004・ああ! 私の日常が音を立てて壊れていく!

「あの……その……サ、サササ、サイン……ください……」


「……」


 空中を浮遊し、人語を解する星型の平面生物にサインを求められた声優は、私以外にいるのだろうか?


 九死に一生を得て、どうにかこうにか迎えた土曜日の朝。自宅のダイニングテーブルにつきながら、御柱七海は自問する。


「七海さ~ん。卵は目玉焼きがいいですか? それとも軽く混ぜたほうが? スクランブルエッグでもいいですよ~?」


 すぐ横のキッチンでは、昨夜七海を救い、そして殺そうとした男の子、門条空羽が、とても楽しそうに朝食を作っている。


「ふむ、予報によれば本日の天気は快晴なり、か。よし、護衛の任に支障なし」


 七海の隣では、誰も腰かけていない椅子の背凭れにとまる喋るカラスが、真剣な眼差しで今日の天気を確認している。


「はは……あはは……」


 七海の口から乾いた笑い声が漏れた。


 どれもこれも、七海の日常的な朝とはかけ離れている。


 昨夜、後始末があるからと、空羽とショッピングモールで別れ、夢じゃないことを何度も何度も確認しつつ自宅に戻り、お風呂に入った後、急激な眠気に襲われ、後のことは明日考えようそうしようと結論を出し、オーディションの予習は諦め、怪我の手当てもそこそこにベッドに入り、寝て起きたらこの有様だ。


 現在の服装はパジャマであり、髪には寝癖がついている。正直、昨日知り合ったばかりの赤の他人に見せられるような姿ではない。ないのだが、そんなことを気にしている心の余裕は、今の七海には微塵もなかった。


「七海さ~ん? あの、卵は~?」


 右手にフライパン持った空羽が再度尋ねてくる。七海は小さく溜息を吐いた後、簡潔に答えた。


「スクランブルエッグで」


「はい、了解です」


 七海の返答を聞くと空羽は笑い、フライパンをコンロにかける。そして、十分に熱した後、左手だけで卵を割り、バター、牛乳と共にフライパンの中へと投入した。


 食材を菜箸でかき混ぜ、鼻歌交じりに調理を進めていく空羽。見ていて清々しいほどに手際が良い。この家の住人である七海以上にキッチンを使いこなしているように見える。かなり料理が上手なのだろう。


 だが——


「あんなフライパン、私の家にあったかな?」


 どうにも見覚えがない。フライパンだけでなく、菜箸もだ。妙に新しくも見える。道中で購入したものを空羽が持ち込んだのだろうか——


「って、そんなことを考えてる場合じゃない!」


 七海は頭を抱えながら叫び、テーブルに突っ伏した。 


「ああ! 私の日常が音を立てて壊れていく!」


「ほう、それは興味深いな。いったいどんな音だ?」


 聞いてきたのはカラス。その問いかけに、七海は少し悩んでから言葉を返した。


「そうですね。例えるならば、険しい山道の途中、足場が突然崩れて、谷底に落ちていくかのような音です」


「そんな経験があるのか?」


「ええ、あります。アニメで何度も見ました。険しい山道でのお約束ですからね。谷底に落ちるキャラを自分で演じたこともあります」


「ふむ、なるほど」


 納得がいったのか、七海の言葉に小さく頷くカラス。そんなカラスにどうしても聞いておきたいことがあり、七海は恐る恐る会話を続けた。


「えっと、それでですね……その、カラス……さん」


「アモンだ」


「え?」


「アモン。私の名前だ。憶えておけ」


「あ、はい。わかりました」


 アモン。それがこのカラスの名前らしい。


「それじゃあアモンさん。聞きたいことがあるんですけど……」


「何だ?」


「あの、どうやって私の住所を調べたんですか? あと、どうやってここに入ったかも教えていただけると……」


 七海はかなりの人気声優だ。当然だが、その個人情報は固く保護されている。その中でもトップシークレットである住所を空羽たちは一晩足らずで調べ上げ、しかもマンションのセキュリティを突破し、家の中にまで入っているのだ。気にならないはずがない。


 アモンは「ああ、それか」と呟いてから、七海の方に顔を向ける。次いで、淡々と喋り始めた。


「昨日の夜、私がお前の血液を採取したことは憶えているか? あのとき、私とお前は繋がったんだ。もっとも、今は『お前から私に』の一方通行だがな」


「つな……がった?」


 意味こそ正確にはわからなかったが、七海はアモンの言葉の一部を復唱する。


「そうだ。繋がった相手の居場所、状態の把握くらいは簡単だ。と言うか、居場所がわからなければ、一人で先に帰したりはしない」


「……」


「もう一つの質問だが、このマンションは想力的防衛が皆無だ。これでは我々は止められない。今朝使用した方法を含め、侵入方法を二十は挙げられるが、聞くか?」


「いえ、結構です」


 肩を落とした後で、諦めるように言葉を返す七海。方法うんぬんというより、その想力とやらがわからないのだ。素人相手に業界用語を使わないでほしいものである。


「そっか、どこにいるかわかっちゃうのか。それじゃ——」


「あの……サイン……」


 七海の「昨日別れた後、私が警察に駆け込んだりしたらどうなってました?」という言葉を遮り、サイン色紙とサインペンを持った平面生物が、一人と一羽の間に入り込んできた。


「……」


 七海は無言で顔を動かし、平面生物を視界から消し去る。


「サインを……」


 すると、平面生物は空中を旋回し、七海の顔の真正面に回り込んだ。


 七海は「私は何も見ていない」とでも言いたげに、再び顔を動かす。


「お、お願いします……」


 だが、平面生物は諦めない。三度目の正直だと、その体で七海の視界を埋め尽くした。


「……」


 しかし、それでも七海は口を開かない。また無言で顔を動かし、平面生物を視界から排除。そして、排除しつつ強く思う。


 これだけは駄目だ——と。


 これは、この生物だけは認めちゃいけない。認めた瞬間、七海の日常と、十七年の歳月で作り上げた常識が、完全に崩壊する。


 声は、まあ普通だ。十歳ぐらいの、少しおどおどした女の子を連想させる。しかし、実際の容姿がその連想とはかけ離れ過ぎている。異形の殺人鬼や、喋るカラスどころの話じゃない。どう見ても地球上の生物とは思えない。


 黄金の五芒星。一言でこの生物を言い表せば、それが一番しっくりくる。大きさは一辺が一メートルくらいで、厚さは五センチくらいの、黄金の五芒星だ。


 真ん中に正五角形、その周りに二等辺三角形が五つ。それらがすべて黄金で作られた窓のようになっており、その六つの窓のうち、今は二つが開いていた。


 一つは真ん中、正五角形の窓。そこには巨大な眼球が収まっている。瞳の色は水色で、吸い込まれそうなほどに美しいのだが、容姿のせいでどうにも直視しづらい。


 もう一つは、七海から見て左側にある二等辺三角形の窓。その窓からは腕が一本だけ出ており、サイン色紙とサインペンを持っていた。腕の形は人間のそれに近いのだが、色は黒で半透明。


 そんな異形の生命体が空中に浮遊し、自由自在に飛び回っているのだから、七海でなくても反応に困るというものだ。


「サイン……サインを……」


 何度無視されても平面生物は諦めない。空中を疾駆、旋回し、七海の視界に入り込んでくる。


「ふう」


 ずっと隣にいながらも、今まで七海と平面生物のやり取りを静観していたアモンが、呆れるように溜息を吐いた。次いで、極めて面倒臭そうに口を開く。


「おい、七海。うざったいからサインくらい書いてやれ。それに、今お前が生きているのは、半分くらいはそいつのおかげなんだぞ」


「え?」


 アモンの声に反応し、そちらに顔を向ける七海。しかし、平面生物が即座に七海の視界を遮ったので、七海にアモンの姿は見えていない。


「空羽が言っていただろう? 家族に『ベリーベリーベリー』の大ファンがいると。そいつのことだ。間接的にとはいえ命の恩人なんだ。サインくらい書いてやったらどうだ?」


「あ……」


 平面生物の向こう側から聞こえてくるアモンの言葉に、小さく声を漏らす七海。次いで、目の前にある大きな瞳を直視した。


 大きな瞳はまるで鏡のように七海の顔を映し出す。だが、そこに映った七海の顔は歪んでおり、ユラユラと揺れていた。瞳が涙に濡れているのである。


 平面生物は今にも泣きそうだった。その大きな瞳には、大粒の涙がいっぱいに湛えられている。


 家族に大ファンの子がいる。昨日の夜、空羽は確かにそう言って、殺したほうが何かと都合がいいはずの七海を、とりあえず見逃してくれた。そのファンがこの平面生物なら、確かにアモンの言う通り、間接的に命の恩人ということになる。


「……わかりました」


 七海は意を決してこう口にし、サイン色紙とサインペンを手に取った。その途端、平面生物の瞳に喜びの光が宿る。


 サインペンを色紙に近づける七海。そして、大切なことを聞いていなかったと顔を上げ、平面生物に問いかけた。


「えっと、あなたのお名前は?」


「あ……その……デカラビア……です……」


「はい」


 デカラビア、それが平面生物の名前らしい。


「デカラビアさんへっと」


 七海はお決まりの宛名を丁寧に書いた後、自分の名前を慣れた手つきでサイン色紙に書き上げる。次いで、今できる精一杯の笑顔を浮かべた後、サインとサインペンをデカラビアに向かって差し出した。


「どうぞ」


「あ、ありがとう、ございます!」


 黒い手でサイン色紙とサインペンを受け取り、感極まった声でデカラビアは礼を告げた。


 デカラビアはサイン色紙を大きな瞳の前へと動かし、凝視する。キラキラと輝くその瞳は、自分だけの宝物を見つめる少年少女のそれであった。


 そんなデカラビアに、七海は尋ねる。


「あの、よかったら『ベリーベリーベリー』蒼井あおいひとみ役って入れましょうか?」


 デカラビアが、声優御柱七海のファンではなく、アニメ『ベリーベリーベリー』のファンなら、そっちの方が嬉しいかな? そう思っての発言だった。が、デカラビアは星型の体を左右に動かし、否定の意思を示す。


「これで……いいです……」


「でも——」


「いいんです……『ベリーベリーベリー』だけじゃなくて……」


 デカラビアは、サインから七海へと瞳を動かし——


「御柱七海の大ファン……ですから……」


 恥ずかしそうに、だか、しっかりとそう言いきった。


 その言葉には、サインを書いてくれた七海への感謝と、あなたのことが大好きですという感情が、とても強く込められていた。


「……バカだな、私」


 七海は小さく呟いた。恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。


 目の前にいる大切なファンを、あろうことか見た目で判断してしまった。プロにあるまじき愚行である。


「デカラビアさん」


 七海は、先程とはまるで違う自然な笑顔を浮かべ、目の前にあるデカラビアの体に優しく触れた。次いで、こう告げる。


「これからもがんばりますので、ぜひとも応援お願いします」


「あ、あう……」


 七海に笑いかけられると、デカラビアは恥ずかしそうに俯いてしまった。次いで、ものすごい速さで黒い腕を縮め、サインとサインペンを黄金の窓の中に収納する。


 そして——


「え……ええ!?」


 驚きの声を上げる七海。デカラビアの体がみるみる縮みはじめたのだ。まるで、幼い子供が大好きな人の前で体を縮こめるかのように。


 ほんの数秒で十分の一ぐらいの大きさになるデカラビア。その大きさは、先程体内に収納したサイン色紙より明らかに小さいのだが、外から見る分には問題ないようである。


 その後、デカラビアは小さくなった体で七海の周囲を飛び回った。逃げ出したいほど恥ずかしい。だが、そばから離れたくもない。そう言っているかのようである。


 そんなデカラビアを、七海が困った顔で見つめていると——


「だから、うざったい」


 この言葉と共に横に振るわれたアモンの左翼に、デカラビアが勢いよく弾き飛ばされた。


 スパイラル回転しながら壁に激突し、二秒ほど壁に張りつくデカラビア。その後、力なくフローリングに落下し、そのまま動かなくなる。


 アモンは動かなくなったデカラビアを一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。そして、再びテレビへと視線を戻してしまう。


「え、えっと……」


 突然の事態に、目を白黒させる七海。


 席を立ち、デカラビアを介抱するべきだろうか? そう七海が悩んでいると——


「お待たせしました~」


 空羽が笑顔でキッチンから出てきた。両手で持っているトレーの上には、彼手製の料理が並んでいる。


 明るい声と共に朝食をダイニングテーブルに並べていく空羽。立ち上がるタイミングを失った七海は、これから食べることになる朝食に目を落とす。


 七海のリクエスト通りのスクランブルエッグと、こんがり焼かれたトースト。かぼちゃの冷製スープに、少量のサラダ。それらがきっちり二人分テーブルの上に並べられており、どれもが一目でわかるほどの見事な仕上がり具合である。


「わ、すごい」


 素直に称賛の言葉を口にする七海。それを聞いた空羽は満足げに微笑み、エプロンを着けた胸を誇らしげに張った。


「さ、七海さん。遠慮せずにどんどん食べてくださいね」


「遠慮せずって、食材は私の提供じゃないですか。しかも、冷蔵庫の中身を勝手に使ったくせに」


「はは、そうでした」


 ジト目の七海に対し、空羽は右手で頬をかいて苦笑いを浮かべた。その後、七海の視線から逃げるように、そそくさとキッチンに戻ってしまう。


「まったくもう」


 七海は小さな声で控え目な悪態を吐く。すると、空羽と七海のやり取りを横目で見ていたアモンが口を開いた。 


「そう言うな。あれは空羽なりの気遣いだ。それに、冷蔵庫の中なら私も見たが、七海だけじゃ処理できないと思うぞ? あの量を三日間ではな」


「え?」


 アモンの言葉の中に、七海は不穏な何かを感じ取る。


「あの、それはどういう?」


「後で話す」


 七海の発言を軽く流し、再びテレビへと視線を戻してしまうアモン。そんなアモンの後ろ姿を七海が不安げに見つめていると、キッチンの方で空羽が声を上げた。


「七海さ~ん。飲み物は冷蔵庫に入ってるミネラルウォーターでいいですか~?」


「あ、は~い。大丈夫で~す」


 この返事から少し間をおいて、ミネラルウォーターのペットボトルと、コップ二つを手に、空羽がキッチンから戻ってきた。


「どうぞ」


 空羽から手渡されるミネラルウォーターとコップ。七海は小さく頭を下げてからそれらを受け取った。


 早速ミネラルウォーターをコップに注いでいると、空羽が七海の向かいの席に腰かける。それを見た七海は、空羽のコップにもミネラルウォーターを注ぎ、次いで尋ねた。


「えっと、アモンさんとデカラビアさんの分は?」


「私たち想力体は、基本的に飲食を必要としない。気にするな」


「飲み食いできない……訳じゃないけど……」


 いつの間に復活したのか、空中を浮遊し、空羽に近づいていくデカラビア。先程と比べて特に変わった様子はない。


「空羽……七海から……サインもらったの……」


「うん、キッチンから見てたよ。よかったね」


 ほんの少しだが弾むような声のデカラビア。そんなデカラビアの小さい体を右手の人差指で触れながら、空羽は笑う。


 触れてくれたことが嬉しかったのか、デカラビアは目を細め、空羽の右手に自身の体を擦りつけるように動く。その様子は、まるで飼い主にじゃれつく小動物のようだった。


「さて、それじゃ七海さん」


 右手をデカラビアの好きにさせつつ、七海と向き直る空羽。彼の表情は、少し真剣なものへと変わっている。


「話をしましょうか」


「……はい」


 雰囲気の変わった空羽に反応し、七海も真剣な顔になり、背筋を伸ばした。もっとも、寝癖のついた髪とパジャマ姿なので、どうにもピリッとしない。


「まあ、言いたいこと、聞きたいこと、多々あると思いますが、とりあえずこちらの話を聞いてください。あ、食べながらでいいですので」


 緊張した面持ちの七海に気を使ったのか「どうぞ」と料理を勧める空羽。声から悪意の類は感じなかったので、七海は勧められるままにスプーンを手に取り、かぼちゃの冷製スープを口にする。


 その味は——


「おいしい!」


 緊張で硬化した舌でもそう感じられるほどにおいしかった。


 思わず破顔して、続けて二口、三口とスープを口にする七海。そんな七海を見つめながら、空羽はにっこりと笑う。


「よかった。お口に合ったのなら幸いです」


 この言葉に込められた感情は安堵。やはり悪意の類の感情は感じない。どうやら今すぐに命の危険等はなさそうだ。


 緊張を緩め、今度はミネラルウォーターを口にする七海。そんな七海を見て頃合い良し思ったのか、空羽が若干身を乗り出し、口を開いた。


「では、改めまして自己紹介を。僕の名前は門条空羽。十五才の中学三年生です。もっとも、もう中学には卒業式と、その練習くらいしかいく予定はないですけどね」


 空羽は「もうすぐ卒業です」と、嬉しさと寂しさが混じった声でつけ足す。


「なんの因果か偶然か、ここにいるアモンやデカラビアたちと契約して、けっこう前から想力師をやっています。以後よろしく、七海さん」


 七海の名前を口にすると同時にさわやかな笑顔を浮かべ、空羽は自己紹介を終わらせた。次いで、アモンとデカラビアに視線を向ける。


「私の名はアモン。アモンだ。他にも色々とあるが、とりあえずそれだけ憶えてくれればいい。ソロモン七十二ななじゅうにちゅう・NO7だ」


「ソロモン七十二柱・NO69 デカラビア……遅くなったけど……はじめまして……」


「七十二……ちゅう?」


 聞き慣れない言葉に首を傾げる七海。


「あ、神事しんじに係わらない方には聞き慣れない言葉ですよね。主に、神を数えるときなどに使われる助数詞で、漢字は『はしら』が使われます」


「正確には……そのまま『はしら』と読んで……『ソロモンななじゅうふたはしら』って読むほうが……一般的……でも空羽が……『ソロモンななじゅうにちゅう』って読むから……私たちも……そう読むことにしてる……」


「空羽は知っていてワザとそう読むから気をつけろ。まあ『ちゅう』と読んでも間違いではない。少数派というだけだ」


 神に使われる助数詞。つまり、アモンとデカラビアは——


「じゃあ、アモンさんと、デカラビアさんは……その、神様なんですか?」


「いえ、悪魔ですけど」


 空羽の間髪いれない訂正に、七海の肩が大きく落ちる。


 そうか、悪魔か。日本語って難しいな。


「そう、私たちは悪魔。ソロモン七十二ななじゅうにちゅうの悪魔と呼ばれる存在だ。もっとも、七十二柱の魔神と呼ばれることもあるから、神と言えば神だがな」


「悪魔……魔神……」


 七海はそう呟いた後、ミネラルウォーターを口にし、喉元まで出かかっていた「本物なんですか?」という言葉を飲み込んだ。


 ショッピングモールでアモンが起こした超常現象の数々も、先程から目にしているデカラビアの説明不可能な生体も、悪魔ならば納得がいく。それに、彼らは自己紹介のときに自分で悪魔だと名乗り、その言葉に偽証の類の感情は感じなかった。なら、彼らは本物の悪魔なのだろう。


 何より、無知を理由にしてアモンとデカラビアを傷つけたくなかった。誰だって、自分の存在を否定されたら嫌なはずである。


「私は御柱七海です。私立明声学園高等部・芸能科・声優コースに在籍しています。現在は二年生。エプタメロンという声優事務所に所属する、声優に命を賭ける馬鹿な女です。みなさん、どうぞよろしく」


 人間として当然の疑問、疑惑。それらすべてを飲み込んで、七海は自己紹介を返した。それを見聞きした空羽は驚いた顔をし、そのまま口を開く。


「ここでのその返答は想定外ですね。ですがまあ、話が早いのはいいことです。さっそく本題に入りましょう」


 表情を元に戻し、空羽は話を先に進める。


「実は昨日、家に帰った後でここにいるアモン、デカラビアを含めた家族全員で会議をしたのですが、少々まずいことに」


「まずいこと?」


「はい。実は七海さんを生かしておくことに反対だという意見が出まして」


「多数決に……なったの……」


 空羽は「すみません」と頭を下げ、デカラビアは悲しそうに俯いた。


「揉めたら多数決。それが私たちのルールでな」


 補足したのはアモン。


「結果は賛成二、反対二、中立が一です」


 あと一票でも反対票が投じられていたらどうなっていたのだろう? と、七海は体を震わせ、生唾を飲む。


「あの、ちなみに賛成票を投じてくれたのは?」


 この質問に、空羽、デカラビアの両名が無言で手を上げる。


「じゃあ、中立って言うのは?」


 今度は、アモンが無言で右翼を上げた。


 どうやらこの場に反対派はいないらしい。七海はほっと胸を撫で下ろす。


「えっと、ざっくり整理すると、私を生かすか殺すかで、空羽さんたちは揉めていると?」


「はい」


「お前のせいで家の中が真っ二つだ。デカラビアなんて、口論の末に反対派の一柱と殺し合い寸前のところまでいったほどだぞ」


 デカラビアの方に視線を向け、アモンは言う。すると、デカラビアはバツが悪そうにそっぽを向き、次いで声を発した。


「あれは……向こうが悪い……私は謝らない……」


「別にかまわんさ。敵対するものは排除する。それは悪魔として正しい」


「でも、仲間内でやられたら困るよ」


 空羽は「間に入る身にもなってよ」と肩を落とす。そんな空羽の言葉に小さく頷き、アモンは言葉を続けた。


「空羽の言うことももっともだ。そこで、私は一つの提案をした」


「提案?」


「揉めている原因は私の中立票。だから、賛成か反対か結論を出すために、御柱七海を見極める時間をくれ——とな」


 アモンはそう言うと、七海の目をじっと見つめた。瞬間、七海の体が大きく震える。


「確か、今日を含め三日でいいんだったな?」


 特徴がないにもかかわらず、もの凄い迫力を感じさせる声で、アモンは七海に最終確認を取る。


「え、えっと……」


「いいんだったな?」


「はい! 明後日の『ベリーベリーベリー』最終回のアフレコにさえ参加できれば! ええ、それで!」


「よし。空羽、デカラビア、聞いての通りだ。会議での提案通り、私は明後日に結論を出す。それがどんなものであれ、その結果には従って貰うぞ。それでいいな?」


「うん。僕はそれで」


「ルールには……従う……」


 すでに納得していたのだろう、空羽とデカラビアは素直に同意の言葉を口にした。


「そういう訳だ。御柱七海、お前が私たちにとって有益かどうか、見極めさせてもらうぞ?」


「具体的にはどうやって?」


 涙目で、力なく項垂れつつ七海は尋ねる。そして、心労で今にも倒れそうな七海に追い打ちをかけるかのように、アモンはとんでもないことを口にした。


「なに、三日も一緒に暮らせば自然とわかることだ」


「……は?」


 七海は顔を上げ、目を見開きながらアモンを見つめる。


「一緒に、暮らす?」


「ああ」


「誰と、誰が?」


「七海と、私たちが、だ」


 アモンの言葉を聞くなり、七海は錆ついたブリキ人形のような鈍い動きで、空羽の方に視線を向ける。


「空羽さんも……ですか?」


「当然だ」


「それは無理です!!」


 七海は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


「なぜだ? 年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすのは駄目とか言うつもりか? 悪魔に人間の倫理観を説いても無駄だぞ?」


「いや、その、あのですね、年頃の男女が一緒に暮らすというアニメや漫画における古典的かつ王道な展開には職業柄理解のある方ですし、どこかで憧れていた面も無きにしも非ずなんですが、いろいろと問題が!」


「と言うと?」


「私は声優ですが、歌手、アイドルに近いことも多くやってまして! 自惚れを差し引いてもですね、けっこう人気がある——つもりです!」


「だから?」


「だから、その、特定の男子と深い関係を持つのは事務所から禁止されているというか、恋愛御法度というか、今は仕事をしてる方が楽しいっていうか、ファンサイトが炎上するというか、仕事に差し支えるようなスキャンダルは困るな~なんて……」


 後半は勢いを失ったのか、七海らしからぬ控え目な声だった。


 口を閉じた後、胸の前で人差し指をモジモジさせる七海。そして、アモン、空羽、デカラビアと、おのおのの顔色を伺うように視線を動かした。


 そんな七海を無言で観察していた一人と二柱だったが、ほどなくしてアモンが口を開く。


「ふむ、つまり七海は、空羽と一緒に暮らすのは嫌だと?」


「嫌と言うか、無理と言うか……」


 七海は「せめて、アモンさんとデカラビアさんだけでお願いします」と目で訴えながら、アモンに返答する。


 その返答にアモンは「仕方ない」と言うように小さく頷いた。


「そうか、わかった」


「わかってくれましたか!」


「ああ。七海——」


 アモンはここで言葉を区切り、右翼を大きく広げる。


「今、ここで死ね」


「わ~い、嬉しいな♪ こちらの都合を考えない突然の同棲イベントなんて、まるでアニメの中みたい♪ ドッキドキ~のワックワク~♪」


 私って、大ピンチのときでもこんな明るい声が出せるんだな~と、心の中で呆れつつ、七海は精一杯の笑顔をアモンに向けた。


 営業スマイル全開である。出し惜しみはしない。したら死ぬ。確実に死ぬ。


「……」


「あは……あはは……」


 アモンのプレッシャーに押され、徐々に笑顔が引き攣っていく七海。体中の産毛が逆立ち、冷や汗が溢れ出てくるのをひしひしと感じていた。


 そして、七海には永遠のように思えた数秒が経過し——


「そうか、ならいい」


 アモンがこの言葉と共にゆっくりと右翼をたたんだ。瞬間、七海の全身を包んでいたプレッシャーも消える。


 大きく息を吐いた後、椅子の背凭れに体を預け脱力する七海。次いで言う。


「空羽さぁん……」


「はい?」


「これは……食事しながらする話じゃないと思います……」


 こう訴えた後、七海は涙を流しながらトーストに齧りつく。次いで「こうなったらやけ食いじゃ~!」と、朝食を口の中に掻き込み始めた。


「そうかもしれませんね」


 そう答えた後で苦笑いし、空羽も朝食を口へと運ぶ。

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