二一

 文芸部一年の毛利真希が道場の入り口に立っていた。樹と小町も一緒だった。

 三人とも私服で、毛利は肩紐で吊るすタイプの白いワンピース、小町は白の半袖ブラウスにピンクのフレアスカート、樹は襟が立っているポロシャツを着ていて、ダメージのあるジーンズを履いていた。

 波と江夏は誘ったものの来なかったらしい。


「征ちゃんの道着姿なんて本当に久しぶり、剣道着じゃないんだね」

「これは裁着袴たっつけばかま、居水先生から貰ったものだ」


 一般的な袴と違い、裾が絞ってあるので動きやすい。

 小町が聞いた。


「飛田君も剣道をやっているの?」

「剣道というか、僕はここ『佐々剣術道場』の門人だ」

「そうそう、佐々先輩のお母さんに可愛がられてたよね」

「……ああ」

「本当、佐々先輩に似て、綺麗な人だったな……」


 樹は思い出すように宙を見上げた。


「……ああ」


 そうだ。今、思い返せば、とても綺麗な人だった。それに仕草一つ取っても、言葉一つ取っても、粋だった。

 話すと夏の夜明け、これから一日が始まろうかという爽やかさがあった。


「もしかして好きだったんですか?」


 毛利の言葉に、僕は言葉を失った。考えたこともない。でも……。


「…………そうかもな、僕の初恋だったかもしれない」


 毛利が両手を口に当て驚いた。樹も驚く。


「せ、征ちゃん……」


 小町は表情を曇らせた。

 どうやら、僕は最近、口が軽すぎるようだ。


「……あー、すまん、さっきのは忘れてくれ」


 咳払いが聞こえる。衝立の向こうから虎子が現れた。顔が赤い。


「よ、よく来たな。征爾、子供たちは私が見ているから、皆を父のもとに案内してやってくれ」

「はい、わかりました」


 虎子は薙刀を片手に、子供たちのところに歩いていった。

 小町が僕に話しかける。


「呼び捨てなんだ」

「ん、ああ、変かな?」

「仲良しなんだね」

「仲良しというか始めから呼び捨てだから」

「そうなんだ」

「どうした、元気がないな」

「別に……」


 あまり機嫌がよろしくないようだ。

 僕たちは道場の端を歩いて居水のもとに向かった。反対側の壁には虎子がいて、子供たちに何やら言って聞かせている。


「おー、懐かしい」

「尾上先輩はここに来たことあるんですか?」

「う、うん。ここで征ちゃんと特訓したんだ」

「特訓? どんなことをやったの?」

「それは秘密。ねー、征ちゃん」

「あ、ああ……」


 僕は苦笑した。特訓と言っても、ただの掛かり稽古なんだが。

 樹が続けて言う。


「うーん、どうしよう。俺も今から剣術習おうかな。あの時は弟子入り断られたから」

「何でです?」


 樹は口を開きかけたが、何も言わなかった。代わりに僕が答えた。


「美桜さん、佐々先輩のお母上なんだが、病気だったんだ」


 皆、何と言えばよいのか分からなかったのだろう、沈黙した。

 居水を囲むように座布団を敷き、皆が座った。居水が話し始める。


 僕は母屋から麦茶入りのグラスをお盆に載せ持ってきた。

 一人ひとりにコースターを敷いてグラスを載せる。

 お盆を胸に抱え、少し離れた場所から見守った。

 居水はゆっくりと丁寧に戦国から江戸、昭和初期までの武家社会の変遷を語った。


 学校で習ったような知識もあったが、しきたり、慣習など習わないような知識もあった。

 まず言いたいことを言って、次に解説を付け足す、最後に質問があるか聞いて、また言いたいことを言う。

 難しい言葉は極力使わず、使ってもすぐに説明する、わかりやすい。


 毛利が真剣な表情でメモを取っている。なぜか小町も取っている。樹は取っていない。あぐらをかき、腕組みをして、目を見開いたままうつらうつらしている。

 どうやら机のような固定する物がないと覚醒状態を擬装できないようだ。

 少し離れた場所から子供たちの歓声があがった。


 見ると、虎子が薙刀を振っている。かなりの重さだが、すいすいと振り回す、見事だ。

 視線を戻すと、小町が僕を見ていた。

 僕が笑みを浮かべ返すと、彼女は反応を示さず、メモ取りに戻った。

 居水の話が終わる。毛利が大きな声で言った。


「ありがとうございました!」

「いや、こうして誰かに自分の知識を語ることは、その知識を深めることに繋がる。礼には及ばない。さて、これからどうする? 稽古でも見学していくかい?」


 居水は何の予備動作もなく、ひょいと立ち上がった。


「征爾君、型をやろう」

「は?」


 …………七度斬られた。

 実際に斬られたわけではないが、僕の感覚では言い訳できないほど完全に斬られた。

 型の始まり、礼から歩み寄り、構えに入った時に一度、居水のほうが速く、僕は引っ張られる形になった。距離はあったものの、間合いに入っていたら完全に斬られていた。


 二度目、こちらから仕掛けようと故意に間合いを外したら、居水は腰を低く落とし詰めてきた。対応できない、斬られた。

 三度目、型通りに居水の太刀を受け流そうとしたら、機を外された。受けが先行してしまい、待ちに入ってしまった。斬られた。


 その後も四五六七と斬られ続け、終わった頃には自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなってしまった。

 揉み上げから脇から、汗が滑り落ちる。緊張で背中や臀部が痛かった。

 どうやら生きてはいるようだ。


 僕は礼をして後ろに下がると、壁に歩み寄り、片手をついた。

 小町が駆け寄ろうとするが、その前に虎子がさっと歩み寄った。


「征爾、大丈夫か?」

「何とか、生きてます」

「父も大人気ない。あそこまで本気で演じなくてもよいものを」

「いえ、いいんです。居水先生は僕に高みを見せてくれたんです。上には上があると、僕は少したるんでいたのかもしれません」


 剣術は剣術、虎子は虎子、けじめをつけなくてはいけない。

 僕は言った。


「これからはもっと真剣に剣の道に邁進しようと思います。先輩と肩を並べて歩けるように、いつか居水先生を超えて、美桜さんにも認めてもらえるぐらい強くなろうと思います」

「……さっき君は、いや立ち聞きするつもりはなかったのだが、その、母のことを……」


 虎子の顔が赤い。


「僕は馬鹿な男です。いつも後になって気づく、なぜわからなかったんだろう。わかったからと言って、どうこうなるものでもないけれど、でも、それでも、もっと美桜さんの姿を目に焼き付けておけばよかった。言葉を交わしておけばよかった」


 僕は『愛と死』を思い出した。愛は言葉だ、言葉は歴史だ。虎子が見つめている。


「虎ちゃん、もっと話そう。もっと一緒にいよう」


 虎子が瞬きを繰り返した。


「う、うむ……」


 それから、ため息をついて背を向けた。肩の力がふっと抜けたような気がした。


「そうだな、私たちはもっと話したほうがいいかもしれない」

「……」

「私は子供の頃からいつも思っていた。君を一人にはしない、君は私が守ると、ずっと思っていた。母性というか母親のような気持ちがあったのかもしれない。それがいつの間にか意固地になって、私と同じであることにこだわり過ぎてしまったようだ。すまない」


 僕は夕暮れの図書室で『老人と海』を勧める虎子の顔を思い出した。


「……それでいいんです。型は必要です。でなければ、何もできない、何も言えない人間になってしまいます。虎ちゃんがいたから今の僕があるんです」


 虎子が振り返った。目に涙を浮かべている。

 僕は確信した。ムスヒが、僕のルーツが此処にある。伝統に縛られた仮初めの人生を今、超越したのだ。我が心を取り戻したのだ。


「……今までありがとう、虎ちゃん。君がいたから僕は僕になれた」

「私も――」

「虎子」


 居水が呼んだ。

 虎子は道着の袖で涙を拭き取り笑った。


「君は少し休んでいろ」


 そう言って彼女は居水のもとへと歩いていった。

 居水は所用があるらしく虎子に後を任せると、母屋に帰っていった。

 道場には時計がないので樹のスマホで確かめると、一分ほど稽古の終了時間が過ぎていた。相変わらず正確な体内時計だ。


 僕は壁を背にして片膝を抱え座る。

 心がとても穏やかだ。

 今こうして刻々と流れゆく時間にも意味を感じる。次の言葉に繋がろうとしている。

 樹と毛利が子供たちと遊び始めた。

 かけっこ、いや鬼ごっこか、毛利が鬼らしい。


 彼女は子供たちを次々つかまえる。狭い道場では逃げるのが大変そうだ。

 残りは樹だけとなった。

 二人は対峙する。

 毛利がスカートの裾を翻し、間合いを詰めた。

 樹はさっと、剣道で鍛えた摺り足でかわした。

 逃げる逃げる全くつかまらない。


 が、ぴたり、なぜか急に止まった。毛利が勢い余って抱きついた。樹は満足そうに頷いた。

 僕は小町のことが気になり、彼女のほうに目を向けた。

 小町は衝立の前で虎子と話していた。表情が険しい。虎子は背中を向けているので分からない。


 僕は立ち上がり、そばに寄った。小町が僕に気付き、立ち去った。目を合わさず、樹たちのほうに歩いていった。

 僕は虎子に聞いた。


「何を話していたんですか?」

「……君は彼女のことをどう思ってるんだ?」


 虎子は背を向けたまま答える。


「いきなり、何です?」

「男はああいう清楚でお淑やかな娘が好きなんじゃないか?」

「そうですね。僕も好きですよ」

「そうか……」


 急に声が弱くなった。


「僕は彼女の小説を読んで少しだけ変わった。だから好きなんだと思います」

「……」

「でも、それは友としてです。僕にはもう好きな人がいますから」

「それは……、私の知っている人か?」


 まだ弱々しい。


「ええ、よく知っています。物心付く前からずっと一緒にいて、勝ち気で、でも優しくて――」


 虎子が振り向いた。


「ま、待て待て」


 顔が真っ赤だ。今日一番の赤さだ。


「はい?」

「そういうのはもっと別の場所、特別な日にしてくれ。その、ここじゃ嫌だ……」


 虎子は恥ずかしそうに言った。

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