002・私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない

「ただいま~」


 絶えず周囲を警戒する芽春と、終始困り顔の悠里。そんな二人と最寄り駅で別れた後、自宅である都内のマンションに無事帰ってきた七海は、後ろ手で玄関のドアを閉めた。


 先の七海の言葉に対する家族からの返答は――ない。それもそのはず。七海の両親は仕事で国外であり、現在この家に暮らしている人間は、七海一人だけなのだ。


 玄関で靴を脱いだ七海はホールを通り、ダイニングキッチンの中へ。


 出入り口のすぐ前には、四脚の椅子が備えつけられた木製のテーブルがあり、七海から見て右手には、壁かけ式の液晶テレビ、左手にはカウンターで仕切られたシステムキッチンがある。


 七海はテーブルの上に鞄を置くと、リモコンでエアコンに電源を入れた後、風呂のお湯はりスイッチを押した。次いで独り言ちる。


「さて、お風呂が沸くまで何しよう?」


 他に誰もいない、一人で過ごすには広すぎるくらいのダイニングキッチンで、七海は思考を巡らせる。


 お風呂が沸くまでの時間は二十分弱。明日のオーディションの予習をするにはさすがに短すぎる時間だ。


 アフレコ現場でお弁当が出たので夕食を作る必要はないし、掃除はまだ大丈夫。勉強も却下。つい先日、高校二年生最後の期末テストを戦い抜いたばかりである。漫画、ゲーム、アニメの類は危険だ。始めたら最後、止まらなくなる可能性を捨てきれない。


「テレビでも……」


 七海の手がテレビのリモコンへと延び、電源を入れ、自然な動作で一通りチャンネルを操作する。しかし、チャンネルをきっかり二回りさせたところで、二度目の電源ボタンが押された。


 どのチャンネルもニュース特番だった。例の無差別連続殺人事件である。


 無差別殺人。つまり、理由なき殺人。理不尽な死と、別れ。代わりのないモノの喪失。この世界との永遠の別離。


 七海自身、二年前に、中学三年生の夏に、強く強く感じた。本当の死。


「今日は、悠里ちゃんに怒られちゃったな……」


 背凭れに体を預け、テレビのリモコンを適当に放り投げた後、七海は天井を見上げた。


 二年前、アフレコ中の七海を襲った突然の心肺停止。それにより、今も病院で定期的に検査を受け、仕事の量を制限されている七海。そして、そんな七海を心配し、色々と気遣ってくれる親友の悠里。


「ごめんね、悠里ちゃん」


 決して届かない謝罪の言葉を、七海は小さく口にする。


「倒れた理由は、わかってるんだよ……」


 届かないからこそできる、謝罪を。


 七海はわかっている。知っている。


 どんな名医でもわからない。どんな医療機器でも発見できない。七海が死に瀕した理由。その理由を、他ならぬ七海だけが知っている。


 だが、話せない。所属会社の人間はもちろん、血のつながった肉親にも、可愛い後輩にも、大切な親友にも。


 今後も「知らない」「わからない」と嘘を吐き、意味のない検査を受けに病院へ通い続けるしかない。


 その理由を近しい人間に知られた瞬間が、七海の夢が消える瞬間だ。


 声優・御柱七海が死ぬときだ。


 だから、言えない。絶対に言えない。


 なぜなら七海は——


「——ぅん?」


 不意に思考の海から現実に戻される七海。先ほどまで静寂に包まれていたダイニングキッチンに、無機質な電子音が鳴り響いたのだ。


 音の発信源はテーブルの上に放置されている鞄、その内側から。


「あ、メールか」


 七海はこの言葉と共に鞄に手を伸ばし、近くに引き寄せ、中から私物のスマートフォンを取り出した。


 魔法洋菓子職人ソルトのイラストが描かれたケースに収まる黒のスマートフォンは、すでに電子音を止め、メールがきたことを液晶画面に表示している。


 差出人は母親。件名は「大丈夫?」だった。


 どうやら、件の殺人事件が海外のニュース番組でも報道され、それを見た母親が七海の身を案じ、連絡してきたらしい。


「私は大丈夫です。心配しないでください――っと。送信」


 一秒でも早く母親を安心させるべく、すぐさま返信を終わらせる七海。次いで、あることに気づく。


「むむ、バッテリーがピンチだ」


 液晶画面の右上に表示されている電池マーク。その目盛が赤くなっていた。


「充電充電っと。そうだ、ついでに仕事用の携帯電話も一緒に……」


 七海は、ひとまずスマートフォンをテーブルの上に置くと、所属事務所から借りている仕事用の携帯電話も一緒に充電するべく、鞄の中に手を入れた。


 しかし——


「……あれ?」


 携帯電話が、ない。


「え? ええ!? 嘘でしょ!?」


 鞄の中のあらゆる場所に手を入れ、中身すべてをテーブルの上に並べてみたが、やはり携帯電話の姿は無い。


「落としたの!? いつ!?」


 信じられないと思いつつ、七海は今日一日を振り返った。


 今日、最後に携帯電話に触れたのは——


「そうだ、あのとき!」


 確か、最寄りの駅を出て少し歩いた所にある、ショッピングモールの建設予定地。その前を通ったあたりで、いつもお世話になっているレコード会社から連絡があった。


「きっとあそこだ!」


 空になった鞄の中に、家の鍵と財布、スマートフォンを入れて、七海は玄関へと向かった。


 急いで靴を履き、ドアノブに手をかける。そこで件の殺人事件が脳裏をよぎり、七海は一瞬その動きを止めた。が、すぐに動き出し、迷いを振り払うように勢いよくドアを開け、外へと飛び出した。 


 二月終盤、まだまだ冷たい空気を切り裂いて、七海は最寄りの駅への最短ルートを駆け抜ける。


 短距離走に近いハイペースで走り続ける七海。しかし、しばらく走ったところで七海の身に異変が起きた。


 徐々にだが、七海の走るペースが落ちてきたのである。


 体力が尽きた訳ではない。声優は体が資本と考え、毎日のトレーニングを欠かさない七海の体力は、女子高生の中では高いほうだ。理由は別にある。


 その理由は、恐怖。


 駅にほど近い道であるにもかかわらず、人気がまったくない。酷く静かだ。間違いなく殺人事件の影響だろう。


 自宅に向かうときにはちらほら見かけた通行人が、僅かな時間で消えていた。いつも使っている道のはずなのに、見ず知らずの街に迷い込んだかのように感じる。殺人鬼だの、幽霊だのが、今にも脇道から出てきそうだ。


「うう……」


 ついには走るのをやめ、歩き出してしまう七海。せわしなく左右に目を向け、念入りに安全を確認しながら一人夜道を行く。


 そして、思った。


 やっぱり帰ろうかなぁ——と。


 しかし、七海はすぐに頭を振った。携帯電話は手元にないと、仕事に影響が出る。そうなったら、自分以外の人間にも迷惑をかけてしまう。


 プロの声優として、そんなことは許されない。


「でも、やっぱり怖いなぁ」


 今度は声に出し、七海は再度周囲を見回す。次いで、諦めるように小さく溜息を吐いた。


 こうなったら仕方ない——


「使おう」


 この言葉と共に自然体で直立し、ゆっくりと目を閉じる七海。深呼吸をして息を整えた後、固い声色で言葉を発した。


「御柱七海のキャラクターを変更。キャラクター設定を『女子高生』から『歴戦の女戦士』に。なお、変更期間は自宅に戻るまでとする。私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない。私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない。私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない——」


 堰を切ったかのように同じ言葉を口にする七海。一心不乱に口を動かし、自分自身に向け言葉を紡ぎ続ける。


 数えて十回。自分に向けて同じ言葉を発した後、七海はようやく口を止めた。次いで、ゆっくりと目を開く。


 再び外気に晒された七海の瞳。その瞳には、ナイフのような鋭い眼光と、強い意志が宿っている。つい先ほどまでは見て取れた、恐怖や不安の色などは一切ない。


「よし成功。私生活ではあんまり使いたくないけど、やっぱり便利だよね、これ」


 この言葉を口にした後、七海は再び夜道を走り出した。そして、先ほど使用した力、自己暗示について思いを巡らせる。


 自己暗示。声優として、自らが演じるキャラクターに少しでも近づきたいと、七海がその一心で努力し、辿りついた境地。


 これにより、七海は他の声優より深く、よりリアルに、自分が演じるキャラに入り込むことができる。


 委員長キャラを演じるときは生真面目な女に。ロリキャラを演じるときは無邪気な女に。無口キャラを演じるときはクールな女に。自分自身のキャラクターを、一時的に設定し直すことができるのだ。


 そして、先の言葉通り、この自己暗示はとても便利な能力でもある。


 苦手な勉強をするときは勤勉で真面目なキャラに。めんどうな炊事洗濯をするときは、それらに喜びを感じるメイドキャラにでもなればいい。作業効率が目に見えて変わってくる。


 だが、七海はこの能力を仕事以外、私生活では極力使わないことにしていた。そう、危険だからである。


 この能力は、使いどころを間違えるとかなり危険なのだ。普段なら断ることを安請け合いしてしまったり、普段なら絶対に口にしないようなことを口走ったり、普段は気にもかけないことに自分から首をつっこんだりと、挙げていったらきりがない。


 中でも最大の危険は、自己暗示後の七海が暴走する可能性である。


 自己暗示後の七海は、普段の七海とは別人と言っても過言ではない。その別人となった七海が、自発的に自己暗示を解除せず、変更後のキャラクター設定のまま、予想外の行動をとることがあるのだ。


 事実七海は、過去にこの自己暗示で大きな失敗をし、とある友人から絶縁宣言をされている。トラウマの一つだ。


 そんないわくつきの能力である自己暗示を使用したのは、今が非常事態だからに他ならない。軽い気持ちで自分のキャラクターを弄ったりは、普段の七海なら絶対にしない。野外での使用にいたっては、正真正銘これが初めてだった。


 ちなみに、今の七海のキャラクター設定は、異世界から現実世界に迷い込んだ、歴戦の女戦士である。


 もちろん、これで七海の身体能力が劇的に向上する訳ではない。だが、非常事態にも冷静な判断ができるようになるし、万が一に殺人鬼と遭遇しても、最悪の事態であるパニックにはならないだろう。


 こうして、心の中だけではあるが、女子高生声優から歴戦の女戦士へとジョブチェンジした七海。そんな七海が、夜の都内を全力で駆け抜ける。


 ほどなくして、目的地である建設途中のショッピングモールが見えてきた。


 まだむき出しの骨組み段階だが、かなり大きなショッピングモール。その前で七海は足を止め、鞄の中からスマートフォンを取り出した。


「はぁ、はぁ、お願い!」


 息を整える間も惜しんで、仕事用の携帯電話に電話をかける。直後、軽快なメロディが七海の耳に届いた。


 メロディが聞こえてくる方向にすぐさま視線を向けると、夜道に光るLEDの光が七海の視界に飛び込んでくる。


「よかった! あった!」


 安堵の声を上げ、光に向かって駆け寄る七海。電柱の下に落ちていた携帯電話に手を伸ばし、すぐに拾い上げた。


 ざっと外装を確認し、念のため少し操作してみる。特に壊れた様子はない。


 今度は落とさないよう、しっかりと確認しながら携帯電話を鞄の中に入れる。次いで、スマートフォンも鞄に入れた。これで目的は無事達成。後は家に帰るだけである。


 こんな場所に長居は無用。七海は自宅に向かって右足を踏み出した。


 その、次の瞬間——


「……え?」


 何者かの声が、僅かだが七海の耳に届く。


 そう、声だ。風にでも乗ってきたのか、とても小さく、常人では聞き取ることすらできなかったであろう、消えかけた声。しかし、常人より遥かに優れた聴覚を持ち、声に感情を込めることを生業にしている七海は、その声を正確に聞き取り、ある感情を感じとった。


 それは狂気。


 聞いたものを凍りつかせ、その場に釘づけにする、強い負の力を持った、おぞましい声だった。


 そして、その狂気は、その声は、七海以外の誰かに、今まさに向けられている。


 七海は、声が聞こえてきた方向、建設途中のショッピングモールに視線を向けた。


 七海の立っている場所からでは特に不審なものは見えない。見えるのは月明かりに照らされた骨組みと、わずかにできたコンクリート製の壁。そして、街灯に照らされた『関係者以外立ち入り禁止』という看板のついた金網である。


 それらを見つめながら、七海は漠然と呟いた。


「芽春、フラグが立ったのは悠里ちゃんじゃなくて、私の方みたいだよ」


 こう口にした後、目の前の金網に手をかけ、すぐさま登り始める七海。ほどなくして金網を登り切り、ショッピングモールの敷地内に躊躇なく飛び降りる。


 まだ舗装されていないむき出しの地面に着地した七海は、鞄を金網に立てかけると、なるべく音を立てないよう駆け出した。


 その表情は真剣そのもの。恐怖はもちろん、迷いもない。まるで、戦地に赴くプロの傭兵のようである。


 それもそのはず、今の七海は歴戦の女戦士だ。そして、歴戦の女戦士である七海の頭の中は、ある思いでいっぱいだった。


 誰かが襲われている。警察じゃ間に合わない。私が助けなくちゃダメだ!


「うん。私なら大丈夫。戦いから離れて長いけど、モンスターや幽霊を相手にしてきた私が、殺人鬼なんかに遅れはとらない。襲われている民間人ぐらい助けてみせる」


 目的を再確認するように七海は呟く。その言葉には、やはり一切の迷いがない。


 しばらく走ると、七海の耳に何やら物音が聞こえてきた。


 金属同士がぶつかり合う甲高い音。それが断続的に七海の耳に届く。


 被害者が必死に抵抗をしているものと判断し、七海は足を速めた。


 抵抗できるということはまだ生きている。助けられる。その一心で七海は走る。


 走るにつれて大きくなっていく金属音。それに加え、鋭い風切り音も聞こえてくるようになってきた。


 やがて、いずれはショッピングモールの中庭になるであろう、少し開けた場所を七海は見つけだす。


 あそこで間違いない。そう確信した七海は、まっすぐに中庭を目指した。そして、あと数歩で中庭に辿り着く、そんな刹那の瞬間——


「——っ!?」


 見えた。見えてしまった。


 驚愕し、止まれ! と、全力で両足に命令する。


 中庭まで二メートルあるかないか。そんな土壇場での急停止。かなり無茶な要求だったが、七海の体はその要求に応えてみせた。体勢を崩しながらも、中庭に踏み込むことなく七海の体は停止する。しかも、音という音をほとんど立てなかった。火事場の馬鹿力。いや、奇跡と言ってもいいかもしれない。


 だが、そんな小さな奇跡に喜んでいる暇はない。偶然横に立っていた鉄骨に、七海はすぐさま身を隠す。


「何? あれ?」


 七海の体がすっぽり入る、かなり大きなH型の鉄骨に背中を預け、七海は小さく呟いた。


 七海の目に映ったもの。一目で彼女の脳裏に焼きついたそれは、黒い包帯で全身を余すことなく包む、筋骨隆々の大男だった。


 身長は優に二メートルを超え、二の腕の腕回りなどは、そこらの電柱より遥かに太い。靴は履いておらず、その身に纏う衣服と言えそうなものは、刃物と鋼線で紡がれた鋼鉄製の腰巻だけだ。包帯の隙間から覗く真紅の瞳が闇の中で禍々しく輝いており、瞳自体が自己発光しているとしか思えない。


 このように、何もかもが異常な大男だが、その中でも抜きん出て異常なのが大男の右腕である。右手首から先、そこにはあるべき右手がなく、無骨で巨大なナイフが、さも当然のように生えていたのだ。


 まさに異形。絵に書いたような殺人鬼。そんな大男が、右腕と一体になっているナイフを力任せに振り回し、誰かに襲いかかっていた。


 その誰か、つまり襲われている被害者は、中学生ぐらいの男の子だった。オーソドックスな黒の学生服を着ており、この場で拾ったと思われる鉄パイプで大男の攻撃を防いでいる。


 断続的に聞こえてきた金属音。それは、大男のナイフと男の子の鉄パイプ、その双方がぶつかり合う音だったのだ。


 武道の心得でもあるのか、男の子は鉄パイプ一本でよく頑張っている。だが、あの大男が相手ではそう長くもたないだろう。早く助けなければならない。


 だが——


「あれはちょっと予想外だよ」


 少し動揺しながらも、鉄骨の陰で冷静に状況を分析する七海。この冷静な分析もそうだが、土壇場での急停止、誰にも見つからずに身を隠す、これらすべてを悲鳴一つ上げずにこなすことができたのは、キャラクター設定を歴戦の女戦士に変更していたからに他ならない。


 そして、その女戦士としての冷静なる分析の結果、七海はある結論に辿りついた。


「駄目だ。今の装備じゃ勝てる気がしない」


 何度シミュレートしても、七海は大男への勝算を見つけ出すことができなかった。自分が八つ裂きにされる結末しか見えてこない。


 前提が変わってしまった。勝算がない以上戦えない。特別な理由がない限り、絶対に勝てない戦いはしない。戦士とは、戦いのプロフェッショナルとはそういうものだ。


 七海は思考を切り替え、次の一手を模索しだす。だが、現状の装備であの化け物相手にとれる選択肢はそう多くない。


「今すぐこの場を離れ警察に連絡するか。それともこの場でチャンスを伺い、隙を見て男の子を連れて逃げ出すか」


 予想を大きく上回る異常事態に、七海が次の行動を決めかねていると——


「グルゥウァアアアァァアアアァァア!」


 大男のものと思われる凄まじい絶叫が辺りに響いた。甲高い金属音と、鋭い風切り音。その双方が激しさを増す。


 鉄骨の陰に身を隠しているので直接見た訳ではないが、右腕と一体になっているナイフで猛然と切りかかる異形の大男と、その大男からの猛攻を鉄パイプで必死に防ぐ男の子の姿が、七海には容易に想像できた。


 早く助けなくちゃ! 七海がそう強く思った、まさにそのとき——


「な、何やってるんだよ!? そ、そんな奴、さっさと殺しちゃえよ!」


 なにやら頼りない印象を受ける声が、七海の耳に届いた。


 鉄骨から顔だけを出して、声が聞こえてきた方向を確認する七海。そこには声の印象通りの、頼りなさそうな細身の男がいた。


 眼鏡で、色白。線が細く、転んだだけで骨が折れてしまいそうである。この場にいるのが七海以上に場違いに見え、日がな一日パソコンの前で座っていそうな印象だ。ごく普通のジーンズと、群青色の防寒ジャンパーを着ている。歳は十代後半か、二十代前半だろう。


 ひ弱な見た目だが、この場にいることと先程の発言から察するに、殺人鬼の共犯者なのは間違いない。しかも命令口調だった。意外とこっちの方が主犯なのかもしれない。


 そのひ弱な男を見つめつつ、七海は小さく呟いた。


「よし、あっちなら大丈夫」


 七海の脳内シミュレートでは楽勝だった。まず顔に一撃叩きこんで、怯んだところに金的。これでおしまいだ。正直、負けるところを想像する方が難しい。


 ひ弱な共犯者を撃破、拘束し、異形の大男を止めるように命令させる。一瞬でそこまでの道筋を組み立てた七海は目を閉じ、思考と呼吸を整えた。


 集中し、雑念を消す。心を燃やし、気力を高める。今ここで用意できる、最強の御柱七海を作り出す。


 そして、断続的に聞こえていたナイフと鉄パイプがぶつかり合う金属音。その中でも一際大きい音がショッピングモールに響いた瞬間、七海は目を見開き、鉄骨の陰から飛び出した。ターゲットのひ弱な男めがけ、全力で走る。


「ふひ!?」


 ひ弱な男が七海の存在に気がついた。何事かと声を上げ、ぎこちない動作で七海と向き直る。


 すると――


「ひ、ひぃぃいいぃ!?」


 ひ弱な男は、相手が女の子であるにもかかわらず、情けなく悲鳴を上げ、トラックの前に飛び出した猫のように体を硬くした。


 好都合とばかりに真っ直ぐ間合いを詰める七海。そして、走りながら右手を握りしめ、大きく振りかぶった。


 絶対当たる。そう確信した七海が、事前の脳内シミュレート通りに、男の顔面に向かって右手を突き出そうとした、次の瞬間——


「く、くるなぁぁあぁぁ!!」


 予想外の事態が起きた。


 ひ弱な男が七海を振り払うように、右手を下から上に向かって振り抜いたのである。


 それだけならいい。それくらいの反応は予想していた。問題は、その振り抜いた手から突如として出現した、あるもの。


 それは火。いや、炎だった。


 ひ弱な男が振り抜いた右手の軌道をなぞるように、真紅の炎が前触れなく出現したのである。


 七海の前進を阻む形で、空中に出現した炎。七海の体が生物の本能に従い、ほぼ無意識に急制動をかけ、炎から距離を取るように飛び退いた。


 咄嗟の跳躍だったが、倒れ込むことなく着地に成功する七海。左手と右膝を地面につけて体の勢いを殺しつつ、先ほどの現象について考える。


 ひ弱な男は間違いなく空手だった。七海に気づかれることなく、どこかに隠し持っていた可燃物を取り出した可能性もあるが、そんな手品めいた芸当を披露する余裕があったとは思えない。


 となると、本当に無から炎を出したと考えられる。そう、まるで——


「魔法?」


 漠然と呟いてから、七海は強く頭を振った。


「この世界に魔法は存在しない。私が昔いた世界とは違うんだ」


 脳内ででっち上げた歴戦の女戦士としての設定、記憶に照らし合わせ、七海は呟く。


 なんにせよ素手では危険。そう判断した七海は、着地した場所の近くに偶然転がっていた鉄パイプに手を伸ばす。だがそれは、上から降ってきた巨大な足によって阻まれた。


 筋骨隆々で、黒い包帯に包まれた足。その足が、七海が手に取ろうとした鉄パイプを上から踏み潰し、地面にめり込ませたのだ。


 確認するまでもない、異形の大男の足である。


「グルゥゥウウゥゥ」


 頭上から聞こえてきた、獣の如き唸り声。その声に込められた、圧倒的な殺意を七海は感じ取る。そして、体を硬直させ、毛穴という毛穴から冷や汗を噴き出しながら、あることを理解した。本物を直接叩きつけられたことで、初めて理解した。


 天才と持て囃され、得意げに声に込めてきた殺意は、取るに足らない擬い物だったのだ——と。


 知っているはずだった。


 理解しているはずだった。


 だが違う。全然違う。


 脊柱に氷塊が突き刺さったのかと思った。


 痛みを感じないナイフで、心臓を貫かれたかと思った。


 これが本物。演技ではない、本物の殺意。


「あ、ああ……あ……」


 恐怖で焦点が定まらない瞳で、七海は頭上を見上げる。


 そこには、七海を見下ろす真紅の瞳と、高々と振り上げられた、右腕と一体になっている無骨ナイフがあった。


「……あ」


 死んじゃう。


 七海が胸中でそう呟いた瞬間、異形の大男は、一切の容赦も慈悲もなく、七海に向かって右手を振り下ろしてきた。


 眼前に迫る血染めのナイフ、そして死。その恐怖に耐えきれず、目を閉じ、尻餅を突いてしまう七海。それは、七海が思い描く戦士としてあるまじき行為であり、七海が即興で作り上げた擬い物のキャラクターが、本物に負けた瞬間だった。


 そして、視界が黒一色に染まった七海の耳に、分厚い肉の塊に包丁を突き立てたかのような、生々しい音が届く。それに一瞬遅れて、凄まじい激痛が七海の体に——


「……あれ?」


 走らなかった。


 いくら待っても痛みはやってこない。不思議に思った七海が、恐る恐る目を開けようとした瞬間、ようやく異変が起きた。尻餅を突いていた体が地面を離れ、いきなり抱き上げられたのである。


 誘拐される! と、あわてて目を見開く。だが、その目に飛び込んできた光景は、七海の想像とは大きくかけ離れたものだった。


「え?」


 顔が見えた。


 七海が助けるはずだった、学生服の男の子。その顔が見えた。


 そして、七海は聞く。


「まったく、あなたのせいで段取りがメチャクチャじゃないですか」


 絶対の自信を感じさせる声を。


「突然の乱入者。いきなりで少し驚いちゃいましたよ。けど——」


 まだ幼さを残すが、落ち着きと教養を感じさせる、とても澄んだ声を。


「これも、まあ想定内です」


 力強い両腕に、お姫様のように抱かれながら、確かに聞いた。

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