013・私が空羽さんを養います

「アモンさん……ですよね?」


 空羽と共に路地裏に降り立った、黒炎を身に纏う長身の騎士。その後ろ姿を見上げつつ、七海は恐る恐る尋ねた。すると、長身の騎士は重厚な見た目とは裏腹に、軽やかな動作で後ろを振り返ると、七海の顔を見下ろし、こう言葉を返してくる。


「ふん、無事だったか」


 まったく特徴のない、不思議な声だった。声優である七海でも、男なのか女なのか判別できない、分類不能な声。


 アモンの声だ。間違いない。


「はい、なんとか。とりあえず五体満足です」


 この言葉と共に、安堵の笑みを浮かべる七海。そして、器から飛び出し、真の姿を現したアモンの全貌を、改めて観察する。


 その容姿は『黒炎の騎士』だった。


 鳥の頭蓋骨を模した禍々しいヘルムで頭部を覆い隠し、蒼白いフルプレートアーマーで全身の防備を固めた、人型の騎士。


 ヘルムには漆黒の飾り羽が二枚あしらわれ、鎧の胸当ては狼の頭部を模している。関節部から垣間見える鎧の下には、鎧と同色のテーピング状の防具が幾重にも巻かれていた。


 漠然と眺めただけでも、アモンの全身が一部の隙もなく防具で覆われていることがわかる。その面貌どころか、肌の色すら確認できない。強いて言えば、臀部から伸びた尻尾、鱗という名の鎧で覆われた、蛇皮の尻尾だけが、唯一視認できるアモンの肉体と言えた。


 禍々しくも美しい、実に見事な鎧である。一目見ただけで眼球に焼きつき、魂にまで刻み込まれる神魔の戦化粧。そして、彼が身に纏う戦化粧は、鎧だけではない。


 黒い炎。


 アモンの周囲には、黒い炎が常に漂っている。


 アモンの体を包むフルプレートアーマーと、テーピング状の防具。それらが作るほんの僅かな隙間から、黒い炎が吹き出しては消え、噴き出しては消えを延々と繰り返し、アモン自身と、その周囲を青黒い光で照らしていた。その闇の光が、悪魔アモンという存在をより一層際立たせている。


 これが、アモン。


 数いる悪魔の君主たち、その中で最も強靭であるとされ、幾多の神とその力を取り込んだ、四十の軍団を従える大いなる侯爵。名前だけで大手の動向を左右しかねない、強大な想力体。その真の姿。


 しかし、七海はアモンのその姿に、なぜだか違和感を覚えた。


 違う——と。


 確信はない。だが、なぜかそう感じる。


 あの姿は、違う。本当の意味でアモンの真の姿ではない。七海はそう感じ、そして、それでいいのかもしれないと思った。


 アモン。その名は「隠されしもの」「底知れぬもの」「計り知れぬもの」を意味する。


 名は体を表す。あの鎧の内側には、底すら計ることの出来ない、隠された『ナニカ』があるのだろう。


 きっとそれは、世に出ない方がいいものなのだ。謎のまま、人の目に触れない場所に、永遠に隠しておいた方がいいものに違いない。


「ふむ、思いの外元気そうだな。まあ、お前との繋がりで、大きな怪我をしていないことはわかっていたが」


 小さく頷きながら言うアモン。七海がアモンのことを観察していたように、アモンもまた七海のことを観察していたのだろう。


「さて七海。早速だが、お前には伝えておかねばならないことがある」


「ふえ?」


 アモンの言葉を聞いた瞬間、七海の背筋に凄まじい悪寒が走った。アモンの声に、僅かだが怒りと、失望の感情が含まれていたのである。


 それら感情は、デカラビアに毒を盛ったアバドンに向けられたものでも、こちらの様子をうかがっている樹梨に向けられたものでもない。紛れもなく、七海自身へと向けられた感情だった。


「お前も知ってのことだが、空羽は今日もバイトだったのだ。そのバイトを、お前を助けるために店の支配人に無理を言って抜け出してきた。これが何を意味するか、わかるな?」


「え、えっと……」


「そう。それはつまり、空羽の収入と、職場での信用が減少したことを意味する。高校進学を控え、何かと入用なこの時期に、だ。この落とし前、貴様はいったいどうつけるつもりだ?」


「それは、その……あ、あはは……」


 咄嗟に笑顔での誤魔化しを図る七海だったが、どうやら逆効果だったらしい。アモンは七海から視線を外し、こう言い放った。


「審判のときは明日の夜。その瞬間をせいぜい楽しみにしていろ」


「そんなぁ~!?」


 どうやらこの場を乗り切ったとしても、御柱七海の命運は明日の夜に尽きるらしい。


「アモン、バイトのことは別にいいから。って言うか、アモンが七海さんを殺しちゃったら、それこそバイトを抜け出してまで助けにきた意味がなくなっちゃうんだけど?」


 空羽は呆れ顔で左隣にいるアモンを窘めると、待ち望んでいた救援者の片割れから放たれた、あまりにあんまりな言葉に打ちひしがれ、今にも崩れ落ちそうな七海へと視線を向ける。そして、七海を安心させるように微笑み、こう口を開いた。


「七海さん、ご無事でなによりです。もう大丈夫ですよ」


「空羽さぁん……」


 ようやく聞けた優しい言葉。その声に込められた労いと安堵の感情に、思わず涙しそうになりつつ、七海は空羽の名を呼んだ。


「相変わらず空羽は甘い。大事になって解雇なんてことになってみろ、目も当てられんぞ。七海の存在はお前にとって害悪なのだ」


「まあまあ。アモン、とりあえず落ち着いて。想力絡みのごたごたで、いつかバイトをクビになることも想定してあるからさ。大丈夫だよ、なんとでもなるって」


「そ、そうですよ! 大丈夫ですアモンさん! 心配なんてしないでください! もしものときは、私が空羽さんを養いますから!」


 なんだかとんでもないことを言っている気がするが、とにかくアモンの好感度を上げようと、声を張り上げる七海。


 やけくそ気味に口にした言葉だったが、何かしらの効果はあったようで、アモンは右手を口元にあて「ふむ、それなら」と唸り、空羽は「まるでヒモだな」と、複雑そうな表情で天を仰いだ。


「まあ、その話は後でするとして——」


 仕切り直すようにこう呟いた後、空羽は険しい表情でこちらの様子を窺っている樹梨と、アモンのことを興味深げに見つめるアバドンに視線を向けた。


「やり合う前に一つ聞きたいことがあるんですけど、いいですか? 稲葉樹梨さん?」


 デカラビアとの繋がりで、ある程度の事情をすでに把握しているのか、いきなり樹梨の名前を口にする空羽。毒々しい百足と共に激情も吹き飛んだらしい樹梨は、空羽に警戒の視線を送りつつ、こう言葉を返す。


「何かしら、ヒモ男さん?」


「僕はヒモじゃありません。『怨嗟の声』の掲示板のことなんですが……」


「あの掲示板が、何よ?」


「いや、実はですね、ずっと引っかかっていたことがあるんですよ。七海さんの手前、ネットカフェでは事件は解決したと言いましたが、実を言うと、あの殺人鬼にかかわる一連の事件には、未解決の事件がまだあるんです」


「未解決事件?」


 空羽の背中を見つめつつ首を傾げ、七海は困惑の声を漏らした。


「ええ。ほら、あの掲示板に添付された、証拠画像の事件ですよ。いもしない空想の殺人鬼が大量の想力を得る切っかけになった事件でありながら、その殺人鬼が起こした連続殺人事件の影に隠れてしまって、ほとんどの人に忘れられてしまった事件」


「えっと、それって……」


 空羽が言う事件というのは——




《投稿者・名無しさん

『すっげ、まじすっげ! 俺の書き込んだ奴も死んだ! この掲示板すげーよ! 絶対なにか憑いてるよ! このサイト作った奴、まじで神!』》




 という書き込みと共に添付された、証拠画像つきの事件のことだ。


 たしか、犯人は逃走中で、その情報は一切なしという、刃物による刺殺事件。


 七海は、この事件をしばし自分なりに考え、ある事実に気がついた。


「あ、そうですよ! この事件だけは解決してません!」


 そう、この事件は未解決だ。これは『怨嗟の声』の殺人鬼が起こした事件でも、偶然が引き起こした事故でもない。


 あの殺人鬼が生まれたのは、犯人の手掛かりが一切ないこの殺人事件が、各メディア経由で全国に広がり、いもしない空想の殺人鬼が、多量の想力を得たことに起因している。過程より先に結果が出るはずがないのだから、あの殺人鬼にこの事件は起こせない。他の何者かが起こした事件のはずだ。


「ついさっきまでは、この事件の解決は僕じゃなくて、警察の仕事だと思っていたんですけど、七海さんとのやり取りで確信しました。あの事件はあなたの仕業、書き込みは自作自演ですね? しかも、被害者は手ずから殺した。違いますか?」


 この言葉と共に、右手で樹梨を指差す空羽。すると——


「ちっ」


 図星だったのか、樹梨は憎々しげに空羽を睨み、舌打ちをして見せる。


「あの、空羽さん。なんでそんなことがわかるんです?」


 空羽は『手ずから』と言った。それはつまり、樹梨が自らの手を汚したことを意味している。


 時期的に考えて、樹梨はこのときすでにアバドンとの契約を終えていたはずだ。なら、人殺しなんて人生を棒に振りかねない行為を、自らの手でおこなう必要性はまったくない。想力体であり、一般人には認識されないアバドンにやらせたほうが簡単だし、確実だ。何せ、痕跡が何一つ残らないのだから。


 掲示板の書き込みが樹梨の自作自演というのは理解できる。想力を手っ取り早く集めるために、一人くらいなら大手は動かないだろうと高を括って、人殺しを断行したことも、理解できなくもなかった。


 だが、アバドンではなく樹梨が、自らの手を汚さなければならない理由。それがわからない。


「アバドンにも弱点はあるってことですよ、七海さん」


 自分では答えを出せない七海に、空羽は得意げな顔で告げる。


「弱点?」


「そう。アバドンは、人を殺せない想力体なんです」


「え?」


 人を殺せない?


 そのあまりに意外な事実に、七海は言葉を失った。そんな七海を尻目に、空羽は話を続ける。


「堕天使アバドンは、初めから堕天使だった訳じゃない。元々は、神に仕える潔白な天使だった。それも、地獄の最深部にサタンを千年もの間幽閉するという、大役を任せられるほどに偉大な天使。しかし、終末のときに彼が執行する過酷な職務ゆえか、いつしかその存在は歪められ、堕天使と解釈されるようになった」


 アバドンの職務。それは、第五のラッパが鳴らされたとき、キリスト教徒以外の人間に、五ヵ月もの間死をも上回る苦痛を与えること。


「アバドンの毒は確かに猛毒です。しかしその毒は、けして人を殺めはしない。それがアバドンの最も恐ろしいところであり、弱点でもある。アバドンは許されていないんです。神から人を殺めることを」


「ぐ……」


 相棒の弱点を暴露され、苦々しく表情を歪める樹梨。そんな樹梨を真っ直ぐに見つめながら、空羽は尚も言葉を続けた。


「あの殺人鬼を作ったのは、そんなアバドンの弱点を補うためでもあったんでしょ? あなたが大手を必要以上に恐れるのもそう。あなたはキリスト教が怖いんだ。アバドンはその伝承ゆえに、キリスト教徒には一切手出しできませんからね」


 空羽はここで口の動きを止めると、樹梨の内面を見透かすかのように目を細めた。そして、声色を変えて樹梨を糾弾する。


「何が『夢がかろうじて私を支えてた』だ。自分にとって都合のいい殺人鬼を作り出すために、他者の命を利用したあなたは、その時点で人の道を外れてる。夢を言い訳に使うなよ。七海さんの友達に、責任転嫁してんじゃねーよ」


「黙って聞いていれば、このガキ……」


 体を細かく震わせて怒りを堪える樹梨。そんな彼女の横で、アバドンが小さく溜息を吐き、次いで声を発した。


「ふう、こちらの弱点はすでにお見通しか。いやはや、これも一種の有名税なのかな? やはり知名度が高すぎるというのも考え物ですね、アモン卿」


「その点についてはおおむね同意するが、生憎と私には、貴殿のようにわかりやすい弱点はないぞ。蝗の王」


「心得ているよ。まったくもって羨ましいことだ」


 心底羨ましそうにこう言った後、アバドンはその体を「やれやれ」と左右に振る。


 デカラビアのときと同じように、どこか互いを尊重したやり取りを見せるアモンとアバドン。そんな地獄の権力者同士のやり取りをよそに、七海は空羽にこう尋ねた。


「あの、空羽さん。人を殺せないってことは、私は別に、イナゴから逃げなくてもよかったんですか?」


「まあ、アバドン——イナゴに殺されることはなかったはずです。でもその場合は、病院のベッドで五ヵ月間、死以上の苦痛にもがき苦しむことになるか、もしくは毒で身動きが取れなくなっているところを、あの女に殺されるか。そのどちらかになっていたと思いますけど」


 人目がある場所でやられたら前者、人気のない場所でやられたら後者か。と、七海は顔を青くする。


 そんなとき——


「ああもう!」


 樹梨がイラついた様子で大声を上げた。そして、声を荒げてこう続ける。


「さっきからつまらない御託をグチグチと! 結局あんたは何が言いたいわけ? ええそうよ、私は人殺しよ。どうしようもない悪党よ。でも、それが何? それはあんたも同じでしょ? あんたが何人も人間を殺してるってことは、こっちだって知ってんだから」


 薄ら笑いを浮かべ、お返しとばかりに空羽のことを揶揄する樹梨。そんな樹梨に向かって、空羽は実にさわやかな笑みを返した。次いで言う。


「ええ、僕もれっきとした人殺しですよ。でもね、その事実に対して、言い訳や、言い逃れをしようとは思いません。それは僕の罪だ。他の誰のものでもない、僕の罪。僕が何を言いたいかって? 僕はただ、一人の人でなしとして、ろくでなしとして、同じ穴の貉として、自分のしたことを棚に上げて被害者面をしているあなたが、個人的にいたく気にいらないんですよ。それに、あなたが犯した悪事の詳細を知っていれば、ほら——」


 空羽はここで言葉を区切り、右手を強く握り締める。


 瞬間、空羽の存在感が爆発的に増したことを七海は感じ取った。蛇に睨まれた蛙の如く体の動きを止め、ただただ空羽の背中を凝視してしまう。


 守られる側の七海ですらそれだ。敵対し、正面から相対している樹梨には更に強く作用したらしい。存在感は威圧感と名を変え、まるで物理的な力でも持っているかのように、樹梨の足を一歩、また一歩と後退させる。


 七海と樹梨。二人の女性の喉が、ほぼ同時に生唾を飲んだ。直後、空羽は純然たる殺意の感情を声に乗せて、こう言い放つ。


「あなたを始末した後、世間を納得させる理由を用意するのが楽で、色々と助かるじゃないですか」


「じょ、上等だこのクソガキがぁぁあぁあ!」


 威圧感を跳ね除けるように絶叫する樹梨。右腕を突き出し、空羽へとアバドンをけしかける。一方の空羽はアモンと並び立ち、左半身を前に出した簡単な構えを取った。


「やれアバドン! お前の毒であのガキを侵してやれ! 苦痛でもがき苦しませた後、私がバラバラに解体してやる!」


「御意! ふふ、地獄最強の一角と目される、かのアモン卿と死合う日がこようとはな! 血が滾る!」


「いくよ、アモン。七海さんのこともちゃんと守ってよね。対価を支払う前に死なれると僕が困る」


「わかっている。明日の夜までは生きていてもらわねばな。私も、自分の言葉には責任を持ちたい」


 二人の想力師と、二体の想力体。それらの感情と思惑が交錯し、ついに戦いの火蓋が切って落とされる。


 東京の路地裏で、神話の世界の戦いが始まった。

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