響いてきたかのような、重苦しい声が届いた。


「精強で知られる我が眷属たちを瞬く間に屠った手並みから、相応の手練れだと想像してはいましたが、まさかこれほど高名な方とは思わなんだ」


 追いつかれた。胸中でそう呟き、声が聞こえてくる方向に視線を向け、目を凝らす七海。だが、声の主は都会の闇に紛れており、七海の目にはまだ見えない。


「この出会いに私はどうするべきか? 数奇な出会いと嘆くべきか、地獄の大侯爵をこの目にできたと喜ぶべきか、さてはて」


「以外に饒舌……ですね……」


「そう言うあなたは、少しばかり舌足らずなご様子」


 こう言葉を交わした直後、互いの口から小さく笑い声が漏れた。


「ソロモン七十二柱が一柱、デカラビア卿とお見受けいたしますが、いかに?」


「相違ない……そちらは……蝗の王・アバドン殿……ですね?」


「いかにも」


 七海の眼前で、王と侯爵が言葉を交わす。立場あるもの同士、互いが互いを尊重しているようにすら聞こえるその語らいは、重厚な雰囲気こそあるものの、今のところ実に穏やかだ。出会い頭に殺し合いになると思っていた七海としては、いささか以上に意外な光景。


 アバドンと語り合う最中、デカラビアの視線は決してぶれることなく、闇の中を真っ直ぐに見据えている。七海にはまだ見えないが、デカラビアにはすでにアバドンの姿が見えているのだろう。そして恐らく、アバドンと行動を共にする想力師の姿も。


 アバドンと共に想力師が近づいてきているのは、少し前から七海にもわかっていた。


 姿は未だ見えないが、足音は聞こえる。女性用の下履き、その堅い踵が、コンクリートで舗装された地面を叩く音。狭い路地裏で反響したその音が、七海の耳にしっかりと届いている。


 その足音は次第に大きくなり——


「こんにちは、御柱さん」


 昨日と同じ挨拶と共に、一人の女性が、都会の闇の中から現れた。


 蝗の王を、引き連れて。

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