009・私、御柱七海は多重人格者です

「わかりました」


 秘密を空羽に打ち明ける。そう決めた瞬間、心の中に風が吹いたように七海は感じた。


 今の今まで、家族にも、親友にも、誰一人として教えることのなかった、声優・御柱七海の秘密。墓穴の中まで持っていくつもりだったが、心のどこかで誰かに知ってほしいと願っていたのかもしれない。


「それではお話しますね。私、御柱七海は——」


 七海はここで目を閉じた。


 覚悟を決めろ。


 そう自分に言い聞かせ、七海は自らの秘密を開示する。


「多重人格者です」


 『多重人格』解離性同一性障害。


 一人の人間に、二つ以上の人格が存在している状態のこと。精神疾患の一種。


 アニメや漫画、ライトノベルなどの創作作品の世界において、お約束と言っても過言ではないキャラ設定の一つであり、この設定を持つキャラクターが一人も登場しない作品の方が寧ろ少ないと思えるほど多用される、メジャーな属性。


 そんな、もう掘り尽くされた感さえ漂う多重人格であるが、七海の場合、その趣がやや異なる。


「私は多重人格者なんです。ちょっと特殊な」


「特殊……ですか?」


 今のところ別段驚いた様子のない空羽が、首を傾げつつ言葉を返してくる。


「一般的に多重人格は、過度のストレスや、精神的ショックなどから人格を守るべく、防衛本能が人格から切り離した感情、もしくは記憶が成長することで生まれますが、私の場合は違います」


「と言うと?」


「私の場合は、私が声優として担当したアニメキャラクターの人格が、私の中にそっくりそのまま形成されてしまうんです」


「……はい?」


 これにはさすがに驚いたのか、空羽は眼を丸くし、間の抜けた声を漏らした。


「実は私、仕事中は自己暗示を使って、担当するキャラクターに人格を最適化させてるんですけど——」


「ちょ、ちょっと、七海さん? 自己暗示を使って人格を最適化って、さらっと言ってますけど、それもかなり驚きの情報なんですが……」


「あ、これもおおやけには秘密なので、オフレコでお願いします。それでですね、その最適化用の自己暗示なんですが、仕事の度に作り直すと微妙に声の質が変わってしまうので、脳内でキャラ別に圧縮保存、スイッチ一つで解凍できるようにしておくんです」


「パソコンみたいですね」


「あくまでも、私的なイメージの話ですよ?」


 自己暗示の設定保存の正確なプロセスは、七海自身よくわかってはいない。圧縮保存、解凍という表現は、単なる七海のイメージだ。


「その保存した自己暗示を、私は仕事の度に解凍、使用する訳ですが、繰り返し使用するうちに、その自己暗示が徐々に成長していくんです。キャラの性格、口調、精神年齢はもちろん、経験、記憶すらも再現した自己暗示は、成長するにつれて人格を形成し、やがて完全に独立。御柱七海の中に、新たな人格として新生するんです」


「……」


 もはや言葉もないのか、空羽は唖然とした面持ちで七海の説明を聞いていた。


「これが、声優・御柱七海の秘密。人格形成です」


 言葉を発しない空羽を無視し、七海は説明を続ける。


「一番初めに生まれた別人格は『魔法洋菓子職人シュガー』のソルトというキャラクターでした。最終回のアフレコが終わると同時に、頭の中に彼女の声が響いたんです。『こんにちは、七海。これからよろしく』って。このときは、それはもう驚きました」


 ここで七海は「声はまったく同じなんですけどね」と笑う。


「声優として仕事をやり遂げる度に、別人格は増えていきましたよ。初めは戸惑いましたけど、すぐに慣れました。元々愛着のあるキャラたちですし、友達が増えていくみたいで楽しかったです。それでですね、その中には、作中で人を殺しちゃった子もいる訳でして」


「だから七海さんは、僕のことが……」


「はい。怖くなんてありません。人殺しってだけで怖がったら、友達への裏切りです」


 人殺し=悪人という方程式は、七海の中では成り立たない。


 もちろん、空羽と七海の別人格たちとでは、架空の人物と、実在する人間の違いはあるが、その違いは七海にとってあってないようなモノだ。キャラクターも生きている。そして、キャラクターに命を吹き込むのが声優なのだ。七海は、常にそう考えて仕事をしている。


 空羽からの質問、その片方の説明を終えた七海は、ここでいったん話を区切った。空羽は、七海から聞かされた秘密を噛みしめるように一度頷くと、真剣な表情で口を開く。


「なるほど。七海さんが多重人格だということと、それが理由で僕を怖がらないことには納得しました」


 空羽の声に疑惑の感情はない。どうやら空羽は、アニメキャラの多重人格などという奇天烈な話を真摯に受け止め、信じてくれたようである。


「信じてくれてほっとしました。この秘密をちゃんと話すのは空羽さんが初めてで、上手く説明できるか不安で……」


「初めてとは光栄ですね。七海さん、その多重人格さんたち、今出せますか? ぜひともお話しをしてみたいんですけど」


「あ……」


 話の流れ的に当然とさえ言えるこの発言に、七海は言葉を返すことができなかった。僅かに声を漏らした後、悲痛な面持ちで唇を噛む。


「七海さん?」


 表情を歪め、言葉を発しない七海を心配し、声をかけてくる空羽。そんな空羽の声を後押しにして、七海はどうにか口を動かし、自分自身、今でも信じたくない事実を口にする。


「それは無理です」


「え?」


「無理なんです。私の中の別人格たちは、消えてしまいました。二年半前の、あの日に……」


 この言葉に反応し、空羽が目を細める。


「二年半前。つまり——」


「はい。私がアフレコ中に倒れた、あのときに……です」


 御柱七海、最大の秘密。二年半前の心肺停止事件。


 数多の友人を一瞬にして失い、仕事量の制限という枷をはめられる切っ掛けとなった、決して忘れることの出来ない悲劇。


 先程七海は、自分は多重人格者だと打ち明けたが、それは正確ではない。


 七海は、多重人格者だった人間だ。多重人格という言葉が示すところの別人格たちは、今はもういないのだから。


「倒れた理由は、僕のことを怖がらない理由と同じだと言いましたよね? 七海さんが倒れた理由と、先程の話、多重人格がどう繋がるんです?」


 真剣な表情でこう尋ねてくる空羽に、七海は悲しい声でこう答える。


「同調し過ぎちゃったんです。ソルトと……」


「同調?」


「はい『劇場版』で死んでしまうソルト。彼女の死に、肉体を共有する私が同調し過ぎてしまった。そのせいで、私は倒れ、死にかけました」


「え……?」


 デカラビアの「信じられない」と言いたげな声がダイニングキッチンに響いた。そして、数秒の間を要した後、デカラビアはこう続ける。


「う、嘘……死んでしまうって……なら劇場版で……ソルトは……」


「はい。劇場版の終盤、ソルトはシュガーを勝利へと導くために、その命を散らすんです」


 そう、それが魔法洋菓子職人ソルトの最後。彼女の英雄譚の幕引きである。


「信じ……られない……」


 デカラビアが今にも泣きそうな声で呟く。どうやらデカラビアは『魔法洋菓子職人シュガー』のファンでもあったようだ。


「ソルトって作中の主要キャラの一人ですよね? 劇場版で主要キャラが死亡とは、随分と思い切ったストーリーですね」


「劇場版は『魔法洋菓子職人シュガー』と、制作が決定されていた続編『魔法洋菓子職人シュガー・セカンド』との間を描いた作品なんです。劇場版でソルトは、自身の力の源である純銀のケーキナイフをシュガーに託します。セカンドでは、そのケーキナイフを受け継いだ新たな魔法洋菓子職人が主人公になるはずでした。劇場版の制作が、予定通りに進んでいれば」


 そう、すでに七海のことを一通り調べたであろう空羽と『魔法洋菓子職人シュガー』のファンであるデカラビアが、劇場版の内容を知らないことからもわかるように、劇場版も、セカンドも、その大まかなストーリーすら大衆の目に触れることのないまま、制作は無期延期となり、闇へと葬られた。その原因は、アフレコ中に七海が倒れたことに他ならない。


 アフレコ中に倒れ、心肺停止となった七海は、救急車で病院に担ぎ込まれ、一命を取り留めた。しかし、後におこなわれた精密検査では、倒れた理由は判明しなかったのである。


 だが、病院側は『原因不明』をよしとはしなかった。御柱七海は『過労』で倒れた可能性があると、そう診断したのである。


 七海を診察した医師が保身のためにそう口にしたのか、本当に誤診だったのかは定かではないが、この診断には信憑性があった。当時の七海は、不世出の天才声優として多方面から引っ張りだこで、過労で倒れてもおかしくないほどの過密スケジュールが、確かに組まれていたのである。


 この『過労』という診断にメディアが飛びついた。当時中学生だった七海を、利益のために倒れるまで酷使したと、七海の所属事務所と、劇場版の制作会社が、世間からの酷いバッシングを受けたのである。


 いつしかそのバッシングは『劇場版・魔法洋菓子職人シュガー』にも向けられ、作品の人気は低迷。制作会社の経営悪化も重なり、劇場版の制作は無期延期となり、セカンドは話そのものがなかったことにされた。


「渡された台本に目を通したときから嫌な予感はしてたんです。なにしろ初めてのケースでした。演じるキャラクターの人格が私の中で確立した状態でのアフレコも、そのキャラクターが作中で死亡するのも。ですが、それだけを理由に仕事を断ることはできません。私は——いえ、私たちは、きっと大丈夫、いつもと同じだと、互いに言い聞かせ合いながら、アフレコに臨みました」


 七海はここで目を閉じる。


「始まるアフレコ。私は不安を抱えながらも、プロとして、ソルトの声優として、マイクの前に立ちました。そして、自己暗示の解凍と同じ要領でソルトの人格を表層に引っ張り出し、私の、御柱七海の人格を深層へと引っ込めようとした、そのときです。すごいことが起きたんです」


「すごいこと?」


「ええ……御柱七海の人格、つまりは私の意識が肉体を離れて、アニメの世界に『魔法洋菓子職人シュガー』の世界に入り込んでしまったんです」


 あれはすごい体験だった。七海が心底そう思いながらこう口にすると、空羽が困惑した声を上げる。


「あの……七海さん? 言っている意味がよく……」


 目を開ける七海。すると、声の印象通りの困り顔で、盛大に首をひねる空羽の姿が見えた。アニメの世界に入り込んだという七海の言葉、その真意を測り兼ねているのだろう。


 七海は、無理もないなと思いつつ、先程の言葉に注釈を加える。


「えっと、つまりですね。アフレコをする際の視点が違うんです。声優は、アフレコブースに映し出される映像を見ながらキャラクターに声を当てますが、私はアニメの中で、ソルトと一体化しながら彼女に声を当てることができたんです。アニメをテレビの前ではなく、そのアニメの登場キャラクターと一体化して、そのキャラクターの視点で見る感じ、ですかね? もしくは、私の方がソルトの別人格になった、みたいな?」


 たどたどしい口調での、なんとも頼りない注釈だった。だが、空羽はどうにか理解してくれたようで、難しい顔で一度頷き、言葉を返してくる。


「僕は多重人格になったことがないので、どうにもピンときませんけど、要するに、そのとき七海さんは、ソルトと一体化して、ソルトの視線で『魔法洋菓子職人シュガー』の世界を体験したと?」


「はい、その通りです。でも、アフレコの最中ずっとアニメの世界に入りっぱなしだった訳じゃありません。アフレコはシーン別で撮りますから、音響監督の「OK」の声で、私の意識は現実世界に引き戻されました」


 七海は「ここで人格も、ソルトから自動的に私に戻ります」とつけ加える。


「現実世界に戻った私は、すぐに周りの人たちに尋ねました。さっきの私、どこか変じゃありませんでしたか? って。でも、皆して私のことを褒めるくれるだけでした。今までで一番凄い演技だったよ、気合入ってるねって」


 七海がこう言うと、空羽の表情が困惑顔から呆れ顔へと変わる。


「つまりはこういうことですか? 七海さんは、意識上ではソルトと一体化して、アニメの世界に入り込むなんてとんでも体験をしていたにも拘らず、肉体の方ではちゃんとアフレコをやっていたと?」


「ええ。私自身、すぐには信じられませんでしたけど、そうみたいなんです」


 意識が肉体から離れていたので七海に実感はないが、周りの反応から察するに、七海がアフレコをこなしていたのは間違いない。


「キャラクターと一体化しながらアフレコができるなら、演技力が向上するのは当然です。なにせ、演じるキャラクターと経験、感覚、感情を共有しながら演技ができるんですから」


「確かに、それなら演技力は飛躍的に向上するのが道理ですね」


「キャラクターと一体化することで得られる恩恵は、声優にとって限りなく大きいものです。アフレコを進める内に私は確信しました。この状態こそが、御柱七海の奥義だと。ずっと求め続けた、自己暗示を超える声優としての到達点なんだと」


 キャラクターとの一体化。声優・御柱七海の奥義。


 この現象は、演じるキャラの人格が七海の中で確立した状態でアフレコをした場合にのみ発現すると七海は予想している。もっとも、肝心の別人格たちが消えてしまった今、裏づけを取る機会は永遠に失われてしまった。真実は闇の中である。


「私は掴んだばかり奥義を駆使し、アフレコを軽快にこなしていきました。楽しかったですよ。憧れだったアニメの世界を実体験できたこともそうですが、アフレコ自体も楽しめました。あの日のアフレコは、笑顔の絶えない理想的なものだったと思います。回数を重ね、ソルトと一体化することに慣れた頃には、アフレコ前に感じていた不安のことなどすっかり忘れて、私も笑っていました。そう、笑えていたんです。アニメの中に入り込み、キャラクターと一体化する。これが何を意味するか本当の意味で理解する、あのときまでは」


 話の後半で口調を変え、重い声色で七海は語る。すると、話の雰囲気が変わったことを察したのか、空羽もその表情を真剣なものへと変えた。


「七海さん、それはどういう?」


「キャラクターとの一体化は、リターンも大きいですが、リスクも大きいってことです。物語中盤の戦闘シーン撮りのときでした。敵の攻撃でソルトが負傷した瞬間、私の体にも激痛が走ったんです」


「——っ!」


 視線の先で空羽が目を見開く。だが、七海はかまわず話を続けた。


「ソルトが傷を負うたびに走る激痛。当時声優であること以外は普通の中学生だった私が、痛みに慣れているはずもありません。私はアニメの世界で、ソルトの中で悶絶し、泣き喚きました」


 アニメ映画の劇中で、主人公側が一度ピンチになるのお約束だ。中盤での戦闘で、ソルトは完膚なきまでに叩きのめされる。その痛みを、苦しみを、七海はすべて自分のものとして実体験したのだ。


「辛くて、痛くて、苦しくて……死んじゃうって、何度も何度も思いました。そんな気の狂いそうな苦行が、音響監督の「OK」という声が聞こえるまで延々と続いたんです。このときの私の演技は鬼気迫るものがあったらしいですよ。心配した監督が、そのシーン撮りが終わると同時に三十分の休憩をくれたくらいです」


「七海さんの嫌な予感が、最悪の形で現実になった訳ですね」


「はい。休憩に入るや否や、私はトイレに駆け込みました。なかなか消えてくれない体の痛みに耐えつつ、ソルトを含めた別人格全員での緊急会議です。議題はもちろん『このアフレコを続けるか。それとも逃げるか』です」


「その会議の結論は——」


「満場一致で続行でした。結果どうなったかは、ご存知の通りです」


 ソルトの死亡シーン。そのシーン撮りが終わると同時に、七海の中の別人格たちはすべて消え、ソルトの死に同調しすぎた七海自身も心肺停止。救急車で病院に担ぎ込まれる運びとなった。


「これが、あの夏の日の真実です。二年半前、御柱七海が倒れた、本当の理由」


「……」


 空羽はすぐに言葉を返してこなかった。少し顔を伏せ、体の動きを止めている。一方の七海も動かない。不動、無言で、空羽の言葉をただ待った。


 互いに沈黙したまま経過する時間。そして、考えが纏まったのか、空羽が次のように口を開く。


「そのとき、逃げ出そうとは思わなかったんですか?」


「思いません。逃げれば、私はソルトの声優を降ろされ、別の声優がソルトに声を当てることになります。それは私にとって、どんな痛みや苦しみよりも耐え難いことなんです。ファンへの、ソルトへの、そして他でもない、自分自身への裏切です」


 あの日、あの時、あの場所で、御柱七海が執る選択は続行だ。何度生まれ変わっても、結果がどうなるかわかっていても、七海は同じ選択をするだろう。七海の中の別人格たちは、全員それを理解してくれていた。だからこその満場一致。


「病院で目を覚ましたとき、声優をやめようとは思わなかったんですか?」


「声優をやめるぐらいなら、私は死にます。いや、違いますね。声優をやめた瞬間、御柱七海は死ぬんです。声優は、私の夢です。そして私は、夢から目を背けません。一度でも目を背ければ、夢はその力を失います。私はそれを、他ならぬアニメから教わりました」


 生涯現役。死ぬときは、レコーディングブースの中がいい。マイクの前なら言うことなしだ。


「ひょっとして、明後日の『ベリーベリーベリー』のアフレコに拘るのも?」


「ええ、私は期待してるんです。最終回のアフレコが終わったとき、蒼井瞳の人格が私の中で新生することを。そして、それが切っ掛けになって、消えてしまった友人たちが、私の元に帰ってきてくれるんじゃないかって……」


 最終回のアフレコは、七海にとって特別な意味を持つ。圧縮保存された自己暗示が、七海の中で別人格として新生するのは、いつだって最終回のアフレコが終わった後だった。


 だが、あの事件以来、七海の中で新たな人格が新生したことはない。自己暗示も、キャラの作り方も、何一つ変えていないのに、だ。


 死に瀕したことで、七海が無意識に別人格を拒否しているのかもしれない。死の恐怖から、自己暗示に心理的ブレーキが掛かっているのかもしれない。


 理由はいくらでも考えられる。だが、原因はわからない。


 最終回のアフレコを迎える度に期待して、それと同じ数落胆した。昨日も、『ブレーメンカルテット』のときもダメだった。


 新たな別人格は生まれない。失った友人たちは帰ってこない。


 だが、七海はもう一度会いたいのだ。ソルトに、大切な友人たちに。


 だから、声優はやめられない。


 声優をやめた瞬間。かろうじて繋がっている友人との絆が、完全に切れてしまうような気がするから。


 そう、絆だ。


 御柱七海にとって、声優は夢であり、友人との絆なのだ。


 故に、七海は声優であり続ける。たとえ死んでも、声優であり続けなければならない。


「それが——」


「はい?」


「それが、声優・御柱七海なんですね?」


「そうです。声優に命を懸ける馬鹿な女。それが御柱七海です」


「凄いですね。この僕が、言葉だけで気圧されるとは思いませんでした」


 空羽はそう言って笑った。それに釣られて七海も笑う。


「そして、納得もしました。先程の話しが真実なら、確かにおいそれと人に話すことはできませんね」


「ええ。私の意思にかかわらず、私は声優を続けられなくなる。家族も、友人も、会社も、世間も、私から仕事を奪うでしょう」


 だからこそ、この真実を胸の内に封印しておいたのだ。


「僕の口からは、決して公言しないと約束します。あーしかし、あれですね。七海さんの話を聞いたら『劇場版・魔法洋菓子職人シュガー』を見てみたくなっちゃいましたね」


「え? なぜです?」


「いや、好きなんですよ、僕。主人公は目的を達成したものの、大切ななにかを失ったとか、一生消えない傷を負ったとか、そういった感じの物語の終わり方。言うなれば——そう、ビターエンド派な男なんです」


「ビターエンドですか。否定はしませんけど、私はやっぱりハッピーエンド派ですね。さて、私の話しはこれにて終わりです。私の秘密は、これで全部」


 長年の秘密を打ち明け、憑き物が落ちたかのような顔で言う七海。次いで身を乗り出し、こう言葉を続けた。


「さあ、今度は空羽さんの番ですよ。これは等価交換。私の秘密への対価を、今すぐ支払ってください」


「ええ、もちろんお話しします。僕の本当の家族は――って、あれ?」


 怪訝な表情を浮かべ、口の動きを止める空羽。空羽の話を遮るかのように、突然ダイニングキッチンに軽快なメロディーが流れたのである。


 音源は、七海のスマートフォン。


 七海はスマートフォンを手に取ると、空羽に「すいません、ちょっと待ってください」と告げ、相手の名前を確認してから画面をタッチし、スマートフォンを右耳へと運ぶ。


「もしもし、芽春?」


『あ、こんばんはです七海先輩! 今、お時間大丈夫ですか?』


「うん、大丈夫だよ。それで、何か用?」


 そうは言ったものの、七海には大体の予想はついていた。


 このタイミングでの電話。恐らく『天使のホイッスル』のオーディションのことだろう。そして、芽春の声からは溢れんばかりの喜びの感情を感じることができる。ならば答えは一つ。オーディション合格の報告だ。


『あ、はい! 実はですね、本日のオーデションなんですけど——』


「合格したんだ?」


『きゃは♪ わかります? わかっちゃいます? はい、合格しました! しかもですね、チョイ役オーディションの目玉キャラ、モブ子ちゃんの役です!』


「っえ!? やったじゃない! 初のオーディションで凄いね!」


 芽春が言うモブ子というのは、八坂美笛のクラスメイトにして、学級委員長を務める女子生徒のことだ。モブ子は本名ではなく、ファンの間で自然と定着した仮称である。本名は未だ不明。


 明るく社交的な女の子で、モブキャラの中でも出番が多い。芽春の言葉通り、チョイ役オーディションでは一番の目玉キャラだろう。


『七海先輩、芽春はやりました! 芽春は、最高の形で初めてのオーディションを終えることができました! 七海先輩と悠里先輩のアドバイスのおかげです! 芽春はお二人に、とってもとっても感謝しています!』


「合格できたのは芽春に実力があってこそだよ。これで芽春もプロの仲間入りだね。もう後輩扱いはできないかな?」


『と、とととんでもないです! 私なんてまだまだですよ! 七海先輩の足元にもおよびません! 月とスッポン! ティラノザウルスとミジンコぐらい違います!』


「大げさだなぁ。でも、それなら私と、悠里ちゃん、芽春の三人で『天使のホイッスル』のレコーディングができるね」


『はい! そのときはよろしくお願いします!』


「うん、よろしくされました。で、用件はそれだけ?」


『あ、もう一つ。七海先輩、明日の日曜日なんですけど、お暇ですか?』


「え、明日?」


『はい! オーディション合格を祝して、私と、七海先輩、悠里先輩の三人で、どこか遊びにいきたいなと思いまして!』


「明日……」


『アドバイスのお礼がしたいので、芽春がぜ~んぶ奢っちゃいますよ! 悠里先輩はきてくれるそうです。さっき電話しました』


「明日……明日かぁ……」


 七海は、スマートフォンから聞こえてくる芽春の声が徐々に遠のいていくように感じながら、空羽の方へと視線を向ける。次いで、胸中で呟いた。


 今は、遊んでいる場合じゃない。


 本心ではもちろんいきたい。大切な後輩の門出を祝ってあげたいと思う。しかし、今は一秒でも多く空羽との時間を作るべきだ。明日の日曜日は、その絶好の機会。それを逃す訳にはいかない。


「あの……ごめんね、芽春。明日は——」


「いけばいいじゃないですか」


「え?」


 七海の「いけない」という一言を、空羽が遮った。そして、空羽はなおも言葉を続ける。


「いけばいいと言ったんです。どうせ僕は明日もバイト。家にいたところで、僕との時間は大して作れませんよ」


「でも……」


「でも、なんですか? まさか、僕のバイト先までついてくるとか言いませんよね? もし言うなら、それは迷惑ですのでお断りします。いってあげてください。大切なお友達なんでしょ?」


 この言葉と共に空羽は笑った。その笑顔と、言葉に込められた感情に後押しされ、七海はこう口にする。


「わかりました。いってきます」


『七海先輩? 誰かとご一緒ですか?』


「あ、うん。ちょっと友達がね。明日は大丈夫だよ。覚悟しててね、芽春。たっくさん奢ってもらっちゃうんだから」


『あう、お手柔らかに……』


「あはは、嘘々。いつもの場所に、朝十時でいいかな?」


『はい! それでは明日!』


 この言葉を最後に電話は切れた。


 七海はスマートフォンを手放し、再度空羽を見つめる。そして「気を使ってくれてありがとうございます」と頭を下げた。


 対する空羽は「お気になさらず」と答えた後で立ち上がり、ダイニングキッチンの出入り口に向かって歩き出す。


「空羽さん、どちらへ? お話がまだ――」


「七海さんが僕の秘密よりもお友達との電話を優先されましたので、興が削がれました。話の続きはまたの機会ということで」


「ちょ!? それじゃ等価交換にならな――」


「それに」


 七海が口にしようとした不平不満を、たった一言で封殺する空羽。次いで、申し訳なさげな顔で言葉を続ける


「僕の秘密は今聞かない方がいいと思います。明日、友達の前で笑顔でいたいのなら――ね」


「え?」


「安心してください。対価は後日、必ずお支払いします。あ、お風呂お借りしますね」


 こう言い残し、空羽はダイニングキッチンを後にした。

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