一六
僕はバスを降りて、國分の家に向かった。
石垣を見上げながら坂道を歩き、カーブを曲がり切ると景色が開け、平坦な道となった。
一面に畑が広がり、木々も少ない。見晴らしがよい。
西の空に日が落ち、宵の明星が輝いている。
東の空には月が浮き、まだ淡い。
僕は前を向いて道を確認する。道が三つに分かれている。
左の道は下り坂、先は木々に囲まれ暗い。
真っ直ぐの道は大きな屋敷が一軒、道の脇に建っているのが見える。
右に入る横道には家が立ち並んでいた。坂の下から見上げた石垣の家だ。
とりあえず僕は真っ直ぐの、あの大きな屋敷に向かった。
近くまで来ると、僕の身長よりも高い塀が続いている。沿って歩いていくと門に出た。表札を見ると『國分』と彫られていた。
なるほど、お嬢様、僕の言葉に間違いはなかった。
國分の親は一体、何をやっている人なのだろうか。
門の奥を覗く、大きな屋敷があった。玄関の照明が点いていて、ガラスの引き戸が暗闇に浮かんでいる。軒先の柱の大きさに気圧される。何だか入りにくい。
僕はスマホを取り出した。掛けようか、いや、堂々と玄関から入ろう。
門をくぐり、玄関の引き戸そばに備え付けられたインターホンを押した。スピーカーから國分の声が聞こえ、名乗ると、ガラス戸に人影が映り、戸が開いた。
「いらっしゃい」
國分は私服だった。当然といえば当然なのだが。
白いブラウスに若草色のカーディガン、膝丈まである黒いスカート、小説に出てきそうな、いかにもお嬢様風の服装だった。
僕は國分からスリッパを出され、案内されるままガラス戸伝いに歩いた。
廊下は板張りで、長年使われてきたせいか黒く変色している。光沢があった。
歩くたびに軋むが、気になるほどの音ではなかった。
僕は聞いた。
「ご家族は?」
「今は母と姉、祖父母がいるわ。父は仕事で留守よ」
「お姉さんがいるのか。お父上は何をやってるんだ?」
國分は笑った。
「お父上って」
「いや、人の父親に親父というのもな」
「お父さんは会社を経営している。アルコールを造ってるの」
「もしかして地ビールか?」
「そうよ」
「そうか、色々と納得」
ここら一帯の二条大麦の納め先が、國分のお父上の会社ということか。
県内で唯一の酒造メーカー、道理で家が古くて大きいわけだ。
國分の部屋に通された。
和室かと思ったらフローリングだった。僕の部屋よりも確実に広く奥行きのある造りで、左の壁一面に書棚が並んでいる。
真正面には出窓があってカーテンが閉じてあった。外は見えない。
右角には黒い机がぽつんと置いてあり、四角形の椅子、机上にな丸い御椀のような銀色の電灯、原稿用紙が置かれていた。
黒い万年筆が文鎮代わりに転がっている。
「この部屋は國分さんの?」
「うん。寝室は別の部屋なんだけど、ここは元々、お父さんの部屋なんだ」
「もしかして、お父上は小説家を目指していたとか、その影響を受けて國分さんも目指したり、とか」
「飛田君、正解」
「そうか、因果だな」
ルーツが明らかになっている人間は強い。羨ましい。
僕は書棚を見た。
文庫本やハードカバー、単行本などが並べてある。ほぼ小説だが、歌集もある。作家名ごとに整理され、僕の知らない作家の名前もあった。
全体的に目立つような埃などなく、よく掃除されていて彼女の本に対する姿勢が垣間見えた。
「日本人、それも昔の作家ばかり、國分さんらしい」
「そう? 現代作家の本もあるけれど」
「僕は、こんなことを言うと國分さんは怒るかもしれないけれど、日本文学というものがあまり好きではないんだ。どちらかと言えば海外文学のほうが好きなんだ」
「何で?」
「そうだな……、何というか、日本文学はあまりにも作家の個人的な内面を書きすぎていて、それがさも人類全体の真理のように誤解を与えてしまうから、かな……」
「それは海外文学も同じだと思うけれど」
傍から見れば國分の表情に変わりないが、僕にはわかる。少し怒っているようだ。
思い返せば、学食で僕の感想を聞いていたときも何でもないように見えて、じつは怒っていたように思う。
今はそれだけ彼女のことを理解できている、ということか。
僕は考え、そして抑制を効かせながら言った。
「それはそうだ。でも書き方に違いがあると思う。少なくとも僕が読んできた海外文学は人間と世界の関係を内面ではなく外形で描いていて、そこに僕は西洋の思想や歴史を感じるんだ。自然や宗教に対する敬意、畏敬など。そして何よりも、伝統を感じる」
「伝統?」
「そう、伝統。先人たちが積み重ねてきた伝統の重みだ。ただ自分の言いたいことを述べるのではなく、相手にわかってもらおうとする知恵の結晶だ。きっと、それは人間の意志や感情とは別の次元に存在していて、だからこそ言葉で何かを表現する際には伝統に則って慎重に扱い、外形として描く必要がある」
僕は手を振った。胸を張り國分に言葉を投げかける。
「國分さん、考えてみてほしい。もし言葉を自分の好き勝手に使えば、白が黒になり、黒が白になってしまうだろう。そのような人間が少数派ならあまり問題にはならないけれど、それが流行という名の勘違いで多数派となったらどうだろうか? 皆が詐欺師となり、誰も信じられない世界になってしまう。言葉の意味が昨日と今日で変わってしまうので歴史さえ疑うようになってしまう。そうなれば伝統が力を失い、法が無意味となり、犯罪が犯罪でなくなり、戦争がまた繰り返され、人類は最悪、滅亡してしまうかもしれない。僕はそんな愚かしいことが起きないようにするために文学が存在すると思うから――」
國分が右手を軽く握り、胸に置いて、ぼうっとしている。
僕ははっとして、首の後ろを撫でた。
「……すまん、熱すぎた」
ちょっと恥ずかしい。
「う、ううん」
國分は首を振った。頬が少し赤い。
彼女は部屋の奥に歩いていき、椅子に座った。
「……飛田君はそう言うけれど、それでも私は日本文学が好き、短歌が好き、日本という国に生まれ、日本人であることに誇りを持っている。私はこの国を愛している」
好き、か。
僕は意を決して、以前に聞けなかったことを聞いた。
「……なぜ?」
「ん?」
「なぜ好きなんだ?」
國分は机の上で指を組み合わせ、それを見つめた。斜め後ろから見るその顔はとても安らいでいて、そう、綺麗だった。
僕は樹の言葉を思い出した。國分は美人なんだと今頃になって知った。
何が理解できているだ、全く。僕は何一つ、彼女のことを見ていなかったのだ、情けない……。
彼女は言った。
「それは、今の私が好きだから、かな」
「……」
「もし日本という国がなかったら、日本語はなかった。日本語がなかったら、お父さんは小説を読まなかっただろうし、私も小説家になろうとは思わなかった。そう考えれば、今の私があるのは国柄あってのもの。お父さんやお母さん、お姉ちゃんと家族なのもそう、それから、その……」
國分がちらりと目を向ける。
「飛田君とこうやって話すこともなかったと思う。だから私はとても幸せ。そう思えるから、好きなんだと思う」
彼女は笑った。
僕は俯き、目頭を押さえた。思わず泣きそうになった。
僕は馬鹿だ、本当に馬鹿な男だ。ルーツがないなんてただの思い込みだったんだ。
三年祭のときに虎子が言ったとおりだ。
僕がどう思おうが、僕が僕であることに変わりはない。
日本人であり、親父とお袋の子供であり、高校二年生で、帰宅部で、樹と國分のクラスメイト、今は佐藤の同僚、佐々道場の門人であり、美桜の最後の弟子、そして虎子の……。
肩書きが、代名詞がこんなにもある。全て僕の言葉だ。ルーツはあったのだ。桜のムスヒと共に。
「大丈夫?」
國分が心配そうに見ている。
「……ありがとう」
「え?」
言葉が自然と漏れ出た。自分でもわからない。次の言葉が続かなかった。僕は息を吸って大きく吐いた。
「……小説執筆の助言だけれど、僕みたいな西洋かぶれの意見なんて役に立たないかもな。僕には日本の美がよくわからないから」
國分の良さもわからないぐらい、朴念仁だから。
「そんなことないよ。私たち日本人は明治維新以降、外国を見習い、成長してきた。きっとそこには言葉があって、今の私たちみたいに、お互いを理解しようとしたと思うの。だから飛田君が私に色んなことを言ってくれて、とても感謝している」
そういえば、確かに、僕は今まで言葉の重要性を訴えながら何も成し得ていない。
明治維新か。
國分は小説を、僕は何を成すべきなのか。
わからない。
けれど、まずは自分の思いを語ろうと思う。
結ぶために。
「……僕は、日本文学が嫌いと言ったけれど、國分さんの小説は好きだ」
「え……本当に?」
「本当に」
「……」
「……その原稿を読ませてくれ。推敲したんだろ?」
「う、うん」
國分が立ち上がった。
「ここに座って」
僕は座り、彼女の小説を読み始めた。
手書きのため、新たに書き足された原稿用紙が二枚、冒頭に継ぎ足されていた。一枚目のマス目は全部埋まり、二枚目は半分まで埋まっている。
僕の助言を取り入れてか、人物の描写、ヒロインとの出会いからの書き出しになっていた。
それから本文のところどころに赤いペンで二重の縦線が引かれ、脇に書き直してあった。
以前読んだときには全体的に比喩が過剰だったが、それが見事にそぎ落とされていて、かなり読みやすくなっていた。
僕が読んでいると、彼女は静かに部屋を出て行き、すぐに戻って来た。手には椅子を持っていた。姉の部屋から拝借してきたらしい。
椅子を僕の隣に置き、二人で原稿を眺めながら話し合った。
しばらくして、ドアがノックされた。
國分がドアを開けると、背広を着た男が部屋の中に入ってきた。
すぐに誰なのかわかった。
國分の父親だ。目元が彼女にそっくりだった。
中肉中背、髪を整髪料でしっかりとまとめ上げ、僕の親父とそう変わらない年齢なのに見た目は若々しい。
それになかなかの美丈夫で、樹が童顔の美形なら、國分の父親は男前だった。
僕は立ち上がり、頭を下げた。やや下げすぎたと思う。
「こんばんは」
父親が言った。
僕は頭を下げたまま、返事をした。
「こ、こんばんは。いつも國分さ、いえ、小町さんと仲良くさせてもらっている飛田征爾と言います」
父親が笑いながら、僕の肩を下から掬い上げた。
「これでは顔が見えないじゃないか」
僕は体を起こした。父親が僕の肩をつかんで放そうとしない。真っ直ぐに僕の顔をじっと見つめてくる。
そばで見守っていた小町がおかしそうに言った。
「飛田君、顔赤いよ」
「いや、その――」
父親が手を離した。
「小町が初めて連れてきた男がどのような人物か見ておきたかった」
「お――」
小町が今までに聞いたこともない声を出した。
父親は頷き、お構いなしに続けた。
「お前の言った通りの男だ」
それはつまり小町の表現が正確だったということだ。
僕は嬉しかった。そして興味が湧いた。小町が言った言葉とはどのようなものだったのか。
「……あの、もしよろしければ、小町さんが何と言っていたのか教えてくれませんか?」
「それは小町から直接聞きなさい。でも今夜はもう遅いので、また今度にしなさい」
僕はスマホを取り出し、時間を確かめた。二十二時を過ぎていた。
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