一九

 僕と佐藤は二人、歩道を歩いた。

 日はまだ沈んでおらず、空は茜色あかねいろ、彼女は店を出てからずっと元気がなく無言だった。彼女の押す自転車のチェーンが音を立てている。

 遠くで雷が鳴った。

 頭に雨粒が当たる。夕立だ。


 僕たちはシャッターの閉じた空き店舗の軒先に入り、雨宿りをした。佐藤が自転車のスタンドを立てた。


「さっきはありがとう、かばってくれて。飛田くんって何か武道とかやってる?」

「ん、ああ……」

「そっか……」


 佐藤の髪が濡れている。癖毛が真っ直ぐに伸びて頬に張り付いていた。

 ノースリーブシャツも濡れていたが、生地が厚いので透けていない。

 僕はほっとしてハンカチを取り出した。


「明日、インターハイに向けて出発するんだろ? 風邪を引いたら大変だ」


 佐藤はハンカチを見つめた。手に掴むと、すぐに離した。頭を下げて、そのまま僕に抱きついてくる。背中に手を回し、顔を胸に埋めてくる。


「……汗臭くないか?」


 僕は努めて冷静に言った。


「いい。私は気にしない」

「そうか」


 僕は動けなかった。佐藤も動かなかった。防護柵の向こう、店舗の前を行く道路に車が行き交っている。

 僕たちはフロントライトに照らされて、時折、運転手が目を向けてきた。


「胸がドッキドッキだね飛田くん」


 佐藤が言った。

 僕は言い返すことが出来ず、ハンカチを佐藤の髪に当てて水気を吸った。


「……私って弱い女だね」

「強い弱いなんて相関関係だ。佐藤さんは僕よりも強いよ」


 佐藤は耳を塞ぐように顔を強く僕の胸に押し付けてくる。

 その仕草に僕は雪降る夜、道場で泣く虎子の姿を思い出した。

 僕はもう、あの頃の僕ではない。


「母一人娘一人、君たちはお互いに助け合い生きてきた。毎日を笑って過ごしてきた」


 佐藤が顔を上げた。

 僕は彼女の頬にハンカチを当て、水気を吸い取った。目尻にも優しく当てる。


「でも君はいつも楽しかったわけではない。辛い日もあったと思う、苦しい日もあったと思う。本当は寂しかったのだと思う。それでも君はいつも笑っていた、僕はそういう君をいつも見ていた。前を向いて、走って、ゴールを突っ切って、そしてまた走る。繰り返される毎日を笑って生きる、そんな強さが君にはある。僕はそんな佐藤さんが……」


 佐藤の目から涙が溢れた。頬を伝う。雨が激しくなって、僕は頭が混乱した。

 まだ出会ったばかりなのに、歴史もないのに、なぜだろう。彼女が泣いていると、僕も涙が零れた。言葉が続かなかった。苦しかった。

 佐藤が唇を開いた。つま先で立ち、鼻先が触れる距離まで顔を近づける。


夕陽ゆうひ

「……夕陽」


 僕は繰り返した。


「うん、よろしい」


 夕陽は笑った。


「私もこれからは征爾せいじと呼ぶね」


 僕は救われた。たった一つの言葉で、無様……。

 何が足りない? 

 先ほどの老人の姿を思い出す。拳と拳をぶつける姿を。

 感性と理性のぶつかり合いか。


 夕陽が僕にしなだれ掛かる。温かい。

 僕は彼女の頭に顎を置いて、一緒に雨降る音を聞いた。

 始めばらばらだった、お互いの息遣いが次第に重なり合い雨音と一つになって、気持ちがとても安らいだ。

 目の前の通りを、大小色違いの傘を差した母と子が通り過ぎていった。それから一つの傘を共有する女の子二人組が通り過ぎていった。

 そうこうしている内に雨が激しさを増し、視界が悪くなった。

 夕陽が口を開いた。


「征爾、私ね、ずっと羨ましかったんだと思う。他のうちにはお父さんがいるのに、私のところにはいないんだもん。だから、さっき、お客さんに親の顔が、って言われたとき、やっぱりうちは駄目な家庭なんだ、普通じゃないんだって思ってしまったんだ。馬鹿だね私、高校生にもなって……」


「だったら、僕の家だってそうだ。親が駆け落ちしたから帰るべき実家がない。故郷がない。親父やお袋が死んだら僕は天涯孤独の身だ。どう考えても一般家庭ではないな」


「……私たち、ちょっと似てるね」

「そうかもな」


 今わかった。これは共感だ。

 積み重ねた歴史が恋慕の根拠となりうるならば、この共感もまた根拠となりうるのか。

 人は変わるのに。

 この共感がいつ消えるともわからないのに。

 僕は夕陽を抱き締めた。


「ん……」

「やはり僕は弱い。親を助けたい気持ちもあった。でも孤独になる不安もあった。だから本を読んで早く一人前になりたかったんだと思う。どこか心の奥底で焦ってたんだ。けれど、今はそうでもない。幼馴染がいてね。僕はずっと彼女と言葉を交わし続けてきた。彼女がいれば僕は一人じゃないと思える。やはり僕は弱い」


 夕陽が僕から離れた。僕の服を掴みながら見上げる。


「……その人のこと好きなの?」

「ああ、好きだ」

「ふーん。で、告白は?」

「いや、まだ……」

「そうなんだ……」


 夕陽は背を向けると、突然、大声で叫んだ。


「フッラレロ、フラレロ、フラレ――!?」


 僕は夕陽の口を塞いだ。


「くっそ、なんてこと言いやがる」

「むんん、んむむむむ」


 夕陽が何か言っている。僕は手を離した。


「何だ?」

「骨は拾ってやる」


 夕陽はにっこり。僕は彼女の頭を撫でた。


「……そうか、インターハイ頑張れよ。骨は拾ってやるから」

「うん、頑張る。だから、今度デートしよ?」

「デート……ええ、デート!」

「何、その驚きよう。あら、あらあら、もしかして初めてかしら?」


 今度は勝ち誇ったように、にやりとする。僕は負けじと言い返した。


「その言葉、そっくりそのままお返しする。夕陽だって初めてだろ?」


 夕陽が頬を膨らませる。でもすぐに笑った。いつもの明るい笑顔だ。


「うん、そっちのほうがいい」

「ん、何が?」

「やっぱり君は笑ってるほうがいい」

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