二二
「西洋哲学を基本にした解釈、知識の量、全てが早熟といった印象だ。何もかも論理的で、それを現実世界で表現しているのだが、外部からの新たな要素は受け付けない。全ては過去を基準にし、情報の蓄積で成り立っている。そんな存在を私は知っている。死んだ人間だ」
「……そうですね、そうかもしれません。僕は死んだ人間だったのかもしれません。でも今は違います」
十月に入ると風向きが変わり、北寄りになった。秋の訪れ、山脈は紅葉に染まったが、もうすぐにでも冬が来る。
この季節になっても僕は未だに洋食屋のアルバイトを続けていた。
土日だけ、日曜は昼間、道場に顔を出し、子供たちに稽古をつけてから厨房に入る。
虎子と過ごすクリスマスの資金を稼ぐため、あとは先生と話すためである。
先生とは、あの口達者の老人のことだ。僕は料理長に
先生は今でも定期的に洋食屋に通っていて、僕は勤務時間が終わるとそのまま食事の席に押しかけた。
先生も一人の食事が味気なかったのだろう。笑って、話を聞いてくれたし、聞かせてくれた。
とは言え、客席回転率のことを考えると、店にとっては迷惑な話ではある。
料理長は笑って許してくれたが、働かせてもらっている身として何も注文しない訳にもいかない。
コーヒーを一杯頼み、先生の食事が終わるまで粘った。
「私も君と同じ種類の人間だったんだ」
「だった?」
「そう、若い頃の話だ。頭でっかちで、いつも大人に噛み付いてばかりいた」
「僕はそんなに噛み付いたりしません」
……と思う、とくに最近は自重している。
「それがいい。上には上がいるからね。とくに暴力となると際限がない」
先生は右手を拳で突き出した。ぱっと開く、手の平に垂直二センチほどの刺し傷があった。形、大きさから見てナイフか。
「ナイフ」
先生がぐっと拳を握る。
「鈍器、拳銃、細菌兵器、核、それら全てと渡り合えるほど言葉というものは万能ではない」
そんな経験をしているからこそ、先生は先生なのか。僕は聞いてみたくなった。
「先生、人間の感情、その一部分は生まれながらに備わっているものではない、親や社会に教えられ後天的に身に修めるものだと思うんです」
先生は頷いた。
「確かに、感情にはそういう一面もあるね」
「はい。思想や道徳、倫理観、あるいは積み重ねてきた歴史など、そういったものが感情の拠りどころとなる場合がある。例えば、その……」
僕は思い切って言ってみた。
「恋とか、愛とか……」
顔が熱い、きっと今の僕を鏡で見たら耳まで真っ赤であろう。
先生がきょとんとし、そしてにっこり笑った。
「君は誰か気になる
「……はい」
今度は恥ずかしくなかった。
「なるほど、面白い。では飛田君、君は男女が恋に落ちるとき、そこに何があると考える?」
「言葉、歴史ですか?」
「それもある。でもそれだけではない。もし言葉や歴史というものが恋慕の根拠となるのならば、家族への親愛、友人への友情などにも当てはまってしまう」
「……つまり、恋は言葉や歴史以外の何かがある、ということでしょうか?」
「いやそうではない。友情と恋は同じ原理であり、友情の延長線上に恋慕があると私は考えている」
「うん? じゃあ一目惚れは?」
「錯覚、一瞬の気の迷い、理性が本能に負けた瞬間、ただの性欲でしかない、そんなものは恋とは言わない。除外しよう」
「はあ……」
先生は赤いワインの入ったグラスを指でつまみ、底でテーブルに円を描くよう動かした。
「私のように初恋が成就し、学生結婚した者もいれば、四〇過ぎてお見合いをし、結婚した料理長もいる。恋愛模様は十人十色、まず考えなければいけないのは、世界にはこんなにもたくさん人間がいるのに、なぜその人間でなければいけないのかということだ」
「……」
「はるか昔から、男は女が求めるように男らしくあろうとした。女は男が求めるように女らしくあろうとした。いや、本質的に性別は関係ない。ただお互いに、その人間でなければいけない必然性が何かしら存在していただけだ。それは一体何なのだろうか?」
「……言葉や歴史が友情を育み、その過程で彼女が僕を創り、僕が彼女を創った、と言うことでしょうか? 全てはなるべくしてなった。偶然ではなく宿命だと?」
グラスの円運動が止まった。
「よい具合に飛躍したね。やはり君は早熟だ。だが、それでいい。飛躍しようとしまいと私の言いたいことはそういうことだ。今、この瞬間は永遠だが、永続ではない。宿命だと知るべきだ……、そう、知るべきだ……」
先生は暗い顔をするとワインを飲んだ。
「……失礼。それにしても、君はその若さで理性的、弁が立つ。弁士に向いているんじゃないか?」
弁士?
どこかで聞いたような、確か演説家のことだったか、僕が考えていると、先生は言った。
「弁士とは言葉で戦う者のことだ。言葉で戦争を止め、言葉で人の命を救い、言葉で愛する者を幸せにする」
「それが弁士?」
先生は頷いた。
「君は進路をどう考えているんだい?」
「僕は……」
未だに何も考えていなかった。
「弁士になりなさい」
先生は上着の内ポケットから手帳を取り出し何やら書き殴った。千切って僕に渡した。
見ると、英語のセンテンスがいくつか書いてあり、それらの隣には日本語で本の題名らしきものが書いてある。
つまり、このセンテンスは原本の題名ということか。
「その本を読みなさい、もし手に入らないようだったら私に相談しなさい。取り寄せてあげるから」
先生はワインを飲み干し、ごきげんな様子でおかわりを頼んだ。
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