003・最後に言い残すことはありますか?
突然の事態に何がなんだかわからず、体を硬直させる七海。だが、そんな七海を無視して事態は進む。前を向いていた男の子がいきなり下を向き、七海と目が合うなり真顔で告げた。
「降ろしますよ」
「ふえ? きゃあ!?」
言った後は早かった。男の子は返答も聞かずに手を離し、七海を少し離れた地面へと放り出す。
臀部を地面に打ちつけた後、七海は慌てて体を起こす。すると、少し離れた場所で佇む異形の大男の姿が見えた。だが、様子がおかしい。自身の右腕をじっと見降ろすだけで、一向に動こうとしない。
その理由はすぐにわかった。大男の右腕、あのナイフが生えた右腕に、新しく別のものが生えていたのである。
鉄パイプだ。
男の子が握っていた鉄パイプが、大男の右腕に深々と突き刺さり、反対側から突き抜けていた。
七海が聞いた生々しい音は、大男の右腕に、鉄パイプが突き刺さった音だったのである。
まだ事態が飲み込めていないのか、異形の大男は鉄パイプが生えている右腕をしばし見降ろしてから首を捻る。その後、七海の方へと顔を動かした。
真紅の瞳に見つめられ、七海の体が再び恐怖に震える。どうやら女戦士のなりきり自己暗示は、殺されかけたときのショックで解けてしまったようだ。
キャラクター設定が普段の七海、女子高生声優に戻り、体の震えは増すばかり——と、思いきや、その震えは長く続かなかった。あの男の子が、大男の視線から七海を庇うように、二人の間に体を割り込ませたのである。
背中越しではあるが、七海は改めて男の子を観察してみた
七海より二、三歳年下に見える男の子。流行など知らぬ存ぜぬの、まったく手が加えられていない黒髪で、これまたまったく手が加えられていないオーソドックスな黒の学生服に身を包んでいる。靴は何処にでもある市販の運動靴で、アクセサリーの類は一切身につけていない。
体の線は細く、身長は七海と同じか少し高いくらい。正直あまり目立たない。だが、抱えられたときに確認した彼の顔立ちはけして悪くなく、むしろ美形と言っていいものだった。目敏いクラスメイトの女子が、休み時間の何気ない話題にする。そんな、ほどほどに美形で、適度にかっこいい男の子。どこにでもいる、磨けば光るかもしれない男の子。
だが、違う。普通の男の子に見えるが、どこか違う。確実に違う。そして、違うことはわかるのに、どこが違うかがわからない。
どこにでもいそうなのに、どこにもいない。そんな、不思議な印象を受ける男の子。
「グ……グルゥアァァアァー!」
ようやく事態を飲み込んだのか、常人ではありえない角度まで口を開き、絶叫する異形の大男。その絶叫に込められた怒気は、声優である七海でなくとも感じ取れるであろう、凄まじいものだった。
右腕に突き刺さっている鉄パイプを力任せに引き抜いた大男は、右腕と一体になっているナイフを振り上げる。その後、包帯の上からでもわかる憤怒の形相で、七海と男の子に向かって突進してきた。
対する男の子は、迫りくる大男を真っ直ぐに見据えつつ、ごく自然な動作で両手を胸の前に動かし、左半身を前に出した簡単な構えを取る。そして、自分からは動こうとせず、その場で大男を待ち受けた。
そう、男の子は、あの化け物相手に素手で挑もうというのだ。
誰もが無謀だと思うだろう。武器の有る無し以前に、体格差があまりに絶望的である。
だが、七海は男の子の背中を見つめながら、漠然と思う。
男の子が勝つ——と。
「ガァアアァーーー!!」
ナイフが届く間合いにまで近づいた大男が、絶叫と共に右腕を振り下ろす。
怒りと殺意、その双方が込められた凶刃が、男の子に迫る。
対する男の子は、迫りくるナイフを避けようともせず、無造作に左拳を一閃。
拳とナイフの軌道が交差し、それに一瞬遅れて、甲高い音が中庭に響く。
その音は、男の子の裏拳が、大男のナイフを根元からへし折る音だった。
ナイフを折られたことがよほどショックだったのだろう。腕を振り下ろした体勢で目を見開き、硬直する大男。しかし、男の子の方は止まらない。なんの迷いも躊躇もなく、大男に向かって右足を強く踏み出した。そして——
「予定変更。あなたは封印せずに、今すぐ無力化させてもらいます」
この言葉と共に、腰の回転を見事に乗せた右フックを、大男の脇腹へと叩きこんだ。
男の子の拳を中心に、くの字に折れ曲がる大男。次いで、体が折れ曲がったことで低くなった大男の顔面に向かって、男の子が両の拳を繰り出した。
回数なんてとても数えられない拳の弾幕。その弾幕に晒された大男の顔面が、瞬く間に変形していく。歯は次々にへし折られ口外に飛び出し、包帯の間で赤く光っていた真紅の瞳は、変形していく顔面に徐々に隠されていった。
元々人間離れした顔であったが、もう完全に人間のそれじゃなくなり、すでに軟体動物のようにグニャグニャである。しかし、大男も意地を見せた。悪夢のような拳の弾幕に晒されながらも、右腕を下から上に振り上げ、折れたナイフで男の子を切りつけてきたのである。
残す力のすべてを振り絞った、最後の抵抗。
だが、その抵抗も——
「おっと」
あの男の子には届かない。
男の子は助走もなしに三メートル近く跳び上がり、大男のナイフを容易くかわした。そして、もう立っているだけでやっとであろう大男の脳天に向かって、右の踵を振り降ろす。
「これで終わりです!」
言葉通り、とどめの一撃だった。
男の子の踵落としが命中した次の瞬間、巨大な鉄球が地面に落下したかのような轟音と共に、大男の上半身が地面にめり込み、その周囲が深く陥没する。
陥没だけでは衝撃を逃がしきれなかった地面が無数にひび割れ、周囲に弾け飛ぶ最中、大男の上半身が爆発四散した。原型を留めることなくバラバラとなり、残った下半身だけが力なく地面を転がる。
今更かもしれないが、かなり現実離れした光景であった。そして、現実離れした光景は、この後も続く。
地面に転がっていた大男の下半身と、爆発四散した上半身が、空気に溶けるように消滅したのだ。血の一滴も残っていない。どう見ても人間の死に方ではない。
「うん。ネットとテレビ、あと噂の相乗効果で偶然具現化できた
大男の消滅を見届けた後、男の子はこう呟いた。あれだけの動きをした直後だというのに、まったく息を切らしていない。
文句なしの圧勝だった。先の苦戦が嘘のような圧勝。いや、事実嘘だったのだろう。七海が目にした苦戦は演技。何かしらの理由があっての時間稼ぎに違いない。
「ひ、ふひぃぃいぃ!」
大男の消滅と、男の子の驚異的な戦闘力を目の当たりにしたひ弱な男が、情けない悲鳴を上げて腰を抜かし、尻餅を突いた。体は大きく震えており、その両目からは恐怖の涙が止めどなく流れ出ている。
「な、なんで!? なんでなんで~!?」
意味もなく同じ言葉を繰り返すひ弱な男。尻餅を突いたまま、少しでも男の子から離れようと必死にもがいている。
「さて、次はあなたの番ですね」
陥没した地面から視線を外し、ひ弱な男を見下ろしながら、男の子はさも当然のように呟いた。
「ひ、ひぃいぃいいぃ!」
ひ弱な男は引きつった声を上げると、尻餅の体勢から体を半回転させ、両膝を地面につける。その後、何度も失敗してからどうにか立ち上がり、覚束ない足取りで駆け出した。男の子に背中を向けて、必死に逃げる。
走って逃げるひ弱な男。それに対し、男の子は走ろうとしなかった。少しずつ離れていくひ弱な男の背中を見つめつつ、歩いて後を追う。
中庭から逃げ出し、骨組み段階の建物に駆け込むひ弱な男。そんなひ弱な男が、首だけで後ろを振り返る。すると、色々なものでグシャグシャになっている顔で、小さく笑みを浮かべた。引き離し、小さくなった男の子の姿を見て、僅かな希望でも見つけたのだろう。
だが、その瞬間——
「じゃ、そっちは手筈通りに」
男の子が口を動かした。あたかも、ひ弱な男が希望を見つけるのを待っていたかのようなタイミングで、男の子は何者かに呼び掛ける。
「承知した」
男の子の呼び掛けに応じる形で、上空から突然声が聞こえてくる。
どこか違和感のある不思議な声だった。その違和感に突き動かされ、七海が空を見上げると、視界の端に何かが映る。
それは、ひ弱な男に向かって降り注ぐ、無数の鉄骨だった。
七海に少し遅れて、自らに降り注ぐ鉄骨の存在に気づくひ弱な男。浮かべていた小さな笑みは、迫りくる死と絶望によって、凄惨な笑みへと豹変した。
「ひゃ、ひゃはは! あひゃひゃひゃぁぁぁああぁぁあ!」
絶望の笑い声を上げながら、なす術なく鉄骨に押し潰されるひ弱な男。鉄骨の下敷きになったその姿は、もう七海には見えなかった。
ひ弱な男が潰されるのを見届けた男の子は、乱雑に積み重なっている無数の鉄骨の手前で歩みを止める。そして、鉄骨と、その下にいるであろうひ弱な男をしばし見下ろした後で、こう告げた。
「さようなら。あなたの命をもって、この惨劇の幕とします」
この言葉を聞き、七海はひ弱な男の死を確信する。
そう、二人の殺人鬼は死んだ。
一人は、圧倒的力の前に粉微塵になり、溶けて消え。もう一人は、絶望の最中に鉄骨に潰され、息絶えた。
「お疲れ様。終わったよ」
鉄骨の山から視線を外し、夜空を見上げる男の子。七海も顔を上に向け、ソレを見つけた。
ソレは、月を背に夜空を舞う、一つの鳥影。
鳥影は、呼びかけに応えるように徐々に高度を下げ、男の子の左肩にとまる。月明かりの下、ようやく鮮明になったその姿は、なんと普通のカラスであった。
普通のカラス。特徴などまったくない、どこにでもいるカラス。「これがカラスでなくて、なにがカラスか」と言えるほどに、ソレはカラスであった。
だが、ほんの少し注視すればわかる。翼をたたみ、男の子の肩に悠然ととまるその姿、威圧感が半端じゃない。
見た目は普通のカラス。しかし、中身は間違いなく普通じゃない。
その証拠に、あのカラス——
「よし。過程が少し変わったが、こっちは予定通りに潰れたな。明日の夕刊の見出しは『天罰!? 無差別連続殺人犯、工事現場で潰される!』で決まりだ」
喋るし。
しかし、何度聞いても不思議な声である。何が不思議かと言うと、性別も、年齢も、声だけではまったく判断がつかないのだ。声優であり、声に強い拘りを持つ七海が、である。
声に特徴がまったくない。かといって、喋るインコのような片言の言葉とも違う。ただ聞くぶんには、とても流暢な日本語だ。
様々な声を聞き、自らも様々な声を出してきた七海も初めて耳にする、とても不思議な声。特徴がないのが特徴の、分類不能の声。
「いつもごめんね。裏方と汚れ役、両方ともやらせちゃって」
「気にするな、
「二度手間になるね。まあ、そのときはそのときだよ。これも想定内、想定内」
空羽。それが男の子の名前らしい。
空羽と、人語を操る不思議なカラス。見た目は普通の一人と一羽。都内を騒がせる無差別連続殺人事件を解決したコンビで、罪人に死という制裁を科したツーマンセル。そして——
「さて、それじゃ……」
「残った問題を片づけるか」
七海の明日を左右する、見た目に反して普通じゃない、怪物タッグだ。
カラスを肩にとまらせたまま、歩いて七海に近づいてくる空羽。それを見た七海は慌てて立ち上がる。立ち上がるが、それまでだった。
逃げることも、立ち向かうこともできない。
女戦士のなりきり自己暗示はすでに解けてしまっている。今の七海は声優の仕事をしている以外は普通の女子高校生なのだ。そして、再び自己暗示が使える精神状態じゃない。もっとも、たとえ自己暗示が使えたとしても、状況はまるで変わらないだろう。
「あ、あの……その……」
いろいろなことが起こりすぎて混乱気味の七海。そんな七海を落ち着かせようと思ったのか、いつの間にか手が届く距離にまで近づいていた空羽が、ポケットからハンカチを取り出し、笑顔で口を開いた。
「これ、よかったら使ってください、お姉さん」
「え……?」
「左手。血が出ていますよ」
空羽の言葉に促され、七海は左手を胸の前で広げ、掌を見下ろした。
薬指の第二間接のあたりに、確かに傷があった。深く切ったのか、赤い鮮血がトクトクと流れ出ている。
「あ……ほんとです。さっき地面についたときに切ったのかも……」
ひ弱な男の炎をかわしたときだ。左手と右膝で制動をかけたときに切ったのだろう。
「ですからどうぞ。使ってください」
「あ、その、ありがとう……ございます」
右手でハンカチを受け取り、傷口に当てる七海。
空羽の声からは、殺意などの負の感情は感じない。感じるのは、優しさや、労りの類の温かい感情。それらの感情が、僅かではあるが七海の心を落ち着かせてくれた。
「絆創膏や消毒液でもあればいいんですが、こんなものしかなくて、すみません」
「い、いえ! 十分です! はい!」
「えっと、それでですね。早速なんですが、お互いの今後について話し合いたいと思うのですが——」
空羽はここで言葉を区切ると、ざっと左右を見回した。次いで、少し首を傾げつつ、七海に尋ねる。
「あの、お姉さんの想力体はどこですか?」
「……え?」
空羽が何を言っているかわからず、七海は少し間の抜けた声を漏らす。
「えっと……そうりょくたい?」
「ええ、お姉さんと契約している想力体です。ああ、ご心配なく。たとえどのような由来の想力体であっても、いきなり襲いかかったりはしません。約束します」
「……あの」
「はい?」
「想力体って……なんですか?」
七海の質問に、今度は空羽が目を見開いた。空羽の肩にとまるカラスも、七海の言葉に少し驚いたように見える。
「え、あの、お姉さん? さっきの大男、ちゃんと見えてましたよね?」
「はい。あんなの初めて見ました」
「初めて……ですか?」
「初めて……です」
「——っ!」
七海が肯定の返事をした瞬間、空羽が弾かれたように後ろに跳んだ。七海と空羽、二人の間にかなり広い間合いができる。
そして、着地と同時に空羽が叫んだ。
「内在想力値の測定と、広域探知!」
「え?」
咄嗟のことに声を漏らすことしかできない七海を置いてけぼりにして、事態は進む。空羽の左肩にとまっていたカラスが、左翼だけを大きく広げ、勢いよく振り抜いたのだ。
生み出される凄まじい強風。
その強風は、カラスを中心にしてドーム状に広がり、七海の全身をくまなく撫でた後、周囲に広がるコンクリートの密林を駆け抜けていく。空羽のハンカチが七海の手から離れ、夜の街へと飲み込まれていった。
駆け抜けた風の余韻が消えると共に、ショッピングモールの中庭に静寂が訪れる。その中庭で、何かを確認するかのように、無言のまま何度も頷くカラス。そんなカラスを横目で見つめながら、空羽が口を開いた。
「結果は?」
「ああ。ここから五百メートルほど離れた場所に、実体化した想力構成物の反応が一つあった。存在規模からして、何かしらの想力体の眷属だろう」
「……ひょっとして、見られてた?」
「かもしれん。まあ、見られていただけなら問題ない。同業者に見られて困るようなものは、何一つ出してはいないしな。想力の質からして、大手の連中とも無関係だろう。あと、私に察知されると同時に逃げ出したところを見るに、この女とも無関係だろうな」
「そっか……」
そう呟き、空羽は少し顔を曇らせる。
七海そっちのけで話を進めていく空羽とカラス。だが、七海は動けない。ハンカチを傷口に当てていたときの体勢のまま硬直し、空中のある一点を凝視していた。
七海の視線の先にあるもの。それは、七海自身の血液である。
薬指から流れ出ていた血液の一部が、不可思議な風に包まれ、シャボン玉のように浮遊している。恐らく、先ほどカラスが作り出した強風に体を包まれたときに、なんらかの方法で採取されたのだろう。
その血液はゆっくりと空中を移動し、カラスの方に引き寄せられていく。そして、嘴を大きく広げたカラスの口内へと行き着き、消えていった。
「——っ!?」
自身の血液が、得体の知れない生物の体内に収まる。その事態にえもいわれぬ不安を感じる七海。両手で自身の体を抱きしめた。
そんな七海をやはりというか、一切気にせずに、カラスは何やら分析結果らしきものを口にする。
「うん。内在想力値は一、基準値だな。想力体との契約、簡易契約をしている可能性は皆無。かといって、大量のアルコールを摂取している訳でも、違法薬物をやっている訳でもない。おいおい空羽。この女、いたってナチュラルだよ。間違いなく一般人だ」
「一般人……」
分析結果を聞き、さらに表情を曇らせる空羽。次いで、両手で頭を抱えて蹲る。
「総力体が見えてたから、僕と同じ無所属の
呻くような声だった。七海でなくとも、その声から苦悩の感情を容易に聞き取るであろう、とても苦しそうな声。
「しかも初めてって……こんなレアケースと遭遇するなんて……」
「まあ、生きてりゃ色々あるさ」
空羽の頭を右翼で優しく叩きながら、カラスは至極冷静に口を動かす。
「まあ、あれだ、空羽」
「……なに?」
「私は見ての通りカラス。つまりは鳥、だから鳥目なんだ」
「だから?」
「だから——」
カラスは、空羽に向いていた視線を七海に向けると、特徴のない声で、それでも空羽には優しく、七海には冷たくこう言い放つ。
「その女。見なかったことにしてやってもいい」
この言葉に、空羽と七海の体がほぼ同時に震える。
七海は即座に理解した。そして思う。
間違いない、あれだ。秘密を知った一般人は、始末しなきゃいけないパターンのヤツだ——と。
空羽とカラスの間で視線を交互に動かす七海。空羽の方は、何か考えごとをしているのか動こうとしない。
「で、どうする?」
五秒ほど七海と空羽を静観していたカラスが、返答を促すように問いかける。すると、空羽は少し顔を伏せたまま立ち上がり——
「ふう」
小さく溜息を吐いた。
何かを諦めたような、溜息だった。
そして、伏せていた顔を上げ、両の目で七海を直視する。
七海の視界に映る空羽の表情。その表情が、カラスへの返答を告げていた。
七海の全身から、血の気が引く。
「いいのか?」
「うん」
「後悔しないか?」
「僕が、今日、一般人を巻き込むことを想定していなかったと思うかい?」
「そうだな、おまえはそういう奴だ」
「そうさ。だから、これも想定内だ」
空羽はこう口にした後、両の拳を硬く握りしめる。その僅かな動作だけで、先程大男を瞬殺した途方もない戦闘力が、七海の脳内で思い起こされた。
「想定内の……最悪なだけさ……」
この言葉が耳に届いた瞬間、七海の視界が九十度傾いた。
「かは!」
背中から地面に叩きつけられ、肺の中身を吐き出す七海。そして、見た。自身の上に馬乗りになりながら、左手で胸を抑えつけて動きを封じ、右の拳を顔面めがけ振り降ろそうとしている空羽の姿を。
「あ……」
殺される。
もう、逃げることも、避けることも、防ぐ事もできない。
だから、絶対に助からない。
ほんの少し先の未来で、確実な死が御柱七海を待っている。
「最後に、何か言い残すことはありますか?」
真顔で七海を見下ろしながら、空羽が実にありきたりな言葉を口にした。後の展開は、その言葉通りのものになるだろう。
次の言葉が、七海の人生最後の言葉になる。
七海は考えた。生と死の境で、今までの人生で一番頭を使って考えた。
考えて、考えて、考えて——ゆっくりと目を閉じる。そして、次の言葉を紡ぎ出す。
「あと、三日生きたかったなぁ……」
「それはなぜ?」
空羽が聞き返してきたので、七海は素直に答えることにした。どうせ最後なのだ。少しでも喋った方が得だろう。
「三日後に、アニメ『ベリーベリーベリー』の、最終回のアフレコがあるんです」
こう告げた瞬間、七海の両目から涙があふれた。
涙は止まらない。悲しくて悲しくて仕方ない。
ファンに申し訳ないと思った。仕事仲間に謝りたかった。家族や友達も泣くだろう。明日オーディションを受ける悠里と芽春にも影響が出るに違いない。
最後の言葉が仕事のことかと、心の中で僅かに呆れた。でも、それでいいとも思った。
御柱七海は、細胞の一片まで声優だったのだ。死を目前にしても、最後の最後まで声優だった。
ほんとに声優バカ。きっと死んでも治らない。だって、一度死にかけても治らなかったのだから。
体も声優。
心も声優。
魂も声優。
死んでも声優。
それが私だ。御柱七海だ。
「さあ、どうぞ。できれば痛くしないでくれると助かります」
この言葉を最後に、七海は固く口を噤んだ。叫び声など上げてたまるかと、最後に上げる声が、醜い断末魔でたまるものかと、固く固く口を噤む。
だが——
「あの、つかぬことを伺いますが、お名前は?」
「……え?」
七海に届いたのは拳ではなく、なぜか戸惑っているらしい空羽の声だった。
目を開く七海。その視界に飛び込んできたのは、とても興味深げに七海の顔を見つめる、空羽の顔。
「お名前は?」
「えっと、御柱七海……です」
七海の名前を聞くや否や絶句する空羽。信じられないといった顔で、七海の顔をまじまじと凝視する。
「ふぅ」
ほどなくして、空羽は小さく溜息を吐いた。先程と同じ諦めるような、しかし、どこか嬉しそうな溜息だった。
「うん。これは……想定外だな……」
空羽はこう言いながら立ち上がり、七海を解放する。次いで、肩にとまるカラスに顔を向け、こう言った。
「ごめん。また厄介事を背負い込むことになりそうだ」
「そうか。まあ、気にするな。他の連中には私から話そう」
「ありがとう」
「え? え?」
話の流れがわからず、上半身だけを起こしておろおろする七海。そんな七海に向かって、空羽が右手を差し出した。
「あの?」
差し出された手をどうしたらいいかわからず、上目使いで空羽を見つめる七海。すると、空羽は左手で頬をかき、恥ずかしそうに口を開く。
「えっとですね『ベリーベリーベリー』なんですが……」
「はい」
「毎週見てます。家族で」
「……」
空羽の言葉を聞いた直後、七海は沈黙。数秒後、小さく噴き出した。
そして言う。
「あれ、女の子向けですよ?」
瞬間、空羽の頬が赤く染まる。
「あ、その! 違うんですよ! 僕が見ている訳でなく、家族で! 家族皆で見てるんです! 大ファンの子がいて、つき合いで仕方ないというか! 家にはテレビが一台しかないといいますか!」
「あはは……」
呆れながら笑う七海。女の子向けのアニメを見ている空羽にではない。こんな理由で助かる自分に呆れていた。
差し出された空羽の手を七海は右手で掴む。すると、すぐにひっぱり上げられた。両の足で地面に立つ。
ほぼ同じ身長の七海と空羽。手を握ったまま、二人の視線が自然と重なる。
目の前で、困ったように照れ笑いを浮かべる空羽。そんな彼を見つめながら、七海は強く強くこう思う。
「僕、
ああ、声優をやっていて、本当に良かった——と。
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