010・努力はやっぱり報われるんだよ

 抜けるような青空広がる日曜日の午前。七海は悠里、芽春との待ち合わせ場所である都内某所の駅前に立っていた。そして、なんとも複雑な表情で独りごちる。


「う~ん、気になる」


「美人が台無し……七海、気持ちを切り替えたほうがいい……大丈夫……悪魔とその契約者は……約束や取引……契約を反故にしたりはしない……」


「気を使ってくれてありがとうございます、デカラビアさん。でも、やっぱり気になるじゃないですか。空羽さんのご家族のこと」


 髪飾りから聞こえてきたデカラビアの声に、複雑な表情を維持したまま言葉を返す七海。


 後日必ず話す。空羽は確かにそう言った。が、気になるものは気になる。人間の悲しい性だ。


「デカラビアさんは知っているんですよね?」


「そりゃあね……でも、私は言わないし……言えないよ……それに……空羽が言ったように……今日友達の前で笑顔でいたいなら……知らない方がいいと思う……」


 悪魔にここまで言わせる理由ってなんなんだろう? と、七海は小さく息を飲む。


「私が言えるのは……それが空羽の戦う理由……ってことぐらいかな……」


「戦う理由……ですか」


 あの空羽の戦う理由。


 家族が、彼の戦う理由。


 生来は優しい性格であろう空羽が、想力師として命懸けで戦い、時に人を殺め、自らを人でなしと罵りながらも、その歩みを止めない理由。


 家族のために、空羽は戦っているのだろうか?


 それとも、家族のせいで、空羽は戦っているのだろうか?


 あのときの空羽の声には、深く、暗い、後悔の念を感じた。そこから推測するに——


「やめよう」


 七海は頭を振り、思考を断ち切った。


 この推測に意味はない。いくら考えたところで、七海一人では答えに辿り着けはしないのだから。


「うん……それで正解……やめた方がいい……」


「はい、空羽さんの家族に関しては、今は諦めます。それにしてもデカラビアさん。私に対する言動に、ずいぶんと遠慮がなくなりましたよね? 私としては嬉しいからいいですけど、何か心境の変化でもありましたか?」


「そりゃあ……脱衣所だの……トイレだのに……一緒に入ってれば……ねぇ」


「わー!! わー!!」


 想力体の声は普通の人間には聞こえない。それを忘れ、デカラビアの声を遮るべく大声を上げる七海。周囲の人々が何事かと視線を集中させる運びとなったが、今の七海はそんな些細なことを気にしている場合ではなかった。


「なんてこと言うんですかデカラビアさん! って言うか、今の今まで気にしませんでしたけど、そもそもデカラビアさんは女性なんでしょうね!?」


 声の感じが十歳ぐらいの女の子っぽいので、デカラビアの性別は女性だと思い込んでいた七海だったが、実際に確認してはいない。


 今すぐに解明しなければならない一つの疑惑が、七海の中で生まれた。


 デカラビア。この星形平面悪魔は、女性なのか否か。もし男性だったらあれだ、この悪魔は七海の中で淫獣指定である。


 そんな、七海にとってかなり切実な質問に対し、デカラビアはしばし悩んだ後、自信なさげな声でこう言葉を返してきた。


「どちらかと言えば……私は女……かな?」


「かな? どちらかと言えば?」


 デカラビアのなんとも曖昧な回答に、七海は首を捻る。


「私に……悪魔デカラビアに……性別はない……でも……精神性別的には……私は自分のことを……女だと思ってる……」


「そうなんですか? でも、デカラビアさんって人型にもなれるんですよね? そのときの性別で判断すればいいじゃないですか」


 返答次第でデカラビアにつけようとしていた『淫獣』タグ。それを心の中で消去しながら、七海は尋ねた。昨日ネットカフェで調べた情報の中に『悪魔デカラビアは、召喚者が命じれば人の姿になる』というものが、確かあったはずだ。


「無理……私の肉体性別は……契約した人間と逆になる……私だけじゃなくて……ほとんどの悪魔がそう……だから厳密に言うと……私にじゃなくて……ほとんどの悪魔に性別がない……」


 デカラビアの発言に七海は「ほへー」と声を漏らした。そして、こう続ける。


「今の契約者は空羽さんで、男性。ということは、今のデカラビアさんの肉体性別は、その反対で女性ですね?」


「うん……そういうことになる……」


「精神性別と肉体性別が一致してよかったですね。でも、なんでそんな仕様なんです?」


「キリスト教が……悪魔と天使は両性具有って決めたから……性別が契約者と逆になるのは……そうしないと契るときに不便だから……」


 契るという直接的な単語に、七海は思わず頬を赤らめた。




 契る=固く約束することの意。

    将来を誓い合うことの意。

    男女が肉体関係を持つことの意。




「空羽さんとは……その、そういうご関係で?」


「気になるの……?」


「いや、その……少しだけ」


「求められれば……応じるよ……断る理由はない……でも、まだ……」


「まだなんだ」


「なんか……ほっとしてない……?」


「してません! なんで私がほっとするんですか!?」


 再び大声を上げる七海。周囲の視線がまたしても七海に集中する。


「こほん。契る云々の話は置いておくとして、ほとんどってことは、性別が固定されている悪魔もいるってことですよね?」


「いるよ……一番有名なのは……悪魔リリス……かな? リリスは女性で固定だし……ソロモン七十二柱では……ゴモリーって悪魔が女性で固定……あとはアスタロトと……アモンの性別が固定……」


「え!? アモンさんて性別固定なんですか!?」


 あのアモンの性別。これにはかなり興味があった。アモンの声には特徴がまったくないので、デカラビア以上に性別の判断がつかないのである。


「実際のところ、アモンさんってどっちなんですか? 男性ですか? 女性ですか?」


 七海の予想では男性。だが、ひょとしたら女性かもしれない。男と思っていたら実は女だったという展開は、七海の業界ではよくある話だ。


「七海……アモンのことも……ネットで調べたんでしょ……? わからないの……?」


「え? う~ん、ちょとわからないです」


 一緒に暮らすこととなったアモン、デカラビア両名のことは、かなり重点的に調べた七海であったが、アモンの性別を特定できるような情報は記憶にない。


「アモンのことを調べて……七海が持ったイメージは……?」


「えっと、すんごく強い悪魔ですね。あとは、炎のイメージが強いです」


 どのホームページを見ても、アモンは強大で、偉大な悪魔として紹介されていた。弱点らしい弱点も見当たらない。まごうことなき大悪魔である。


「他には……どんなことがわかった……?」


「デーモンの語源になった悪魔で、名前は『計り知れぬもの』の意。七つの大罪『強欲』のアマイモンと同一視される悪魔——とか、そのくらいです。あと、なにやら由来が複雑でした。なんでしたっけ? エジプトの至高神と、太陽神を取り込んだんでしたっけ?」


「他には?」


「さっきの以外でですか? そうですね『固有の性質を持たない悪魔』とか『特徴がないことが特徴の悪魔』とか、何度か見かけましたけど——」


「答え……もう言ってる……」


「え?」


「悪魔アモン……その最大の特徴は……特徴がないこと……つまりアモンには……男としての特徴も……女としての特徴も……ないの……」


「特徴が、ない」


 男性最大の肉体的特徴といえば——つまりあれだ。


 女性最大の肉体的特徴といえば——つまりあれだ。


 アモンには、そのどちらの特徴もない。


「ということは、アモンさんの性別は——」


「そう……アモンの性別は——」


 ここで七海は大きく生唾を飲んだ。そして、デカラビアの口からアモンの性別が語られる、まさにその直前——


「七海せ~んぱ~い!」


 と、七海から見て左側にある駅の入口から、なんともパワフルな声が聞こえてきた。


 そう、芽春である。


「友達……きたね……私は黙る……」


「ちょ、肝心なところで!」


 一番重要なところで話を寸止めされ、デカラビアの声が聞こえてくる左側に向かって思わず顔を動かす七海。だが、当然そこにデカラビアの姿はなく、きょとんとした顔で七海を見つめる芽春の姿があった。


「七海先輩? 何だか凄い顔してますけど? どうかしましたか?」


「えっと、その……な、なんでもないよ! おはよ、芽春」


「はい、おはようございます先輩! お待たせしてしまいましたか?」


「ううん、そんなことないよ。私も今きたところだから」


「そうですか、ならよかったです——って、あれ? 七海先輩、本日は随分とナチュラルな服装ですね? 七海先輩は人気声優で、有名人オーラ出まくりなんですから、少しくらい変装しないとダメですよ?」


 現在七海は、黒のタートルネックセーターに、レッドチェックのプリーツスカート、黒パンストという出で立ちだ。そして、それらの上に黒のコートを着こみ、デカラビアの器である金色の髪飾りを、定位置となりつつある左側頭部に着けている。


 衣服の多くが黒なのは、悠里と一緒だからだ。自覚していることだが、七海は悠里と一緒に出かけるときは、黒を基調にして服をコーディネートすることが多い。


 芽春の言葉通り、今日の七海は変装と言えるようなことは一切していない。こういったプライベートでの外出のときは、目敏い声優ファンを警戒し、帽子を被るだの、だて眼鏡をかけるだの、簡単な変装をすることが常なのだが、今日はそれもない。その理由は簡単だ。


「あ、うん。今日はね、自分を偽りたくない気分だったんだ」


 誰だって、人生最後になるかもしれない休日に、変装などしたくはないだろう。


「むむ? むむむ? 芽春は自分を偽ったことがあまりないので、先輩の気持ちがよくわかりません」


 難しい顔で首を捻る芽春。


 芽春の服装は、フランネル製のブラウスの上にパーカーベストを着こみ、デニムのショートパンツと黒のタイツを履くという、動きやすさを意識したボーイッシュなものだ。小柄で、童顔、活発な芽春にとてもよく似合っている。首には暖かそうなイヤーマフラーをかけていた。


「七海先輩の服装をどうこう言う資格は、もちろん芽春にはありませんけど、ファンの人たちに見つかったらどうするんです? 面倒ですよ?」


「大丈夫だよ。芽春が私を守ってくれるもん」


 七海は「頼りにしてるよ」と、芽春の肩を叩いた。すると、芽春はその両目をキラキラさせ、こう言葉を返してくる。


「は、はい! 芽春頑張ります! 必ずや七海先輩を守り抜き、その信頼にお応えしてみせます! 大船に乗ったつもりでいてください!」


 右手で握り拳を作り、己が使命感を燃え上がらせる芽春。早速不審な人物がいないかと、鋭い眼光で周囲を見回し始めた。なんとも頼りになる後輩を見つめながら、七海は笑う。


「さて、後は悠里ちゃんだけだね。気長に待とう」


「ですね。そう言えば先輩、ニュース見ましたか? 例の連続殺人事件の犯人、一昨日の夜に死んじゃってたらしいですよ」


「うん。知ってる」


 潰されるところをこの目で見たから——とは、もちろん言えない。


 連続殺人犯の死亡報道なら、七海も今朝テレビで放送されたものを確認済みである。各種メディアで大々的に取り上げられたその一報は、すでに日本中に知れ渡っていることだろう。


 連続殺人犯の死亡が各メディアで報道された今、多くの人が想像していた『いもしない空想の殺人鬼』は消えた。あの掲示板の殺人鬼は、もう二度と想力体として具現化することはない。これで事件は本当に解決。すべては空羽の計画通りだ。


「遺体から、連続殺人事件の犯人だっていう決定的証拠が発見されたらしいですね。これはきっと天罰です。やっぱり神様はいるんですよ。お空の上から人の悪行をしっかり見ているんです」


 事件の真相を知る人間として。そして、想力体の存在を知る人間として、色々と言いたい衝動に駆られる七海だったが、それをぐっと堪え、芽春の言葉に素直に頷いた。次いで、こう言葉を返す。


「そうだね、きっと神様はいるよ。そして、ちゃんと人間を見てくれてる。芽春がオーディションに合格したのも、毎日努力をしている芽春の姿を、神様がしっかり見ていてくれたからだね。努力はやっぱり報われるんだよ」


 努力大好き。努力さえしていれば夢は必ず叶う。そう信じてやまない芽春のことを思っての発言だった。しかし、七海の言葉を聞いた瞬間、芽春の表情が少し曇る。


「努力は報われる……本当にそうなんでしょうか?」


 消え入りそうな声に込められた感情は、疑惑と疑問。


 芽春には似つかわしくないこの感情に、七海は首を傾げた。どうにも様子がおかしい。


「芽春? どうしたの? らしくないね?」


「実は、昨日のオーディション、納得できてなくて……」


「え? なんで? 一番いい役が取れたのに?」


「オーディションに参加した人の中に、芽春よりずっとずっと演技が上手な人がいたんです……その人が不合格で、芽春が合格していることが、ちょっと引っかかってまして……」


 芽春は、視線を地面へと落としながら言葉を続けた。


「その人の演技は、参加者の中で頭一つ抜けたものがあったと思います。でも、合格者発表のときに名前を呼ばれたのは芽春でした。納得できなかったんでしょうね。その人、音響監督さんに食って掛かってました。『何で私じゃなくて、この子が合格なんですか!?』って、そしたら音響監督さん、その人に向かってなんて言ったと思います?」


 芽春は、ここで視線を七海の方へと移した。そして言う。


「『この子の方が、お前より若くて可愛いからだ』って」


「……」


 七海は、すぐに言葉を返すことができなかった。


「合格できたのは嬉しいです。とってもとっても嬉しいです。でも、合格できた決め手が、努力してきたことと違ってて、ちょっとすっきりしないんです。だって、可愛いなんて理由、努力じゃどうしようもないじゃないですか。芽春は、声優に容姿は関係ない、声が、実力がすべてだと思ってます。だから、モブ子ちゃんの役は芽春より、その人がやった方がいいんじゃないかなって」


「う~ん、難しいね」


 本当に、難しい問題だ。


 声優としての実力が拮抗した状態で、最後の最後で若さや、ルックスが決め手になったというのならまだしも、実力に大きな開きがあってそれでは、正直七海もどうかと思う。


「その人、音響監督さんに食って掛かったことを咎められて、オーディションを途中退場させられちゃったんです。スタジオを出るとき、私と音響監督さんをもの凄い顔で睨んでいました。しかも、その一部始終をカメラで撮影されていたんですよ? 今後の活動に絶対影響するじゃないですか」


 芽春は、再び地面へと視線を落とす。


「すごく努力していた人だと思います。なのに、その努力がまったく関係ない理由で報われなかったところを目の当たりにして、本当に努力は報われるのかな~なんて、らしくもなくセンチメンタルになってるんです。今日の芽春は」


「ひょっとして、私たちを遊びに誘ったのも?」


「はい。せっかく声優としてデビューが決まったのに、こんな気持ちのままじゃいけないと思って、先輩たちから元気をわけてもらおうって……ダメですか?」


 上目遣いで、恐る恐る七海の顔を見つめてくる芽春。自分勝手な理由で七海と悠里を呼びつけたと気にしているのだろう。


 七海は、そんな芽春の額を右手の人差指で小突いてやった。そして、笑いながら言ってやる。


「ダメな訳ないでしょ? 心置きなく、この七海先輩に甘えなさい」


 七海がこう口にした瞬間、瞳に大粒の涙が浮かべた芽春が「せ~んぱ~い!」と跳びついてきた。七海は、そんな芽春の体を正面で受け止め、よしよしと頭を撫でてやる。


「七海先輩、大好きです! 芽春は、一生先輩についていきます!」


「はいはい、一生ついてきなさい。でも、おかしいなぁ……」


「ふえ? 何がです?」


「えっとね、私『天使のホイッスル』の音響監督さんとは、何度か一緒に仕事をしたことがあって面識があるんだけど、可愛いからなんて理由で声優を選ぶ人でも、面と向かってそんなことを言う人でもないんだけどなぁ……」


 自分の知る音響監督の姿を脳内で思い浮かべ、怪訝な顔で首を捻る七海。


「何か理由があるってことですか?」


「う~ん、たぶんね。私がそう思いたいだけかもだけど」


「芽春としてはあってほしいですね、理由。その方がすっきりします」


 芽春はこう言うと七海から離れた。その瞳にもう涙の影はない。


「七海先輩から元気をもらったので、芽春はもう大丈夫です。ご心配をおかけしました」


「そっか、よかった。芽春、今日は遊ぼう。そして、一緒に不安を吹き飛ばそう!」


 七海は、私もそうしたいからと思いつつ、声を張り上げる。


「きゃは♪ そうします」


 七海の言葉に応じ、ぶりっ子のポーズで笑う芽春。空元気だろうが、それも元気の内だ。


「芽春は早く遊びたいです! 悠里先輩はまだですかねぇ?」


 右手を額につけ、せわしなく周囲を見回す芽春。待ち合わせ場所になっているこの駅は、悠里の家の最寄り駅だ。悠里が姿を現すとしたら、駅の入口からではなく、駅前の大通り。そのどこからかである。


 七海は、爪先立ちで悠里の姿を探す芽春を見て小さく笑った後、自分も悠里の姿を探そうと、周囲をぐるりと見回してみた。


 休日の駅前。大勢の人々が行き交う大通りを見回した後で、七海は思う。


 よく、動揺することなく、終始自然な動作でいられたものだ——と。


 いた。


 想力体が、いた。


 周囲を見回そうと右に顔を向けた瞬間、視界の右端に巨大な蟲の姿が見えた。


 昨日の奴だ。間違いない。


 目を合わせてはダメだ。それらをした瞬間、七海が想力体を視認できる人間だと向こうに気づかれる可能性がある。そうなった場合、あの想力体がどんな行動に出るかわからない。


 無視だ。それが一番いい。あの想力体は、七海が想力体を視認できることを知らないはずだ。触らぬ神に祟り無しである。


 七海は、顔と眼球を前方に固定し、未知の想力体がどこかへ消えてくれることを無言で願いながら、その場に立ち尽くす。


 だが——


「嘘……」


 事態の悪化に伴い、思わず口から声が漏れる。


 そう、近づいてきているのだ。蟲特有の耳障りな羽音が、七海に向かって、まっすぐに。


 もしかして、狙いは私? と、七海は冷や汗を浮かべ、生唾を飲んだ。この場から走って逃げ出すべきかとも思ったが、それをした瞬間事態が一変するかもと思うと、どうしても踏ん切りがつかない。


 そうこうしているうちに、想力体の羽音はどんどん近づいてきている。今までの人生で、間違いなく最大最悪の羽音が、七海の鼓膜を震わせ、生理的嫌悪感を掻き立てる。


 だが、それでも七海は耐えた。


 微動だにせず、視線を前に固定し、ただただ無言でその場に立ち尽くす。あの想力体が近づいてくるのはただの偶然だと信じ、理性で嫌悪感と不安を押し殺して、必死に耐え忍んだ。


 そして、ついにそのときはやってくる。


 目の前。まさに文字通りだ。その全貌が把握できないほどの近さで、蟲の想力体が七海の眼前に現れる。


 そして、その想力体は——


「……」


 何をするでもなく、七海の眼前を横切っていった。


 七海は、胸中で盛大に安堵の息を吐く。次いで思った。あの想力体がこちらに近づいてきたのは、やっぱりただの偶然だった。不安も、焦燥も、ただの取り越し苦労だったのだ——と。


「先輩? なんだか変な汗出てますよ? お加減でも?」


 七海の異変に気がついたのか、左隣にいる芽春が不安げに声をかけてきた。七海は「何でもない」と口にしつつ、顔を左に向ける。次いで驚愕した。


 尻尾の先についた毒針のようなもので、今まさに芽春のことを刺さんとしている、異形の蟲の姿が、その目に飛び込んできたのである。


 駄目!


 心の中でそう叫び、七海は異形の蟲と、芽春の間に、自らの右腕を割り込ませた。

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