二〇
僕は子供たちを前にして素振りを見せた。脚を前後に開き腰を落とす、両膝を直角に曲げる居合い腰で木刀を振った。
「剣と体が対極にあるように、切っ先が上を行けば体は下に行き、刃先が前を行けば体は後ろに行く、常に回転させ、循環させ、切れ目なく、隙なく」
「征爾せんせーい、わかんないでーす」
子供たちがぶーぶー言い出した。
「うーん、これでもかなり噛み砕いて言ってるつもりなんだが」
僕は構えを解き、腰を上げた。
「先輩、頼みます」
虎子がため息をついた。
彼女は長い黒髪をヘアゴムで縛り上げ、白いティーシャツの上に色落ちした紺色の上着、下には袴を履いていた。
赤樫の薙刀を片手に持ち、僕のそばに立つと言った。
「いいか、あまり難しく考えるな。まずは木刀の重みを感じながら振るんだ。食事をしているときにも箸の重みを感じながら食べるようにするんだ」
「はい、虎子先生!」
子どもたちが元気よく返事した。明らかに僕のとは違うんだが、まあいい。
この子たちは佐々道場の新しい門下生だ。いずれも近所に住んでいる子供たちで、男の子もいれば女の子もいた。皆、買ったばかりの真新しい道着を着ている。
僕や虎子、あと、笑顔で神棚を背にし正座する居水のとは違って、白い上着に黒い袴だ。
これは色分けによる、けじめである。
子供たちは僕たちを無意識に、より強く、自分たちとは違う存在なのだと区別するだろう。そこに個人的な感情は入り込まない。
伝統とは、こういうことを言うのだ。
価値観を一方的に押し付けたり、怒鳴って威嚇したり、分を弁えず威張り散らしたりするようなことでは決してない。
子供たちが道場の隅々に散った。小さな木刀を振り始める。今は動きを真似るだけで手一杯のようだが、足に体重が掛かっていないかのよう。
素晴らしい。
僕もかつてはこんな感じだったのだろうか。
虎子が一人ひとり見て回る。薙刀で子供たちの木刀を誘導したり、背中に手を当て筋肉の動きを確認したりしている。その眼差しは優しかった。
彼女はいつも平常心を保つために、感情を押し殺したような難しい顔をしているが、僕は知っている。彼女は本来、情に厚い女だ。
最近は全く引かないけれども、昔、僕が子供の頃、風邪で一人寂しく寝ていると、よく虎子がインターホンを鳴らして看病をしにやって来た。その時もあのような顔をして僕の世話をしてくれた。
全く、借りてばかり、いつか返さねば……。
虎子がふいに目を向けた。僕は少し恥ずかしくなって顔を逸らした。
でも、これでまた一つ、言葉に力が宿ったような気がする。
言葉には力が必要だ。
言葉に力があるわけではない。
読書百遍云々と言うが、一遍だろうが、百遍だろうが、聞いてるほうからしてみれば同じことだ。
理解していなくても口に出せる以上、そこに力はない。何の後ろ盾もないのに言うのは子供だってできる。論語を口ずさめるし、罵詈雑言だって言える。
ゆえに、言葉には力が必要なのだ。
力とは何か、それは歴史である。歴史が言葉の意味を定義し、信憑性を高め、真実とする。
では歴史とは何か、それはやはり言葉である。言葉の積み重ねが歴史を創るのだ。
僕も虎子と言葉を交わし、歴史を創ってきた。でもそれは幼馴染としての歴史でしかない。
これからは男として、女として、新たな歴史を創らねばならない。
それも、ただ言葉を交わすだけでなく、二人にとって歴史となるような言葉を紡がなくてはいけない。
時間は待ってくれないから、今と言う時間は今しかないから、過ぎ去ろうとする時間を言葉で掴み取り、積み重ねるのだ。
僕は洋食屋で出会った、あの老人のことを思い出した。拳と拳、感性と理性がぶつかり合う姿を思い出す。
おそらく、先日の夕陽の時に言葉を失ったのは感性に引っ張られたからに違いない。想いが溢れてもそれを言葉にしなければ何も伝わらない。
だが、理性に引っ張られ過ぎても駄目だ。
かつての僕のような、空虚な人間になってしまう。言葉の中にしか自分を見出だせなくなってしまう。
感性や理性に引っ張られず、黄昏の風吹かれた万葉零るゝひとひらを掬い上げるように、言葉を積み重ね歴史を創る。
これはムスヒである。結んで花を咲かすのだ。
乾いた音が鳴った。道場の隅で練習していた、おかっぱ頭の女の子が木刀を勢い余って床に当ててしまったようだ。
僕は女の子に歩み寄り、両膝を突いた。目線の高さを合わせ、言った。
「大丈夫かい?」
女の子は木刀を左右逆に握り、胸に抱えた。口をあうあうさせている。
「……ゆっくり、自分の思うように話しなさい。僕は怒らないし、ちゃんと聞くから」
「征爾せんしぇ……。あたし、下手っぴだから」
女の子が涙を浮かべた。いかん、泣きそうだ。
「だ、大丈夫だよ。始めは誰だって下手っぴなんだ。僕だってそうだし、ほら……」
僕は声を小さくした。
「あの虎子先生だって最初は素振りがものすごく下手っぴだったんだよ」
「征爾! 受け身は君より上手かったぞ!」
すぐさま、勝ち気な声が返ってきた。僕は苦笑いを浮かべた。
「征爾せんしぇは、うけみ下手っぴだったの?」
「うん、そうだよ。でもいっぱい練習したからできるようになったんだよ」
「あたしもできるようになる?」
「もちろんさ、僕にできることは君にだってできるさ」
僕は女の子の頭を撫でた。彼女はくすぐったそうに両目を瞑った。何だか、夕陽と似ている。
「さ、やってごらん」
僕が言うと、女の子は木刀を振り始めた。いや振られ始めた。木刀の重みに引っ張られ、ふらふらしている。
僕はしゃがんだまま彼女の腕に手を添え、いっち、に、いっち、に、と振りを手伝った。
女の子は楽しそうだ。
僕も楽しい。指南役を引き受けて本当によかった。
始め、人が集まるか心配だったが、どうやら杞憂に終わったようだ。道場の運営は順調だった。
佐々道場はもともと、この土地では名門である。開店休業の時にも親のほうから我が子を通わせたいと何人か訪ねてきたこともあった。
だから、居水に子供たちの指南役を頼まれたときは少しばかり悩んだ。僕なんかが教えていいものかどうか。
本来なら兄弟子たちが手解きするべきだろうが、彼らは彼らで仕事が忙しい。僕が手伝うしかない。
というわけで、今は子供しか入門させない。多分、これからもさせないと思う。
虎子が歩いてくる。
「……君は、少し変わったな」
僕は少女を休ませた。
「そうですか?」
「父性と言ったらいいか、顔つきが優しくなった」
そうか、だとしたら小町と夕陽のおかげだろう。
「それに……」
言葉を止めた。じっと見つめてくる。
「な、何です?」
「いや、何でもない」
虎子は首を振った。
「それにしても、またこうして君と一緒に剣を振れる日が来るとはな」
「……嬉しいですか?」
虎子は唇を微かに開いた。黒い瞳を左右に揺らしながら俯き、小さな声で言った。
「…………ああ、嬉しい」
僕は気持ちが繋がったような気がした。
それだと語弊がある、今まで繋がっていなかったわけではない。そのようなことは決してない。
ただ嬉しいのだ。
彼女が喜んでくれて、胸がときめいているのだ。
「征爾君」
居水が声をかける。
彼の視線を追うと衝立があった。竹林に佇む妙齢の婦人が描かれている。
「こんにちは!」
衝立の向こうからだ。
姿は見えないが入り口に誰か来たようだ。きっと文芸部(仮)だろう。
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