一七

 小町が門の外まで出てきて僕を見送る。


「ごめんなさい、こんなに夜遅くまで。もうバスもないでしょう? 泊まっていく? お母さんに言ってみようか?」


 僕は空を見上げた。

 あの淡かった月が明確な輪郭を見せ、ほぼ丸くなっている。今は空高くまで移動している。

 風が吹いて前髪が揺れた。

 ここは開けた高台だ。

 下界を見下ろせば大麦畑が広がっている。すでに刈り取られ、代わりに植えられた牧草が月明かりに照らされさざなみを立てている。

 視界は良好だった。


「いや、いい。僕は歩いて帰る」

「歩いてって……。ここからだと、家が一軒もない、あの峠を越えなければいけないのだけれど、大丈夫?」

「僕は夜が好きなんだ」

「そうなの?」

「夜の風が窓を叩き、僕の寂しさは少しだけやわらいだ」

「……寂しいの?」

「そうかもしれない。楽しかったから」

「……」


 僕は微笑むと背を向け、手を振る。


「じゃあな」


 坂を下りて、バス停で時間を確認した。次のバスは翌朝五時だった。

 冷めた夜の空気を肺に吸い込み、下校時のバスから見た風景を思い出す。

 歩き出した。


 家屋が段々と減り、人里離れる。外灯の間隔も広がり、道路の脇から木々の枝葉が迫り出してきて空を覆い始める。

 やがて道路の右側に岩肌、削られた山肌をセメントで固めたものが現れた。

 月の光に照らされ、青白い凸凹が道の先までずっと続いている。


 水の流れる音が聞こえ、岩肌の反対側、片側一車線の向こう側に近寄る。

 白いガードレールから見下ろすと、崖下に、月明かりに照らされた水の流れが薄らと見えた。

 僕は岩肌のほうに戻り、せせらぎに耳を傾けながら歩いた。


 先ほどから車は一台も通らない。

 別にそれはそれで構わなかった。

 夜の暗闇というが、本当の闇は存在しない。自然の闇は恐るゝに足らず、恐れるべきは心の闇だ。

 風が吹いて対岸の闇がさわさわと音を立てている。


 心の弱い人間なら何かを想像してしまうかもしれないが、僕はそんなにロマンチストではない。逆に心地よいぐらいだ。

 だから試しに怒鳴ってみた。


「馬鹿野郎!」


 たまに口にしたくなる言葉だ。

 僕は足を止め、何かが起こるのを待ったが、結局、何も起こらなかった。

 聞こえてくるのは先ほどと変わらない、せせらぎと、さわさわとしたこずえの擦れ合う音だけだった。


 どこから鳴っているのか、誰が鳴らしているのかよくわからないが、今、目の前で鳴っている。

 僕と同じだ。よくわからないが、なぜか生きている。現に存在している。

 僕は一体何者なのか? 


 僕は再び歩き出した。そして考える。


 僕にはルーツがない。だから自分が何者かわからなかった。

 でも、さっきの小町との対話でそれがただの思い込みだと知った。

 ムスヒが僕のルーツを証明している。

 美桜に聞いたムスヒだが、僕なりの解釈で言えば、ムスヒとは花咲き結んで実を落とすことだ。


 つまり、僕をかたどる言葉は全て誰かとの繋がりを表した花の実でしかない。

 飛田征爾という名前もそうだ。

 親父とお袋が愛し合い、僕が生まれ、二人に名付けられたからこそ存在する言葉である。


 つまり、僕の場合、我思うゆえに我あり、ではなく、我思う前に我ありだったのだ。

 僕がどう思おうが、ルーツは既に存在していたのだ。

 だが、しかし……。


 僕の足もとに月に照らされた影がある。影は僕の右前を先行している。

 この影は僕の思いとは無縁だが、存在とは有縁である。

 ムスヒという影は僕という存在をただ証明したに過ぎない。

 その存在にはどのような意味があるのだろうか。

 意味を探るには、まずその存在の役割を考えればいい。

 役割とはその存在が何を成すべきかで決まる。

 僕が成すべきは言葉で想い伝え結ぶ。

 ここで伝統に回帰する。

 結んだ言葉は僕の歴史となり、歴史が僕のアイデンティティとなった。


 小町が己のアイデンティティを国柄に求め、この環境を受容したように、僕は己のアイデンティティを歴史に求め、この環境を受容すればいい。

 ただそれだけのことだ。

 わざわざルーツを引っ張り出す必要はなかったのだ。


 僕はかつて、恥ずかしい話だが、自分の先祖に、歴史に名を残した人物がいないかと考えたことがあった。

 自分は何々の子孫です、と言えるからだ。

 僕はもう一度「馬鹿野郎!」と叫んだ。

 遠くで鳥の羽ばたく音が聞こえた。空を見上げ歩く、星が綺麗だ。

 僕は何を考えているのだ。


 今を生きる僕に対し、すでに死んでしまった存在で肯定しようとするなんて何とも情けなく頼りないではないか。

 運転免許証の自己証明能力にも劣る。僕は過去に縛られたサンチャゴではない。

 だからルーツに頼らない方法でアイデンティティを構築する必要があった。

 本を読み、得た知識を持って自分を肯定する必要があった。


 例えば常識、慣習、法律、道徳など、伝統に従えば間違いはない。そう考え、それらを根拠として発言してきた。

 そこに感情はない。

 論理的だから、倫理的だから、先人が、皆がそうしているから、そう言う。

 自分というものがなく、心がなかった。


 心ない僕はいつからか、こう思うようになった。

 全ては言葉であり、思い込みである。人の名前も言葉だし、感情も言葉、歴史も言葉だ。

 ありとあらゆる言葉に対し、人間が勝手に解釈しているにすぎない。

 今もこの考えは変わっていない。


 なぜなら真理だからだ。

 ただの人間である僕には変えようがない。

 足が止まる。

 僕は動けなくなった。

 ある考えが頭に浮かぶ。

 これはもしかして、日本文学の作家たちと同じことではないか。

 個人的な事柄を真理とする傲慢……。


 僕は咳をした。

 肺に入った空気が熱を奪い、喘息のような息切れを起こし、ヒューヒューと喉の奥が鳴った。

 ここは山の中だ。それも深夜。

 夏とはいえ、空気は冷えていた。流石に半袖シャツだと寒かった。

 あまりにも咳が止まらなかったので尻ポケットからハンカチを取り出し、口に当て呼吸を浅くした。


 苦しさが、寒さが、あの夜を思い出させる。

 雪の降る夜、虎子が道場の隅で泣いていた。

 あの夜も空気は冷え冷えとしていて、吐く息は白く濁った。

 僕は彼女に近寄りハンカチを差し出したが、彼女は首を振った。

 結局、僕は何も言えず、彼女の隣に座り、片膝を抱えた。


 ……何も出来なかった。言葉が出なかった。

 言葉が出なかったのは僕に心がなかったからだ。

 心、また心だ……。


「ありがとう」


 僕は呟いた。

 さっきの小町とのやり取りで自然と漏れ出た言葉だ。今までの僕からしたらあり得ない言葉だ。

 なぜなら言葉を発する前にまず意識が先行するからだ。

 剣術と同じだ。

 それが、意識する前に「ありがとう」と発する……。


 これが心から出た言葉というものなのか。ということは僕には心があったということなのか。

 僕の考えが揺れている。僕は変わろうとしている。

 きっと小町の影響だろう。

 全く不思議なものだ。

 小町の小説を読んで、話しているだけなのに、僕を変えようとするのだから。


 僕は小町の小説が好きだ。

 彼女の小説は日本文学に顕著な根暗な部分が感じられない。

 読んでいると春先に降る小雨のような、そんな優しい気持ちになる。

 だから僕は「好き」と言った。

 でもそれは日本文学と比べて、よりも好き、という意味だったのかもしれない。


 じゃあ彼女の小説が嫌いかと言えばそれも違う。

 ……僕は何を言ってるんだ、これでは言い訳をしているようではないか。

 そう言えば、いつのまにやら小町と言っているが、國分の父親を「國分さん」と呼ぶなら、國分さんは「小町さん」と呼ぶしかない。ただそれだけのことだ。

 これも言い訳だ。もうよそう。


 僕の中で彼女の存在は特別なものになりつつある。これが恋愛感情なのかどうか僕にはわからない。

 そんな彼女が僕のことを父親に話したと言う。

 彼女は僕のことを何と形容したのだろうか。彼女の中の僕はどんな男なのだろうか。

 少なくとも小町の父親は僕を見て、その言葉が正しいと判断したが、正しい? 正しいって何だ? 何を持って正しいと言える? 

 僕は誰かに形容されて存在しているわけではない。


 そう考えた瞬間、僕は力が抜けるのを感じ、足がふらついた。貧血のような立ちくらみがする。

 今まで積み重ねてきたアイデンティティが崩れそうになって踏み留まる。

 僕は言葉と乖離かいりした。

 小町がどのような言葉を使い、僕を形容したのかはわからないが、僕はやはり言葉ではない。

 じゃあ僕は一体何者だ。

 僕はさらに記憶とも乖離する。

 いつから僕は飛田征爾となった。いつからこの身体が僕自身だと勘違いした。

 僕はとうとう飛田征爾とも乖離した。

 僕は飛田征爾という男を眺める存在となった。


 どうやら僕から離れてしまい、行く場のなくなった飛田征爾は虎子の声が聞きたくなったようだ。

 虎子なら飛田征爾のことを、彼のイメージと寸分違わず言えるだろうと知っているからだ。

 飛田征爾はスマホを取り出す。

 無性に声が聞きたい、声さえ聞けば自分が自分でいられると思っている。

 ……そう、これは依存だ。

 自分が不安定だから、安定剤として虎子の存在を利用している。


「馬鹿野郎!」


 僕は叫んだ。

 そして咳き込んだ。

 情けない。お前は情けない奴だ。

 違うだろう? 

 僕が何者であれ、心がなかったとしても、ずっと彼女のそばにいて、言葉を交わし続けてきた歴史は否定できない。


 そして何よりも僕は、この歴史を――虎子が笑って泣いて怒って悲しんで、中学のセーラー服を着て浴衣で祭りに行って、美桜が死に雪が散って、風が吹いて、雨が降って、木刀で切り結んで、どんな時でもどんな場所でも言葉を交わし続けてきた、この歴史を……愛している。

 僕は自覚した。


 僕は彼女のことが好きなのだ。


 感動はない。

 ただ離れれば苦しみがあり、孤独を感じ、いつも心に彼女の姿が浮かぶ。隣にいれば彼女はこう言う、こう言っていた。

 これが僕の『好き』という気持ちなのだ。

 僕は生まれて初めて自分の心を知った。

 そして感謝した。

 いつもそばにいてくれて、言葉を交わしてくれて……。


「ありがとう」


 想いがあふれ、言葉がこぼれる。

 零れた言葉が僕に何を成すべきか教えてくれる。

 花咲き結んで落ちた実は新しい花を咲かすためにある。


 そう、やるべきことは一つ、この好きという気持ちをどうやって言葉にするか、それだけだ。

 僕は歩き出した。

 息を整えながら歩く。

 目の前に上り坂が現れた。道も半ば、中々の急勾配だ。バスもエンジンを唸らせ、ゆっくりと上るような場所だ。


 僕は屈伸、伸脚をして、走り出した、佐藤のように。息が切れる。体が熱くなった。

 今、峠を越えた。目の前に下り坂が続いている。月が頭上に輝き、僕の影は押し潰されて最小になった。足下に控える。


 僕は振り返り、歩んできた道のりを見た。


 月明かりに照らされた蛇の道のり、これもまた一つの歴史、飛田征爾の歴史だ。

 僕は歴史に背を向け、体を前に倒した。重力に引かれ、足を前へ前へと置いた。

 風が涼しい。

 僕はスキップを踏んだ。

 そういう気分だった。

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