007・てへ、やっちゃった

「ああ、もう! 私のバカ、バカ、バカ~!」


 自分自身を罵倒しながら、七海は『天使のホイッスル』の最終オーディション会場であるレコーディングスタジオに向かって全力疾走していた。


 ネットカフェでソロモン七十二柱について調べていたら、あれもこれもと関連事項が気になりだし、まだ少し時間がある。これを見たら店を出よう。最後にこれだけ——といった具合に調べものを続け、気がついたら時間ぎりぎりになっていたという、典型的な「てへ、やっちゃった♪」状態である。


 自己嫌悪で胸をいっぱいにしつつも、ただひたすらに走る七海。ほどなくしてレコーディングスタジオが見えてきたが、走る速度は緩めない。間に合う。間に合わせる。ただそれだけを考え、一心不乱に足を動かし続けた。


 駐車場を駆け抜け、一直線に正面玄関へ向かう。目前に迫る自動ドアが開くと同時に体を滑り込ませ、他のオーディション参加者たちの視線を全身に感じながら、ビル一階に備えつけてある時計で時間を確認した。


 十一時五十八分——


「まに……あった……」


 息も絶え絶えといった様相で呟く七海。次いで、定まらない足取りで受付に向かう。


 心配の言葉を掛けてくる受付担当者に、七海は視線だけで「大丈夫です」と伝え、差し出された名簿に震える手で名前を書き込む。その後、受付から離れ、空いていた椅子に倒れ込むように座った。


 顔を伏せ、呼吸を整えることに努める七海。すると、誰かが正面から近づいてくる。


「大丈夫、七海ちゃん?」


 聞き慣れた声、悠里だ。


 七海が顔を上げると、そこには七海と同じく私立明声学園の制服に身を包んだ七井悠里がいた。首を傾げながら、心配そうな表情で七海を見下ろしている。


「遅刻ぎりぎりで駆け込んでくるなんて珍しいね。どしたの? 寝坊?」


 この何気ない質問に、七海は左手を悠里に向けて突き出し、呼吸が整うまで待ってと伝える。


 本当のことを言う訳にはいかない。何かないかと思考を巡らせていると、突き出している左手の薬指、そのつけ根の傷口が目に入った。


「き、昨日の夜……指、ひっかけちゃって……血が多めに出て……慌てて……テンションが、変に……眠れなくて……」


「それで寝坊したの? 災難だったね。傷は大丈夫? 痛む?」


 この場ででっち上げた遅刻の理由を素直に信じてくれた様子の悠里に、心の中でほっとする七海。次いで辺りを見回した。


「め……芽春は……?」


「芽春ちゃんが参加するオーディションは私たちのずっと後だよ。十八時からだって。今日は会えないと思うよ」


「そっか……情けないところ……見られなくて……よかった……」


 そう言った後で、弱々しく七海は笑う。そして、それとほぼ同時に、何者かが階段を下ってくる足音が聞こえてきた。


 声優たちの緊張が一気に高まる中、七海が階段の方に視線を向けると、二人の成人男性の姿があった。アニメ『天使のホイッスル』の監督と、音響監督である。


 デモテープによる一次審査を突破した『天使のホイッスル』主要キャラのオーディションに参加する声優、約三十人。音響監督はそれらを一瞥した後「では、これよりオーディションを開始します」と口にし、監督と共に階段を上り出した。


 移動が始まる。


 七海は椅子から立ち上がり、悠里と並んで両監督の後を追った。


 階段を上りながらハンカチを取り出し、顔の汗を拭う。すると後ろから「御柱七海があの様子なら、私にもチャンスが……」と、同じ八坂美笛役の最終候補声優の独り言が聞こえた。


 七海は無言で苦笑いを浮かべ、確かにコンディションは最悪だな——と、素直に認めた。


 まだ息は荒い。喉に乾きも感じる。いつもは欠かさない前日の予習もできなかった。何より、このオーディションにかけるモチベーションが低い。


 今はオーディションに参加している場合なのか? 他にやるべきことがあるんじゃないのか? そもそもこのオーディションに受かっていいのか? 明後日には死ぬかも知れないのに? と、悩みは尽きない。


 原作『天使のホイッスル』は、コミックス累計一千万部を超える大人気漫画。そして、アニメの放送時間はゴールデンタイムになることがすでに決まっている。他の声優たちのモチベーションはさぞ高いことだろう。メインヒロインである八坂美笛役なら尚更だ。


 こんな状況で合格できるのか? と、七海の心に不安が芽生えたとき、声優たちが足を止める。そして、音響監督の「それでは早速始めます」という声が聞こえた。


「メインヒロインの八坂美笛からです。御柱七海さん、準備お願いします。同じく八坂美笛を演じる方は、御柱さんと一緒にアフレコブースへ。他の方たちはこちらの別室へどうぞ。別室の方でもカメラが回っており、オーディションに対する意気込みなどの質疑応答が一人ずつおこなわれますので、ご留意ください」


 よりによっていきなり私か! と、七海は心の中で絶叫する。


「七海ちゃん、がんばってね!」


 悠里の声援に送り出され、七海は監督、音響監督の後に続き、コントロールルームの中に入った。


 コントロールルームの中には『天使のホイッスル』の原作者と、その担当編集、他にも数人のスタッフと、大きなカメラを抱えるカメラマンがいた。七海は原作者の先生に向かって丁寧に一礼してからアフレコブースへと向かう。


 他の声優の「よろしくお願いします」という声を聞きながら扉を開け、七海はアフレコブースの中へ。


 マイクの正面に立ち、他の声優達が入室し終えるのを待つ。そして、全員の入室をしっかり確認してから、視線をガラス越しのコントロールルームへと移した。


「では、始めてください」


 アフレコブース内のスピーカーから、音響監督の声が聞こえた。


 七海は大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。


 呼吸はだいぶ落ちついた。だが、頭の中はオーディション以外のことでいっぱいだった。


 空羽のこと、ソロモン七十二柱のこと、想力のこと、これからの生活のこと。他にも、他にも。御柱七海の頭の中はぐちゃぐちゃだ。


 もっとも、こんな考え——


「エプタメロン所属、御柱七海です。よろしくお願いします」


 キャラと向き合えば、自然と消える。


 私は八坂美笛。


 七海は心の中で一言呟き、長い時間をかけて作り上げ、いつでも発動可能にしておいた自己暗示を解凍する。


 瞬間、御柱七海のキャラクターは、八坂美笛に最適化された。


 性格、口調、精神年齢はもちろん、原作漫画と設定資料集を熟読して作り上げた、八坂美笛としての経験、記憶すらも心の中で再現。キャラクター変更期間は、演技終了までとした。


 それじゃ、後はよろしく。八坂美笛に最も近づいた私——



     ◆



 顔つきと目の色、その双方が変わると同時に、七海の演技が始まった。


 マイクに向かう彼女の手に、台本はない。


 コントロールルームにいた原作者が、目を見開いて身を乗り出した。


 監督が「さすがだ」と何度も頷いた。


 音響監督は「こりゃ決まりだな」と、評価を記入するはずだった用紙と赤ペンを放り出した。


 この後に演技する声優たちの瞳から闘志が消え、手から台本が落ちた。


 そして、皆一様にこう思った。


 まるで、本物の八坂美笛がそこにいるようだ——と。



     ◆



「合格者は、八坂美笛役・御柱七海さん。天塚楓役・七井悠里さん。続いて——」


 参加者全員の演技が終わった後、音響監督から告げられる合格者の名前。


 カメラを意識してか、名前が読み上げられる度、やや過剰とも取れる反応を見せる声優たち。満面の笑みで両手を上げる者や、落胆の表情で肩を落とす者と、反応は様々である。


 そんな周囲の反応とは裏腹に、七海に動きはない。真っ先に名前が呼ばれたにもかかわらず、複雑な表情で合格者の名前を聞いていた。


 本当にこれで良かったのかな? と、七海は心の中で呟き続ける。


 その後、合格者と音響監督とで簡単なミーティングをおこない、作品に賭ける意気込みを一人一人カメラの前で語った所で、今日のところは解散となった。


 七海は共演することになった声優たちと、これからお互いに頑張ろうと握手を交わし、別れを告げ、悠里と並んで一階出入り口に向かう。


「これで七海ちゃんのレギュラー枠が一つ決まった訳だね。持てるレギュラーは後一つ。で、何にするの?」


 階段手前で口を開く悠里。その顔はキラキラの笑顔。声から感情を読み取るまでもなく、かなりご機嫌だということが一目でわかる。まあ、ゴールデンタイムのレギュラーが取れたのだから、当然と言えば当然なのだが。


「何にするって、私が選べる訳じゃないし」


「選べるも同然だよ! 七海ちゃんがオーディションに落ちるはずないんだから!」


 そう言うと、悠里は変わらぬ笑顔で七海の背中を力強く叩いてくる。


「ちょ、ちょっと悠里ちゃん! 階段! 今階段! 落ちるってば!」


「はは、ごめんね。でさ、何かある? これをやるために、もう一つレギュラー枠を開けてある。みたいな感じの作品!」


「悠里ちゃん、テンション高すぎだよ。えっと、そうだね、今は——」


 七海はここで一度言葉を止め、両手を強く握りしめる。


「明後日の『ベリーベリーベリー』最終回のことしか考えられない、かな」


 それが、声優・御柱七海の、最後の仕事になるかもしれないのだから。


「……ねぇ、七海ちゃん。ひょっとして、何かあった?」


 七海の言葉から何かを察したのか、笑みを消した悠里が怪訝な顔で尋ねてくる。


 途端に悠里に泣きつきたい衝動にかられる七海。何もかも悠里に打ち明けて、少しでも楽になりたい。そう思った。


 だが、それはできない。


 悠里を、大切な親友を、巻き込むことはできない。


「ううん。別に何も」


 七海は笑う。精一杯の作り笑いで。


「ごめん、悠里ちゃん。私、用事があるんだ。じゃあね」


 悠里の次の言葉を聞くのが怖くて、足を速める七海。足早に階段を下り、一階へ。そのまま逃げるようにビルを後にする。


 ビルを出て駐車場へ。七海はそこで足を止め、後ろを振り返る。その視線の先に悠里の姿はない。


 目頭が熱くなり、涙が出そうになったが、どうにか堪える。


 体の向きを戻し、顔を伏せながら歩き出す七海。アスファルトを踏みしめるその足は、驚くほど重かった。


「お腹空いたな……」


 下を向いたまま、暗い顔で呟く。


 スマートフォンで現在の時間を確認。時刻は四時三十分だった。オーディションが正午からだったので、昼食はまだ食べていない。朝食が豪勢だったとはいえ、お腹が減っていて当然だ。


 お腹が減っているから気持ちが沈んでいるんだ。すぐに何か食べよう。どうせならうんと贅沢してやる。カロリーも値段も気にしない。そう決めた。


 思考を切り替え、これから食べる昼食に想いを馳せる七海。そんな七海が駐車場を後にしようとした、まさにそのとき——


「こんにちは、御柱さん」


 右斜め前方。七海と入れ違いになる形で駐車場に足を踏み入れた女性が、簡単な挨拶をしてきた。


「あ、はい。こんにちは」


 慌てて顔を上げ、条件反射的に挨拶をしながらその女性とすれ違い、駐車場から歩道に出る七海。その後、体を大きく震わせ、硬直した。


 すれ違う瞬間、見た。


 確かに見た。


 蟲を。


 先程すれ違った女性。その背後に、日本では、いや世界中探してもまずお目にかかれないであろう、巨大な蟲が飛んでいるのを、見た。


 想力体だ。間違いない。


 確認のため、七海が首を動かして後ろを振り返ろうとすると——


「ダメ……」


 デカラビアの小さい声が聞こえた。そして、動き出していた七海の首が止まる。


 髪飾りの中のデカラビアが、七海が振り返ろうとした方向とは真逆に力をかけ、首の回転を阻止したのだ。


「そのまま……何事もなかったように歩いて……この場を離れる……」


 七海の家や、ネットカフェのときと違い、命令口調のデカラビア。七海は生唾を飲んでから小さく頷き、無言でデカラビアの指示に従った。歩いてその場を離れる。


 自然に、自然に。そう自分に言い聞かせる七海。どうしても早歩きになってしまう足で、ただひたすらに駅を目指す。もう空腹は感じていなかった。食事なんて後でいい。今は、一刻も早く自宅に戻りたい。


 七海の職場とも言えるレコーディングスタジオ。そこに想力体が出入りしていた。その事実が、七海に空羽の言葉を思い出させる。


 想力に関係する事件が、一生七海について回る。


 この言葉は真実だった。そして、七海は諦めと共に再確認する。


 ああ、私の日常は壊れてしまったんだな——と。

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