一八

 夏休みも半ば、いつものように厨房で皿を洗っているとホールから怒鳴り声が聞こえた。

 ホールの責任者で、ウェイトレスのまとめ役(二十七歳)が厨房に入ってきて言った。


「料理長、ちょっと来てください」


 料理長が厨房から出て行った。

 スタッフが皆、作業をやめ、こっそりとホールを覗いた。

 もちろん僕も覗いた。

 佐藤が会社員風の中年男、三〇代かそれぐらいに謝っていた。男の上着、前裾の部分がひどく濡れている。状況から見て、不手際があったらしい。

 ……やはり、こうなったか。


 佐藤はインターハイに出場するために、明日には出発しなければいけないのだが、今日も普通に働いていた。

 早朝から陸上の練習をして疲れているのだろう。よくつまずいたり、オーダーを間違えたり、ミスを連発していた。

 いくらお金のためとは言え、こんな日ぐらいは休めばいいのに……。


 料理長が出ていき、佐藤と一緒に頭を下げる。が、男は許さない。くどくど続ける。日ごろの憂さを晴らすかのように言っている。

 少々しつこい、流石に言い過ぎだと思うが、彼女に非があるのなら出ていくわけにもいかない。

 真摯に謝罪する彼女の誠意を無駄にするわけにもいかない。

 それに、僕が出て行っても何の解決にもならないだろう。ここは大人しく見守ろう。

 男が言った。


「一体どういう教育をしているんだ。親の顔が見てみたい」


 ――流石にこれは聞き流せなかった。僕は厨房から歩いていって、佐藤を背にして立った。

 何も考えていなかった。見切り発車もいいとこだ。最近の僕はどうかしている。

 料理長が言った。


「飛田くん」

「何だ、お前は?」


 男の言葉を無視し、僕は佐藤に目を向けた。

 佐藤は両手でエプロンを握りしめ、俯いている。僕の視線に気づき顔を上げると、目には涙を浮かべていた。顔を背ける。人差し指で涙を拭いた。

 僕にはわかる。怒られて泣いているんじゃない。

 いつも陽気な彼女が初めて見せる寂しさ、哀しみだった。

 僕は帽子を取って男に頭を下げた。


「すいませんでした。もう勘弁してください」

「いきなり出てきて謝られてもな。そもそも、お前らみたいな、自分で責任も取れねえような学生が社会に出てくるんじゃねえよ。未成年だから謝れば許されるとでも思ってるんだろ? 社会はそんなに甘かねえぜ」


 僕は無言で頭を下げ続けた。男が舌打ちした。


「よし、だったら土下座だ。お前ら三人土下座な。そうすれば許してやる」

「それはできません」


 料理長が言った。


「私たちはお客様からお金を頂き、料理を提供するのが仕事です。そこに上下関係は存在しません。私たちはあなたの奴隷ではないのです」

「じゃあ、これはどうするんだ?」


 男は濡れた上着を振った。


「それはクリーニング代をお支払い――」

「当然だ。きっちり払ってもらう。でもそれだけじゃ腹の虫が治まらねえ。だってそうだろ? 毎日毎日ヘコヘコ頭を下げて嫌な思いして、たまには旨いもんでもと来てみたら、このざまだ」

「すいません……」


 佐藤が小さな声で言った。


「お嬢ちゃん。謝るなら誰にでもできるんだよ」


 男は人差し指を下に向け、二度指し示す。


「行動で示せ、きっちりけじめをつけろ」

「……今どき、土下座って」


 僕は言った。


「あなた常識ないですね? 勤め先は何処です? あなたの会社では謝罪に土下座を強要するんですか?」

「……ガキが」


 蹴りが飛んできた。

 僕は反射的に正中線を軸にして体を開いた。時計回りに男の蹴りをかわし、同時に右腕で佐藤の肩を優しく押しやる。佐藤をかばうようにして男から距離を取った。


 男は蹴り上げた脚をピンと伸ばしたまま驚いた表情を浮かべている。ゆっくり脚を下ろすと同時に料理長がさっと近寄り、男のパーソナルスペースを潰した。


「お客様、暴力はいけません」


 料理長は男よりも身長が高く、大柄、筋肉質、肩幅も広かった。昔、柔道をやっていたらしい。

 その圧倒的体格差に気圧されたのか、男が後退する。椅子に脚をぶつけた。


「ど、どうなってんだこの店は! 俺の上着を汚しておいて謝罪もしねえ、挙句には人を恫喝しやがる」


 男が喚き散らした。きっと、さっきのやり取りでこの店は堅気ではないと勘違いしたのかもしれない。

 料理長は一歩下がり、頭を下げた。


「お客様、申し訳ございません。お勘定はよろしいのでお帰りください。それから二度と来られませぬよう、出入り禁止です」

「何だ、客に対してその言い草は……」


 男がぶつぶつと食い下がる。

 料理長はずっと頭を下げ続けた。僕も佐藤も頭を下げる。

 しばらくして、ようやく男が言うのをやめた。


「わかった、いいだろう。その代わり、そのガキ共を首にしろ」


 やはりそうきたか。居心地の良い職場だったんだが、迷惑は掛けられない。


「何度も謝っているのに、いい大人が情けないことだ」


 奥のテーブルからだった。声の主は小柄な老人、一人で座っている。

 グレンチェックのブレザーに白いワイシャツ、ノーネクタイ、こげ茶のスラックスに黒い革靴、白髪の短髪で肌は浅黒く精悍な顔つきをしている。彼は手に持っていたワイングラスを置くと言った。


「君が濡れていても誰もお漏らしとは思わないから、それぐらいで許してやったらどうかね」


 男がつかつかと老人に近寄り、大声で喚いた。他の客が醜悪なものでも見るかのように眉をひそめている。

 余計なことを、僕は老人に対して思ったのだが、彼は男に言った。


「つまり君は、彼女がつまずき、水を掛けたことに怒りを覚えているわけだ。どうしても許せないと。自分が今までつまずいたことのない完璧な人間で、生まれ落ちてすぐに立ち上がり、ママのおっぱいも飲まなかったわけだね」


 老人はニヒルな笑みを浮かべながら論点をすり替えていく、それも周囲の人間、つまり観衆から見て滑稽である言葉をわざわざ選び出し、男を形容していく。

 その言葉の数々に男はかっとなったのだろう、老人の胸ぐらをつかみ引っ張り上げた。糸の千切れる音がした。


 僕は中学時代、剣道部の上級生に挨拶がないと殴られたことを思い出した。

 樹が肺炎で倒れて以来、僕は彼らに挨拶するのをやめた。それが気に入らなかったらしい。

 反論する機会も与えられず、油断もあった。

 いきなり殴られた。

 やはり言葉だけでは暴力に抗えないのか……。

 老人の顔から笑みが消えた。諭すように言った。


「私のような老いぼれに暴力を振るって、怪我をさせて、何もかも失うのかね。君の人生はそんなに安っぽくはないだろう? その指輪は何のためにしているのだね?」


 その言葉に男は手を離した。

 指輪のことを言われて、同じ指輪をしている妻の顔でも思い出したのだろう。男はようやく自分のやっていることに気づいたようだ。


 僕から言わせれば、彼のやっていることは人目もはばからず堂々と卑猥な漫画を読んでいるようなものだ。

 大人だから恥ずかしくない、という理屈は通じない。

 それは言い訳である。

 なぜなら、親におもちゃを買ってほしくて床に寝転がる幼児と同じ原理で行動しているからだ。

 つまり感情の赴くまま、無秩序に表現しているということだ、いい大人が。

 おそらく男はそのことに気づき、妻に対して恥ずかしくなったのだろう。


 と言うか、これは以前どこかで読んだ理屈だったが、まあ、いい。

 男はしゅんとした。自分の席に戻り座った。

 僕たちはもう一度、男に謝り、料理長は他の客たちに頭を下げて回った。

 場が落ち着き、いつものホールに戻った。


 料理長が厨房の奥にあるワインセラーに入り、ビンを二本片手に出てきた。一本をさっきの男に渡した。

 男が申し訳なさそうに受け取る。彼は一言二言、料理長と話し、自分から頭を下げた。

 料理長は笑って、会釈した。


 次に老人のもとに歩いていき、もう一本を渡した。

 老人は笑い、料理長の肩を叩いて受け取った。先ほどのニヒルさはなく、人懐っこい、明るい笑顔だった。

 料理長が厨房に戻ってきた。

 僕は聞いた。


「あのご老人とお知り合いなんですか?」

「ああ、あの人は私の大学時代の恩師でね。同郷のよしみでいろいろとお世話になったんだよ」


 料理長によると、老人は大学の教授で、思想家としても著名な人らしい。

 この店には定期的に来ていて、そう言えば昨年、僕がアルバイトをしていたときには見かけなかったような……。


 そのことを料理長に尋ねたら、何でも老人の奥方が今年に入ってから病気で入退院を繰り返すようになったらしく、それで自分と奥方の地元であるこの土地に戻り、養生することにしたという。以来、この店に通っているそうだ。


 勤務時間が終わり、佐藤が老人に礼を言いたいと言い出した。僕も付き合うことにした。

 料理長に許可をもらってホールに入る。男はもういなかった。老人はまだ食事をしていた。

 佐藤が小走りに近づき言った。


「さっきはありがとう! おじいちゃん!」

「お、おい」


 僕は慌てて止めに入った。

 老人は片手を上げて制止した。


「どういたしまして」


 にっこりと笑った。

 好々爺といった感じだったが、眼光鋭い。

 僕は頭を下げた。


「先ほどはありがとうございました。助かりました」

「なんのなんの」

「料理長から聞いたんですが、大学の教授だそうですね」

「全く、あの子は……。おしゃべりなのは未だに変わってないようだね。柔道が強く、腕っぷしはいいのだが、文章力に関してはてんで駄目だった。書くよりも話すほうが得意だったからね。レポートを何度も書き直させたことを思い出すよ」

「あの寡黙な料理長が!」


 佐藤が驚きの声を上げた。

 老人は笑った。


「誰にでもハナタレ小僧の時代はある。もちろん私にもそんな時代があったのは否定しないよ」


 僕と佐藤は顔を見合った。今の料理長とハナタレ小僧という言葉が結びつき、あらぬ想像をして笑った。


「そう言えば」


 僕は興味深げに聞いた。


「先ほどの説得の手並み、お見事でした」

「ありがとう」

「あれはどうやって身に付けたんですか? ディベートで磨かれたんですか?」

「君、ディベートなど、ただのお遊びだよ。あんなもので力ある言葉など紡げないし、実りある議論はできないよ」


 老人は自分の拳と拳を向かい合わせ、ぶつけた。


「説得や交渉というものは感性と理性のぶつかりあいだ。言質を取ったり揚げ足を取ったりなど、そのようなことで磨かれることは絶対にない。もっと本質を突いて議論を深化させてこそ身に付くものだよ」

「はあ……」


 僕は何と言えばいいのかわからず、ただ頷いた。

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